topimage

2017-05

久しぶりに自著通読 - 2015.11.10 Tue

自著を数か月ぶりに通読してみた。

前に数回読み返した時には、字数制限から書けなかったことについて、今度はこれも書きたいあれも書きたいとあれこれ考えたが、今回はまたちょっと違っていた。

なぜ現在の日本でうつが増加しているのかについては、臨床心理士をやめて以来かなり緻密な分析ができ、それを本に書くこともできたのだが、じゃその日本の社会の中でうつ性格の人がいかにして自分らしい人生を歩むことができるのか、、、、
やっぱり問題はそこに至り、その答えがまだちっとも出せていないということに、あらためて気づかされる。
もちろんその必要性は、前々から分かっていたことなのだが。

これまで私は、そのことをおもに「闘う技術の問題」と捉えてきた。
というのは、うつ性格(内向型)の人はあまりに闘争心が低く、外向型あるいは中間型の人たちの攻撃や搾取の対象にされ、傷つけられたりおいしいところを持っていかれたりしがちで、それが大きなうつの原因になっていたからである。

うつ性格・内向型の人にとっての「闘う技術」というものを考えた結果、以前私はその答えを古武術の考え方の中に見出そうとしたことがある。
というのは、古武術を謳う人々のほとんどは、その本質・起源をあくまでも「護身術」とする。
敵に勝ち、支配するという考え方は内向型には合わないが、本質的に護身術であるならば、それは内向型の身を守る方法として合致するだろうと考えたからである。

しかし、やはりそれは闘う技術そのものであり、やはりどうしても闘争心の強い人間が優位を占めてしまう世界であるには変わりない。少なくとも私が接した範囲においては。

内向型にとって、相手に勝つ技術の必要性はやはりどうしても否定できないものの、これをいきなり闘争経験の少ない内向型の人が実践しようとしても、返り討ちにあってしまうか、あるいは「痛い奴」と思われただけに終わってしまうことも少なくない。
また、やはりそもそも闘うという行為を前提とするだけに、彼らにはどうしてもハードルが高すぎるのである。

昔の内向型は、幼い頃から今よりはるかに子ども同士の関係に揉まれていたから、強制的に闘う技術も身につけさせられていたのだが、今日の内向型はその経験が絶対的に不足しているため、その時代とは同じようにいかない。

対立関係そのものを無効にしてしまうやり方。。。。
この考え方が何より肝要だ。

笑いを誘うというのがこの考え方のもっとも一般的な方法だが、やり方を間違えれば自分自身を致命的に貶めてしまうので、そうならないためにはかなりのセンスが要求される。
では、そういったセンスのない人はどうすればいいのか。

ぷしゅー。。。
ここで思考停止。
続きはまた明日から考えよう。。。

うつの心理と性格 その深奥に眠る静かな力と日本文化 - 2015.02.26 Thu

明後日2月28日、アマゾンから拙著が発売されます。
ようやくこぎつけた、という感じです。

アマゾン限定商品で、店頭には並びません。
ブログで書いてきたことのさらに深いところにかなり突っ込んで書きました。
うつに関する本としては、かなり異色なのではないかと思っています。

お読みいただければ、またレビューを書いていただけたら幸いです。

うつの心理と性格 その深奥に眠る静かな力と日本文化うつの心理と性格 その深奥に眠る静かな力と日本文化
(2015/02/28)
松波 幸雄

商品詳細を見る
≪アマゾンでの内容紹介≫今日ますます増加する職場のうつや適応障害。職場のみならず、うつの多くは不当な人間関係や家族関係に起因するが、ではどういった性格の人々がうつに陥りやすく、どういった人々が他人をうつにしてしまうのだろうか。また一方、外面がよく身内に厳しい日本人特有の傾向は、うつの増加を助長している。その背後に垣間見える日本文化とは。ひたすらカウンセリングに没頭してきたカウンセラーが、クライアントたちとの出会いを通じて得た気づきを紡ぎ、これらの疑問への答えを探求する。

出版決定! - 2014.06.11 Wed

前にブログの記事を更新したのが去年の12月。気がつけばもう半年もたってしまった。

「うつになりやすい性格」ということで、シリーズで記事をアップしていくつもりで、その第1回目を『自罰傾向と他罰傾向』と題して書いたのだったが、それをアップしてから少し状況に変化があった。
というのは、今年の2月、Amazon限定で書籍を販売しているGalaxy booksさんからこのブログを見て連絡をいただき、本を書かせていただくことになったのである。

タイトルはまだ決まっていないが、内容はもちろんうつに関するもので、当然ながらうつになりやすい性格についても、かなりの紙数を割いて書くつもりだ。
それで、まさにこのブログで書こうとしていたことと内容がモロに被ってしまい、新しい記事のアップを控えているというわけである。

もちろん、現在鋭意執筆中である。

クライアントさんからは、続きを楽しみにしているという声もいただいていたのだが、そういうわけで、中身のある記事のアップは当分できそうにない。
実際出版されるのは年内ぎりぎりか年明けころと思うが、私の書き上げの時期次第になる。

このことに今までまったく触れずにきたのは、ここ数年まとまった文章を全然書いておらず、またカウンセリングのほうがかなり忙しくなっていたので、われながら本当に書けるのだろうかという不安があったからである。

誠に勝手ながら、続きはそちらでお読みいただけたら幸いです。

自罰傾向と他罰傾向 ~うつになりやすい性格①~ - 2013.12.21 Sat

カウンセリングに訪れる方で、「自分の性格を直したい」と申込用紙に書かれる人は少なくありません。
そういった人は、自分の性格に自信がない、あるいは何らかの問題があると思っているわけですから、例外なく強い劣等感にとらわれています。
また、こうした悩みを持つ人は、同時に抑うつが強い状態にあると言えます。

そうした方ばかりでなく、思わず知らず劣等感の強くなりがちな人に、ほぼ共通している点としては、まず『自罰型(自責型)』という性格があげられます。

『自罰型性格』の反対は『他罰型(他責型)性格』ということになりますが、意味は読んで字のごとく、人間関係の中で何か問題が生じたとき、自分のことを責めがちな性格が自罰型、反対に相手のことを責めがちな性格が他罰型です。

一般に、他罰型の人が、自分自身の性格の問題でカウンセリングに訪れることはまずほとんどありません。他罰的傾向においては、多くの場合問題の原因は他者に押し付けられるので、自分自身に根本的な問題は存在しないことになるからです。
反対に、自罰傾向においては、たいてい問題は自分の側にあるか、もしくは相手に問題があるにしても、やはり自分の側にも何らかの問題があると認識されます。

自罰型性格の人が悩みを解消するのに、カウンセリングという方法を選ぼうとする傾向は強くなるようですが、それは、一般にカウンセリングという方法では、他者の問題点をあげつらうことよりも、「内省」という態度・方法が期待されているからです。
人間にとって「内省」が大切なことは言うまでもありませんが、実はそれは、一種の自罰傾向の現れという面も持っているのです。

ちょっとパラドックスのような話ですが、「性格を直したい」と感じる人の場合、「自分の性格を直さなくてはならない」と考え過ぎてしまうような性格そのものに、問題の一端があると言っていいのかもしれません。

もちろん、内省はカウンセリングにおける大切な態度・方法ですが、実際のカウンセリングでは、それ以上に、当人を取り巻く周囲の人々の性格や言動の問題について、できるだけ詳しく分析していくことが多いと言えます。
内省性および自罰傾向の強い人の場合、自分の身に起こった問題の原因を、自分の内部にばかり探し求めるあまり、家族など周囲の人々の問題点には意識が向かわず、死角となってしまう傾向があるからです。

正確な自己評価を取り戻すためには、他罰傾向と自罰傾向がバランスよく働く必要があり、自分の問題点ばかりでなく、他者の問題点も正確に見極めていかなくてはならないのです。


ところで、次の項目では、「内向型性格」と「外向型性格」について書きますが、自罰傾向は内向性の1つの側面であり、他罰傾向は外向性の1つの側面であると言ってもいいのではないかと、私たちは考えています。

クチコミサイトの件 - 2013.10.08 Tue

最近、yahooその他の口コミサイトに、下のような誹謗中傷コメントが掲載された(yahooのほうは削除済み)。

うちは開業して5年半になるが、ネット上での誹謗中傷の書き込みはこれで2件目である(1件目についてもこのブログで取り上げている)。
当カウンセリングルームのHPを見ていただければ、この人物の言い分が的外れであることはすぐにお分かりいただけると思うので、わざわざ表だって訂正するほどのことでもないのだが、幸朋カウンセリングルームの基本的な態度を知っていただくいい機会でもあるので、あえて取り上げることにした。

ちなみに、はじめに言っておくと、yahooでの書き込みのことをツイッターで少しつぶやいたところ、瞬く間に数人のクライアントの方たちが、同じサイトに高評価の書き込みをしてくださったので、むしろありがたい結果にはなったのだが。
それに、もともとこの書き込みのことを教えてくださったのも、クライアントの方々である。
この場を借りて、お気遣いくださった方々に、心よりお礼申し上げたい。

さて、以下がその内容である。



『また一方、クライアントとしては少数ではあるが、中には無謀な理屈を述べて、カウンセラーにその容認を求めてくる人がいるのも事実なのだ。
自らが立てる論理と感情に慎重にかんがみ、否定すべき点は隠さずに否定する。
でなければ、こちらの論理や姿勢が崩れ、たちまち状況の本質を見失ってしまう。
つまり、本来カウンセラーとは、相手の論理の是非を明確に切り分ける、きわめて厳格な目と態度が要求される立場なのである。決して、何もかもを無条件に受け入れるべき立場でもないし、人種でもないのだ。
とブログに書いている奴ですが。
もともと身体疾患も併発したうつで、初回だけは頑張って面談で受けに行き、遠方っだったためその日身体がボロボロに疲れたので、次回以降は、電話でと依頼したところ。電話でも可能と謳っているくせに、”自分の心身が疲弊するから、電話はいやだ”
と悪びれもなく、当たり前のようにのたまってきた。
なら店じまいしろw 電話カウンセもやめれw
私は下記のような、メールを奴に送りました。
以下メール内容転載・・・・・・
ブログ記事、全くもってあなた自身のことですね。
カウンセリングを開いているのに、”自分の心身が持たない”などと馬鹿げたことを言って、体調の悪い患者でも電話でなく来訪させようとする。
体調が悪いなら、店を〆なさいよ。
開けてる以上、ましてや電話でも可能と謳っているんでしょうが。
いざ蓋をあけたら、
”患者:体調が悪いので次回は電話がいい”
”あんた:電話は困ります。”
”患者:は?なんで?いいって書いてあるでしょうが”
”あんた:僕の心身が疲弊するんでw”
っておかしいでしょう。
どっちが患者なん?
やめてしまえ
あんたの”論理や姿勢”が、キチガイじみていますよ。そんなもので他人を裁けるとでも?
自分が一段他人より上にいる(と思いこんでいる。同時に自分が全て正当だとも、思いこんでいるようですね)かのような言い方が、にじみ出ていますね。
思いあがりですね。』



この人物の言い分が的外れである点は、まさに挙げればきりがないので細かい点には触れないが、根本的な部分についてのみ言うならば、まずもって当方は「電話カウンセリングもOK」とは謳っておらず、むしろ「電話カウンセリングは致しません」と謳っているのである。
分かりやすく言うと、電話カウンセリングは、うちで取り扱っていない商品なのである。
電話カウンセリングを希望するのならば、他の電話カウンセリングを行なっている施設に依頼されるのが筋である。

ただ当方の場合、例外として、ごく遠方にお住まいの方と、外出が不可能な重度の身体障害をお持ちの方に限り、スカイプカウンセリングに応じることにしている。また、さらにその中で、高齢の方などでインターネットが使いこなせない場合を想定して、スカイプの用意ができない場合は電話カウンセリングでも対応します、と但し書きをつけている(電話カウンセリングについてのインフォメーションはすでに削除)。
この人物が、うちのHPで「電話でも可能」と謳っていると言うのは、その部分の拡大解釈なのだろう。

もちろん、うちが基本的に電話カウンセリングを行なわないのには理由がある。
電話カウンセリングの場合は、相手の仕草や表情その他、聴覚以外の情報がまったく得られないのと、その聴覚情報ですらかなり限定されるために、多くの場合ほとんど有効なカウンセリングにならないことを経験的に知っているからである。

現状としては、近畿圏外の方などに対するスカイプカウンセリングには、少なからず応じており、上記のようなやむを得ない理由から、電話カウンセリングにもごく少数応じている。
つまり、この書き込みをした人物は遠方に住んでいるわけではなく、身体障害を持っているわけでもないことは言うまでもない。





さて、この問題にからめ、私や家内のカウンセリングに対する考え方として強調しておきたいのは、まさにこの人物が最初に書いた、私の言葉の引用部分である。

『(相手がクライアントであっても、)自らが立てる論理と感情に慎重にかんがみ、否定すべき点は隠さずに否定する。
でなければ、こちらの論理や姿勢が崩れ、たちまち状況の本質を見失ってしまう。
つまり、本来カウンセラーとは、相手の論理の是非を明確に切り分ける、きわめて厳格な目と態度が要求される立場なのである。決して、何もかもを無条件に受け入れるべき立場でもないし、人種でもないのだ。』

何年前に書いた文章かは忘れたが、今読み返してもこの考えは変わっているどころか、カウンセリングという仕事を続ける中で、むしろますます確たるものになっている。
だから、相手がクライアントさんだからといって、理不尽にキレられたからあわてて頭を下げるということはせず、自分が正当な立場であればその正当性をあくまでも主張するし、できないことはできないと言うだけである。

当然、クライアントさんの尊厳と同時に、自分自身の尊厳もきっちり守る。また降りかかる火の粉は払う。
もちろん、本当にこちらに落ち度があれば、先方がいいと言っても頭を下げる。
言ってみれば、ごくごく当たり前のことである。

ただ、こうした態度はおそらく日本人には珍しいだろうから、こうした反発は他のカウンセリング施設よりも受けやすいのかもしれない。
もとよりそれは覚悟の上だ。

一般的に言っても、ただただ事を丸く治めようとするあまり、大切なことを歪めてしまうという傾向が、日本人の場合は非常に強い。
「意見聞く時ゃ頭を下げろ。下げりゃ意見が上を越す♪」という昔ながらの都都逸(どどいつ)が、日本人の事なかれ傾向を如実に表している。

強者から押し付けられた理不尽を飲み込むことの問題は、飲み込まされたその人自身がうつにならない限り、必ず他の弱者に理不尽を押し付けて、その鬱憤を晴らすことになる。ひいては、立場が弱い人弱い人へとしわ寄せが集中していく点である。
たとえば、クレーム対応専門の社員が、「とにかく、まずは謝れ」と上から教育され、毎日それをこなしていくうちに、ある日突然色や味が感じられなくなるという、急性のうつ症状に見舞われたりする。

本来責任のない人が責任を取らされることが多いのは、こうしたことが常識化している社会体質からだし、日本人のうつが、他国に比べて格段に多い大きな原因でもある。
また、理不尽にキレるほうも、怒ってねじ込めば、相手は角が立つのを恐れて頭を下げるものだと思いこんでしまっている。
クレーマーが巾を利かすのも当然である。

今回の問題自体大きなものではないし、いちいち取り上げて大人げないと思われるのもどうかとは思った。
しかし、あえてここで書き込みの件を取り上げたのは、そうした理不尽さに安易に屈していては、正直で卑怯さを持たない人が応分に報われ、安らかな生活を手にすることはできないのだということを、多少なりとも示す機会にしたかったからである。

うつ性格(メランコリー親和型性格)の方々、内向型の性格の方々は、他人の上に立つという欲求が小さく、そのため今の時代にあっては、瞬く間に美味しいところを持っていかれたり、不当に我慢を押し付けられて泣き寝入りすることが多い。
しかし、それだと人生において喜びや楽しみが感じられなくなり、やがて生きる意味すら失ってしまう。

だから、そういったタイプの人たちにこそ、自分や、自分が大切にしている人の尊厳を守り切る毅然とした態度。
そして、その結果生じる逆風に、断じて屈しない覚悟。
また、それなりの計算や策略が必要不可欠なのである。


カウンセリングに関する告知 - 2013.01.20 Sun

<ツイッターより転記>

遠方の方や重度の身体障害者の方のカウンセリングに、スカイプを使っていましたが、音声だけだとどうしても情報が少ないため、思い切ってビデオ通話にしてみたところ、思った以上にカウンセリングができることが分かりました。

そこで、今後は全国対応(海外も)可能ということにしました。ご希望の方はお申込みを。ただし、やはり近隣地域にお住まいの方は、直接のご来談ということでお願いいたします。外国語のカウンセリングはできませんが。

ちなみに……ですが、これまでビデオ通話を渋っていたのは、私も家内もカメラやビデオで撮られるのが何となく苦手だったからです。

家族葛藤・家族コンプレックス - 2013.01.16 Wed

カウンセリングルームのHP、『用語集』のほうで追加項目を書きましたので、こちらにもアップします。



家族コンプレックスには「父親コンプレックス」「母親コンプレックス」「兄弟(姉妹)コンプレックス」などが含まれ、家族との否定的な体験によって形成され、一般に劣等感をともなっています。

こうしたコンプレックスは、家族からの直接・間接的な人格否定によって形成されるのですが、多くの場合、誰か1人だけの家族との関係によって形成されるというよりも、家族全体の複雑な関係が原因となってでき上がってしまうものです。

つまり、たとえば父親コンプレックスといっても、単純に父親から否定され続けたことだけが原因という場合はほとんどありません。
仮に、普段は自分の味方だと思っている母親が、肝心なときに父親の側についたりしていると、「この優しいお母さんですら否定するのだから、自分はいけない子なのだろう」と思わされてしまいます。
(→記事集 『分かりやすい親・分かりにくい親』 参照)

ただ、カウンセリングの経験から言いますと、家族コンプレックスの強い人には、本質的にずるいことができない善良な人が多いようです。
もっともこの善良さですら、家族からは「要領が悪い」と否定的に言われていることも多々あります。

では、なぜずるいことのできない人が、家族コンプレックスを持つに至ってしまうのかというと、そういうタイプの方は、何か家族間でトラブルがあっても、安易に相手だけを責めたりしないからです。
つまり、「本当に自分には問題はなかったろうか」と考える(自罰傾向といいます)ため、そこに付け込まれてしまうのが、まず大きな原因です。

また、そのように客観的なものの見方をしようとする人は、物事を深く正確に見ようとしますので、横暴な性格の人にとっては、意外と煙たい存在であったりします。
こちらはできるだけきちんと考えようとしているだけなのに、家族からしょっちゅう「お前は理屈っぽい」とか「考えすぎだ」と言われる人は、まずこうしたタイプの人である可能性が高いと言えます。
内心煙たがられていると、思わず知らず否定的な接し方をされることが多くなりますが、本人にしてみれば、「なぜ私だけがこんな風に扱われるのだろう?それは私がおかしいからだ」となってしまうようです。

ところで、コンプレックスとは、自分でもよく分かっている短所を責められても形成されません。
たとえば、根っから面倒くさがりの人が「あんたは何でも面倒くさがる」と言われ続けたとしても、やっかいなコンプレックスは形成されないのです。
しかし、例えばいつも周囲に気遣って行動するタイプの人が、「あんたは自分のことしか考えてない」と言われ続けると、混乱が起き、その混乱は常態化してコンプレックスとなります。

家族コンプレックスが、カウンセリングによって軽減されていく場合、どのようなプロセスを辿るかというと、自分自身に対する内省によるよりもむしろ、家族の性格や行動パターンの分析がおおむね中心となります。

クライアントのコンプレックスの中心にいる人物(母親コンプレックスの場合は母親)は、その人にとってある意味とらえどころのない人物であり、結果そのイメージは異様に大きなものとなっています(ユング派で言うところの”元型的イメージ”)。
しかし、その相手の性格や行動パターンの詳しい分析により、その人の大きさは次第に等身大に近づいていきます。

ただ、頭で理解するのと実感との間にはギャップがあり、タイムラグもありますので、かなり頭のいい人でも、まずすぐには解消されません。
まれに、たった1~2度のカウンセリングで「たいへん納得がいきました」とおっしゃって、家族に対する見方が劇的に変化する方がありますが、この場合は、99パーセントまで自力で答えにたどり着いていた人で、年齢もある程度高い方ばかりです。

家族コンプレックスというのは、さまざまなコンプレックスの中でも、心のかなり深いところに根を張っているものですので、焦らないことが大切です。



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幸朋カウンセリングルームのカウンセリングについて - 2012.12.09 Sun

ホームページの方に掲載している文ですが、私たちのカウンセリングに対する姿勢について、ブログの方でもアップしておきます。


◆黙ってお話を伺うタイプのカウンセリングではありません

日本でカウンセリングと言うと、カウンセラーは自分の考えを一切差しはさまず、受容・共感的態度でもって無条件にクライアントを肯定し、クライアントはただ黙って話を聞いてもらうことで、不思議にも自然と回復に向かう……、こういったイメージが主流なのではないかと思います。

ご存知の方も多いと思いますが、これはアメリカの心理学者カール・ロジャーズが創始した「来談者中心療法」が主張する、理想的なカウンセリングのイメージそのものです。
そして実際、このイメージをそのままに実行しようとするカウンセラーは、少なくとも日本のカウンセラー全体の半数ほどを占めるほどではないかと推測します。

ただ、私たちは来談者中心療法を含む自らの実践経験から、こうした「ただ黙って話を聞く」というカウンセリングの方法は、あまりにも現実離れしていると考えています。
日本人はもともと昔から、「話を聞いてあげる」という態度を重視する傾向があり、それが見事にロジャーズの考えと一致してしまったので、あまりにも無抵抗にそれを受け入れてしまった結果ではないかと考えられます。

ちなみに、ロジャーズ自身を含むアメリカのカウンセラーで、そこまで徹底して黙って聞くだけの人は、まずほとんどいないようです。
ひょっとすると、日本とは違い、アメリカのように自己主張しすぎるきらいのある国柄のカウンセラーにとっては、ロジャーズの考え方はブレーキになってちょうどよかったのかもしれません。

実際にカウンセラーがまったく自分の見解について語らないと、クライアントから見えるカウンセラーは「いったい何を考えているのか、さっぱり分からない人物」ということになります。
しかし人は、本質的には何を考えているのか分からない人が苦手です。そのような人とは、精神を支配されることはあっても、本当の信頼関係を結ぶことができないからです。

私ども幸朋のカウンセラーは、そうした点を踏まえ、何らかの気づきや知識・見解があれば、クライアントの方の許容力の許す限り、速やかに余さずお伝えするようにしています。

ちなみに私たちの、人間の深層心理に対する考え方は、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングの心理学を基本としており、それを自らの臨床経験により、日本人の特性に関する知見を加味するなどして、独自に発展させています。



◆取り巻く人々の分析

私たちのカウンセリングにおいては、家族や職場の同僚、同級生など、クライアントを囲む人々の性格・行動様式などの分析が、ある程度大きなウェイトを占めます。
というのは、うつ・パニック障害・社会不安障害・摂食障害など、現代を代表する精神疾患のほとんどのケースにおいて、周囲から不当な形で劣等感を植え付けられてしまった側面があるからです。

うつやパニック障害などの精神疾患を乗り越えるプロセスにおいては、ただ当人の内面の分析にばかり集中しすぎていては、かえって劣等感を強めるばかりで、一歩も進めなくなる段階があるのです。
自分が小さく思えてしまうという心理の裏側には、他者が実際よりも大きく見えすぎているという面があることを、知っておかなくてはなりません。

◆社会性の成長を目指す

私どものカウンセリングのもう一つの特徴は、社会性、つまりその人の他者と関わる能力や技術についての分析と、その成長にかなりの力を注ぐ点です。
メインブログ『うつ-自分にうそがつけない人たち』で多く記事を書いておりますが、現代人の心の病には、直接的・間接的に「現代人の社会性の低下」という問題が少なからずかかわっています。

カウンセリングという技術は、日本では1980年代頃から、急速に世の中に認知されてきました。
それは必ずしも、新しい技術が発見されたという、単に喜ばしいばかりのできごとではありません。
何かが崩壊したために、それまで必要がなかったカウンセリングという方法が、必要とされる時代になってしまった、という側面もあると考えるべきです。

では、いったい何が損なわれたのでしょうか。
一言でいうと、「コミュニティ」であると、私たちは考えます。

昔のご近所づきあいや親戚づきあいがどのようなものであったのか、もはや都会では50代以上の人でないと知らないことですが、それらは、ごく幼い頃から、様々な年齢や性格や職業の他人と、盛んに触れ合う機会を与えてくれるものでした。
これらが崩壊したことで、人がサルとして群れ生活を始めて以来、数100万年もかけてつちかってきた高度な社会性は、次世代へと伝えられなくなり、また子どもたちが集団遊びをできなくなったことで、実践的に社会性を学習する機会も激減してしまったのです。

社会性を失った人がうつになる、ということではありません。
もちろん、うまく人と関われないため、孤独に陥り自己評価が低下して、うつに罹患してしまう側面もあります。
しかし現代社会では、どの人においても同様に社会性が低下してしまったので、個性的な人が集団に受け入れられなかったり、周りを気づかう傾向の強い人(つまり本来は社会性の"高い"人)が、その人柄の良さを利用され、傷つけられるなどして、うつになってしまう場合が少なくないのです。
これは、本人に問題があるというよりも、ギスギスとした集団のしわ寄せをこうむった結果であると考えなければなりません。

したがって、現代社会では、ただ穏やかに周りと関わっていく方法だけではなく、ある意味「かわす技術」や「戦う技術」すらかなり必要とされます。
卑怯に身を堕することなく、また自らの尊厳を失うことなく、それでいていかに力強く周囲と関わり生き抜いていくか、その道を見出す上で、戦う技術やかわす技術を含む社会性を養うことは欠かせません。

◆カウンセリングが長く続くことを、必ずしも良いことだとは考えません

多くのカウンセラーが陥りがちな、間違った常識の一つに、「カウンセリングが長く継続することは、いいことだ」という考えがあります。
クライアントの方々からすれば、「そんなのおかしいじゃないか」と言いたくなる方は当然多いはずですが、それをクライアント目線でカウンセラーが理解するというのは、意外にも難しいことなのです。

たしかに、1~2回目のカウンセリングで、カウンセラーがあまりに頼りなかったり高圧的だったりして、クライアントが再び行く気になれないという気持ちになった場合、それは質のよくないカウンセリングだったと言わざるを得ません。
また反対に、目の前の問題克服以上の「生きる意味の探求」といったことが問題となっているケースなどは、たしかに長期間を要します。
さらには、すでに問題は乗り越えているけれど、時々ものごとに迷ったりしたときにカウンセラーのもとを訪れてブレを修正するといった、何10年もの長いお付き合いになるような、非常に質のいいカウンセリング関係も存在します。

しかし反面、カウンセラーがはっきりとものを言わないために、クライアントが何の手応えも得られず、そのためかえって、延々と10年以上も通い続けさせられてしまうカウンセリングが多く存在するのも、また事実です。
こうしたカウンセリングは、1~2回で中断してしまうケース以上に悪質であると言わざるを得ません。
つまり、カウンセリングは、必ずしも長く続けばいいというものではないのです。

私たちのルームを含め、一般的にカウンセリングの料金は決して安価とはいえません。
ましてやクライアントが、そのカウンセラーに「いつかはきちんと答えを与えてくれるはずだ」という期待を持ちながら通い続けていたとしたら、その長い年月と莫大な費用は、まったくの無駄だったということになります。

基本的に私たちのカウンセリングは、いわゆるブリーフセラピーやコーチングと呼ばれる短期療法、またいわゆる指示的心理療法(認知行動療法など)とは異なり、現実的な問題解決だけに焦点をしぼる訳ではなく、緻密な心理分析を土台としていますが、時間的にも費用的にも、できる限り無駄を省くことを心がけています。
それは単に節約という理由からだけではなく、意味のないやりとりを極力排除することで、その人のたどるべきプロセスが、より明確なものとして浮かび上がってくるからです。

ただ、無駄のないしっかりとしたカウンセリング・心理療法を望まず、不満を聞いて欲しいだけの方に、私たちの価値観を押し付けることになっているケースなども、ないとは限りません。
そこで、来談される方々にお勧めしたいのは、私たちのことも含め、「ああ、このカウンセラーとは合わないな」と感じたら別のカウンセラーを探されることです。
そのことは、カウンセラーに告げてもよし、言いにくければ告げなくてもいいと思います。

一昔前でしたら、様々な医師やカウンセラーのもとを訪れる行為を「ドクター(カウンセラー)ショッピング」と呼んで、治療者たちは敬遠していた面がありますが、カウンセラーもいろいろですので、セカンド・オピニオンを求めるのに、あまり迷う必要はないと思います。


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国家が自信を回復するということ - 2012.10.19 Fri

近代の河川工法(すなわち西欧の河川工法)では、できるだけ頑丈な堤防を築き、水流を完全にコントロールする。
対して日本の伝統的な河川工法においては、増水の際に、一定以上水位が上がらないように、水の逃げ道、つまり堤防にわざと低い部分を作る。

もちろん河川の特徴自体が違うのだが、西欧式の河川工法ではしょっちゅう補修工事をせねばならず、莫大な労力・費用がかかる。
しかし日本古来の河川工法、たとえば武田信玄が行った山梨県釜無川の信玄堤などは、手を加えないでも、400年以上経った今でも機能している。
さらには、逃がされた水は、単に放流されたにとどまらず、森の豊かな養分を耕地にもたらすという面も持っていた。

明治の初期、オランダから招聘された土木技師のデレーケは、この日本の技術に驚愕した。

ところで、日本の伝統的な治世の感覚においては、民衆を「水」と捉える面がある。
もともと、為政者にとって治水と治世は切っても切れない関係にあったが、それらは質的にも同じものだったのである。
たしかに、民衆に高度な論理は通用しない。
水のごとく、ただ高きから低きに流れるばかりだが、それは時として恐るべき破壊力をも生み出す。

だから日本の感覚では、民衆を統治する際にも、絶対的抑圧を加えない。
民衆にストレスを溜めさせることの危険性を知っているからだ。
むしろある程度の余裕や楽しみを与え、何かを強制しなくとも、民衆の方が進んで従ってくれるような方法を好むのである。



最近、やはり日本人として知っておかなくてはならないという気持ちから、尖閣諸島や竹島のことを調べるうち、当然ながら南京大虐殺や従軍慰安婦問題にも行き当たった。
細かく知れば知るほど、それらが完全に捏造されたものであることがはっきりとし、さらには、むしろ当時の日本軍は、世界でも類を見ないほど統制が取れ、占領地の人々に寛容であり、略奪や強姦に関する軍規において、非常に厳格な集団であったことが見えてくる。

私は決して、日本軍は善意の集団であっと言いたいわけではない。
ただ、そのような仕方の方が占領地の人心を掌握し、統治しやすいことを知っていたのだろうと思うのである。

実際、日本の統治下にあった当時を知る台湾の人々が、日本に対してきわめて好意的なのを見ると、そうしたことにも納得がいく(いうまでもなく、基本的に台湾の反日活動家は中国人だ)。
近い記憶で言うと、イラクにおける日本の自衛隊の派遣においても、結果的には、引き上げ時に、帰らないでくれと現地の人々の間でデモが起きたほどだ。

我々が繰り返し刷り込まれてきた非道な日本軍の姿は、こうした認識を通じて、私の中でかなり変容しつつある。
日本はその非道さのゆえに敗れなければならなかったのではなく、むしろ、アメリカのように想像を絶する非道さをやってのけることができなかったというのが、敗戦の一因ではなかったかとすら思う。



事実として、アメリカを除き、中国軍ほど多く虐殺ということを行ってきた軍隊はないし、一方韓国軍についても、ベトナムにおける強姦の多さは異常なほどだった。
つまり、自分たちのやりそうなこと、その感覚を、日本軍に投影しているように見える。

そして今度はアメリカである。またしても沖縄において、アメリカ海兵隊の兵士が強姦事件を起こした。
以前から疑問だったのだが、沖縄の基地移設問題において、どうしてこうしたことがあまり表立って論じられなかったのだろう。
沖縄に駐留するアメリカ兵の態度が現地の人々にとって歓迎するべきものであったならば、事情はまったく異なっていたはずである。

私はここで、地位協定という外交上の問題の是非について論じているわけではない。
人としてもっと根源的な人間関係上のスキル、たとえば礼儀といったものについて話しているのである。
世界中に散らばるアメリカ軍の兵士が、方々で捕虜の虐待などを行なっているのを見ると、やはり「アメリカにあらずんば人にあらず」とでも言うべき超大国の傲慢さを感じずにはおれない。
もちろん、キャンプ内に現地の人々を招いてイベントを行うなど、ちょっとは融和的な策もほどこしているのだろうが、片手間感がありありである。

「制するためには緩め、喜ばせる」という一種の逆説的発想に、いまだに至っていないという点で、私にはアメリカも中国も、とても先進国には見えない。
ただ、悲しいかな日本も世界の風潮になびき、「制するためにはひたすら抑圧する」という傾向が強くなってきているように思えてならない。



カウンセラーの公式ツイートで、外交問題などを論じることについては、違和感を覚える人は少なくないと思う。
実際、心理学的なことを書かずにこういう問題ばかり論じていると、若干フォロワーも減ってくる。

しかし私は、もちろんこれらのことを、あくまでもカウンセラーの立場で論じている。
なぜなら、精神疾患や人間関係の問題と、国家の外交問題とは、すごく深い関係があるからだ。

大砲を突きつけられての開国、太平洋戦争における敗戦、東京裁判などの外圧によって、日本人はすっかり自国の国民性に自信をなくし、卑屈になってきた。
かつての全共闘における、いわゆる「自己否定」などはその極みであった。
彼らは、日本国および民族は償いきれない犯罪を積み重ねてきた醜悪な恥晒し国家・民族であり、その存在価値が全くないので、自らを積極的に否定しなければならないのだ、と主張する。

卑屈さというものを払拭できたとき、人の人格には、ピッと芯が通る。
このことは、国家レベルにおいても同じだ。
逆に言うと、卑屈さがあると、怒りや攻撃性、毅然とした態度を表に示すことができなくなり、それらはすべて内部へと向かう。
つまりそれらは内部の弱者へと向かうので、企業のレベルで起きるとパワハラの頻発ということになるし、家庭のレベルで起きると児童虐待となる。
そして、個人の内面で起きると、うつや摂食障害、自傷行為となる。

個人のレベルで起きた場合、つまりうつなどにおいては、それは純粋な意味での自己否定ということになる。
それはもちろんいいことではないが、突き詰めると、不当な形で他者に迷惑を及ぼしていないので、救いがある。
ちなみに、うつの人間は迷惑だ、という人は多いが、そういう人はそもそも人をうつにさせてしまっている立場なのだから、私に言わせれば自業自得だ。迷惑がる筋合いではない。

そして、うつになぜ救いがあるのかというと、人には迷惑をかけず、ものごと非を背負い込んでいる分、本質的には後ろめたさを感じる必要がない立場にあるからだ。
だからうつの人たちは、深いところではかなり真っすぐに立っている人が多い。
あくまでも深いところでは。

それに比べて、全共闘の言う「自己否定」などは実にたちが悪い。彼らは、本質的にはちっとも自己否定などしていないのである。
だから「自己否定」という表現は、まったくもって詭弁である。
それは決して、自虐行為ですらない。

彼らが否定しているのは自分自身ではなく、あくまでも「自国民」「自国家」である。
そしてそれは、「こんなひどい国の人間ですが、私だけは特別ですよ」という立場を恥ずかしげもなく強調する態度であり、同胞を貶めることで成り立つ、なりふり構わぬスタンドプレイであると同時に、強者(戦勝国・強国)へのへつらいだ。
歪みをもって無理矢理歪みを修正したような屁理屈である。

中国での反日暴動を受けて、大江健三郎氏をはじめとする100人単位の文化人が、この「自己否定」をやってのけたが、まさしく全共闘時代の亡霊を見るようだった。
自国を睥睨することをもって、インテリの資格証明書とするその卑劣な態度に、正直吐き気を催した。

こういうツイートの後には必ず付け加えるのだが、私は決して右翼思想の持ち主ではない。
母国が、いや、他のどの国についても、虚偽の中傷を受けることにやりきれなさと怒りを覚えているに過ぎず、韓国とも中国とも、真の友好関係を望んでいる者である。

軍事上の問題を横に置けばという話だが、たとえば尖閣諸島の問題にしたって、
「当時はまだ、この無人島をどこの国も領有していなかったのは事実だが、同時に海域に関する取り決めもない時代のことで、地下資源があるなんてことも分からなかった。だから、早い者勝ちなんて野暮なことはせずに、一旦白紙に戻して、共同管理の線を模索しようじゃないか。」
と主張してきたのならば、やはり日本は聞く耳は持たなくてはならないと思う。竹島だって同様だ。

国境はどうしても線で考えなければならないのだろうか、どちらでもなくどちらでもある、「境界領域」という考え方は、本当に不可能なのだろうか。
西欧では、さまざまな問題をはらみつつも、EUという形でそれが進んでいる。もしも極東でそれが可能になったら、それこそ世界に誇れるモデルケースになるだろうにと思う。

人間の心理構造においても、境界領域を設けることは、実はいい加減さ、曖昧さによるものではない。
論理性の本質は切断機能、つまり切り分けるという性質だが、きちんと境界領域を設けるのは、実はより高度な切り分け能力によるものだ。
直線的に2つにしか切り分けられないのは、むしろ原始的で未熟なやり方なのである。


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最近の不穏な空気 - 2012.09.26 Wed

本日のツイッターより

8月から、おしなべてクライアントの方々の抑うつが強い。夏の情緒がなく、ただただ暑いばかりの夏だったことと関係があるのだろう。身体レベルで起きていることに関しては、自分のその状態を甘んじて受け入れるより他ない。

で、世の中全体でそういう抑うつ的な状態が続くと、決まって他罰的な性格の連中が抑うつ感を解消しようとして、他人に対する不当な攻撃を始める。そう思っていたところへの竹島・尖閣諸島の問題、反日の動きである。

最近では、これに関するTVニュースをほとんど見てられない。自分の怒りをもてあますからである。

9月後半になって、さらに抑うつの強くなっている方も少なからず見受けられるが、反日暴動(あんなのはデモじゃない)で深く傷ついていることが、けっこう大きな原因になっているのではないかと思う。

しかしそれは、傷つきというよりも、強い怒り・攻撃性が行き場を得られず、内向してしまっているからと捉えるべきである。

うつとは、攻撃性が内向している、つまり自分に向かってしまっているためであるという面が、非常に強い。だから、ぷんぷん怒り続けている人はうつにならない。逆に、そういう人が急に怒らなくなったら、危険なサインであるとも言える。

怒ることができるようになると、うつはかなり解消するが、必ずしも他者(自分に理不尽を押し付けた人)に対して怒りをぶつけるべきだというわけではない。

理不尽を押し付けてくるタイプの人のほとんどは、そもそもなりふり構わず弱者を攻撃できる人なので、こちらから直接怒りをぶつけると、まあたいていは逆襲を喰らい、前よりもさらに落ち込んでしまうことが多いからである。

相手にぶつけないまでも、怒りを覚えておくことが大事なことで、たとえば会社の上司が困った人である場合、同僚と酒を飲んで悪口をいうのもいい方法だ。

弱々しい対症療法ではあるが、嫌味を言われた後で、相手には聞こえない場所で必ず「チッ!」と舌打ちをするようにするだけでも、意外と効果があることもある。

うつで来談される方々は、まず最初の段階、すごく無理のある自己否定にとらわれているが、否定の剣をきっちり不当な相手に向けられるようになってくると、当然筋の通らない自己否定はなくなってくる。そして、そうなってくるとその人たちは、どことなくブラックな雰囲気をまとい始める。

うつになりやすい性格の人は、当然ながら自罰型の性格の人が多いが、実は、本質的には攻撃性の強い人が多いのである。このブラックな雰囲気をまとい始めた人を見るのは、すごく楽しい。

大切な補足をしなければならない。理不尽を押し付けてきた人に対して、決して仕返しや反論をしてはならないという意味ではない。充分に根回しして、それができる状況が作れたら、もちろんそうする選択肢もある。

で、私の場合どうしたかと言うと、勤めていた大学で考えられないほど不当な目に合わされた時、退職のこともその後のこともすべて描ききった上で、超絶猛反撃をした。

相手が大学の要職だったで、理事長まで完全に味方につけた上で、それをやったのである。

それによって立場が悪くなることは百も承知で、それでもうつになるよりはましだから、仕方なくしたことだ。

カウンセラーである私は、どうすれば自分がうつになり、どうすればならないのか、嫌になるほど知っているのである。

他人からひどい理不尽を押し付けられて、うつにならない方法は、きっちりと怒るか、自分も他の弱者をいじめるより他、方法はない。

私が弱い者いじめができる人間になった場合、私は間違いなく、隠された形でクライアントにサディズムを向けることになる。

それは言うまでもなく、カウンセラーとして致命的なことだから、だとするともう、理不尽を押し付けてきた相手にきっちりと返すより他、道はなかったのである。

まあ私の眼から見ればということだが、今の時代、人格的にまともな人は怒っているかうつになっているかのどちらかじゃないか、という気がする。


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性的欲求の2つの面 - 2012.09.26 Wed

9月19日のツイッターより

少なくとも男性の側においての話だが、どうも性的欲求の方向は2つあるようだ。ひとつは生物学的な欲求、もうひとつは生態学(社会学)的な要請である。

生物学的な欲求は、言うまでもなく生殖のための本能であり、生態学的な要請とは、征服欲というのが近い。

生物学的な欲求の方が強い場合、その情緒的な方向は「自己解放」という色合いを帯びるし、生態学的な要請の方が強い場合、「他者(女性)への抑圧」という色合いを帯びる。

夫婦間の問題でカウンセリングに訪れる女性の場合、その夫は後者の欲求をより強く持っているケースがほとんどすべてである。

その他者抑圧の欲求には、まずたいていの場合、きわめて陰湿な形でサディズムが潜んでいる。

日本人の歴史においてもっとも爆発的な人口増加がおきたのは、戦後、つまり団塊の世代においてだろうと思うが、それが敗戦の直後であるというのは意味深い。

なぜかというと、戦争における敗北と米軍による占領支配は、とくに日本人の男性性(男性としての矜持というべきか)をひどく損ねるものであり、内向した男性性は補償的に征服欲を刺激し、性欲を増長させたと考えられるからである。

団塊世代の人すべてに当てはまることではないが、日本人の歪んだ征服欲の結果として誕生した団塊世代。その人々に多く見られる競争意識、どういう方法であれ勝つことこそが最終目標という性質の基本的な部分は、そこからきたのではないかと思う。

現代の日本では、いまだこうした面を色濃く引きずっている。

それは同時に、アメリカ・コンプレックスの裏返しでもあるということだ。


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第1回人間関係講座 概要 - 2012.07.13 Fri

遅くなりましたが、先月29日に開催した人間関係講座の内容をアップします。


日時  2012年6月29日 午後7時~8時40分
場所  大阪市西区民センター 第4会議室
講師  松波 幸雄

1. まず、講師の創作による事例「A子の場合」を朗読。
2. 続いて、パワーポイントを用い、「A子の場合」に見られる家族関係・人間関係における問題点を中心
 に、性格論の観点から人間関係の分析を行なった。
3. 参加者によって、所定の用紙に書き込まれた質問に対する応答。

創作事例 ~A子(派遣会社勤務 31才 独身)の場合~

【カウンセリングを受けるに至った経緯】

A子が、私立大学の福祉学科を卒業したのは、今から9年前。
4年前に2度目の転職をし、現在は人材派遣会社の社員だが、昨年チーフという職につき、上下からの板ばさみによるストレスから会社に行けなくなって、うつと診断された。
2ヶ月前から休職している。休職期間は当初2ヶ月の予定だったが、現段階では復職できそうにないので、先日、医師の診断の上6ヶ月に引き伸ばされたばかりだ。
小学校の頃から何度か精神的な危機を体験してきたが、今回ばかりは自力で乗り越えられそうになく、もともと家族関係についてもひそかに抱えている問題があり、いろいろを見直すために思い切ってカウンセリングを受けることにした。

【ボランティア体験】

大学時代は、いちおう福祉の仕事に就こうと考えていた。そもそも福祉学科に入ったのは、できれば将来、少しでも誰かの役に立ち、喜んでもらえるような仕事がしたいと考えていたからである。
高校2年のとき、友達に誘われて、老人ホームでの体験学習を兼ねたボランティアに何度か参加したのが、福祉学科への進学を決めるきっかけだった。
初めて参加した日、A子が職員から指示された仕事は、ベッドの横や談話室の椅子に座り、お年寄りたちの話を聞くことだった。下働きみたいな仕事をさせられるものと思っていたので意外だったが、どうしたいきさつでそうなったのか、やはりそれは少し例外的なことだったようだ。

A子は小学校から中学にかけて、ほんの2年半ほどだったが、母方の祖母と同居したことがあった。
田舎の祖父が亡くなって、少し足が悪かった祖母を長女である母夫婦が引き取り、祖母自身が亡くなるまでの間だった。
祖母は聞き上手で、共働きで帰りの遅い母の代わりに、炬燵で学校であったことの話などを毎日聞いてくれたりした。ひょっとすると、親との会話を全部足しても、祖母との2年半の方がたくさん会話をしたのではないかと思うほどである。
祖母から聞いた昔の日本についての知識もあったので、A子にとっては、ホームでお年寄りと話すことにはまったく抵抗がなかった。
お年よりたちも分かったもので、死んだ連れ合いのことや昔のことをよく話してくれ、「あんた若いのにお話ししやすいわぁ」と言ってくれる言葉に嘘はないようだった。

【小学校時代のこと】

母は役所勤めをしながら家事をこなす、言わば根っからそつのない人だが、悪く言うと外面(そとづら)のいい人である。職場でもきちんと昇進し、今は課長職である。朝から晩まで機械のように働く点はすごいなあと思っていたが、A子の学業成績のことは気にする反面、学校での様子などにはほとんどまったく興味を示すことのない人だった。
また新卒で就職して以来、ずっと同じ会社の経理として働く父は、いわゆる頭の固い人で、自分のただただ堅実な生き方に何の疑いも持っていない。例えば脱サラしてやりたい仕事で生きようとする人たちのことを、せせら笑うようなところがあり、「あんな奴らにだけはなったらあかん」と自身たっぷりに子どもに説教する。
そんな父のことを、A子だけではなく母も内心見下しているようだったが、何かでA子を叱るときだけは、いつも両親の意見が一致していた。だから、A子が叱られるときは常に、誰からも助け舟はなかった。
そのような両親に対して、学校のことや今こんなことに興味があるという話をすることはなかったし、そもそも話せる雰囲気になったことがなかった。

A子には弟が1人いたが、両親がA子ら姉弟に接する態度は、明らかに違っていた。何かにつけて、A子にだけは「お姉ちゃんなんやから」と、子どもなら当たり前のわがままを言うことも許されなかったし、皿洗い程度だが低学年の頃から家事をさせられ、習い事にも勉強にもうるさく言われた。でも弟には明らかに甘い。というよりも、気を遣っているようにさえ見えた。
なぜ、よく手伝いをさせられている自分がしょっちゅう叱られて、何もしない弟が気を遣われているのか、A子にはさっぱり分からなかった。しかし、自分には叱られる何かがあり、弟には気を遣われる何かがあることだけは分かり、当然ながら深い兄弟コンプレックスが形成されていた。

弟は弟で、幼い頃は仕方なかったとしても、2つしか違わない姉が家事をやっているすぐ横で、平気でずっとテレビゲームを続けられるタイプだった。何の疑いもなく、自分のことを特別な存在だと思っている弟の感覚は、A子には理解できなかった。
小学生の頃から、たまらなくなって母親に不満を訴えたことは何度かあったが、まず何を言っているのか分からないような顔をされ、しまいにはイライラしだして「それはしゃあないやんか!」と、訴えるこちらがおかしいという勢いで片付けられ、下手をすると嫌味を言われた。
何がどうしゃあないのかA子には分からなかったが、気持ちは飲み込まざるを得なかった。

小学校5年の秋頃、やはり母親に不満を訴えたところ、虫の居所が悪かったのか、いつも以上に恐ろしい剣幕で却下され、罵倒された。その夜、A子はすごく恐い夢を見た。
ワンピースを着た母親が表情のない眼をうっすら開け、自宅の和室の柱に、立ってもたれかかっている。明かりは点いておらず薄暗い。身じろぎもしない母親の様子に、恐る恐る目を凝らして見ると、母はもたれかかっているのではなく、柱から出ているフックのようなものに、背中を吊り下げられているのだった。さらに目を凝らすと、その首にはくっきりと傷跡があり、首と胴をつなぎとめているらしい縫い目が見えたのである。

その夢から数日は、母親の眼を見るのも恐ろしく、そばにくると身が硬くなった。
夢だとは分かっていながら、自分の本当の母親はもうこの世にはおらず、この母親は作り物なのだという考えが、しばらくは振り払えなかった。ある晩などは、母親の風呂上りにその首筋を凝視していて、「何?この子」と怪訝そうに言われた。

その少し後、A子は学校で執拗ないじめに遭った。
A子は、もともと女の子のグループ感覚にはついていけないところがあったが、いちおうあるグループには入っていた。その中で、ある大人しいタイプの子が一時 ”はみ子” にされていたのだが、A子には、どうしても周りと同じように、その子をいじめることができなかったのがきっかけである。
どうしようか悩んでいたのだが、朝、学校でその子と会った瞬間、罪悪感に耐え切れず、ほとんど反射的に普通に話しかけてしまったのである。リーダー格の子はその場にいなかったが、グループの中の1人がいて、たちまちA子が次のターゲットとなった。

まず、リーダー格を含むグループの3人がA子のところにやってきて、A子のことをけなした。何を言われたのかほとんど思い出せないが、「きしょい」という言葉には女の子としてひどく傷ついた。言われている内容がまったく理解できないし、いきなりの攻撃だったので驚きの方が先に来て、結局一言も言い返せず、泣き出すことすらできなかった。
そのときの引きつった自分の笑顔を想像し、その想像した姿と「きしょい」という言葉が重なった。自分がひどくみすぼらしく、誰からも愛されない人間に思われた。

けなされた翌日からは、とにかく無視された。彼女らはA子の存在に気づいていないわけではなく、瞬間的には目が合うこともある。あるとき、グループの1人がちらっとA子を見たあと、笑いながら別の子に話しかけた。
話しかけたほうはチラチラとこちらを見ているようだったが、話しかけられた方は、いっさいA子のほうを見ることはなかった。それでも2人は部分的にしか話が聞こえないように、ヒソヒソ、クスクスと話し続けた。話しかけられた子は、もともとA子がかばった子だったので、そのショックは大きかった。 客観的にはこの上なくひどいことなのだが、それでもA子の中に湧いてきたのは怒りではなく、「こんな自分なんか、いなくなればいいのに」という思いだった。
A子は毎日1人で家に帰り、自室で泣き、本気で死ぬことを考えた。でも、ときどきふっと悲しくなくなるときがあり、そのときは悲しくない代わりに、シャーペンで自分の腕をガリガリと傷つけたい衝動に駆られた。何とか思いとどまったが。

【祖母が家に来る】

祖母が家に来たのは、いじめが始まってから2ヶ月ほどのことで、それはA子にとって紛れもなく救いとなった。A子が担当していた家事を、すべて祖母が引き受けてくれたことも大きかったが、何より大人の中で唯一祖母だけが、A子の様子がおかしいことに気づいてくれたのである。
弟が遊びに行って2人きりになったとき、様子を察したらしい祖母は、はじめはそれとなく、今学校では楽しいのかなどと尋ねてきたが、A子がまともに答えずにいると、
「あんた、いじめられてないか?」
と、静かにではあるが、はっきりと尋ねてくれたのである。自分がいじめられているということ自体認めたくはなかったので、もしもはっきり尋ねてくれなかったら、告白はできずじまいだったかもしれない。
何か答えなきゃと思った瞬間、出てきたのは言葉ではなく、堰を切ったような泣き声と涙だった。
「よしよし、お婆ちゃんが絶対何とかしたる」 と、A子の頭を抱えるようにして、太い指で撫でてくれたときにはもう、しゃくり上げながらあらん限りの声を張り上げて泣き、祖母の服をつかんでいた。祖母は、大地のようだった。

A子の話を聞くにつれて、祖母は相手の子らへの怒りをあらわにした。小学生に腹を立てても、大人気ないという考えなどは頭にないようだった。
その態度は、どんな慰めよりもA子にとっての救いになった。自分は間違っていなかったことが、はっきりとしてくるからである。もともと祖母のことは好きだったし、よく知っているつもりだったが、見たことのない迫力だった。

祖母からその話を聞いてなお、両親ははじめ担任との面談を渋っていたみたいだが(本当に信じられない!)、祖母はとくに父親を説き伏せてくれたようだった。両親が有給を使って学校に行き、担任と面談してくれたお蔭で、ほどなくいちおういじめは収まったが、ぎくしゃくとはしていた。
しかし、祖母のおかげで相手に対する怒りを感じることができていたので、以前ほど恐怖は感じなくなっていて、どうにかこうにか不登校にはならずに乗り切ることができた。でも、もともとけっこうはっきりと物を言う性格のはずだったA子だが、大人になるまで、それはほとんどできなくなっていた。

何とか5年生をやり過ごし、6年生になったA子は、アニメが好きな女子たちの小さなグループに、何とかうまく入ることができた。いわゆる変わり者と思われている集団であることは分かっていたが、彼女らの態度は大人びていて、言葉は常にブラックで、そして的を射ていた。しかし、それだからこそこのグループは、A子にはかえって裏切られる心配のない場所だった。
祖母に、彼女らの1人が「男子にこんなきついこと言うねんで」などという話をすると、楽しそうに手を叩いて笑ってくれた。祖母のことは、はじめはただ孫思いの老人としか思っていなかったが、実は彼女らとかなり似たブラックかつ聡明なタイプで、そして自分の性格も本当は祖母に似ているのではないかと思った。
母も、どことなく棘を含んだ調子ではあるが、「あんたはお婆ちゃん似や」と言っていた。どうやら母は、実の親である祖母を少し苦手に感じているらしかった。だが、31歳でカウンセリングを受けるまで、実は母がA子自身のことも少し苦手だという発想には至らなかった。

中学2年になってすぐに祖母が死んだとき、A子は悲しみを通り越して、1週間ほど呆然とした。祖母は亡くなる前、ほんのわずかしか寝つかなかったので、現実感のない、まるで夢のような死だった。いや、祖母が死んだことよりも、祖母がいた2年半の方が夢だったようにさえ思われた。
しかし後になって、祖母がうちにやってきたのは、人生最後の時間を使って、自分と似たA子を助けるためではなかったか、という気がした。今でも辛いことがあると、自然と祖母のお墓に足が向く。

【大学時代~新卒就職】

大学に入り、専門科目の授業を受けたり実習に行ったりする中で、「やっぱり自分は、福祉には向いてないんじゃないか」と感じるようになった。困っている人の役に立つことは確かにいいことだとは思ったが、その仕事に喜びを感じる自分が、どうしてもイメージできなかったのである。ホームでお年寄りの話を聞いた体験で抱いた、福祉の仕事に携わりたいという素直な気持ちと、大学で習うことが、どうしてもうまくつながらなかった。

そんな迷いもあって、A子が本格的に就活を始めたのは、4回生になってからだった。
結局は福祉の仕事を探さず、手堅い人生を順調に歩んできた父親の強い押しに流され、なんとか金融系の会社に就職した。そういえば父は、そもそも福祉学科に進学するときにも、あまりいい顔はしていなかった。
しかし入社早々、思っていた以上に、変化の少ないルーティーンワークが苦手だということに、自分自身気づかざるを得なかった。きちんと意味のある書類はいいとしても、他の女子社員は、ほとんど意味のない書類を作ることにも何の疑いも持たないようだった。それでいて、上から指示されていないことについては、どう考えても必要なことであってもスルーするのである。父と母が、こういう仕事を何10年もこなし続けてきたのかと思うと、彼らのことがこれまで以上に、異様に大きく感じられた。
そこに不安やストレスを感じない感覚が、A子には理解できなかった。そして、逆にそんなことにストレスを感じる自分に対し、「自分は社会人に向いていない」という劣等感を感じざるを得なかった。

〈このストーリーは、第2回人間関係講座へと続きます〉

解説

A子の性格……内向型

《内向型と外向型について》
もともとは、心理学者ユングが提唱した性格の型で、日本でもなじみがある概念。

外向型……外界のできごと(おもに人間関係)により関心が強く、刺激され反応しやすい人々のこと。
内向型……自分の内側に生じること(感情やイメージ)のほうにより関心があり、刺激され反応しやすい人々のこと。
※ただし、誰にでも内向的な面と外向的な面はある。どちらが優先するかによって決まる。

《この概念の問題点》
内向型の人の場合でも、人間関係そのものには強い関心を持っている人は多いし、外向型の人でも、実は他人の感情などにあまり興味のない人はいる。つまり、この概念には少なからず曖昧さが含まれる。
そこで、講師独自の視点を加味して、「内向型・外向型」を捉えなおしてみた。

《現実場面での外向性(外向型)》
他者との力関係(パワーバランス)、また集団における自分のポジション(地位)に関心を払い、自らの地位を「外交努力」によって築こうとする心理的方向性。
こうした傾向が常に優先され、習慣化している人々を 外向型と呼ぶ。
※「外交努力」……闘争・競争において勝つこと、上位者に対して従順に振る舞うこと、あるいは少しでも仲間を増やして協力体制を築くなど、地位保全のための直接的な努力。
必ずしも「社交性」とは一致しない。

《現実場面での内向性(内向型)》
自分の内側に生じる喜び・楽しみ・充実感・安堵感などを追求する心理的方向性。
他人との直接的な力関係よりも、こうした傾向が優先され、習慣化している人々を内向型と呼ぶ。
本来、内向型の人々の場合、外交努力に煩わされることが少ない分、集中して特定の技能や知識量をアップさせていく傾向が強い。

《内向型の一般的な社会適応の方法》
知識量や技能や論理性の高さ、あるいは勤勉さなどによって周囲から必要とされ、結果として地位を得る。もっとも昨今は、集団内における内向型の評価が低く、劣等感を感じているため、思うように能力が伸ばせないでいる人は少なくない。

◎近年、なぜ内向型は劣等感を感じやすいのか(実際に評価が低くなりがちな理由)
・集団内の地位確保、目先の勝負にあまり興味がないため、後れを取りやすい。
・ものごとの判断に時間がかかるため、後れを取りやすい。
外向型の長所が分かりやすいのに対し、内向型の長所は、周囲から認識されるのにかなり時間がかか
り、ある程度の付き合いの深さも必要。

◎関連事項
《コミュニティの崩壊》
小さな単位の地域コミュニティ(ご近所づきあい)の崩壊は、講師の体験では1970年頃から急速に進み、わずか数年で壊滅状態となった。
=氏神の祭りの形骸化 子どもが外(家の前)で遊ばなくなる など
道路の急速なアスファルト化→自動車の交通量の激増

《子どもが外で遊ばなくなることの弊害》
子供同士の交流の減少
「幼なじみ」グループの消滅

《幼なじみグループの機能》
=成人していくにつれ、そのまま地域社会の基盤となる
=社会性を育む集団(人工的管理下では不可能な部分)

《1970年頃までの幼なじみグループの特徴》
=交流の量が桁外れに多い(ストレスも少なくない)
=小学生と中学生が一緒に遊ぶなど、対象年齢の幅が広い
=基本的には数人の小グループで遊び、時々鬼ごっこなどの集団遊びをする
交流の量が減ったことで、外向型の人が内向型の人の長所を知る機会、さらには内向型の人が自身の長所を知る機会が失われたと考えられる。


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臨床心理士会を自主退会 - 2012.05.20 Sun

もともとこの記事は、私が3年前に臨床心理士の資格を放棄した直後に『臨床心理士会退会』としてアップした記事であるが、カウンセリングルームHPのリニューアルにともなって、そちらの方でもアップした。

しかしすでに3年経っていることもあり、考えが発展したりより明確になった部分があり、手を加えているうちに大幅に中身が増えてしまった。
とくに第2節の「カウンセラー特有の歪み」以下は、大部分が今回書き足したものである。

そこで、『臨床心理士会を自主退会』という記事名で、再アップしておきたい。





私事ではあるが、非常に重要なことなので、この場をお借りして公表しておきたい。
私は2009年3月31日の日付で、臨床心理士資格認定協会に資格失効の願いを提出し、資格証明書を返却した。
つまり、同年4月1日をもって、私は臨床心理士ではなくなったのである。
もちろん、開業カウンセラーとしての活動は、ずっと変わることなく続けていく。

このことは、事前に、家内や身内の他には、一部説明の必要だったクライアントの方々とごく少数の親しい友人にしか公表しなかったが、私自身の胸の内では、少なくとも退会の2年前には確定していたことである。
さらに言えば、その心積もりは、はじめからカウンセリングルーム開業とセットになっていたと言ってよい。

出身大学院の教授や仲間、あるいはかつての職場の同僚でこの記事を読まれた方は、さぞかし驚かれることと思う。
非常に気の重い点だが、中には、エキセントリックな行動だと思う人も多いことだろう。
しかし、もちろん気がふれた訳でもなければ、理想に取り憑かれて無謀な行動に走ってしまったつもりもない。

言うまでもなく、臨床心理士という資格自体は、あって邪魔になるものではない。
それどころか、この資格を得るにはそれなりの年月や労力や費用、何よりも「カウンセラーになる」という明確な意志を必要とするだけに、少なくとも社会的に見る限り、やはり価値のある資格とされることは重々承知している。
実際に、私自身これまで多くの臨床機関での勤務を経験してきたが、臨床心理士という資格があったからこそ雇用してもらったのだし、臨床経験と実績を積むこともできたのである。

ただ、私にとってこの資格を継続して持ち続けるには、あまりにも抵抗が強すぎた。
退会を決意するにいたった理由については、単純に語れない部分が大きいので、少しずつブログなどで書いていくことになると思うが、現段階である程度は述べておかなくてはならないだろう。


退会の理由

さしあたっての理由は、理念よりもむしろ実状によるところが大きい。
臨床心理士の資格は、5年ごとに更新される。
で、更新までの間に、資格認定協会から指定されている研修会あるいは学会に、6~8回程度出席して所定のポイントを獲得、累積させなくてはならない。
つまり、研修会・学会には、平均して年間に1~2回出れば済むことではある。

しかし私の場合、この年間たった1~2回の研修会・学会出席を、まずはどうしても生理的に受けつけなくなってしまったのである。
では、研修会・学会のどういった点を生理的に受けつけなくなったのか。
正直、この内容がすらすらと言葉になりにくい。
おそらくは、その場における矛盾が単純ではなく、十重二十重に絡み合っているからだと思う。

矛盾の一例として、ブログでずっと述べ続けてきたように、ほとんどのカウンセラーは、クライアントをはなから劣等者・歪みのある者と決め付け、一方カウンセラー自身を優越者だと思い込んでいると言わざるを得ない。

人は、大人であるというだけで子どもよりも人格的に優れていると勘違いし、教師であるというだけで生徒よりも世の中のことが分かっていると勘違いする。
そして、カウンセラーであるというだけで、また悩みを抱えていないというだけで、悩める人よりも物事がよく分かっていると勘違いするものなのである。

しかし、症状の発症とは、ある意味人が生きたものである証と言ってもよい現象であり、一概に病者が異常・劣等と決めつけるわけにはいかない。
歪んだ場の中では、むしろ歪みのない者が発症せざるを得ないことが多々あるのである。

ある3歳の女の子は、「教師の指示が理解できない」という理由で自閉症を疑われ、われわれのもとに連れてこられたが、実際には非常に能力の高い子どもだった。
教師の、いくつか前の指示と最新の指示とがたびたび矛盾していたために、かえってどうすればいいのかが分からなかったのである。

クライアントの能力が、教師やカウンセラーよりも優れている可能性を含む視点は、少なくとも専門家である以上、常に意識していなくてはならないのはあまりに当然であるが、実情はあまりにかけ離れている。

あらゆる学会・研修会の発表において、この視点はまったく意識されておらず、フロアからこのことを訴えたとしても、まず90パーセントの確率でその意見は無視される。
発表者からも他の参加者からも、まるで不思議な生き物を見るような目を向けられ、きょとんとされた後、「さて、それでは……」と別の話題に移られるのがオチである。
ただし、それを業界内の有名人が言った場合だけは別だ。


カウンセラー特有の歪み

たとえば、こんなことがあった。
東京でのある研修会場でのこと、私と家内は、ある大学の大きな階段教室の後ろの方に座っていた。
例によって講演の内容に辟易していたこともあったのだが(学習障害者(LD)支援NPO代表である藤堂栄子さんの講演だけは素晴らしかった!)、臨床心理士の講演中、家内が手を滑らせ、空のペットボトルを取り落としてしまった。

そのペットボトルは、カランカランと気持ちがいいほど派手な音を立てて、出席者たちの足元を5~6段下へと転がった。
たしかに聴講の邪魔をしたのは申し訳なかったが、心理学者である私は「人間はミスをするもの」と知っていたし、何よりそこに並んでいるのは、日頃「受容」を謳い、しかも人間がミスをすることを、私同様に知っているはずのカウンセラーたちである。
だから私も家内も、虫がいいと言えばそれまでだが、それを拾った人は「ああ、気にしないで」というほどの目配せなりを送ってきてくれるものと、当然のように予想していたのである。

ところが結果はまったく違っていた。
まず周囲の出席者たちは、一斉に家内と私を、憎むような目でジロリと睨んだ。
そして、自分の足元に誰かが落としたペットボトルが転がってきていることに、明らかに気づいているはずの出席者が、数瞬の間を取った上で、ゆっくりと大きな動きでそれを拾い上げ、これ以上ない迷惑そうな顔で後ろを睨み、すぐ後ろの出席者へと手渡したのである。

内心「目配せ待ち」だった私は、その人物と目が合ったときに、拝むような格好で「ああ、すみません!」という態度と表情を見せたのだが、プイと前を向かれたに過ぎなかった。

するとそこから、さらに信じられないことが起こった。
そのすぐ後ろの出席者から私まで、つまり落ちた段の数だけのカウンセラーたちが、最初の人物とまったく同じ仕草を判で押したように繰り返しリレーし、そのつどこちらを睨みつけて、家内に空のペットボトルを届けたのである。

クライアントの方々の大部分は、何らかの意味での「失敗者」である。
たまたまその会場で「失敗者」となった家内に対する彼らの行動を見て、彼らが日常的に、「失敗者」であるクライアントの存在・ありようを心から尊重しているとは、とても思えなかった。
また、失敗をしでかした者が必要以上に傷つかないための気配りは、かなり初歩的な「社会性」であると私は認識しており、むしろうつになった人々の中には、こうした気配りの細やかな方が多い。

今目の前にいる、ごく初歩的な社会性をも欠いた人々が、日常的に、あの細やかな気配りを持つ人々にカウンセラーとして対面している状況を想像し、そこで何が起きてしまうかを考えると、あらためて心底ぞっとせざるを得なかった。

あの出来事は、その場に一石を投じずにおれなかった、家内の潜在意識がしたことであるのは間違いない。
我々にとって、それが暴き出したものは実に大きかった。

もちろん、すべてのカウンセラーがそうだと言うつもりはないが、大学に教員として勤めているカウンセラーの社会性の低さについて、他学科の教員の方々から不満として耳にすることは非常に多い。
そのようなイメージが浸透してしまっているのか、「臨床心理」と言うだけで、大学関係の人から眉をひそめられることも少なくないほどである。

ただ、カウンセラーの中で、初歩的な社会性を欠いていると思われる人々の、圧倒的な率の高さから考えると(社会性の低い人がカウンセラーになりたがる傾向がある可能性を差し引いたとしても)、彼らがすべてカウンセラーになる以前から社会性を欠いていたとは考えにくい。
だとすると、「臨床心理」という領域では、思わず知らず、社会性を損ねてしまうような何らかの歪んだ教育が、連綿となされていると捉えざるを得ない。

日本のカウンセラー界における来談者中心療法の弊害

カウンセラーの「自分を隠す」基本的態度における問題の根源をたどると、そもそも、患者を寝椅子に寝かし、その頭上に自分の姿を隠して精神分析を行なった、S.フロイトの初期の臨床スタイルがもたらすイメージに、大きな問題があると言うべきだろう。
しかしより現実的には、私が見る限り、カウンセリングのもっとも初歩とされるロジャーズの「来談者中心療法」の教育が、カウンセラー自身のカウンセリングイメージばかりか、基本的な人間関係のイメージまで大きく歪めてしまっている面が強い。
ブログ 『ロジャーズ理論の問題点-序説として』 参照

たとえば、日本の「来談者中心療法」の教育者たちの頭には「カウンセラーはカウンセリングにおいて、自分の考えを一切話してはならない」という、何ら有効な現実的根拠がないにもかかわらず、掟のごとく厳格にして奇妙なルールがある。
さらにそのルールは、「カウンセラーは社会のあらゆる場面において、(個人情報はもちろん考え方まで)自分のすべてを隠すべき存在である」という独善的理屈にまで拡大してしまっているのである。
これでは、一般社会において周囲がイライラさせられるのも当然だ。
他人の情報は無遠慮に収集し、自分のことは何も明かさないのだから。

日本の一般的カウンセリング教育においては、「カウンセリング、クライアントは恐ろしいもの→人間関係、人は恐ろしいもの」というイメージが間接的に刷り込まれ、さらにそれが受け継がれることによって強化されているのである。
したがって、できるだけカウンセリングをしたがらないカウンセラーも少なくない。
また、そういったカウンセラーはクライアントに対する恐怖心が強いため、単に不安が高いだけのクライアントに対してすら「人格障害」と判断してしまうような傾向が強い。

カウンセリングがしたくないのだから、当然ながら彼らの研究職・教員職に対する執着は強い。
だが、カウンセリングがしたくないのならば、もはやカウンセラーという職にとどまるべきでないのは言うまでもないことであり、ましてや後進を指導するなど、断じてあってはならないことである。

退会の少し前、ある研究者兼カウンセラーと、来談者中心療法教育の弊害について議論になったが、こちらがどれほど論理的にその説明をしても、相手は反論と呼べる説明が一切できないにもかかわらず(理屈にならない理屈さえ述べなかった)、「そんなことはない! そんなことはない!」と、ただただこちらの意見を否定し、やがては怒り出し、おしまいにはこちらを侮辱しているとさえ取れるような発言までする始末だった。
これは、マインドコントロールされている者の、もっとも稚拙で典型的な反応である。まともなカウンセリングのできようはずがない。

研修会におけるペットボトル事件の際、周囲のカウンセラーたちが示した怒りの反応は、おそらく、不測の事態をいきなり突きつけられ、ありのままの素の反応を引き出されるような状況、つまり自分を隠しておけない状況に対し、本能的に激しい拒絶反応を示した結果であろうと思われる。


挑戦的試み

しかし私のもっとも恐れることは、彼らからの攻撃以上に、私自身にもそのようなマインドコントロールの影響が残ってやしないかという点である。
そのためには、臨床心理学教育において叩き込まれた根拠の見えない常識を、一つ一つ破っては検証していく必要があるのだが、臨床心理士の組織に身を置き、その資格によって勤務している限り、それにはかなり限界がある。
そのこともまた、私が臨床心理士会を去らねばならない大きな理由だった。

ある時期私は、この「恐怖」の刷り込みを払拭するためもあって、あらゆる精神障害やパーソナリティ障害の人々に対しても、尋ねられれば迷いなく、自分の考えはもちろん、電話番号などを含む個人情報まですべて教えていた。
まだ大学に勤めていた頃のことだったが、臨床心理教育へのひそかな、しかし言うまでもなく、それなりに覚悟を必要とする挑戦だった。

そうした試みの結果、自己開示によってまず例外なくクライアントたちの疑心暗鬼は緩和され、かえってカウンセラーに対する侵入的行為(1日に何本ものメールや電話をするなど)は誘発されず、また何よりも、あらゆる主訴のクライアントにおいて、良好な経過をたどる確率が劇的に高くなることがはっきりとした。

反対に、さまざまな事例報告を聞いていても、自分を見せたがらないカウンセラーほどクライアントの不安を刺激するため、侵入的行為あるいはカウンセラーの目の前での自傷行為などを誘発しやすい。
自分だけは常に安全な場所に隠れていようとするカウンセラーの態度は、かえって自身がもっとも恐れている結果を招いてしまうのだ。

カウンセラーを目指した時点から、カウンセリングが、自分を安全な場所に置いておいてできるほどたやすい仕事であるとは、私には思えなかった。
しかし、個人情報まで隠さず話し、一見危険な場に身を置いているように見える私の方が、結果的にははるかに安全だったわけである。

自分を見せたがらないカウンセラーは、それでもまだ 「隠し方がまだまだ甘かったのだ」と言わんばかりに、さらに頑なに殻に閉じこもる道を選ぼうとする。
本人だけならばまだしも、若いカウンセラーたちがカウンセリング場面で自分の考えを話しただけで、良くて劣等生扱い、一部の指導者などはヒステリックに叱責する。
繰り返すが、これはごく一部のカウンセラーの話ではなくて、少なくとも過半数の臨床心理士の話なのである。

実は、大学院生時代にもこのような思い切った自己開示を試し、必修科目であるケース検討会でその試みの事例を発表したことがある。
それは私にとって、臨床心理学を教え学ぶ人々への本質的な問いだったが、大部分の教員・院生にケースの経過自体はスルーされ、私が思い切った自己開示をしたことに愕然、呆然とされ、結果として私は著しく評価を落とさねばならなかった。

1人の後輩などは、発表の後でわざわざ私の目の前までやってきて、私の顔をにらんだ後、プイと横を向いてどこかに去った。
その子どもじみた態度は、カウンセラーの立ち位置を、クライアントのいる高さまで引き下げた私の行為に対する怒りの表現だったのだろう。
逆に、その場の参加者で面食らうほど私を評価したのは、現在の私の家内ただ一人だけだった。

ちなみに、自画自賛ではないが、自分の個人的な話をした部分だけ伏せて発表すると、私のカウンセリングケースはまず例外なく絶賛された。
「こんなに重い人が、どうすればこんなにいい経過を見せるのか」と言い、首を傾げてくれるのである。
私にははっきりとその理由が分かっていたが、それを口に出せばたちまちどうなるかもはっきり分かっていたから、当然黙っていた。

ただ断っておくと、今でも私の基本的態度は変わらないものの、カウンセラーの個人情報を細かく知りたがるクライアントの場合、逆に自分の情報を小出しにしたがる傾向が強く(申込用紙に名前すら書かれない場合がある)、それではかえって対等な情報開示のバランスが保てないために、逆にそうした方には正直に理由を告げた上で、自分の個人情報は話さなくなった。
だから結果的には、自分の個人情報を話す必要は、もうほとんどなくなっている。
あるいは、ブログなどで個人的な体験をかなり書いてきて、人となりが自明となったことも、要因として大きいのかもしれない。


決心までの経緯

さまざまな研修会に出席した実感から言うと、カウンセラーのこうした自分を見せない傾向は、関東の方がより徹底していると思われ、同郷贔屓ではないが、ペットボトル事件がもし大阪の会場で起こったことなら、結果は少し違っていたかもしれない。

ともあれ、このような研修会場にいると、クライアントを見下げるどころか、主体的に自分自身を関わらせすらしない教育に一切疑問を覚えない参加者たちに対して、声を荒げたい激しい衝動に駆られる。
「心理療法とは、人と人の生きたかかわりを排除し、クライアントをお仕着せの「正常」という枠に無理やり押し込め、ロボット化させることなのか!」と。
私や私の家内は、こうした場面では、握り締めた拳と食いしばった歯を終始緩めることができない。
そして、畳みかけてくる絶望感にくたくたになり、研修会参加から少なくとも1~2週間は、崩れた体調が元に戻らないのが常だった。

そうした、いわゆる専門家同士のやり取りのひどさは、もはや「無意味」という言葉では表現しきれなかった。
明らかに「人としてやってはいけないこと」としか思えなかったのである。

それでも私は10年以上、文字通り歯を食いしばってこういった研究者としての生活を続けたが、とうとう抗えない強さで拒絶反応が出始めた。
資格放棄の4年ほど前から、どの研修会・学会に出席しようとしても、それを考えただけで激しい怒りや悲しみに襲われ、行けなくなってしまったのである。

九州である学会が催されることになった時、それでも私は参加を申し込んだ。
他の学会・研修会はどれも参加する気になれなかったのだが、以前から気分的に比較的参加しやすいと感じていた学会だった。
しかも、開催地は九州である。そこへ労力と金を使い、前日から泊り込みで行けば、さすがに出席しないわけにはいかないはずだ。
要するに、是が非でも出席するしかない状況に自分を追い込んだのである。
これでだめなら、もう次の考え方をするしかない。

朝ホテルで目を覚ましたが、案の定、限りなく気は重かった。
ため息ばかりつき、着替えの動作すら何度も中断しなければならなかったので、とりあえず遅刻することに決めた。
すでにプログラムが始まっているはずの時刻に、朝食も取らず、かろうじてホテルを出た。
学会会場の大学は、ホテルから目と鼻の先だ。

とりあえず、大学がある方向に歩いてみる。
大学が見えてきたところで立ち止まった。
目の前に、いよいよ主体的に選択せねばならないラインが、かなりリアルに見えた。

完全に感情を殺さぬ限り、もう一歩も進めなかった。
会場に身を置いている自分を想像するだけで、大の男のくせに泣きそうになる。
「殺すのか、殺さないのか」と、すでに答えは分かっていながらも自問してみる。
自分の全身全霊が、「行ってはならない。もう自分を殺してはならない」と大声で叫んでいる。

私は、「そやな、もう殺しちゃいかんよな」と答え、今度は反対の駅の方向に歩き始めた。
身体の表面の激しい緊張はスーッと解けたが、代わりに腹の奥から、ゆっくりと別の緊張が襲ってくる。
おそらく凄まじい表情をしているであろう自分にふと気づき、
「さあて、えらいこっちゃ……。臨床心理士やめろってことね」
と、わざとのんきに声を出した。

資格を放棄する腹は、この時にほぼ決まったと言ってよい。
それは、単に嫌だという感情からでなく、「これ以上このおぞましい集団的行為に、加担するわけにはいかない」という「決心」だった。

私はうつの経験者、「自分にうそがつけない人」の一人であると同時に、カウンセラーである。
だから、自分が何をすればうつになり、どうすればうつにならないかは、嫌というほど知っている。
しかし、断じて自分にうそをつかないということが、多くの場合周囲からどう見えるかということも、またそれがどれほど厳しいことであるかも熟知しているつもりだ。

この記事を読まれた方には、やはり理解してほしいが、また半面、理解されないことも覚悟している。
ともあれ、これが今の私にできる説明のすべてである。


おわりに

繰り返しになるが、ひとつ念を押しておきたい。

私が今回資格を放棄したのは、決して「臨床心理士」という社会的ステータスそのものを嫌ってのことではない。
カウンセラーである自分にとって、この資格は、過去に職まで辞して本気でカウンセラーになろうとし、そのために労力と費用と時間を惜しまず、最善を尽くしたことの証明であり、その意味では確かに誇りにも思っていたのである。

だから、たとえば資格更新の条件が、何個の研修会・学会に参加したか、また何回発表をしたかではなく、どれだけ臨床をやってきたかという査定の方法であれば、迷いなく更新手続きをしていたことは言うまでもない(驚くべきことに、臨床実績はいっさい査定の対象とはならない)。
なので、今後も「'元'臨床心理士」という肩書き(?)は出していくつもりである。

資格を放棄したタイミングは、実は5年という更新までの資格有効期限が切れる時期だった。
つまり、正直に告白するならば、その2年余り前に資格放棄を決意してからは、研修会や学会に一切出席しなかったため、いわば放っておいても資格は失効するはずだったのである。
しかし、真面目なカウンセラーを自認する私としては、やはり「やめさせられる」のは納得がいかないので、その直前に自主退会したというわけである。

また、一緒にカウンセリングルームを経営する私の妻も臨床心理士なのだが、彼女の場合は次の更新時期までまだしばらくある(2013年3月末)。
だから、彼女はすぐには臨床心理士をやめないが、それは彼女の考えが私と違っているからではない。
彼女もまた、現在、激しい抵抗感から研修や学会には一切参加していないので、やはり遠からず資格を失効するのは確定事項である。
彼女は、私が出会った中では、ここで書いているのとまったく同じ考えを持っている唯一の臨床心理士であることを、あらためて断っておきたい。

さらに付け加えておくと、時々、「カウンセラーになろうと思う」と我々のもとを訪ねてくる方がおられる。
資質については人によるが、一応カウンセラーになる筋道としては、私の場合、年齢など現実的条件が適合するかぎり、やはりできるだけ大学院に入り、まずは臨床心理士になることをお勧めしている。

私自身の態度とは矛盾するようだが、何といっても積むことのできる臨床経験の量と多様さ、それに論文を書く機会に恵まれる点で、大学院に籍を置いていたのといなかったのとでは、心がけ次第で身につくものの厚みがまったく違ってくるからだ。あくまでも心がけ次第だが。
それに、初期投資は大きいが、やはり経済力を安定させる上での近道でもある。

貯金が多ければ、一般的なカウンセラーの認定資格をとり、いきなり開業するというのも一つの手ではある。
しかし、やはり錐を揉むがごとく思考に没頭する経験によって、単に教えられたことを守るだけのあり方を、突き抜けていくだけの力を持つことも可能なのである。
自分の頭でものを考えられないカウンセラーの弊害は小さくない。

また、大学院生時代には、子どものプレイセラピーを多く担当させられるのだが、そこで学ぶことも極めて多い。
発達の問題や生来の性格について学ぶことはもちろん、大人になって精神疾患を発症する人たちがどのような成育史をたどるかについて、文字通り肌で感じ取る機会となる。

私の場合、カウンセラーという職について以来、他のすべての選択肢を捨てて(大学教員になるチャンスには、むしろ人より恵まれていた方だと思う)、とにもかくにも1ケースでも多くの臨床経験をもつことを心がけてきた上での開業だったので、「もうそろそろ臨床心理士はいいだろう」と自分を許した面もあったのである。

ただ、自分の頭でものを考えず、歪んだ教育をも鵜呑みにする大学院生が難なくこの世界に適応する一方で、人並み優れてカウンセラーの資質に恵まれた院生が、かえって臨床心理学教育に混乱し、「私は向いていないと思います」と言い残して、この世界を去ってしまうといったケースは少なくない。
実に悔しいところだ。



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カウンセリングに対する私たちの考え方 - 2012.05.11 Fri

カウンセリングルームのHPをリニューアルしたのですが、前のHPを最初にアップした頃と世情が変わっている面もあり、またこちらの意識の置き所が微妙に変化したこともあって、トップページ冒頭の言葉を書き直しました。
その全文をこのブログでもアップしておこうと思います。
追記の部分は、HPの方でも別ページとなっています。




うつ・パニック障害・摂食障害、あるいは家族関係や人間関係の問題……

カウンセリングに訪れる方々の訴えはさまざまで、またその傾向も時々刻々変化していますが、最近では、「私はアダルトチルドレン(AC)ではないか」とカウンセリングを希望される方が急増しています。

ただ、「私はACでは」と来談される方々の場合でも、実際に現れている症状は「うつ」や「パニック障害」であったり、漠然とした不安・劣等感や、人間関係上の問題を抱えておられたりと、状態はさまざまです。

つまりACとは、「うつ」などの症状を表現する用語というより、「機能不全家族の中で育った」という「背景」を捉えた言葉です。

2010年頃までは、「うつ」という訴えがカウンセリング全体の半数にもおよび(今も多くおられます)、私たちは自分ばかりを責めてしまううつの方たちに、家族や周囲の問題に目を向ける重要性をお話しせねばならないことが、多々ありました。
それを考えると、悩みを持つ方々の意識が家族の問題にも向かい始めたのは、精神疾患に対する一般の見識が深まった結果のようにも思えます。

しかし、……

コミュニケーション能力と社会性の違い - 2012.05.06 Sun

先月、うちのHPリニューアルの作業の合間に、昼間のカウンセリングで感じたことを急にツイートしたくなって書き込んだところ、30本ものRTをいただきました。
これまでになかった数なので、「そう思っている人は多いんだなあ」と思い、時間はたっているがこちらでもアップすることにしました。




それにしても、社会性とコミュニケーション能力とは本来別物だということが、ここのところ自分の中でどんどん明確になってきている。空気が読めなきゃ社会と関われないということ自体、社会そのものの社会性が低下している兆候と見るべきだ。

数年前に『電車男』が映画化され、コミュニケーション能力の高くない人たちが市民権を得てきたのかと思ったが、大きな間違いだった。それは、ますます強まる彼らへの蔑視の裏返しだったんだ。

社会は、「いろいろな人たち」がのびのびと住めなくなるほど、許容力が小さくなってしまったのだと思う。

いわゆるコミュニケーション能力が高いといわれる人たちは、基本的に、単に性格が外向的であるというに過ぎない。



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Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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