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2017-11

感情 - 2008.11.03 Mon

私は小学校の低学年の頃、家のすぐ横の道路脇で、蟻たちの活動を眺めるのが好きだった。

雨が降れば一匹も姿は見えなくなるのに、雨が上がって少し地面が乾いてくれば、蟻たちはたちまち巣穴から這い出し、生き生きと活動を始める。
巣穴には水が流れ込んでいるはずなのに、蟻たちは溺れないのだろうか、その間はどうしているのだろうか、といったことが不思議で、ある時、何10匹もの蟻をバケツの水の中に入れ、死んでいくのを眺めていたことがある。

こんなに小さな蟻でも、死んでいく時には、あらん限りの力でもがく。
死に抵抗する生き物を殺めたことに罪悪感を覚え、その日は家族と目を合わせることすらはばかられたが、その必死の様をもっと見たいという衝動に抗しきれず、しばらくの間、蟻殺しに熱中してしまった。

踏み潰すということは、あまりしなかった。一番たくさんやったのは、水に浸けることと、天気のいい日に虫眼鏡で焼き殺すことだった。
おそらく、死にゆく時にもがく様が、よく見れるからだったのではないかと思う。
蟻たちは、仲間に異変が起きていることが分かると、とにかく大慌てで巣穴に戻ろうとし、捕まえられると激しく抵抗し、もがいた。

殺している当の本人が言うのは変だが、それを見るのは辛くもあった。
辛かったが、自分はこれを見なければならないという気持ちが働き、かえってその行為をやめることも、目を逸らすこともできなかったのである。

今では、ある程度高度な生物には感情がある、というのは当たり前の考えになっているが、当時は、「感情をもつのは人間だけで、だからこそ万物の霊長なのだ」ということがよく言われていた。
しかし、私自身の手で殺されていく蟻たちのもがき方を見て、蟻にすら感情はあるように見えて仕方なかった。
蟻たちは、まちがいなく「死にたくない」と感じているようにしか思えなかったのである。

何かしら生き物の本質を垣間見たように感じ、自分が汚れてしまったようにも、ひとつ大人になったようにも感じられた。


また、高学年になった時、理科の時間に、校庭の池の水を汲んできて顕微鏡で見る、という実習があった。
私は、汲まれた池の水の中に、長さが1ミリほどの線虫を発見し、水滴ごとそれをプレパラートに載せ、カバーガラスをかけて顕微鏡で覗いた。

わずかな拡大率で、線虫の細胞の一つ一つまでがはっきりと見えたが、線虫はプレパラートとカバーガラスの間で押しつぶされ、その薄い表皮の一部は破裂していた。
破裂したところからは、線虫の細胞がこぼれ撒き散らされていたが、驚いたことにその線虫は、やはりもがいているではないか。

さすがに単純な生物であるため、全身で痛みを感じている風ではなかったが、破裂した部分を中心に、線虫は「いやいや」をするように、激しく身をくねらせていたのである。
軽いショックを覚えた。

正直言うと、その前後の夏休みには、田舎のいとこの家の近所でかなりの数の昆虫やカエルを、いろいろなやり方で解体したり殺していたから(鳥や哺乳類、つまり毛の生えた動物だけはどんなに小さくても殺せなかった)、小動物の死にはもう慣れっこになっているはずだったのだが。

生物の、危機に瀕した際のこういった反応は、本当に、あくまでも種の保存・個体保存の本能による反応にすぎず、感情とは言えないのだろうか。

私は低学年の頃に見た、蟻の死に対する抵抗を思い出し、また自分自身が突然何者かに捕らえられ、命を奪われそうになる場面と、そのときの気持ちを想像した。
ゴジラに踏み潰されまいと、逃げ惑う人間たちの映像も思い出した。

少なくとも私の想像の中で、それらの死に対して抵抗する姿は、本質的に同じものだった。

そうしたことを考えるうち、小さな生物にも感情はあるのかないのかよりも、「そもそも感情とは何なのか」という問題に、私の思考は移行していった。
「それは本能であって、感情ではない」と言い張るのならば、感情というものについても、完全な説明がなされねばならないからだ。

たとえば人間にとって、かなり高度な感情だと思われる「愛」についても、それが家族愛にしろ恋愛感情にしろ人類全体に対する博愛にしろ、種の保存本能の延長ということで、説明がついてしまうのではないか。

当時の私にとって、それはかなりスリリングな考えだった。
背徳、禁断の思考をしてしまったのではないか、という恐れのためである。
しかし、思考は止まらなかった。
結論として、やはり私は、今日にいたるまで、それらは本質的に区別できないものだと考えている。

蟻たちは、私の怪獣的な行動に出会うと、かわいそうな仲間を残してみな姿を消したが、しばらくするとまた巣穴から出てきて、死んだ仲間の死骸を、何事もなかったように巣穴に運び入れていた。
タンパク源となったのであろう。

ヒューマニズムの立場からすれば、冷淡とも言うべき行動である。
しかし、人間はそのような行動をとっていないと、本当に断言できるのだろうか。
ある企業の、自殺者が続出している部署の上司が、日曜ごとにゴルフに興じているというケースも、決して珍しいわけではないのだ。

一方、うちで飼っている金魚の一匹が死んだとき、それから何週間もの間、ずっと一緒に育ってきた仲間の金魚たちに、明らかに元気がなかった。
不健康というほどではなかったが、餌の量までが減った。
死んでいた朝などは、生き残った一匹はパニックを起こしたのか、鼻先に大きな痣までこしらえていた。

見ている人間が、自分の感情を投影しているに過ぎない、という人もいるだろう。
しかし、彼らを毎日見つづけてきた者としては、明らかにその雰囲気の異様さが分かる。
彼らは、「悲しみ」という言葉を持たないだけで、やはり「悲しい」のではないかと思うのである。
それどころか、「喪に服す」という文化的儀礼の本質まで、見る気がするのである。

人間は、人間自身が考えている以上にずっと、他の生き物と本質的に変わりはないと思う。
そしてもう一つの結論は、老人であれ社会人であれ子どもであれ、そして金魚であれ、ものごとの意味に敏感な者と鈍感な者がいる、ということである。




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臨床心理士会退会 - 2009.04.02 Thu

この記事は2009年4月2日にアップしましたが、私にとって非常に重要な事柄について述べております。
そこで、事実関係や私の内面的な経緯、心情について、より正確な表現を期すために、今後も時々細部に手を加えていくことになろうかと思います。
とくに、すでにコメントを下さった方々に、ご容赦の程をお願いいたします。

なお、この記事はそのまま残しておきますが、内容を少し拡充し、2012年5月20日の記事、『臨床心理士会を自主退会』http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-150.htmlと題しまして、再アップしております。できれば新しいコメントは、そちらの方にお寄せいただけるとありがたいと思います。



唐突ではあるが、重要な発表をせねばならない。
実は2009年3月31日の日付で、臨床心理士資格認定協会に資格失効の願いを提出し、資格証明書を返却した。
つまり、この4月1日をもって、私は臨床心理士ではなくなったのである。
もちろん、開業カウンセラーとしての活動は、今後も一切変わることなく続けていく。

このことは、事前に、家内や身内の他には、一部説明の必要だったクライアントの方々とごく少数の親しい友人にしか公表しなかったが、私自身の胸の内では、少なくとも2年前には確定していたことである。
さらに言えば、その心積もりは、はじめからカウンセリングルーム開業とセットになっていたと言ってよい。

出身大学院の教授や仲間、あるいはかつての職場の同僚でこの記事を読まれた方は、さぞかし驚かれることと思う。
非常に気の重い点だが、中には、エキセントリックな行動だと思う人も多いことだろう。
しかし、もちろん気がふれた訳でもなければ、理想に取り憑かれて無謀な行動に走ってしまったつもりもない。


言うまでもなく、臨床心理士という資格はあって邪魔になるものではない。
それどころか、この資格を得るにはそれなりの年月や労力や費用、何よりもそのためには「カウンセラーになる」という明確な意志を必要とするだけに、少なくとも社会的に見る限り、やはり価値のある資格とされることは重々承知している。
実際に、私自身これまで多くの臨床機関での勤務を経験してきたが、臨床心理士という資格があったからこそ雇用してもらったのだし、臨床経験と実績を積むこともできたのである。

ただ、私にとってこの資格を継続して持ち続けるには、あまりにも抵抗が強すぎた。

退会を決意するにいたった理由については、単純に語れない部分が大きいので、おいおいブログで書いていくことになると思うが、現段階で少しは述べておかなくてはならないだろう。
さしあたっての理由は、理念よりもむしろ実状によるところが大きい。


臨床心理士の資格は、5年ごとに更新される。
で、更新までの間に、資格認定協会から指定されている研修会あるいは学会に、6~8回程度出席して所定のポイントを獲得、累積させなくてはならない。
つまり、研修会・学会には、平均して年間に1~2回出れば済むことではある。
しかし私の場合、この年間たった1~2回の研修会・学会出席を、まずはどうしても生理的に受けつけなくなってしまったのである。

では、研修会・学会のどういった点を生理的に受けつけなくなったのか。
正直、この内容がすらすらと言葉になりにくい。
おそらくは、その場における矛盾が単純ではなく、十重二十重に絡み合っているからだと思う。

矛盾の一例として、このブログでずっと述べ続けてきたように、ほとんどのカウンセラーは、クライアントをはなから劣等者・歪みのある者、カウンセラー自身を優越者と決め付けていると言わざるを得ない。

しかし、症状の発症とは、ある意味人が生きたものである証と言ってもよい現象であり、一概に病者が異常・劣等と、単純に決めつけるわけにはいかない。
歪んだ場の中では、むしろ歪みのない者が発症せざるを得ないことが多々あるのである。
こういった視点は、少なくとも専門家である以上、常に意識していなくてはならないのはあまりに当然であり、多くの専門書にも記されていることである。

だが、実情はあまりにかけ離れている。

あらゆる学会・研修会の発表において、この視点はまったく意識されておらず、フロアからこのことを訴えたとしても、まず90パーセントの確率でその意見は無視される。
発表者からも他の参加者からも、まるで不思議な生き物を見るような目を向けられ、きょとんとされた後、「さて、それでは……」と別の話題に移られるのがオチである。
ただし、それを業界内の有名人が言った場合だけは別だが。
この傾向は、関東の方がより徹底しているように感じる。

その場にいると、こういったことに何の矛盾も感じない参加者たちに対して、心理療法とはクライアントをお仕着せの「正常」という枠に無理やり押し込め、ロボット化させることなのかと、声を荒げたい衝動に駆られる。
私や私の家内は、こうしたとき、握り締めた拳と食いしばった歯を終始緩めることができない。
さらには、心の深い部分が傷つくらしく、研修会参加から少なくとも1~2週間は、崩れた体調が元に戻らないのが常だった。

そうした、いわゆる専門家同士のやり取りのひどさは、もはや「無意味」という言葉では表現しきれなかった。明らかに「人としてやってはいけないこと」としか思えなかったのである。
それでも私は10年以上、文字通り歯を食いしばってこういった研究者としての生活を続けたが、とうとう抗えない強さで拒絶反応が出始めた。
4年ほど前から、どの研修会・学会に出席しようとしても、それを考えただけで激しい怒りや悲しみに襲われ、行けなくなってしまったのである。


九州である学会が催されることになった時、それでも私は参加を申し込んだ。
他の学会・研修会はどれも参加する気になれなかったのだが、以前から気分的に比較的参加しやすいと感じていた学会だった。
しかも、開催地は九州である。そこへ労力と金を使い、前日から泊り込みで行けば、さすがに出席しないわけにはいかないはずだ。要するに、是が非でも出席するしかない状況に自分を追い込んだのである。
これでだめなら、もう次の考え方をするしかない。

朝ホテルで目を覚ましたが、案の定、限りなく気は重かった。
ため息ばかりつき、着替えの動作すら何度も中断しなければならなかったので、とりあえず遅刻することに決めた。
すでにプログラムが始まっているはずの時刻に、朝食も取らず、かろうじてホテルを出た。
学会会場の大学は、ホテルから目と鼻の先だ。とりあえず、大学がある方向に歩いてみる。

大学が見えてきたところで立ち止まった。目の前に、いよいよ主体的に選択せねばならないラインが、かなりリアルに見えた。
完全に感情を殺さぬ限り、もう一歩も進めなかった。
「殺すのか、殺さないのか」と、すでに答えは分かっていながらも自問してみる。
自分の全身全霊が、「行ってはいけない。もう自分を殺してはいけない」と大声で叫んでいる。

私は、「そやな、もう殺しちゃいけないよな」と答え、今度は反対の駅の方向に歩き始めた。
そして、「さあて、えらいこっちゃ……。臨床心理士やめろってことね」と、声に出してつぶやいた。
資格を放棄する腹は、この時にほぼ決まったと言ってよい。
それは、単に嫌だという感情からでなく、「これ以上このおぞましい集団的行為に、加担するわけにはいかない」という「決心」だった。


私はうつの経験者、「自分にうそがつけない人」の一人であると同時に、カウンセラーである。だから、自分が何をすればうつになり、どうすればうつにならないかは、嫌というほど知っている。
そして、断じて自分にうそをつかないということが、多くの場合周囲からどう見えるかということも、またそれがどれほど厳しいことであるかも熟知しているつもりだ。

この記事を読まれた方には、やはり理解してほしいが、半面、理解されないことも覚悟している。
ともあれ、これが今の私にできる説明のすべてである。




追記

ひとつ念を押しておきたい。

私が今回資格を放棄したのは、決して「臨床心理士」という社会的ステータスそのものを嫌ってのことではない。
カウンセラーである自分にとって、この資格は、過去に職まで辞して本気でカウンセラーになろうとし、そのために労力と費用と時間を惜しまず、最善を尽くしたことの証明であり、その意味では確かに誇りにも思っていたのである。

だから、たとえば資格更新の条件が、何個の研修会・学会に参加したかではなく、どれだけ臨床をやってきたかという査定の方法であれば、迷いなく更新手続きをしていたことは言うまでもない(驚くべきことに、臨床実績はいっさい査定の対象とはならない)。
なので、今後も「臨床心理士」という肩書き(?)は出していくつもりである。

資格を放棄した今回のタイミングは、5年という更新までの資格有効期限が切れる時期だった。
つまり、正直に告白するならば、2年余り前に資格放棄を決意してからは研修会や学会に一切出席しなかったため、いわば放っておいても資格は失効するはずだったのである。
しかし、真面目なカウンセラーを自認する私としては、やはり「やめさせられる」のは納得がいかないので、その直前に自主退会したというわけである。


また、一緒にカウンセリングルームを経営する私の妻もまた臨床心理士なのだが、彼女の場合は次の更新時期までまだ4年ある。
だから、彼女はすぐには臨床心理士をやめないが、それは彼女の考えが私と違っているからではない。
彼女は、私が出会った中では、このブログで書いているのとまったく同じ考えを持っている唯一の臨床心理士であることを、あらためて断っておきたい。





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発見 - 2009.04.09 Thu

臨床心理士の資格を放棄して1週間が過ぎたが、心境や感覚に不思議な変化が生じつつある。

その多くはまだ言葉にならないのだが、一つはっきりしていることがある。
それは、自分の力量の未熟さというか、相談者としての思いや考え、気づきのいまだ至らない部分が、妙にくっきりとリアルに感じられる点である。
15年ほどの間に、かなりの数の臨床心理士を見てきたわけだが、自身が臨床心理士であった間は、自分のカウンセラーとしての力量を、どうしても他のカウンセラーとの比較の中で見ていたのだなあと気づかされるのだ。

傲慢と思われても仕方ないが、正直、かなりいけていると思っていた。
他の臨床心理士と比較するならば、それがどれほどのベテランであっても、クライアントの病理に対する見識や洞察についても方法論の確実性においても、まず劣る気がしないことは、確かに今も変わりはない。
だが、いざ臨床心理士という資格を放棄してみると、途端に自分の一人間としての深さが、ダイレクトに自問されるのである。

つまり、臨床心理士をやめたことで、自分の力量を推し量る基準は相対基準から絶対基準に変化した。そしてその結果、「俺はまだこんな場所にしか達していなかったのか」と気づかされ、あきれているのである。
私自身が考えていたよりもずっと、私は盲目だったらしい。

相談者として、あるいは人としての見識の確かさと重層性が本当に充実してくるのは、少なくとも私の場合、50歳くらいからではないかと感じていたのだが、現在すでに47歳である。
今やめておかなければ、わが眼が蓋されていることにも気づかぬまま50代に突入したのではないかと考えると、肝が冷える心地がする。

もちろん、落胆しているわけではない。
ユングは、フロイトと袂を分かち、精神分析学会の会長職を辞してから(捨てた社会的地位は、私とは月とすっぽんだ)かなりの期間、強い方向喪失感から、精神病様状態を伴う極度のうつに陥っている。
正直、私も何らかの喪失感に陥るのではないかという不安があった。
資格放棄からまだ1週間である。それに伴う現実的な環境の変化もこれからなので、今からジワジワ実感されて来るものもあるにはあると思うが、どうやら深い喪失感がやってくることはないのではないかと感じている。

言うまでもなく、開業していなければ、さらにそれが軌道に乗っていなければ、やばかったに違いない。
そもそも、資格放棄すら考えようがなかったはずだ。


私は、武道ばかりでなくスポーツすら身を入れてやったことのない人間だが、例えば武術家などの言葉から臨床に関する気づきを得ることは少なくない。
ちなみに、私が特に影響を受けているのは、古武術家である甲野善紀氏の身体観・人間観からである。(日本の学校観にも、非常に深いものがある。)

たとえば、一般に、「しっかりと足を踏ん張ること」は、よい意味の表現として用いられる。
だが、武術においてこのことは必ずしも優位なことではなく、むしろ総体としての体の合理的な動きを止めてしまうことが少なくないという。
たまたま踏みしめることがあったとしても、それは合理的な動きの中での一過程に過ぎないというのが、武術における本来の身体のあり方だということではないかと思う。
武術家は、こういった身体のある部分を固めてしまうあり方を「居つく」と言って、非常に嫌うのである。

社会的な資格というものを有し、それに多少なりと依拠することで、いつの間にか私は「居ついていた」のだなと思う。

相談者としての実際の力量や見識は、権威があるとされる理論をどれだけ知っているかで決まるものではないし、ましてや誰かが定めた規定によって与えられた資格で決まるものではない。
いかに見る眼に曇りがないか、そして、本来向かうべきものから、いかに逃げないかで決まると言ってよい。
また、「これさえ持っていればいいんだ」 「これさえやっていればいいんだ」という考え方は、相談者にとってもっとも危険なものではないかと、私は考えるのである。

このあり方は、本来見なければならない対象に目をつぶらせてしまう、つまり、ありありと感じていなければならない感情や考えが、無意識化してしまうあり方である。
カウンセラーの感情が無意識化してしまうと、ほぼ例外なく支配性が布置する。
私が「ロジャーズ理論」を真っ向から否定する理由は、この点がもっとも大きい。

ユングは、「研究・勉強は目一杯やりなさい。しかし、クライアントとひとたび向き合ときには、それらはすべて忘れなさい」という意味のことを言っている。
臨床を行っていると、常に痛感させられる言葉だ。

ユングもまた、「居つく」ことの危険性を熟知していた人なんだな、と思う。






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甲羅を脱がなければ背骨は通らない - 2009.06.08 Mon

『古事記』からいったん離れて、自分自身の状態について触れておきたい。

おそらく、臨床心理士の資格を放棄した直後あたりから、実は喉元にチックのような症状が出て、それがここのところ少し強まっている。
唾液がたくさん出ているような気がして、短い間隔で、つい喉をゴクリと動かしてしまうのである。
同時に、肩の凝りも異常にきつくなった。

人は通常、呼吸をするために喉は開いた状態となっているが、今の私の無意識は、どうやらその「開いた」状態が不安らしい。だから、ゴクリと閉じてしまう。
日常生活で喉が動くことくらい何でもないが、カウンセリングのときにもそれが出てしまうのは、臨床の専門家としてさすがにちょっときつい。

昨年から野口整体に通っていて、以来、時々大きく体質の変化することがあったので、初めは今回のそれも、消化器系の働きが変化したためだろうかと思っていた。
だが、どうやらそうではないらしい、ということである。

社会的な立場を突然失った人や、常に誰かからの侵入感にさいなまれている人で、口や喉の身体強迫を訴えるケースに何度か出会ったことがある。
社会的な立場というのは、その人の存在を社会の中に位置づける輪郭、つまり周囲との一種の境界線である。
肩の凝りも然り、どうやら私の身体は、境界線を固めたがっているようなのである。
外界に対する、無意識的な警戒心の現れ、と言ってもいい。

そのように考えれば、資格を放棄したその時期からというのも、充分に納得がいく。
つまり、資格を手放したことで社会的に自分を守る境界線が曖昧になったために、身体感覚や自律神経が、それを無理矢理補おうとしているのである。

まったく、楽に手に入る自由など存在しないことを、今さらながら痛感する。

また、この身体の反応は、今回の私の「臨士会退会」に対する臨床心理士たちからの反応が皆無であることにも関係しているようだ。
私の知っているだけでも、そこそこの数の心理士がこのブログを見ているはずなのだが、まともに反応してきたのは、ごく親しかった心理士ただ一人である。
見知った心理士たちが、それぞれにどう考えているのか、さっぱり読めない。

目隠しをされ、誰の声も聞こえない。
放置プレイとは、きっとこういう感覚なのだろう。

実は、彼らから反応がないであろうことは、完全に予想はしていた。
そもそも、事前には誰にも言わなかったことでもあるし。
予想はしていたが、こういった自分自身の反応は、防ぎようがないものだ。

しかし一方、このプロセスが楽にやり過ごせるものだなどと、はなから思っていたわけではない。
何らかの障害は起こるだろうと、ほぼ確信していた。
しかし、それでもやらなきゃならないと思ったから、やったのである。
安易な要素は一片たりとなかったと、それは断言できる。
ならば、やったろうじゃん!である。

いつもコメントを下さるある方が、私の臨士会退会を受けて、「太い柱が一本通ったような感覚です」とのコメントを下さった。
ありがたい言葉ではあるが、私の中心に本当に柱が通るかどうかは、むしろこれからのあり方如何である。
そもそも、甲羅で固めた身体に背骨など通るはずもない。
だから、とどのつまりは避けられないプロセスなのだ。

今思うのは、できるだけ丁寧に、何事からも逃げることなく、このプロセスをやりおおせたいということである。
正直言うと、岩戸を硬く閉ざして引きこもらねばならなかったアマテラスを取り上げているのは、その一環なのである。

うーん、早くこの先の世界を見てみたい。



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生活リズムについて - 2009.09.18 Fri

カウンセリングルームを開設して1年半が経過し、ここのところかなり忙しくなってきたために、ぜひ書いておきたいテーマがいくつかあるにもかかわらず、なかなかブログが更新できないでいる。
今回は、その中の一つである「生活リズム」について書きたい。

まず結論から言うと、精神病圏や人格障害、双極性障害など、躁をともなう症例の一部をのぞいては、基本的に生活リズムは気にするべきではない、と私は考えている。
というのは、さまざまな神経症症状をもつ多くの人々と会ってきて、睡眠不足が原因で状態の悪化した人はいるが、生活リズムがくるっていることが明らかな原因で症状の悪化した人を、ほとんど見たことがないからである。
逆に、どうしても生活リズムの整わないことがプレッシャーとなり、結果的に自己嫌悪やうつを深めてしまっている人は無数に見る。

こういったことを考えると、「生活リズムはあまり気にしないほうがいい」というよりも、さらに一歩踏み込んで、「生活リズムは気にしてはならない」と考えるほうがはるかに合理的だ。
さらに言えば、精神病圏の人たちですら、たとえ昼間でも充分に睡眠が取れているならば、症状が急激に悪化していくことはまずもって考えづらい。
つまり、入眠が困難なタイプの不眠の人などは、生活リズムを考えるなどせず、眠れるときに眠ることを心がけるほうが、はるかに合理的で精神衛生上もいいのである。

ひとたび、うつや精神活動の強い内向化の状態が治まれば、生活リズムなどものの3日もあれば整えることはできる。
ちょうど時差ボケを直すほどのことに過ぎないのである。
うつの人にとってもっとも大切なことは、「どうしてもできないことは、しようとしてはならない」である。
できないことにはできないだけの理由があるのだ。であるならば、他のことには見向きせず、その理由を見極めることに最大のエネルギーを注ぐべきなのである。

多くの医師やカウンセラーが「生活リズム」すなわち「早寝早起き」をかなり重視することは、ご承知の通りである。
これはおそらく、精神医学の発展が、基本的に統合失調症の研究を中心に展開されたためではないかと思う。
たしかに、統合失調症の急性期症状は、薬物を用いてでも充分な睡眠をとらせることによって、かなり緩和できる場合が多いのである。
うつの人までが生活リズムの指導を受けるのは、そうした経験知の行き過ぎた応用ではないだろうか。

さらに言えば、「朝起きは三文の得」という、生活リズムに関する一種の倫理観とでもいうべき古典的常識が、こうした考えを後押ししてしまっているのだろうと思う。
そもそも「健康的」という言葉のイメージの大部分は、ステレオタイプ的なお仕着せの常識から来ているものなのだ。
少なくとも、「健康的」と「健康」を混同してはならない。

なお、学校や仕事場にきちんと行くためには、朝起きるということがどうしても必要になってくることは言うまでもないのだが、このことについての私の考えは、次回で詳しく述べたい。



また昨今は「生活リズムを整えることは、脳内物質の調整、ひいてはうつの改善に効果がある」と、まことしやかに語る研究者も少なくない。
だが、その理屈をよく読みこんでみると、論理的に穴だらけだ。というよりも、ほとんど屁理屈である。

極端な例では、「うつは心の病などではなく、脳の病気、つまり脳内物質の分泌や受容の異常の結果である。」と言う。
こういったことを平気で言ってのける無責任な研究者は、本当に、患者の人間的な悩みを、ただの一度でも聞いたことがあるのだろうか、と私は疑う。

最近では、専門家のみならず一般にも比較的よく知られるようになったことだが、うつという症状に、「セロトニン」という脳内物質が絡んでいることは事実である。
簡単に言うと、うつの人の脳内では、このセロトニンの量が少なくなってしまっているのである。
一部の研究者が「うつは脳の病気だ」と主張するのはこういったことを意味するのだが、一方、少なくとも私は、家族関係や人間関係において、うつになる理由がないにも拘らずうつになった人とは、一度も会ったことがない。
人から聞いた話を含めても、ごく稀に、外傷や薬物で脳に損傷を受けた人が、極度のうつに陥ることがある、という例を知るばかりである。

うつに、家族関係や人間関係といった心理的要因が必ず関わっていることを考慮する以上、次のように考えるのが妥当であるはずだ。
「強い劣等感や不安にさいなまれている人においては、自我がそれ以上傷つくことを避けるために、最終防衛手段として、自律神経が感情活動そのものを鈍重化させる。
その感情の鈍重化という自律神経の働きこそが、セロトニンの抑制である。」

つまり、セロトニンの抑制がうつの原因なのではなく、それはうつという症状における脳内の状況、すなわち結果の説明に過ぎないのである。
だから、生活リズムを整えることでうつがよくなるという彼らの理屈は、原因と結果を混同している点で、根本の部分で破綻していることになる。
一部の良心的な医師が、本質的にうつは薬物では治らないと言うのは、こうしたところを正確に理解しているからであろう。

生活リズムを気にすることは、それができない人にとっては自己嫌悪を深めるばかりであり、むしろうつを重くさせてしまう、つまり二次的な原因を作ってしまうということを、はっきりと意識するべきである。



以前このブログで書いたことがあるが、私はちょうど10年間、うつに伴う極度の不眠症を経験したことがある。
次回は、その体験を通じて「生活の夜型化を怖れてはならない」ということを説明したい。

続く



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生活リズムについて2 - 2009.09.26 Sat

おもに30代の頃だったが、かつて私は、10年にわたってうつに伴うかなり強い不眠症を経験している。
今回は、前回掲げたテーマ「生活リズム」について、私がある一定の考えを持つにいたった経緯を説明するために、不眠の10年の中でも、最も症状の強かった2~3年間の生活がどのようなものだったかについて、ある程度詳しく書いてみようと思う。
なお、匿名で書いているブログではないので、発症の誘引となった家族関係・人間関係上の問題などについてはあまり触れられないことをお断りしておきたい。



私は、家族や人間関係における一つの葛藤をある程度乗り越えたのを機に、自分の思い通りに生きることを決心した。
私のうつと不眠は、それまでの職を捨て、まずは大学院浪人となってカウンセラーを目指すことにした、まさにその時に始まったのである。
大逆風の中、自分の向かっている方向が本当にこれでいいのか、本当に思い通りになど生きてよいのか、何の確信も得られぬまま、それでももう直進するしかないという深い不安を抱えた状況でのことだった。

当初は、ただひたすら入眠が困難なタイプの不眠が数年続いた。
早朝覚醒はなかったが、不眠の強さ自体はひどいものだった。
履修生として大学の授業に出なければならない平日の就寝は、まず早くても早朝の4~5時。休日は好きなだけ眠ることができたので、無理に眠らなくてよいという解放感から、就寝は午前8時から10時くらいの間だった。もちろん、その日に起き出すのはたいてい午後3時頃から夕方である。
土日に1週間の睡眠不足分を取り戻すわけだが、それを入れても、平均睡眠時間はいいところ2~3時間程度だったと思う。

一睡もできないことも、1~2週間に一度くらいあった。
しかし、何が何でも、とりあえず大学院に受からないことには希望が潰えてしまう状況だったので、独り暮らしのマンションにはテレビも置かず、眠れない時間はすべて入試のための勉強に当てた。
当時はまだ臨床心理士認定協会の指定大学院自体が少なく、しかもユング派系のところは京大と甲南大くらいしかなかったので、倍率も異常に高かったのである。
机の前に座っている時間だけでも、1日平均で約16時間、食事をしている時間も英文を読み続けていたので、少なくとも18時間ほどは勉強していたかもしれない。

もともと学校での成績は悪くなかったが、勉強が好きだったわけではない。
親がやかましいから机には向かうが、ほとんど身が入らずに遊んでしまい、自己嫌悪するタイプだった。
しかし、目標が絞られるというのは力が入りやすいというか、大学院入試のこの間ばかりは、自分でも驚くほど勉強することが苦にならなかった。というよりも、ただただ必死だった。

言うまでもなく、朝、寝床から起き出すには常に大変な努力を必要とした。
それでも、不眠があまりに強かったせいで、一睡もせずとも、大学での講義の時などに眠気が起こることは一切なかった。
だから、あまりにつまらない講義を受ける時などは、居眠りする代わりに、とにかく何かを思索していた。
それどころか、不眠の10年間は、長時間電車に乗っていてさえ、居眠りの気配すら一度も覚えなかったのである。

この1年間は夢見もひどく、大洪水や大地震といった、いわゆる没落夢を何度も見た。
没落夢とは、統合失調症を発病するときなどに見るタイプの夢だが、私の場合、幸いなことに、そういった夢にも次第に一応の救いらしき状況は現れるようになっていった。
たとえば、大地震によって町は瓦礫の山と化すが、その後人々がぞろぞろと這い出してきて、町の再建を目指すなどである。


このままでは不眠のために身体を壊してしまうのではないか、翌日に支障が出るのではないかと、眠れないことに強い焦りを覚えていたのは、初めの頃だけである。
もちろん、常にひどい気だるさにまとわりつかれてはいたが、眠れないものは眠れないのだから仕方がない。
精神科で眠剤・導入剤を処方してもらっても、眠れる時間が少しばかり増えたのは最初の1~2回だけで、ただ気だるさが増すばかりだったので、ほとんど飲まなかった。
それに、1~2時間程度ではあるが、一応ほとんどの日に眠れてはいたので、このままやれるところまでやるしかないと思っていた。

少なくとも大学院浪人の1年間に、緊張が緩んだと自覚した記憶は皆無である。
その緊張は、当然ながら受験直前にピークとなった。
実際、私はまる3昼夜一睡もせずに大学院入試に臨んだのである。
まともに答案できるのかどうか心配したが、頭の働きへの影響はまったく感じなかった。
思いのほか楽に答案用紙を埋め、後は一次試験の採点を待ち、同日の夜に面接試験という日程だった。

しかし、ついに面接試験も終わり、大学を後にするや否や、私は激しい倦怠感に見舞われた。
帰りの電車では、座席に座っていることすら辛く、駅から自宅まではどうやって帰ったのかあまり記憶がない。意識を失ってしまわぬよう、歯を食いしばっていたことしか覚えていない。
自宅マンションのドアを開けて入り、鍵を閉めると、たちまちその場に倒れこみ、荷物はその場に捨て置いて万年床へと這いずった。
途中で何とかたくさんの水だけは飲んだが、すでに熱は39度を越えており、あとは何も口にできないまま実家に電話し助けを求め、そのまま明かりも消せずに眠り込んだ。

高熱に伴う筋肉の炎症のため、全身に激痛があり、私は数分おきに自分の叫び声で眼を覚まさなければならなかった。
特に首の右側の炎症がひどいらしく、激しい痙攣を起こし、数秒から数10秒おきに首が右肩に着くほど折れ曲がるように引き攣った。もちろん、そのたびに今でも思い出したくないほどの激痛が走った。

自分の首の筋肉が、まるで別の生き物のように感じられた。
近所に声が聞こえることなど気にはしていられず、私は自分の首が折れ曲がるたび、声がガラガラになるまで、歯を食いしばったまま叫ばねばならなかった。

翌日から、母が2泊3日で面倒を見にきてくれた。
そのようにひどい状態は何日も続いたが、ゆるい粥しか喉を通らなかったのは2日目の昼までで、その後はかなりの量の飯を食うことができた。
実を言うと、私は文科系のクラブにしか所属したことがないにもかかわらず、高校でも大学でも伝説的な大食漢であり、どれほどひどい風邪を引いたときにでも、食事だけはかなりたくさん摂ることができたのである。
今はもちろん食事の量は多くないが、若くて代謝がよかったこともあってか、すごい量を食べていたときのほうがずいぶんと痩せていた。

それでも、首の激痛と痙攣自体は5日間ほとんど治まらず、立ち上がってもフラフラだったので、初めて自力で医者に行けたのは、倒れてから6日目のことだった。
マンションの一階がコンビニであったことに、心から感謝した。

合否の結果が届いたのは、おそらく倒れてから4日目か5日目だったと思うが、乱雑に通知書の封を開けて合格の文字を確認しただけで放っぽり出し、「ははは……、感激どころやないわ」と独り言を言って横になった。そして、ようやく数分間隔にはなっていたものの、いまだ激痛を伴う首の痙攣に耐え続けるばかりだったのを覚えている。

このような状態ではあったが、ともあれ大学院への合格は果たしたわけである。
私としては、ひょっとすると、もうこれでひどい不眠からは解放されるのではないかという淡い期待があったのだが、現実としてはさらにそれから9年間持ち続けなければならなかった。
もしも始めからそのことが分かっていたとしたら、私はどれほどの絶望感を味わったことだろうか。


案の定、長くなりそうだ。続きは次回に。


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生活リズムについて3 - 2009.10.07 Wed

もともと、私の不眠体験にまつわるこの一連の記事は、うつの人にとって「生活リズム」を整えることに大した効力はなく、むしろプレッシャーを強めるばかりであることを説明するために、参考として書きはじめたものである。
しかし、どうも目的がまったく入れ替わってしまった。
すでに、完全に私が自分自身を振り返るために書いている記事である。

なぜ「今」、このことを振り返らなければならないのかは、自分でも分からない。
そういった理由が分かるのは、えてして後になってからである。
ともあれ、すでに始まってしまったことである。
もうこれは、最後まで書ききるしかないようだ。

こうなったら、とことんまでお付き合いくださいませ。
えいやぁっ!……と。





前回記事からの続き

大学院入試直後にはじまった発熱から回復し、普通に日常生活ができるようになるまで、結局11日かかった。

もうこれで不眠症から脱することができるのではないか、という淡い期待を持っていたが、身体症状が治まると同時に、やはり不眠はやってきた。
大学院生としての新しい生活が始まっても、不眠の程度はほとんど変わらずで、平日は常にひどい睡眠不足状態、そして週末・休日の朝から昼間にかけて、それを少しでも解消するというサイクル(?)だった。

こういった生活を長年続けると、生活形態は一変する。

私の場合、まず、夜入浴するということが一切なくなった。
夜入浴して気分がさっぱりしてしまうと、その日は一睡もできなくなる確率が高くなるからだった。
部屋の片付けや、洗濯物を畳むということもなくなった。
そもそも抑うつ感が強いのに加えて、こういうちょっとした頑張りによって交感神経(自律神経)が昂ぶってしまい、たちまちにして不眠を強めてしまうことが、経験によって分かってきたからである。
洗濯物はすべてハンガーに干し、畳まずに屋内用のハンガーパイプに掛けるだけ。
片付けができないから、とにかくできるだけ部屋を汚さないように心がけ、掃除機をかけるのも実に年に1、2度、休日の早い時間に、奇跡的に「おっ、今日はすごく掃除機をかけたいかも」という気分になった時だけだった。
何とか片付けができたのは、シンク周りだけである。
神経を緩める、つまり副交感神経をより活発化させるため、できるだけ不快なことは避け、できるだけ心地よい方向を選ぶよう、ほとんど無意識に心がけるのが常となったのである。

はじめは、昼寝すると夜眠れないと思い、たまたま日が高いうちに家で眠気が襲うことがあっても、眠らないようにしていた。
しかし、眠るまいとするその頑張りが仇となり、結局その夜は一睡もできなくなってしまうので、「眠れるときに眠る」というのが習慣化した。

へとへとになるまで運動すれば眠れるのでは、と考えたのも最初だけだった。
友人とテニスをやってみたり長距離を歩いたり、へとへとになるまで運動した日は、かえって神経が昂ぶり、ほぼ例外なく一睡もできないのである。
身体がへとへとの上に一睡もできず、それでも仕事に行かねばならない時のしんどさについては、語るまでもない。
それでも運動したいときには、その日は一睡もしない覚悟で運動した。

ほんの少しながら、眠れる確率を上げてくれるのはアルコールだけだったこともあり、とにかく毎夜、かなりの量の酒を飲んだ。
あまり正確に思い出せないのだが、ビール・赤ワイン・ウイスキーは、ほとんど毎日どれ一つとして欠かさなかったのではないかと思う。
とくに修士論文を書いていた間は、酒瓶をパソコンの横に置き、ほとんど酔わないにもかかわらず、毎日最低でも1本の赤ワインとボトル1/3ほどのウイスキーを消費していた。
そのため、一人暮らしの大学院生という立場からすると、月々の生活費はかなりの額だったと思う。
もちろん、生活費の計算など恐ろしくて出来なかった。

だが、何よりも心配なのは、「肝臓がもってくれるかどうか」という点だった。
毎日、酒を飲むたびに、「今の俺にはどうしてもこれが必要なんだ。何とか持ちこたえてくれ。ごめん!」と、自分の肝臓に頼み、詫びていた。
不眠の10年で私の体型はかなり変わった(太った)が、原因の大半がアルコールにあることはまず間違いない。

そのようにして書いた修士論文で、一番大きく取り扱った神話の題材は、おもしろいことに酒と踊りと愛欲の神、ディオニュッソス(バッコス)であった。


少し話は逸れるが、実は昨年から野口整体に通っている。
野口整体のことを知ったのは、武術家甲野善紀氏の著書やブログでである。
持病となっていた腰痛が通い始めた理由なのだが、始めてから間もなく、2年ほど飲み続けていた鎮痛剤が不要になった。
また、それと同時に、すごい臭いの汗が出はじめた。
不眠になって以来、それが治ってからも、私にはどうした訳かほとんど体臭というものがなかった(と、嗅覚の尋常ではない妻が言う)。
しかしこの頃から、これまで発することなく溜まっていた臭いの元(?)が次々と出始めたらしいのである。

ある時期には、すごく薬の臭いのする汗が出続け、またある時期には、酒に似たすえた臭いの汗が出続けた。どうやら、毎日飲み続けた痛み止めと、不眠時代に摂り続けたものすごい量の酒の成分だったようだ。
それに伴って、うつ伏せになった時の腹部の圧迫感が、明らかに小さくなっていった。
はっきり調べたわけではないが、すでに脂肪肝(気味)と診断されていた私の肝臓が、どうやら急速にしぼんできているらしいのである。
野口整体、恐るべしである。



話を戻そう。
抑うつ感は小さくなかったが、当初の不眠生活が私にとって地獄だったかというと、意外とそこまでの意識はなかった。
「自分は、本当に自由になど生きてよいのか」という、強烈な不安と恐怖が不眠の原因であることは何となく分かっており、だとすれば、「自由に生きてよいのだ」という答えが出さえすれば不眠は解消するはずだ、という楽観がどこかにあった。
逆に、「俺は、自由になど生きてはならないのだ」という答えが出れば、即座に死ねばいいと本気で考えていた。

正直言って、今となってはその感覚がよく思い出せないのだが、そういった答えが出て死を選ぶことに対しては、一片の恐怖も感じていなかったと断言できる。
死んだように生きることのほうに、はるかにリアルな恐怖を覚えていたのである。
その答えが、どういった形で訪れることになるのか、そのときには想像もつかなかったが。

そういった生活が地獄とは言えなかったもう一つの理由は、そんな自分にもできることがある、という実感からだった。
それは、他ならぬカウンセリングという仕事である。

うつになった人々の不安や恐怖が、手に取るように理解できたし、自然と「共に戦う」という立場に立つことができたので、とにかく身が入ったし、クライアントの側にもそれに見合った手応えを感じることができた。
それまでの人生において、どこかで感じ続けてきたある特殊な孤独感は、このときすでに解消していたと言えるかもしれない。

また、カウンセリングを通じて、「本当に自由になど生きてよいのか」という問いは、すでに私だけのためのものではなく、人間全般に関わる問いへと昇華しつつあった。
ちなみに、私はクライアントの方々に対し、基本的に自分の不眠症を隠すことはしなかった。

以前の私は、例に洩れず、やはり休日の夕方などに起きだすと自己嫌悪を感じていたが、ここまでひどい生活サイクルになると、自己嫌悪や罪悪感を感じるどころではなかった。
その生活が、自分にとって不可避かつ必然的であることは、あまりにも歴然としていたからである。


不眠が始まって3年余りが過ぎた頃、私の抑うつと不眠の強まる出来事が生じた。
詳しくは書かないが、数ヶ所あった非常勤の職場の一つ(大学院に通いつつ)で、ある同僚のかなり屈折した愛憎と嘘に巻き込まれてのことである。
また悪いことに、その女性は、私がこの世界に飛び込む際にかなり世話になった人物の友人であり、その人物から彼女の立場を守ってくれと、頼まれてしまったのである。

もちろん、それはかなり理不尽な要求だったが、私はすべて呑み込むことを決心した。
そして、断じて言い訳をしなかった結果、私は最悪の立場に立たされることとなったのである。
その状況は実に3年半もの間、結局私に別の常勤の仕事が決まって退職するまで続いた。
当然のことだが、現在私はその要求を持ちかけた人物と、連絡を取っていない。
果たすべきものは果たし、返すべきものはすべて返したからである。
このことを多少なりと公表するのは、この記事が最初である。

少なくとも、その状況が始まった最初の2年半ほどの私の精神的状況は、言うまでもなくかなり追い詰められたものだった。
ただでさえひどかった不眠はさらにひどくなり、実際の程度は定かではないが、30分眠れればそれでよしとしていた記憶がもっとも多い。というよりも、一昼夜のうちにたとえ一瞬でもぐっと眠れれば、それだけで上々という感覚だったように思う。
「人間、眠らなくても死なないものだな」と本心から思ったのは、この時期である。

はっきり言って、自分を陥れた人間に対する憎悪の塊だった。
断じて負けるわけにはいかなかった。
また、自分の非を暗に認めることを嫌って、逃げ出すという発想すら持たなかった。
それは、私にとって死を意味していたし、彼女らのために死を選ぶのはあまりに馬鹿馬鹿しすぎた。

それまで毎年1~2本はどこかに論文を載せていたが、常に心を捉え続ける激しい憎悪のために、この2年半は1本も書けず、それどころか、専門書も、ユングの『ヨブへの答え』を除いては1ページたりと読めなかった。

他に読めたものは、夢枕獏さんの小説だけだった。
もともと『陰陽師』を通してファンになったのだが、彼の作品にはエロくてグロくて暴力的で、それでいて耽美的なものが多い。
そういった作品を読み続けることで、私は憎悪を抑えるよりも、さらに滾(たぎ)らせることを選んだ……、というよりもそれは、私の内的要請においては、他に選択の余地のない道だったのである。

一番多かった時で、1年間に約250冊、彼の作品ばかりをひたすら読み耽り、まだ読んでいない彼の作品が手元になくなると、恐ろしく不安にもなった。
もしもあの時、夢枕獏という小説家がこの世に存在していなかったらと思うと、今でもぞっとする。しかも、よくぞ数100冊も書いていてくれたものだ。
彼は私にとって、紛れもなく、この地上で最も感謝の念を覚える人物の一人である。


聞く音楽も一変した。
もともと、J-POPはもちろんクラシックも映画音楽も洋楽も、わりあい幅広く聞くタイプだったのだが、その時期には、まず歌詞のある曲が一切聞けなくなった。
最後まで聞けたのは桑田佳祐だったが、それすら聞けなくなると、次には映画音楽、クラシックの順で次々に聞けなくなった。
で、とうとう聞けるのは民族音楽ばかりとなった。

一番よく聞いたのは、陶酔的なバリのガムラン音楽である。
インドのシタールや壺を叩く独特のパーカッション、ホーミー、チベット密教の読経、バグパイプ、アフリカの童謡、ラージャスタンの民謡など、おそらく古い時代に成った類の民族音楽は、洋の東西を問わずに聞くことができた。
中国音楽でも、時代の新しげなものは無理だった。

2年余りの間、毎日明け方まで陶酔的な民族音楽を流し、酔えない酒をあおり、枕元の電気スタンドだけを点けて、夢枕獏の描く、人が生きながらにして鬼に変貌し、殺戮し、犯し、喜悦の雄叫びを挙げる物語に、全身全霊で没頭する。

陽が昇り、窓の外に人の気配がしてきてはじめて、うまくするとふっと緊張の緩む瞬間があり、その機を逃さず数10分の睡眠をとる。
そして、再びタイマーでセットしたガムラン音楽で目覚め、遅刻ギリギリの時間に重い身体を起こして2分でシャワーを浴び、職場や大学に向かう途中でパンをかじる。
もちろん、何日も一睡もできないということもしばしばあった。

言うまでもなく、「俺はいったい何をやっているんだ」という不安に、幾度となく襲われた。
そうした時は、畳んだ掛け布団と敷布団の間に頭を差し入れ、絶対に部屋の外に声が漏れぬように絶叫したりしていた。

ほとんど狂気の生活である。

だがその間にも、「人として、何が正当であり、何が不当であるか」ということについては、心のどこかで、常に取り憑かれたように考え続けていた。
いや、紛れもなく、取り憑かれていたという表現が正しい。

その時期の思考によって、現在の私のカウンセリング観・人間観・家族観のベースの部分が、ほぼ形作られたと言ってよい。
事実、自分がそのような状態であったにもかかわらず、クライアントの人たちの状態・回復のスピード・何よりも表情の明るさなどからは、それまでとまったく次元の違う手応えを感じるようになった。

同時に、大半の心理学理論が、まったくの屁理屈に過ぎないものに見え始めた。
多くのユング派学者の理論も例外ではない。
また、気がつくと、職業・性的志向・学歴その他に基づくさまざまな差別的意識が、価値観の中から拭い去ったように消えていた。

私が臨床心理士の資格を得たのは、この時期のちょうど真ん中頃だった。
今よりはずっと簡単な試験問題ではあったが、勉強という勉強が手につかなかったので、そのために特に使った受験勉強の日数は、実質的に丸5日間のみである。
どうして受かったのか、自分でもよく分からない。



さらに次回に続く


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生活リズムについて4 - 2009.10.22 Thu

一応、不眠時代の中でも最も苦しい状況を作り出した問題が、どのような幕切れを迎えたかについて書いておくならば、それは何ともあっけないものだった。
短く言うと、嘘によって私を陥れた人物と、その言葉を一方的に信じた人物が別の問題で仲違いを起こして、職場自体が混乱し、私が関わった問題は自然消滅のような形となったのである。
当初の問題の全容は、私一人の胸の内にしまい込まれ、二度と陽の目を見る可能性はなくなった訳である。

次年度の仕事はまだ決まっていなかったが、なぜか私には、「自分は、来年にはもうここ(職場)にいない」という奇妙な確信があった。
明らかに一つのプロセスに区切りがついた感覚であり、まるで、その過酷な経験をするためだけに、数年間その場に身を置いていたような気すらした。
そして実際に、その年度末の3月、思わぬ経緯で私の許に別の常勤職のオファーが舞い込んだのである。

しかし、最もひどい時期に比べてやや緩やかにはなったものの、それからもさらに3年半私の不眠は続くことになる。
それもやがて終わる時がくるのだが、その顛末についてはかなり根深い人間関係と、それにまつわる大きな事件がからんでいるので、今は書けない。

とにもかくにも、その10年間で私が学んだことは、権威を中心とする人間集団にあっては、真っ直ぐに立とうとすれば例外なく目の敵にされる、ということだった。


***

ところで、私の不眠時代の生活について、やはりこれも書いておかねばと気づいたことがあるので、追加しておきたい。
というのは、受験勉強と修士論文を執筆していた時期を除いて、不眠時代のほぼ全般を通じて、パソコンのゲームに相当な時間を費やしていたことである。
(ちなみに、今でも大人としてはかなりやっている方だと思う。)

私の場合、ゲームの種類はというと、大体はWindowsに標準装備されているカードゲームで、あとはテトリスなどのいわゆる「落ちもの」やオセロなど、無料の単純なものばかりだった。

すでに書いたように、不眠時代の私にとっては、取り憑かれたように思索・思考することが何よりも大切なことであり、また避けられないことであり、新しい知識を外部から取り入れることは決して重要でなかった。
私は、受験勉強やその後の勉強を通じて、頭に入ってくる心理学の知識の多くが、実際のカウンセリングに少なからず弊害をもたらすことを、経験的に知った。
弊害をもたらす理由は、言うまでもなくそれらが根本的に間違っている、もしくは正確でないからである。
そうした中で、私の「自分の頭で考える」という傾向はますます強くなっていったように思う。

だが、思索・思考というものは、いわゆる沈思黙考という形で、そればかりに専念することは実際にはほとんどありえないし、「よし、考えよう」といちいち決心した上ですることでもない。
私の場合、辛い状況の中で、ほとんど自動的に始まってしまう思索・思考に対して逆らわないことが、すでに習慣化していただけである。
だからこの時期、論文を書く以外に、思考するために何らかの努力を払った記憶はない。

私ばかりではないと思うのだが、感情を必要としない単純なゲームというのは、己れの思考の内に籠もるには持って来いのアイテムだった。

ゲームをやっている時のメインの思考は、もちろんパズルなどを解いていく作業そのものに費やされる。
で、その他のことについては、思考のメインの部分を明け渡しているために、いわゆる「考えるともなく考える」という形になる。
しかし不思議なもので、「考えるともなく考える」ほうが、かえっていくつかのことを同時に考えることができたり、何かを空想しながらそれ以外のことをつなげたり分解したり、意外と自由な思考が可能になるのである。

おそらく、ゲームの「解いていく」という方向性が、思考するのに適度な刺激となる面もあるのだろう。
また「考えるともなく考える」場合、論理的に思考するばかりでなく、自分がどう感じているのか、感性や感情に沈み込むようにして探索していく面も大きい。



ゲームのことをなぜわざわざ付け足したのかというと、その時期の私の体験について、これを読む方々から過大評価も過小評価もされたくないからである。

一般的に見れば、いい年をしながら自室に引きこもって没交渉、何ら努力めいたことはせずにただゲームに没頭していた「暗ーいおっさん」という面もあったことを、書かないわけにいかないのだ。
しかし反面、その時期があったからこそ、見えてきたものが計り知れないほど大きいことも、書かないわけにいかないのである。

繰り返し言うように、私はその時期を含むこれまでの大部分の体験が、私にとっては選択の余地のない、必然的で避けられないものだったと考えている。
もちろん、私自身が主体的になしてきたあらゆる判断も含めてである。

私が払ってきた「努力」に似た頑張りのほとんどは、津波に襲われそうになった人が、我を忘れて丘に向かって全力疾走するのとまったく同じであり、そうしなければ「心の死」に飲み込まれるしかないから、否応なくやってきたことに過ぎない。

不眠の時期のことを人に話すと、「すごい忍耐力だ」と言われることがあるが、私としては正直あまりピンと来ない。
「忍耐」と言うと、何か高い理想にでも到達するための静かな努力のように思えるのだが、それとは少し違うのである。
端的に言うと、私は「心の死」よりはましな方を取り続けたに過ぎない。

30台半ばで気づいたことだが、そもそも私は「努力」と名のつくことが大嫌いなのである。
その反面、努力をしないで済む方法にたどり着くためだったら、かなりのエネルギーを惜しまない自信はある。
時に活動的であっても、それは努力によるものではなく、自分の興味や気持ちに突き動かされるものでありたい。

私が自分の人生に求めるものは、努力による何かの構築ではなく、詰まるところ「解放」である。
存分に、生きたいように生きるというあり方以外に、私は人生にほとんど意味が見出せない。
私が、アメノウズメやこぶとり爺さんの陶酔的踊りに重ね合わせているのは、まさにそうしたことなのである。

「自分に嘘をつくまい」と思うのも、不当に踏みつけにされている人々に助力したいと思うのも、また微力を承知で「世の中を少しでもよくしたい」と思うのも、決して向上心からではなく、自らのやる瀬ない気持ちから解放されたいがために過ぎない。


あと1回だけ、このテーマ続く


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なぜ私がこのブログを書くのか - 2009.11.18 Wed


昨年の4月にカウンセリングルームを開業して以来、しょっちゅう身体のあちこちが痛い。
もちろんそういう年齢でもあるのだが、我ながら、かなりの緊張感の中でやっている証拠だと思う。

ただ、カウンセリングルームの運営のみならず、このブログで自分の書くこともまた、私自身を緊張させている面がある。

これまで続けて読んでくださっている方々には、あらためて言うまでもないことだが、私は自分の書いている内容の多くが、およそ「常識」と呼ばれるものとはかけ離れていることを、百も承知している(もちろん、論理的でないという意味ではない)。
また、内容ばかりでなく、カウンセラーという立場に立つ者が、自分の名を明かした上で自分の精神疾患の体験を書くこと自体、いわゆる「常識的」でないことも重々分かっている。

で、常識的でない行動を取ればどうなるか。
おおよそ常識でばかり物事を判断するタイプの人間の危機感をあおり、それは批判・攻撃という形で表現される。
前回の記事で書いた、このブログの内容を逆手に取ったような攻撃の例も、一つにはそうした文脈の中で起きることだと思う(許す理由にはならないが)。

私がブログを綴るのに緊張感を覚えているのは、どうしてもこういった逆風の生じることは最初から分かっており、それでも敢えて書き続けているからである。
やがて誰かから攻撃を受けると分かっていることをやるというのは、どうしても身体を身構えさせ、緊張させるものなのだ。

逆に、深い理解を示すコメントをいただいたときには、心から嬉しさがこみ上げる。



では私は、そのような緊張感と戦ってまで、なぜ名と立場を明かした上でこうしたブログを書くのか。
それは言うまでもなく、そうしなければならないという結論に達しているからだ。

そうしなければならないというのは、突き詰めれば自分のために他ならないが、もっと現実的に言うならば、あるごく少数の人たちのために、書かないわけにいかないのである。

そのごく少数の人たちとは、ある方が寄せてくださったコメントを引用させていただくならば、「世間の人の大多数が見えていないものを見て、心で感じて生きている人たち」であり、借り物の常識によってではなく、きちんと自分の頭で考えている人たちのことである。

たしかに、ここで書くことを、みんなに理解してもらいたいわけではないかと言えば、それは違う。できれば理解してもらいたい気持ちは山々ある。
だが、実際にそんなことはありえないし、何よりも私がこのブログにこめている目的意識は、すべての非を引き受けてしまいがちな、ものごとの認識や感覚に、生来歪みのない一握りの人たち、すなわち一部のうつ性格の人たちに、自らの存在の正当性を知ってもらいたいという点にあるのだ。

その目的のために最善の方法を選んだ結果が、このブログの内容と、その執筆における私のスタンスなのである。

私が「相談者」という職を選んだ理由・経緯は、「ご縁があって」といった生半な言葉では、到底表現しきれるものではないと自負している。
選択の余地のない内的要請に対し、乾坤一擲、それを真正面から受けとめる決心によって選んだ道である。

ただこのことは、カウンセラーという職業を選ぶ以上、私のみならず誰しもそこまでの決心は必要だと思う。
どれほど謙虚に見積もっても、覚悟のない者が選ぶべき職業では断じてない。
人の身の生き死にばかりでなく、心の生き死ににまで関わる職業なのだから。

ともあれ、覚悟を決めて選んだ以上、その目的のために最善を尽くすしかない。
だから、このブログを通じて私がやっていることは、多人数からの評価が目的なのではなく、何よりも私自身の決心に対するけじめであり、矜持でもあるのだ。



ずいぶんと重い内容になってしまったが、今回書いたことは、いずれかの時点ではっきりと言葉にしておかなくてはならないと、かねがね考えていたことである。



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生活リズムについて5 - 2009.12.10 Thu

生活リズムについての話が、完結しないままになっていた。
ここのところ長文が書きづらく、なかなか更新できずにいたのだが、結局何を言いたかったのかだけは書いておかねばと思う。

生活リズムのことで私が一番言いたかった点は、「深夜じゃなければ見えないものがある」ということである。


私を含む「うつ性格」の人は基本的に内向性が強く、自分の中にモヤモヤと得体の知れない感情やわだかまりがあると、もうそれが気になって仕方なくなるし、それがある間は一日を終えるに終えられない気持ちになる。
結果、身体は眠くても、眠るに眠れない、眠るわけにいかない状態になる。
大ざっぱに言うと、これが抑うつに伴って不眠が起きる精神状態ということになる。

他の人の参考になるならないは別として、私の場合は、自らの意識と無意識が向かおうとする方向に逆らわずに、考え、感じ抜くことでその状態を脱することができた。
もちろん、「逆らわない」という発想に辿り着くだけでも時間はかかったが。

一方、人が、自らの感情を無視した思考ではなく、微妙で微細な感覚や感情を大切にしながら思考するためには、より強い集中力を必要とする。
そして、その内向的な集中力の最も増すのが、実は深夜なのである(自他の経験から言うのであって、精神医学的裏づけはない)。
昼間の思考回路は、物事の表面や現実的なことを考えるには適しているが、ものごとの深奥や自らの内面を正確に辿ろうとする時の思考は、断然深夜のそれが適している。


ところで、これまでの記事でも少し書いたが、私が不眠だった頃の「実感」の記憶としては、苦悩していたことは確かだが、それ以上に不思議な「甘ゆさ」を伴っている。

深夜12時を越えると、マンションの他の部屋からも戸外からも、人の気配は次第にまばらとなり、やがてはほぼ完全になくなる。
それにつれて、意識のある部分には解放感というか、一種の弛緩が訪れるのだが、別の部分は力をたわめるようにして逆にぐぐっと力を増してくる。
昼間は抑えこむしかなかったドロドロとした感情が、自らの抑圧の壁を突き破って現れ、意識を覆い包み、意識もまたそれに身を委ねる。
この「身を委ねる」というのは、自らの意志による、生半でない勇気を必要とする「主体的敗北」である。

深夜のことだから、その時の私を誰かが見たとしても、当然見かけ上は静かなものだったはずである。
だが意識の状態はと言うと、恐ろしく激しいものであり、私自身その状態を「鬼の狂喜乱舞」とイメージしていた。

それまでずっと押さえ込まれていた感情が初めて姿をあらわす時、それは例外なく、極めて荒々しくドロドロとしたものになる。
無理矢理檻に閉じ込められ、すっかり凶暴化してしまった野獣のイメージがそれに近い。
ほんの少しだけ具体的に言えば、それは殺戮の空想であったりする。

だが、自我がそれに逆らうことなく身を委ね続ける時(行動化してしまうという意味ではない)、そのドロドロが突如として変容する瞬間がおとずれる。
この上ない透明感、清浄感へと変わるのである。
私の場合、このとき現実的状況がシンクロして変化したが、それは決して、現実が安定した「から」精神的にも安定したというわけではない。
内面的状況が山場を乗り越えたことを感じたとき、同時に現実的にも「山場は越えたな」と直観したところ、実際にそうなっていた、ということである。



こうした感覚は、残念ながらこれ以上言葉で伝えようがないが、ともあれ、こういったプロセスはすべて深夜から明け方に経験したことである。
「夜」でなければやれないことがあるのを、本当に知った。

以来、「生活リズムは規則正しく。」といった言葉を聞いたりすると、ひどく機械的で未熟な言葉に思えてしまうようになったのである。

私がこの記事をなかなか書けなかったのは、どうしても、ほんの少し非科学的な内容が含まれてしまうからである。
なので、あえてどなたにも理解は求めないでおきたい。
ただ、イメージしていただけるならば幸いである。



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近況 - 2010.01.28 Thu

近況……といっても、最近特に変わったことがあったわけではないのだが、ブログの更新もずっと滞ったままなので、さしあたって、ここのところ感じていることや考えていることなどを書いておきたい。

まず、ブログがなかなか更新できないことについてだが、以前ある時期に感じていたような、「言葉が出づらい」という風な感じではない。
そんな時は、心のエネルギーが内向し表に出てきてくれない感覚で、ある程度もどかしさも感じるのだが、現在のはちょっと違う。
今は何もかもが不確定すぎて、何かこれといったことを口にすると、うそ臭くなってしまうような気がする、だからとりあえず様子を見ているしかない……、と、そんな感じだ。

停滞感の強くなりがちな時季ということもあるが、それ以上に、世界経済や失業率も、政局も、政府外交も、はたまた大相撲も、どちらを見ても方向性が極端に定まっていない状態ということもあってか、何か固唾を呑むような気分になってしまうのである。

クライアントの方々の様子を見ていてもそうした感が強く、またほとんどの方が、個人的にも何かしら過渡的な状態にあることを感じさせられる。



一方、私の問題意識にも、ある程度の過渡的な状態が生じている。

少し具体的に言うと、これまでは、ブログでも綴ってきたように、日本人の家族や集団が一般的にどういった傾向をもち、その中でどのようなメカニズムでうつが発症するのかということを中心に、分析的に考えてきた。
だが、ここしばらくは、その次の問題について考えを向けていることが多い。

つまり、うつのメカニズムがある程度はっきりと見えてきたとして、では真面目で誠実な「うつ性格」の人々が、そのような中でいかに自分を見失わず、かつ不当な扱いを回避していくか、あるいは逆に場をコントロールしていくことができるのか。
当然、そうしたことが問題となってくる。

家族や社会集団の中で、自分がいかに不当な扱いを受けてきたかが分かったところで、その状況を改善する方法がまったく分からないのでは、場合によるとかえって辛いばかりだ。
また、見えるようになったところで、よけいに辛さが増してしまうようであれば、結局心理や状況の分析自体も滞ってしまうことになるのである。
せっかく一度は分析が進みそうになりながら、「おかしいのは周囲ではなくて、やっぱり私の方がダメなんです」という元の考えに逃避してしまう人が少なくないのは、そうしたことも一つの原因になっているようだ。

もちろん、周囲の矛盾と自らの正常性を徹底して見抜くことで、自分に自信がもてるようになり、それが堂々とした振る舞いにつながることによって、おのずと人間関係が改善される面は小さくない。
小さくはないが、やはりそれだけでは足りないというのが、カウンセラーとしての実感である。

まったく、おしなべて人間関係というものは、うつ性格の人にとっては困難かつ危険極まりないものなのだ。
少し気を許すと、あるいは許さなくとも、たちまち正直者が馬鹿を見てしまう事態が生じる可能性は、絶えずうつ性格の人々を取り巻いているのである。


ところが、こうした、うつの人が生き抜く方法論を考えようとすると、どうしても思考が途絶してしまいがちで、その先が始まらない。
今のところ、なぜそういった思考が止まってしまうのか、まずはその理由を考えているところだ。

あるいは、そもそもの発想の時点で何かが間違っているからかもしれないし、考える機が熟していないということなのかもしれない。
ともあれ、何か新しい考えが生じたら、すぐにも報告したいと思う。


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ここのところの変化 - 2010.03.05 Fri

ここ1ヶ月……というよりも、今年になってからというもの、ほとんどまともに記事を更新していない。
この1月以来、人を捉える感覚に大きな変化の生じていることが、おおむねその原因だと思う。
変化のスピードが速すぎて、何かを言葉で表現してみても、し終わるや否やすでにその言葉が古くなってしまっている気がして、どうしても不全感が残るのである。

なので、ここしばらくは言葉による表現をあきらめざるを得なかったのだが、それにしても放ったらかしにもほどがあるという状態なので、何とかようやく手をつけることにした。


身体面での変化も大きい。
一昨年の春、野口整体に通いはじめた頃、数ヶ月に渡ってすごい臭いの汗が出たことがあったが、やはり今年に入ってから、そのとき以上に強烈な臭いを放つ汗が出ている。
もちろん加齢臭もあるだろうが……、酸っぱい臭いというよりも、「酢」そのものに腐った脂をブレンドしたような……(やってみたことがないので、それがどんな臭いなのか知らないが)。

おかげで、カウンセリング面接が1つ終わるたびに、制汗スプレーときれいのミストを全身に振りかけなければならなかった。

で、それがようやく少し静まってきたかなと思ったら、今度はひどい風邪を引いてしまった。先週金曜のことである。
だんだんとひどくなってきたので、ついに昨日は面談をすべて休んだが、医者に行ったところインフルエンザではないそうなので、少し安堵した。

体調不良でカウンセリングを休んだことは、ここ数年では記憶にないし、カウンセラー人生全体を通じてもほんの数回だったのだが。
そもそも、私はカウンセラーになって以来、緊張からか、ほとんどまったくと言ってよいほど風邪というものを引いたことがなかったのである。

今回の風邪は、下痢もあるが、とくに咳がひどいらしい。
喉や気管、腸の粘膜全体から、凄まじい勢いで毒素が噴き出しているような、何だかそんな気がしている。
とにかく、身体面においても心理面においても、ものすごいスピードで何かが変わりつつあることは確かである。


さて、はじめに書いた、人を捉えるありようの変化なのだが、今のところそれを言葉で表現するのがまだ難しい。
それでも、少し無理をしてでも敢えて言うならば、人それぞれの性格の違いというか、境い目が、これまでとは明らかに違った次元で妙にくっきりと感じられるのである。
たとえば、自分と考え方や感覚の違いが大きな人々などは、まるで「別種の生き物」のように感じられてしまうのだ。

ご承知のように、このブログの記事のいくつかにおいては、かなり攻撃的な表現を用いることがあった。
それは、カウンセリング場面で、うつの人々が周囲からこうむってきた理不尽な扱いの数々を聞き、自分の体験ともあいまって覚えた「怒り」がそうさせたと言ってよい。
だが、ここにきて、そもそも別の生き物なんだから……と、何となく腹を立て辛くなっているのである。

「うつ」とは、まずもって怒れなくなることなので、「あれれ、うつに入ったのかな」とも考えたが、どうもそうではない。
ものの見方の厳しさ自体は、おそらく前以上に厳しくなっている気もする。

同時に、たとえば街中で散歩中のペットの犬などを見ていても、やはりそれぞれの性格の違いがいやにくっきりと感じられるようになった。
で、妙な話なのだが、場合によると人間以上に自分に性格の近い犬がいたりして、「ああ、この犬とはきっと分かり合えるだろうな」といった感覚が生じることもある。
もちろん、反対に「ああ、こいつ(犬)とは気が合わんな」というのもある。

生物学的な種の違いよりも、性格の違いのほうがよりくっきりと感じられる……
この奇妙な感覚が、現在もまだ変容の最中なのである。

うーん……、この状態を抜け出ると次にどんな世界が見えてくるのか、かなり楽しみである。


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近況 - 2011.09.09 Fri

先月ツイッターを始めて以来、日々気づいたり思ったことについてはそちらのほうで随時吐き出してしまうため、気がつけばブログのほうは1ヵ月半ぶりの更新である。

この間、カウンセリングルームの方にはこれと言って大きな変化はなかったが、個人的にはかなり大きな変化が進行中である。
自分の「中で」何かが変わろうとしてるというよりも、自分を含んで取り巻く世界の構造・機構が、深層で成長の節目をひとつ乗り越えようとしていて、その全体の微妙な動き中で自分もまた変わろう(あるいは変えられよう)としている、という感覚である。

そのような端境期にある状態なので、うまく表現できない点は多々あるが、この段階を、うまく言葉にならなければならないままに言葉にしておくことも必要だと考え、覚書の意味も込めて記しておきたい。
また例によって、荒唐無稽とも見える話が入り込むかもしれない。

実は、先月からある習い事を始めた。
それは、私としては、ある意味もう何10年も前からの念願であったといってもいい。
その習い事というのは、古流居合術である。
ただ、念願だったというのは、どうしても居合術がやりたかったという意味ではなくて、理にかなった身体の使い方、有機的でトータリティのある身体のありようを自分自身が有する必要性を、かなり以前から感じていたということだ。

では、なぜこの歳までそれができなかったのかというと、単にいい出会いがなかったという面もあるが、その課題が私にとってあまりにも重要で、聖域と言うと構えすぎだが、少なくともうかつには近寄れない領域だと感じていた面が大きい。

これまで私は、「人間(というより私)本来のありようとは何なのか」という問いを常にどこかに掲げつつ、深層心理学も含めて、いくつかの領域に答えを求めてきたのだが、残念ながら、また失礼ながら必ずしもよい師には出会えないでいた。
だから、書物でのみ出会える師たちとの対話を繰り返し、あとはまったく独自の考えでのみ答えに辿り着こうと努めてこざるをえなかった。
ほぼ自力しか頼るものがなかったということは、それはそれで貴重な内的体験の集積を得ることにつながったのではあるが、折に触れて、独りで導き出す答えの限界というものを感じずにはおれなかったものである。

傲慢に聞こえるかもしれないが、あまりよい師と出会えないということは、いつしか私にとってひとつの恐怖心を形成していた。
問いに対する答えを、いつの場合でも、その時点でなしうる最大の真剣さで求めてきたつもりではあっただけに、求めていた答え(ヒントでもよかった)がそこに存在しなかったことを知ったときのショックたるや、筆舌に尽くしがたいものがあったのである。
だから、誰かに教えを請うこと自体、身がすくんでしまうのだ。

ところで私は、卒業論文(宗教学)と修士論文(臨床心理学)の双方において、「舞踊」というものを中心に人間について考えてきた。
「舞い踊るということは、人が生きる意味の、最も直接的な表現なのではないか。
そもそも、人が生きながらにして生きるというのは、意のままに舞い踊るということなのではないか。」
という直観に基づく考えから発したテーマであった。
私にとっては、「頭で考える」ということすら、本来きわめて身体的なことであるように感じているのである。

「理にかなった身体」というのは、私にとってかけがえのない、存在の最もベースの部分にあるべきもののイメージである。
つまり、ことこの領域に関してだけは、失敗・挫折が許されないのだ。
これが、私がこの領域に容易に近づけなかった理由である。



実を言うと、まだ京都で仕事をしていた10年ほど前、意を決して近所の合気道道場の門を叩いたことがある。
前日に電話で連絡を取り、「じゃあ一度見学に来てください」と言うので行ってみたのだが、師範が小学生クラスの出席をとる姿を見て、そのあまりにも高圧的な態度と冷淡な表情に恐れをなし、挨拶もせず逃げるように道場を飛び出してしまった。

そのときはただただ敗北感や恥ずかしさばかり覚えたが、少し時間がたつにつれて、自分の感じた拒絶感がはっきりとしてきた。
そもそも中年の私に対して、なぜ小学生クラスの時間に見学にくるよう言ったのか理解に苦しむし、時間前に私がそこに座っていることは間違いなく視界に入っているはずなのに、一瞥だにしないということについても、ほとんど反射的に拒絶感を覚えたのだ。
私にとっては、身体を大切にするということと、人を大切にするということは、同義でなくてはならなかったのである。
以来、「やっぱり縁がないのだろうか」という思いから、ますます武術というものに対するハードルが上がってしまっていたのである。

それでも、「理にかなった身体」という、深い義務感のような情念を伴った考えは、絶えず私の心のどこかで燻っており、地元大阪に居を移してからも、ふと思いついては合気道をはじめとする体術の道場について調べていた(これも直観としか言いようがないのだが、私にとっては踊りよりもやはり体術なのである)。
だが、3年前に開業してからは、以前よりも仕事が忙しくなったため、ますます行動範囲が限られ、もうかなり近場でないと、習いに行くことは不可能となってしまった。



こうした燻った思いもあって、武術家甲野善紀という人物には、以前から強く惹かれ、その著書やDVDのいくつかを繰り返し読んだり見たりしていた。
先生は、身体の動きとありようについての探求者という立場をとりつつ、人・社会・自然に対して、常に矛盾なく澄んだ目を向けておられると同時に、看破・感得・発想したものを、優れた比喩と言語能力をもって表現される人物である。
たとえば著書『表の体育 裏の体育』などには、不登校の子ども達と接することの多いカウンセラーとしても、ずいぶん啓発されたものである。

また、先生の出演されるテレビ番組などを見ていると、その体捌きのキレのよさ(もちろん素人目に過ぎないが)や術理解説もさることながら、たとえば実演で相手役を務める人に対するちょっとした礼儀というか、心ばえにも感服させられる。

いわゆる現代の名人・達人といわれる何人かの武術家の実演DVDを見たが、相手役の人に対する彼らの態度は、「なかなかきついな」と思わされることが少なくない。
つまり、技をかけられる役の相手に対して、その場で痛い思いをさせても、無様な格好を取らせても、ほとんど意に介さない様子で説明を続けるのが比較的普通のようだが、その中にあって甲野先生の態度は新鮮に映った。

自分が相手に技をかける前に、
「こう行ってしまうと、こう返される。またこう行っても、こう弾かれてしまう」などと、
まず失敗した場合を、幾度も幾度も繰り返して見せる。
つまりその場合は、先生自身がやられ役になるわけだが、それを散々やった後で、スパッと技をかけるのである。
技をかけた後もまた、相手役の人に、たまにちらりと「ごめんね」的なアイコンタクトを取ったり、痛みを与えた場合には、小さくちょんと手刀を切って詫びたりされることもある。

もちろん、解説の流れ上の必要性から、失敗した場合を繰り返し例示しておられるということだとは思うが、その流れが自然と「相手方の心の内において、無意識の敵意を育てない」やり方になっているのである。
いくら武術家の弟子でも、人前で当たり前のように痛めつけられたり、無様な格好を取らされるのは、どこかで屈辱を覚えないわけがないのだ。
それを見させられるほうもまた、変な緊張を覚えて硬くなる。

「これは、人気が出るはずだ」と思った。
素人が口幅ったいようだが、実際に敵と相対したときの術の部分だけを切り売りするのが目的ではなく、存在のレベルで本当に武術家として生きていると、こうした感じになるのではないかと想像させられる。
(もちろん、他にも非常に爽やかな実演をされる武術家は、たくさんおられることを断っておく。)

武術に限らず、無意識のうちに蓄えられた敵意は、多くの場合、直接それを育てた相手には向けられず、お門違いに目下へ目下へと順送りに向けられ、それが体育会系であれば、いわゆる「シゴキ」の温床にもなる。
私が10年前に見た、例の師範の不必要に冷徹な態度も、そうした連鎖の末に成ったものだったのかもしれない。
また、文科省、教育委員会が教師たちを締め上げれば締め上げるほど、生徒たちの心は荒み、生徒の情操教育を意識する教師たちは肩身の狭い思いをせねばならなくなる。



このように、日本の武術というものに少なからず憧憬を覚えながら、手を出すことすらままならなかった私だが、今年の7月にちょっとした転機がやってきた。
これまでネット上で、いろいろな武術に関する検索語で道場を検索していたのだが、近場では見つからず、ふと「そう言えば『居合』では探したことがなかったな」と気づき、検索したところ、何と自宅から歩いて10分のところにその稽古場を見つけてしまったのである。
石田泰史師範が立ち上げられた、『遊武会』という団体だった。
稽古風景を写した写真を見ると、どなたも実に温和な顔で稽古に集中しておられる。
さらには、見れば何と、甲野先生が大阪で稽古会をされるときの、幹事までされているようなのである。

私の中で起こった第一声は、
「うわぁ、見つかっちゃったよぉ。もう逃げらんねぇな、これは。」
であった。

ここまでお膳立てがそろって、それでもやらなければ、もう「理にかなった身体」という願いは放棄したも同然である。
これはやるしかない。やるしかないのだが、身体がスイスイ動く若い間は縁がなくて、この歳になってやっとお許しが出たわけである。
しかも、これまでまったくもって体育会系とは無縁の私だ。
でも、それもまた良しか、と。

稽古日は週1回、平日の夜である。
本来仕事のある時間帯なので、家内に許可をもらって、早速師範に入会願いのメールを送り、8月から通わせていただくことになった。


実を言うと、これまで私は甲野先生の発言や動きを、絶えずフォローし続けていたわけではない。
いつもどこかでは気にしつつ、うかつに近寄れない領域の方なので、「付かず離れず」フォローしてきたという感じである。
しかし、古流居合術の教室に通うことが決まってから状況は一変し、にわかに先生の著書やDVDを再見し始めて、「やっぱり、本当にまっすぐに物事を見られる方だなあ」と再認識した。
また、まったく偶然なのだが、同じ時期にツイッターを開始したので、先生のツイッターを真っ先にフォローし、さらに『夜間飛行』からメルマガの配信を始められたと知ったので、それも購読することにした。

で、初めてメルマガを拝見したところ、終わりのほうに「先生への質問を受け付けています」とあるではないか。
おおお、一個人としてもカウンセラーとしても、是非お尋ねしてみたいことは確実にあるぞ。が、はて、何が聞きたかったっけ?と自問したところ、答えはすぐに返ってきた。

これまでも、私にとって先生の術理解説は、そっくり人間関係の技術に見えていた。
というよりも、これを人間関係に当てはめるならば、どういう状況・どういう技術ということになるのか、という見方をしてきたのだ。
また実際、カウンセリングをしているときに、何とはなく先生の解説される術理をイメージしてやりとりし、結果的に有効に働くことがあったのである。
そこで、昨今低下が著しい日本人のコミュニケーションスキルについて、武術の立場からどのように考えられるかを質問させていただいた。

しかし、字数制限があるためあまり詳しくは質問できず、質問させてはいただいたが、送った直後から、
「漠然としすぎてて、先生を困らせるんじゃないかな。万に一つ、質問を読む前に俺のツイッターを読んでくださっていたら、もっと真意は伝わるのになぁ。」
「けど、質問はたくさん来るだろうし、編集者にスルーされる可能性が大きいから、まあ気にせずにおくか。」
などとぼんやり考えていた。

で、数日たったある日、数10年ぶりに中学時代の同級生と酒を飲んで帰宅し、何気なく先生のツイッターを読んでみたら、
(私のリツイートから)「ある人物のツイートにふと興味を持ち、20~30のツイートをざっと読んだ直後、その同じ人物からの質問メールが編集者を通して届いた。非常に驚いた。近々メルマガにて返答します。」
という意味のことが書かれてあるではないか。

ななななな、何ということ!!
ゾワッ!!ときた。

それから1~2日は、変なテンションになってしまったことは言うまでもない。
フォローしてくださっている方達から、「すごいですね。」「通じましたね。」といったリプライをいただいたが、そう言われてみるとまた、テンションの上がっていることが何とはなく恥ずかしく、チャチャッとお返事して、今日までそのことにはまったく触れずにいる。

質問に対する答えは、今月半ばにいただけるとのことだが、何とまたすごいタイミングであることよ。答えをいただいたすぐ後の25日、先生の大阪での稽古会が、もちろん石田師範主催で行われるのである。
今は、お顔を拝見するその機会を、少しでも意義のあるものにしたいと考えているところである。
正直ドッキドキですけど!



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臨床心理士会を自主退会 - 2012.05.20 Sun

もともとこの記事は、私が3年前に臨床心理士の資格を放棄した直後に『臨床心理士会退会』としてアップした記事であるが、カウンセリングルームHPのリニューアルにともなって、そちらの方でもアップした。

しかしすでに3年経っていることもあり、考えが発展したりより明確になった部分があり、手を加えているうちに大幅に中身が増えてしまった。
とくに第2節の「カウンセラー特有の歪み」以下は、大部分が今回書き足したものである。

そこで、『臨床心理士会を自主退会』という記事名で、再アップしておきたい。





私事ではあるが、非常に重要なことなので、この場をお借りして公表しておきたい。
私は2009年3月31日の日付で、臨床心理士資格認定協会に資格失効の願いを提出し、資格証明書を返却した。
つまり、同年4月1日をもって、私は臨床心理士ではなくなったのである。
もちろん、開業カウンセラーとしての活動は、ずっと変わることなく続けていく。

このことは、事前に、家内や身内の他には、一部説明の必要だったクライアントの方々とごく少数の親しい友人にしか公表しなかったが、私自身の胸の内では、少なくとも退会の2年前には確定していたことである。
さらに言えば、その心積もりは、はじめからカウンセリングルーム開業とセットになっていたと言ってよい。

出身大学院の教授や仲間、あるいはかつての職場の同僚でこの記事を読まれた方は、さぞかし驚かれることと思う。
非常に気の重い点だが、中には、エキセントリックな行動だと思う人も多いことだろう。
しかし、もちろん気がふれた訳でもなければ、理想に取り憑かれて無謀な行動に走ってしまったつもりもない。

言うまでもなく、臨床心理士という資格自体は、あって邪魔になるものではない。
それどころか、この資格を得るにはそれなりの年月や労力や費用、何よりも「カウンセラーになる」という明確な意志を必要とするだけに、少なくとも社会的に見る限り、やはり価値のある資格とされることは重々承知している。
実際に、私自身これまで多くの臨床機関での勤務を経験してきたが、臨床心理士という資格があったからこそ雇用してもらったのだし、臨床経験と実績を積むこともできたのである。

ただ、私にとってこの資格を継続して持ち続けるには、あまりにも抵抗が強すぎた。
退会を決意するにいたった理由については、単純に語れない部分が大きいので、少しずつブログなどで書いていくことになると思うが、現段階である程度は述べておかなくてはならないだろう。


退会の理由

さしあたっての理由は、理念よりもむしろ実状によるところが大きい。
臨床心理士の資格は、5年ごとに更新される。
で、更新までの間に、資格認定協会から指定されている研修会あるいは学会に、6~8回程度出席して所定のポイントを獲得、累積させなくてはならない。
つまり、研修会・学会には、平均して年間に1~2回出れば済むことではある。

しかし私の場合、この年間たった1~2回の研修会・学会出席を、まずはどうしても生理的に受けつけなくなってしまったのである。
では、研修会・学会のどういった点を生理的に受けつけなくなったのか。
正直、この内容がすらすらと言葉になりにくい。
おそらくは、その場における矛盾が単純ではなく、十重二十重に絡み合っているからだと思う。

矛盾の一例として、ブログでずっと述べ続けてきたように、ほとんどのカウンセラーは、クライアントをはなから劣等者・歪みのある者と決め付け、一方カウンセラー自身を優越者だと思い込んでいると言わざるを得ない。

人は、大人であるというだけで子どもよりも人格的に優れていると勘違いし、教師であるというだけで生徒よりも世の中のことが分かっていると勘違いする。
そして、カウンセラーであるというだけで、また悩みを抱えていないというだけで、悩める人よりも物事がよく分かっていると勘違いするものなのである。

しかし、症状の発症とは、ある意味人が生きたものである証と言ってもよい現象であり、一概に病者が異常・劣等と決めつけるわけにはいかない。
歪んだ場の中では、むしろ歪みのない者が発症せざるを得ないことが多々あるのである。

ある3歳の女の子は、「教師の指示が理解できない」という理由で自閉症を疑われ、われわれのもとに連れてこられたが、実際には非常に能力の高い子どもだった。
教師の、いくつか前の指示と最新の指示とがたびたび矛盾していたために、かえってどうすればいいのかが分からなかったのである。

クライアントの能力が、教師やカウンセラーよりも優れている可能性を含む視点は、少なくとも専門家である以上、常に意識していなくてはならないのはあまりに当然であるが、実情はあまりにかけ離れている。

あらゆる学会・研修会の発表において、この視点はまったく意識されておらず、フロアからこのことを訴えたとしても、まず90パーセントの確率でその意見は無視される。
発表者からも他の参加者からも、まるで不思議な生き物を見るような目を向けられ、きょとんとされた後、「さて、それでは……」と別の話題に移られるのがオチである。
ただし、それを業界内の有名人が言った場合だけは別だ。


カウンセラー特有の歪み

たとえば、こんなことがあった。
東京でのある研修会場でのこと、私と家内は、ある大学の大きな階段教室の後ろの方に座っていた。
例によって講演の内容に辟易していたこともあったのだが(学習障害者(LD)支援NPO代表である藤堂栄子さんの講演だけは素晴らしかった!)、臨床心理士の講演中、家内が手を滑らせ、空のペットボトルを取り落としてしまった。

そのペットボトルは、カランカランと気持ちがいいほど派手な音を立てて、出席者たちの足元を5~6段下へと転がった。
たしかに聴講の邪魔をしたのは申し訳なかったが、心理学者である私は「人間はミスをするもの」と知っていたし、何よりそこに並んでいるのは、日頃「受容」を謳い、しかも人間がミスをすることを、私同様に知っているはずのカウンセラーたちである。
だから私も家内も、虫がいいと言えばそれまでだが、それを拾った人は「ああ、気にしないで」というほどの目配せなりを送ってきてくれるものと、当然のように予想していたのである。

ところが結果はまったく違っていた。
まず周囲の出席者たちは、一斉に家内と私を、憎むような目でジロリと睨んだ。
そして、自分の足元に誰かが落としたペットボトルが転がってきていることに、明らかに気づいているはずの出席者が、数瞬の間を取った上で、ゆっくりと大きな動きでそれを拾い上げ、これ以上ない迷惑そうな顔で後ろを睨み、すぐ後ろの出席者へと手渡したのである。

内心「目配せ待ち」だった私は、その人物と目が合ったときに、拝むような格好で「ああ、すみません!」という態度と表情を見せたのだが、プイと前を向かれたに過ぎなかった。

するとそこから、さらに信じられないことが起こった。
そのすぐ後ろの出席者から私まで、つまり落ちた段の数だけのカウンセラーたちが、最初の人物とまったく同じ仕草を判で押したように繰り返しリレーし、そのつどこちらを睨みつけて、家内に空のペットボトルを届けたのである。

クライアントの方々の大部分は、何らかの意味での「失敗者」である。
たまたまその会場で「失敗者」となった家内に対する彼らの行動を見て、彼らが日常的に、「失敗者」であるクライアントの存在・ありようを心から尊重しているとは、とても思えなかった。
また、失敗をしでかした者が必要以上に傷つかないための気配りは、かなり初歩的な「社会性」であると私は認識しており、むしろうつになった人々の中には、こうした気配りの細やかな方が多い。

今目の前にいる、ごく初歩的な社会性をも欠いた人々が、日常的に、あの細やかな気配りを持つ人々にカウンセラーとして対面している状況を想像し、そこで何が起きてしまうかを考えると、あらためて心底ぞっとせざるを得なかった。

あの出来事は、その場に一石を投じずにおれなかった、家内の潜在意識がしたことであるのは間違いない。
我々にとって、それが暴き出したものは実に大きかった。

もちろん、すべてのカウンセラーがそうだと言うつもりはないが、大学に教員として勤めているカウンセラーの社会性の低さについて、他学科の教員の方々から不満として耳にすることは非常に多い。
そのようなイメージが浸透してしまっているのか、「臨床心理」と言うだけで、大学関係の人から眉をひそめられることも少なくないほどである。

ただ、カウンセラーの中で、初歩的な社会性を欠いていると思われる人々の、圧倒的な率の高さから考えると(社会性の低い人がカウンセラーになりたがる傾向がある可能性を差し引いたとしても)、彼らがすべてカウンセラーになる以前から社会性を欠いていたとは考えにくい。
だとすると、「臨床心理」という領域では、思わず知らず、社会性を損ねてしまうような何らかの歪んだ教育が、連綿となされていると捉えざるを得ない。

日本のカウンセラー界における来談者中心療法の弊害

カウンセラーの「自分を隠す」基本的態度における問題の根源をたどると、そもそも、患者を寝椅子に寝かし、その頭上に自分の姿を隠して精神分析を行なった、S.フロイトの初期の臨床スタイルがもたらすイメージに、大きな問題があると言うべきだろう。
しかしより現実的には、私が見る限り、カウンセリングのもっとも初歩とされるロジャーズの「来談者中心療法」の教育が、カウンセラー自身のカウンセリングイメージばかりか、基本的な人間関係のイメージまで大きく歪めてしまっている面が強い。
ブログ 『ロジャーズ理論の問題点-序説として』 参照

たとえば、日本の「来談者中心療法」の教育者たちの頭には「カウンセラーはカウンセリングにおいて、自分の考えを一切話してはならない」という、何ら有効な現実的根拠がないにもかかわらず、掟のごとく厳格にして奇妙なルールがある。
さらにそのルールは、「カウンセラーは社会のあらゆる場面において、(個人情報はもちろん考え方まで)自分のすべてを隠すべき存在である」という独善的理屈にまで拡大してしまっているのである。
これでは、一般社会において周囲がイライラさせられるのも当然だ。
他人の情報は無遠慮に収集し、自分のことは何も明かさないのだから。

日本の一般的カウンセリング教育においては、「カウンセリング、クライアントは恐ろしいもの→人間関係、人は恐ろしいもの」というイメージが間接的に刷り込まれ、さらにそれが受け継がれることによって強化されているのである。
したがって、できるだけカウンセリングをしたがらないカウンセラーも少なくない。
また、そういったカウンセラーはクライアントに対する恐怖心が強いため、単に不安が高いだけのクライアントに対してすら「人格障害」と判断してしまうような傾向が強い。

カウンセリングがしたくないのだから、当然ながら彼らの研究職・教員職に対する執着は強い。
だが、カウンセリングがしたくないのならば、もはやカウンセラーという職にとどまるべきでないのは言うまでもないことであり、ましてや後進を指導するなど、断じてあってはならないことである。

退会の少し前、ある研究者兼カウンセラーと、来談者中心療法教育の弊害について議論になったが、こちらがどれほど論理的にその説明をしても、相手は反論と呼べる説明が一切できないにもかかわらず(理屈にならない理屈さえ述べなかった)、「そんなことはない! そんなことはない!」と、ただただこちらの意見を否定し、やがては怒り出し、おしまいにはこちらを侮辱しているとさえ取れるような発言までする始末だった。
これは、マインドコントロールされている者の、もっとも稚拙で典型的な反応である。まともなカウンセリングのできようはずがない。

研修会におけるペットボトル事件の際、周囲のカウンセラーたちが示した怒りの反応は、おそらく、不測の事態をいきなり突きつけられ、ありのままの素の反応を引き出されるような状況、つまり自分を隠しておけない状況に対し、本能的に激しい拒絶反応を示した結果であろうと思われる。


挑戦的試み

しかし私のもっとも恐れることは、彼らからの攻撃以上に、私自身にもそのようなマインドコントロールの影響が残ってやしないかという点である。
そのためには、臨床心理学教育において叩き込まれた根拠の見えない常識を、一つ一つ破っては検証していく必要があるのだが、臨床心理士の組織に身を置き、その資格によって勤務している限り、それにはかなり限界がある。
そのこともまた、私が臨床心理士会を去らねばならない大きな理由だった。

ある時期私は、この「恐怖」の刷り込みを払拭するためもあって、あらゆる精神障害やパーソナリティ障害の人々に対しても、尋ねられれば迷いなく、自分の考えはもちろん、電話番号などを含む個人情報まですべて教えていた。
まだ大学に勤めていた頃のことだったが、臨床心理教育へのひそかな、しかし言うまでもなく、それなりに覚悟を必要とする挑戦だった。

そうした試みの結果、自己開示によってまず例外なくクライアントたちの疑心暗鬼は緩和され、かえってカウンセラーに対する侵入的行為(1日に何本ものメールや電話をするなど)は誘発されず、また何よりも、あらゆる主訴のクライアントにおいて、良好な経過をたどる確率が劇的に高くなることがはっきりとした。

反対に、さまざまな事例報告を聞いていても、自分を見せたがらないカウンセラーほどクライアントの不安を刺激するため、侵入的行為あるいはカウンセラーの目の前での自傷行為などを誘発しやすい。
自分だけは常に安全な場所に隠れていようとするカウンセラーの態度は、かえって自身がもっとも恐れている結果を招いてしまうのだ。

カウンセラーを目指した時点から、カウンセリングが、自分を安全な場所に置いておいてできるほどたやすい仕事であるとは、私には思えなかった。
しかし、個人情報まで隠さず話し、一見危険な場に身を置いているように見える私の方が、結果的にははるかに安全だったわけである。

自分を見せたがらないカウンセラーは、それでもまだ 「隠し方がまだまだ甘かったのだ」と言わんばかりに、さらに頑なに殻に閉じこもる道を選ぼうとする。
本人だけならばまだしも、若いカウンセラーたちがカウンセリング場面で自分の考えを話しただけで、良くて劣等生扱い、一部の指導者などはヒステリックに叱責する。
繰り返すが、これはごく一部のカウンセラーの話ではなくて、少なくとも過半数の臨床心理士の話なのである。

実は、大学院生時代にもこのような思い切った自己開示を試し、必修科目であるケース検討会でその試みの事例を発表したことがある。
それは私にとって、臨床心理学を教え学ぶ人々への本質的な問いだったが、大部分の教員・院生にケースの経過自体はスルーされ、私が思い切った自己開示をしたことに愕然、呆然とされ、結果として私は著しく評価を落とさねばならなかった。

1人の後輩などは、発表の後でわざわざ私の目の前までやってきて、私の顔をにらんだ後、プイと横を向いてどこかに去った。
その子どもじみた態度は、カウンセラーの立ち位置を、クライアントのいる高さまで引き下げた私の行為に対する怒りの表現だったのだろう。
逆に、その場の参加者で面食らうほど私を評価したのは、現在の私の家内ただ一人だけだった。

ちなみに、自画自賛ではないが、自分の個人的な話をした部分だけ伏せて発表すると、私のカウンセリングケースはまず例外なく絶賛された。
「こんなに重い人が、どうすればこんなにいい経過を見せるのか」と言い、首を傾げてくれるのである。
私にははっきりとその理由が分かっていたが、それを口に出せばたちまちどうなるかもはっきり分かっていたから、当然黙っていた。

ただ断っておくと、今でも私の基本的態度は変わらないものの、カウンセラーの個人情報を細かく知りたがるクライアントの場合、逆に自分の情報を小出しにしたがる傾向が強く(申込用紙に名前すら書かれない場合がある)、それではかえって対等な情報開示のバランスが保てないために、逆にそうした方には正直に理由を告げた上で、自分の個人情報は話さなくなった。
だから結果的には、自分の個人情報を話す必要は、もうほとんどなくなっている。
あるいは、ブログなどで個人的な体験をかなり書いてきて、人となりが自明となったことも、要因として大きいのかもしれない。


決心までの経緯

さまざまな研修会に出席した実感から言うと、カウンセラーのこうした自分を見せない傾向は、関東の方がより徹底していると思われ、同郷贔屓ではないが、ペットボトル事件がもし大阪の会場で起こったことなら、結果は少し違っていたかもしれない。

ともあれ、このような研修会場にいると、クライアントを見下げるどころか、主体的に自分自身を関わらせすらしない教育に一切疑問を覚えない参加者たちに対して、声を荒げたい激しい衝動に駆られる。
「心理療法とは、人と人の生きたかかわりを排除し、クライアントをお仕着せの「正常」という枠に無理やり押し込め、ロボット化させることなのか!」と。
私や私の家内は、こうした場面では、握り締めた拳と食いしばった歯を終始緩めることができない。
そして、畳みかけてくる絶望感にくたくたになり、研修会参加から少なくとも1~2週間は、崩れた体調が元に戻らないのが常だった。

そうした、いわゆる専門家同士のやり取りのひどさは、もはや「無意味」という言葉では表現しきれなかった。
明らかに「人としてやってはいけないこと」としか思えなかったのである。

それでも私は10年以上、文字通り歯を食いしばってこういった研究者としての生活を続けたが、とうとう抗えない強さで拒絶反応が出始めた。
資格放棄の4年ほど前から、どの研修会・学会に出席しようとしても、それを考えただけで激しい怒りや悲しみに襲われ、行けなくなってしまったのである。

九州である学会が催されることになった時、それでも私は参加を申し込んだ。
他の学会・研修会はどれも参加する気になれなかったのだが、以前から気分的に比較的参加しやすいと感じていた学会だった。
しかも、開催地は九州である。そこへ労力と金を使い、前日から泊り込みで行けば、さすがに出席しないわけにはいかないはずだ。
要するに、是が非でも出席するしかない状況に自分を追い込んだのである。
これでだめなら、もう次の考え方をするしかない。

朝ホテルで目を覚ましたが、案の定、限りなく気は重かった。
ため息ばかりつき、着替えの動作すら何度も中断しなければならなかったので、とりあえず遅刻することに決めた。
すでにプログラムが始まっているはずの時刻に、朝食も取らず、かろうじてホテルを出た。
学会会場の大学は、ホテルから目と鼻の先だ。

とりあえず、大学がある方向に歩いてみる。
大学が見えてきたところで立ち止まった。
目の前に、いよいよ主体的に選択せねばならないラインが、かなりリアルに見えた。

完全に感情を殺さぬ限り、もう一歩も進めなかった。
会場に身を置いている自分を想像するだけで、大の男のくせに泣きそうになる。
「殺すのか、殺さないのか」と、すでに答えは分かっていながらも自問してみる。
自分の全身全霊が、「行ってはならない。もう自分を殺してはならない」と大声で叫んでいる。

私は、「そやな、もう殺しちゃいかんよな」と答え、今度は反対の駅の方向に歩き始めた。
身体の表面の激しい緊張はスーッと解けたが、代わりに腹の奥から、ゆっくりと別の緊張が襲ってくる。
おそらく凄まじい表情をしているであろう自分にふと気づき、
「さあて、えらいこっちゃ……。臨床心理士やめろってことね」
と、わざとのんきに声を出した。

資格を放棄する腹は、この時にほぼ決まったと言ってよい。
それは、単に嫌だという感情からでなく、「これ以上このおぞましい集団的行為に、加担するわけにはいかない」という「決心」だった。

私はうつの経験者、「自分にうそがつけない人」の一人であると同時に、カウンセラーである。
だから、自分が何をすればうつになり、どうすればうつにならないかは、嫌というほど知っている。
しかし、断じて自分にうそをつかないということが、多くの場合周囲からどう見えるかということも、またそれがどれほど厳しいことであるかも熟知しているつもりだ。

この記事を読まれた方には、やはり理解してほしいが、また半面、理解されないことも覚悟している。
ともあれ、これが今の私にできる説明のすべてである。


おわりに

繰り返しになるが、ひとつ念を押しておきたい。

私が今回資格を放棄したのは、決して「臨床心理士」という社会的ステータスそのものを嫌ってのことではない。
カウンセラーである自分にとって、この資格は、過去に職まで辞して本気でカウンセラーになろうとし、そのために労力と費用と時間を惜しまず、最善を尽くしたことの証明であり、その意味では確かに誇りにも思っていたのである。

だから、たとえば資格更新の条件が、何個の研修会・学会に参加したか、また何回発表をしたかではなく、どれだけ臨床をやってきたかという査定の方法であれば、迷いなく更新手続きをしていたことは言うまでもない(驚くべきことに、臨床実績はいっさい査定の対象とはならない)。
なので、今後も「'元'臨床心理士」という肩書き(?)は出していくつもりである。

資格を放棄したタイミングは、実は5年という更新までの資格有効期限が切れる時期だった。
つまり、正直に告白するならば、その2年余り前に資格放棄を決意してからは、研修会や学会に一切出席しなかったため、いわば放っておいても資格は失効するはずだったのである。
しかし、真面目なカウンセラーを自認する私としては、やはり「やめさせられる」のは納得がいかないので、その直前に自主退会したというわけである。

また、一緒にカウンセリングルームを経営する私の妻も臨床心理士なのだが、彼女の場合は次の更新時期までまだしばらくある(2013年3月末)。
だから、彼女はすぐには臨床心理士をやめないが、それは彼女の考えが私と違っているからではない。
彼女もまた、現在、激しい抵抗感から研修や学会には一切参加していないので、やはり遠からず資格を失効するのは確定事項である。
彼女は、私が出会った中では、ここで書いているのとまったく同じ考えを持っている唯一の臨床心理士であることを、あらためて断っておきたい。

さらに付け加えておくと、時々、「カウンセラーになろうと思う」と我々のもとを訪ねてくる方がおられる。
資質については人によるが、一応カウンセラーになる筋道としては、私の場合、年齢など現実的条件が適合するかぎり、やはりできるだけ大学院に入り、まずは臨床心理士になることをお勧めしている。

私自身の態度とは矛盾するようだが、何といっても積むことのできる臨床経験の量と多様さ、それに論文を書く機会に恵まれる点で、大学院に籍を置いていたのといなかったのとでは、心がけ次第で身につくものの厚みがまったく違ってくるからだ。あくまでも心がけ次第だが。
それに、初期投資は大きいが、やはり経済力を安定させる上での近道でもある。

貯金が多ければ、一般的なカウンセラーの認定資格をとり、いきなり開業するというのも一つの手ではある。
しかし、やはり錐を揉むがごとく思考に没頭する経験によって、単に教えられたことを守るだけのあり方を、突き抜けていくだけの力を持つことも可能なのである。
自分の頭でものを考えられないカウンセラーの弊害は小さくない。

また、大学院生時代には、子どものプレイセラピーを多く担当させられるのだが、そこで学ぶことも極めて多い。
発達の問題や生来の性格について学ぶことはもちろん、大人になって精神疾患を発症する人たちがどのような成育史をたどるかについて、文字通り肌で感じ取る機会となる。

私の場合、カウンセラーという職について以来、他のすべての選択肢を捨てて(大学教員になるチャンスには、むしろ人より恵まれていた方だと思う)、とにもかくにも1ケースでも多くの臨床経験をもつことを心がけてきた上での開業だったので、「もうそろそろ臨床心理士はいいだろう」と自分を許した面もあったのである。

ただ、自分の頭でものを考えず、歪んだ教育をも鵜呑みにする大学院生が難なくこの世界に適応する一方で、人並み優れてカウンセラーの資質に恵まれた院生が、かえって臨床心理学教育に混乱し、「私は向いていないと思います」と言い残して、この世界を去ってしまうといったケースは少なくない。
実に悔しいところだ。



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Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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