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2017-11

2008/05/14の記事 HP更新+…… - 2008.05.29 Thu

この前のブログで、次はロジャーズの理論を批判的に検討すると書いたが、まああまり読まれているとは思えないブログであっても、論理的な批判となれば、それなりにきっちりしたものを書かないわけにいかず、細かい部分を調べるのに手間取っている。

で、いったん批判は先送りにするとして……
幸朋カウンセリングルームのHPをあらためて見直してみた。

すると、どのようにカウンセリングを行っているのか、またカウンセラーが主にどのような症状の方々と会ってきているのかなど、はじめて見る人にはほとんど具体的にはつかめないだろうな、という内容であることに気づいた。

個人的な面接の中身に触れないよう、内容と言葉を選んでいるせいもあるが、何かしら必要以上に曖昧模糊としているというか、公開という点においていまひとつ思い切りがないのだ。

まあ我々自身、これれまで大学や自治体という、生活や地位の保証された安全なパッケージ内の面接室で体験してきたことだけを頼りに、ただただ雲をつかむような気持ちでカウンセリングルームを立ち上げてきただけに、HPでルームを紹介するにしても、ずいぶん腰が引けていたんだなと、我ながら苦笑がもれる。

もちろん、内容はすぐに更新した。

私がHPの中身の分かりやすさにこだわるのは、ブログの始めのほうで書いたが、カウンセラーやカウンセリングルームは、得体の知れない存在であってはいけないと思っているからである。

その考えは、例のロジャーズ批判ともつながってくる。

うーん……、今日のところはロジャーズ批判はしない予定だったのだが、雲行きが……。
まあこういうのは内側から出てくるときに書くのが一番いいと思うので、指に任せて続けよう。

大学院でロジャーズを習うとき、たとえばクライアントが「私はこれこれのことが、こういう風に辛かったんです。」と話したとすると、「ふんふん」とうなずくか、「そうですか、あなたはそのことがそういう風に辛かったんですね。」とオウム返しするのが正解だと教えられる。

あくまでクライアントの感情を受容するために、カウンセラーは自身の感情を話してはいけない、というのがその理由だ。

「ふんふん」とうなずくのは状況によって問題ないとしても、オウム返しの方は、対話の形式をかたどってはいるものの、本当の意味での会話と呼ぶわけにはいかない。

完全に、情報の一方通行である。

クライアントのほうは、自らの危機を乗り越えるために覚悟を決めてカウンセラーの前に身を投げ出し、何事も隠さずに話そうとしているにもかかわらず、もう一方のカウンセラーのほうは、自らの気持ちも考えも話さないのである。

単純に見て失礼極まりないし、ごく普通の意味で、共感的関係など生じるはずがない態度である。

実際、カウンセラーがこういった態度をとり続けた場合、たいていのクライアントは、いつまでたっても、どのような見立ても指針も話さないカウンセラーにイライラを募らせ、吐き捨てるような言葉を残してカウンセリングを受けに来なくなる。

こうした場合、カウンセラーの側において、自分の態度にどういう問題があったかについて、充分に検討されることはあまりない。
なぜなら、カウンセラーとしては教えられた原則どおりに、カウンセリングを行なったに過ぎないからである。

ひどい場合には、あのクライアントにはこういう人格上の問題があったのだと、分析めいたことを言って自分を納得させるカウンセラーも少なくない。

しかし、怒って来なくなるというクライアントの反応はまだよいほうである。

別のタイプのクライアントは、今はカウンセラーの先生の考えはベールの向こうにあるけれど、いつかは本当のことをきちんと話してくれるに違いないと、青ざめた表情で、何の答えも自信も得られぬまま、何年でも延々とカウンセリングに通い続けることになる。

この場合、カウンセラーが自らのスタンスについて反省するということは、まずないといってよい。

なぜなら、意外に多くのカウンセラーが、とにもかくにもカウンセリングが長く続くことは良いことであると、思いこんでいるからである。

言うまでもないことだが、カウンセリングは長く続けばよいというわけではない。

もちろん原理的には、問題の次元が深いか、あるいは現実的な問題の規模が大きければ、何10年も集中的な面接が続くこともありえないではない。
しかし逆に、必要な問題の解決が見られれば1回で終わることも、あって当然である。

しかし、カウンセリングで一向に何の答えも得られないにもかかわらず、次こそは何かが得られるのではないかと思わせられ、延々と通い続けてしまう(通わざるを得ない)というのは、明らかに異常である。

しかし、異常であるにもかかわらず、そのようなケースは決して少なくないのだ。

はっきり言って、断じてあってはいけないカウンセリングである。

その時点その時点で、何か確実な見立てが立ち、クライアントに理解する準備が整っていると判断すれば、できるだけ早くそれをあまさず話すべきだし、私の場合、必要性・必然性があれば自分自身の個人的な体験も語る。

そしてもちろん、見立ての立たない点があれば、「ここまでは間違いないが、その点は分からない」と伝え、理由も話す。

少なくとも、分かっているのにあえて言わないのか、分からないから言わないのか、どちらか判別のつかないようなそぶりはしない。

当然ながら、クライアントはほぼ例外なく、カウンセリングに訪れる時点でかなり高い不安と緊張を抱えているばかりでなく、深い人間不信に陥っていることが多い。
つまり、周囲の人が何を考えているのか、また自分がどう思われているのか、分からなくなっている人がほとんどなのである。

そのような人に対して、何を考えているのか見えない対応をするということは、いったい何していることになるのか。
クライアントたちが、世間や家庭でこうむってきた不当な被害を、カウンセラーが最悪の形で再現しているということなのである。

また、カウンセラーがどのような態度を取るにせよ、クライアントの側から見れば相手は専門家なのだから、そこには「カウンセリングとはこういうものなのですよ」という前提はどうしても含まれる。
だから、クライアントはモヤモヤしながらも、「もっとはっきりしゃべってください」とはなかなか言い出せない。
自分は素人で理解できないが、カウンセリングとはこういうものなのかと納得するか、カウンセリング自体を無意味なものとして、あきらめるしかないのである。

私の考えは、相談者としてなんら特殊なことではないはずである。というよりも、私には当たり前としか思いようがないのだ。
熟練したカウンセラーの中には、賛同する方も少なくないはずだ。

ただおそらく、研究職についているカウンセラー、すなわちほとんど現場を離れ、現実離れした理論を教えるばかりの研究者兼カウンセラーについては、大半が私の考え方を否定するのではないだろうか。

私が、大学や自治体など、カウンセラーにとって一定の給料と地位が保証される、安全な場所に見切りをつけざるを得なかったのは、一つには、周囲にこういった痛々しいケースと指導方針を、数多く見なければならなかったからである。

もちろん現場責任者でもあったわけだから、他のカウンセラーにこのような考えを話したり、当事者には意を決して指摘もしたが、「考え方の違い」ということで終わらせられるか、「フロンティアですね」と、褒めらるというよりも、お茶を濁されるのが落ちであった。
うまい返しをやってしまっては、絶対にいけない場面もあるのだが……

身を切られるような思いとは、まさにあのような感情を言うのであろう。

今となっては、自分だけは安全な場所に身をおきながら、身を投げ出してくるクライアントたちと会うというのは、そもそも矛盾のある立場ではなかったかと、反省せざるを得ない。

ロジャーズをきちんと疑ったことのないカウンセラーは、このような批判を受けると、それでも感情の受容のためだからそうせねばならないとか、カウンセリングの対話は日常的な対話とは質が違うのだとか言って反論する。

果ては、そもそもロジャーズ自身、自分の決めた原則どおりにはカウンセリングを行っていなかったし、ただただ原則どおりにやるのはまだカウンセラーとして未熟なせいなのだ、と開き直る。

どう中立的に見ても、原則そのものを疑うべきなのにそれをやらないのは、ロジャーズの原則がカウンセラーに、何らかの利得をもたらしていると考えざるを得ない。
おそらくその利得とは、自らをベールのこちら側に置くことによって、いかにも底の知れない大きな存在に見せるという利得である。

今回は、ロジャーズ批判からはいったん離れると宣言したのに、結局、突如としてスイッチが入ってしまった。

どうやら、ロジャーズ理論と、それを疑わない多くのカウンセラーたちに対する私の怒りは、私自身が考えている以上に大きいようだ。

一段落 - 2008.08.24 Sun

地位と収入を保証された大学では、どうしても自分の理想のカウンセリングを行なうことはできないと悟り、今年の4月、やはりカウンセラーである妻とともに、大阪にカウンセリングルームを立ち上げた。

だが、私は決して、何もかもが理想どおりに進んでいなくては納得のいかない、理想主義者ではないつもりだ。

たいていの仕事でならば、いろいろ我慢しながら、できる限り実情にあった線で合理的にやっていこうとするし、別に組織の上位にいることにも執着はない。

愛想笑いだって、人間としての尊厳を失わない範囲でならば、いくらでもするのである。
実際私は、「愛想のいい人」と評されることが多かったくらいだ。

しかしそれは、カウンセラーのような種類の仕事以外での話だ。

あらためて言うまでもなく、カウンセリングを通じて取り組んでいく問題は、人の人生を左右する可能性のある問題である。

しかも相手は、絶体絶命の危機に瀕している人ばかりである。
与えられた時間も経済的余裕も、大きくない場合が多い。

さらに言えば、カウンセリングに訪れる人たちは、いとおしいほどに正直一途な人である場合が、圧倒的に多い。

何度か書いたことだが、私は自らがうつ状態に陥り、ユング派の心理分析を受けたことがきっかけでカウンセラーになったが、やはりそのことは気持ちのどこかで劣等感を刺激していたこともあり、あまり公に明かすことはなかった。

しかし、自分が大学・大学院と寄り道せずに進みそのままカウンセラーになったのではなく、うつを経験し、カウンセラーの前に身を投げ出した経緯をもっていることは、数多くのクライアントの方々との出会いの経験を通して、むしろ私の誇りとすらなっている。

そうでなければ、あの優れた人柄の人たちと出会うときに、気おくれしてしまったのではないかと思うほどだ。

正直言ってしまえば、人格的に立派な心理学者と出会うことは少ないが、クライアントの中には驚くほどたくさんおられるのである。

私のこのような感情に、矛盾した理屈をこね回し、「逆転移にすぎない」と片付けてしまう臨床心理学者の、いかに多いことか。

ともあれ、多くは言わないが、少なくとも私の経験の範囲における限り、大学という組織は、人生の危機に瀕している人の利益よりも、教授の面子や気まぐれのほうがたびたび優先する、私にとっていつも煮え湯を飲まされる場所だった。

その怒りが、私の中に溜まりに溜まっていた。

ここで書いた過去の記事をあらためて読み返してみると、我ながら、まさに怒りの爆発だったな、と思う。

ここにきて、感情は一段落した気がする。

学校のことや企業のこと、さらには弥生時代以来の稲作農村の体質が、日本人の心にどのように影を落としているかなどについて、言いたいことはまだ山ほどあるのだが、さしあたっての感情の吐き出しは終わったというところか……

感情が一段落したもう一つの理由は、私のクライアントがこのブログを読み、気おくれするのではないかという懸念である。

言うまでもなく、うつの人々は自分に自信がない。

自分は弱い、あるいは人より劣っているという思考に慣れすぎており、したがって、認められ評価されることに、たいていはひどく気おくれするし、恐れすら感じてしまうのである。

「自分は変わり者の劣等者です」と、周囲にも自分にも認めるあり方の中に、また逃げ込みたくなるのだ。

私はそのことに悲しみは覚えるが、そこから脱するという選択を、強制する立場にはない。
それにともなう恐怖は、私自身知ってもいる。

そのようなわけで、これからの記事は、これまでと比べるとやや低めのトーンで書いていくことになろうかと思う。



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ロジャーズ理論の問題点-序説として - 2008.12.02 Tue

以前の記事(おそらく記事91026のすべて)に、カウンセラーの方からあるコメントをいただいた。

私の考え方について好意的な内容だったが、カウンセリングにまつわる問題意識に微妙なずれがあり、そのことを指摘してお返ししようと思ったのだが、とても短い文では収まらなくなった。
また、ずっと表明を保留していた問題でもあるので、記事として掲載することにした。

なので、コメントは結果的に話のきっかけとして用いさせていただいたのであり、それに対する反論ではないことを、まず断っておく。

保留していた問題とは、「来談者中心療法」という、アメリカの臨床家カール・ロジャーズが体系化したカウンセリング理論に対する批判である。
ロジャーズ理論というものについてご存じない方のために、簡単ではあるが、
「日本の大部分のカウンセラーに、学派を超えて少なからず影響を与えている理論」
とのみ紹介しておきたい。

知識のある方は、比較的すんなりと読めるはずだが、知識のない方には難しいと思うし、ある程度ご自分で調べながら読んでいただく必要がある。
また、かなりの長文である。
何よりもそのことが、ブログで触れることを保留してこなければならなかった第一の理由なのだが、興味のある方のみご覧いただくということで、今回はお許しいただきたい。
といっても、実質的な内容は、これまでこのブログで私が語り続けてきたことばかりである。




sinririnshoukaさまへ

初めてのコメント、ありがとうございます。

私もsinririnshoukaさん同様、ロジャーズの三原則の中で「自己一致」だけは、相談者として紛れもなく重要な要点だと思います。
突き詰めれば、それだけあればいいのではないかと思うくらいです。
また確かに、臨床家の口からは「自己一致」よりも「受容」「共感」という言葉ばかり出てきますね。
そのあたり、まったく同感です。

ただ、sinririnshoukaさんが専門家の方ですし、この機会に他の方々にも私の臨床のスタンスを明らかにするためにも、あえて議論を曖昧にせず、私の論点をはっきりさせておきたいと思います。
私が感じているのは、sinririnshoukaさんのおっしゃるように、単に日本のロジェリアン達に問題があるというよりも、「自己一致」を除くロジャーズの三原則そのもの、特に「無条件の肯定的関心unconditional positive regard」という原則を中心とする問題点です。

河合隼雄先生は、ある著書でこの三原則について触れ、「無条件の肯定的関心」と「自己一致」は原理的には矛盾するが、これをより高度な次元で統合していてこそカウンセリングが成立するのだ、といった意味のことをおっしゃっていました。

頭ではなるほどと思った反面、その本を読んで以来10年ほど、ずっと私の中ではモヤモヤとしたわだかまりが残りました。
その間、貪るように、少しでも多くのケースをもつことを最優先の行動基準としてカウンセラー生活を送ってきたわけですが、その体験を通じて、この問題はもっと根が深いと考えるようになりました。

つまり、三つの原則のうち単に二つが矛盾しているというよりも、「無条件の肯定的関心」という原則それ自体が、すでに論理的・根本的に破綻しているということです。
より具体的に言うと、カウンセラーが人間である限り、他者に対して無条件に肯定的関心をもち続けることは原理的に不可能だ、ということです。

sinririnshoukaさんのおっしゃるように、「共感」や「受容」は姿勢・態度とも言えますが、「肯定的関心positive regard」とはさらにそれ以前のこと、つまり、「興味」や「好奇心」といったものと同様、対象によって喚起され、かつ対象に向けられる感情の一形態です。
したがって「常に肯定的関心をもちつづけよ」とは、解釈にどれだけ巾を持たせたとしても、カウンセラーは自らの感情を完全にコントロールし、クライアントに対し肯定的であり続けよ、と言っていることになります。
(regardという英語は、「配慮」とも「尊重」とも訳せますが、いずれにせよ同じです。)

しかし、少なくとも私の場合、というよりも誰しもだと思うのですが、クライアントの言葉や態度に明らかな矛盾を発見すれば、態度をどう取り繕ったとしても、本音では肯定的でいられません。

確かに、ほとんどのクライアントは、大変な問題を乗り越えるために、カウンセラーに対して自らのすべての情報をさらけ出す覚悟を決めることのできた人たちですから、非常に繊細である反面、腹の据わったところもあります。
つまり、芯は優れた人格の持ち主である場合が多いため、実際にはこちらとしても、大部分のクライアントに対して、肯定的な関心を持ちます。
しかし、必ずしもすべてのクライアントとその言葉に、常に肯定的な関心を持ち続けられる保証はどこにもないのです。

たとえば、うつなどのクライアントは、しばしば「悪いのは私のほうなのだ」という自己否定への幻想に逃げ込むために、自らの真の感情に矛盾する考えを口にします。
彼らからすれば、家族や周囲の不当性を意識し糾弾するよりも、自らが罪を引き受けるほうが社会的に収まりがいいからです。

他にも、もっとあからさまに、こちらが肯定的関心を失わざるを得ない言葉を、クライアントが延々と語り続けられる場合もあります。
ただ、その具体例をここで挙げるのは控えます。
文字情報には限界があるので、自己評価の低いクライアントの方々がこれを読み、「それは私のことではないか」と、事実に反して思い込んでしまう可能性があるからです。

ともあれ、そのような場合、カウンセラーが「それはおかしい」と素直に感じ、かつそれを言葉にしなければ、クライアントはまず間違いなく、かえって混乱します。
またそれ以上に、カウンセラー自身の内部で論理的整合性が損なわれながら、なおかつ平静を保たなくてはならないために、多くは何らかの解離を生じさせます。
典型的な例を言えば、カウンセラーは異様なまでに淡々とした雰囲気を身にまとい、張り付いたような薄笑いを浮かべ続けることになるでしょう。

クライアントに肯定的関心が持てない自分を、その理由も考えず、ただただ「カウンセラー失格者」として責めるのは愚かですし、関心が持てないこと自体を否認し抑圧すれば(関心が持てないのに「私は関心を持っている」と強迫的に思い込む)、抑圧された否定的感情は、多くの場合、クライアントへの陰湿な攻撃性として顕在化せねばならなくなります。

こうした矛盾を含む言葉も、それはそれで、総合的に言えばクライアント自身の感情の表明なのだから、カウンセラーが変わらず肯定的な関心を持ち、本人のその感情を本人に反射して支え続ければ、やがてその人が自ら深い洞察に達するといった理想が、ロジャーズ理論にはあるといえるでしょう。

しかしそれは、そもそもカウンセラーの側において、すでに原理的に不可能です。
なぜなら、「自分は感情を完璧にコントロールできる」という人がいるとすれば、それは全能の神であるか、完全な錯覚のどちらかでしかありえないからです。

私は、人間が自分についてコントロールできるのは、せいぜい限られた範囲での行動の次元のみだと考えています。
感情の抑制が辛うじてありうるとすれば、それは、うつの人々のように、セロトニンの分泌を抑制することで、感情機能そのものを鈍磨させてしまうくらいしかないのではないでしょうか。
しかし、これはあくまでも脳の自律的反応であり、言うまでもなく、自我による主体的なコントロールだとは言えません。

もちろん、感情が抑圧または解離されることは多々あります。
しかし多くの場合、抑圧されたネガティブな感情は、より無意識的かつアルカイックな形、あるいは不当かつ歪んだ形(暴力的・支配的な)で表現され、しばしば歪みのない人々への、嫉妬に基づく攻撃衝動となるか、あるいは神経症として現れるしかありません。
つまりそれは、感情のコントロールどころか、コントロールの失敗による、無意識化した感情や衝動の暴走です。

したがって、クライアントの話すことに対し、無条件に肯定的な関心を持ち続けるなど、理論的にも現実的にもありえないことであり、そのようにありえないことを目指そうとすれば、必ず何かがおかしくなるはずです
何よりも、関係の有機性が大きく損なわれます。
平たく言えば、「意味のある」「生きたやり取り」がまったくできなくなるということです。

現実にこういったカウンセリングが行われた場合、クライアントから見たカウンセラーは、「自分について何か大事なことを知っているようだが、自分自身の考えは一向に口にしない人」、つまり「恐ろしく巨大に見えるが、何を考えているのかさっぱり分からない人」となります。

私にとってこのことは、口にするのもおぞましい事態です。
なぜなら、多くの心理症状の持ち主、特に不安神経症や境界性人格障害の人にとっての恐怖は、「周りの人間が、本当は何を考えているのかわからない」ということです。
言うまでもなく彼らは、どれほど細心の注意を払って正当な言動を取り続けても、突然自分が悪者にされ酷い攻撃を受けてしまうなどの、根深い人間不信を形成せざるを得なかった背景を持っています。

彼らがこういった態度のカウンセリングを受けた場合どうなるか、専門家でなくとも想像できるのではないでしょうか。
実際多くのクライアントたちが、カウンセリングを受けたために、かえって不安と絶望の中に投げ込まれています。
「最後の頼みの綱であるカウンセラーまでもが、腹黒い偽善者なのか」という、自らの激しい怒りにもみくちゃにされる人もあれば、何年たっても、はっきりした見立ても自信も得られないまま、氷のような表情で、延々とカウンセリングに通わされ続ける人もいます。


私の場合、カウンセリングにおいて、自分がどのような人間であるのか、できるだけクライアントに分かりやすく開示しておくことを、かなり大事にしています。
そして、開示を大事にしていること自体も伝えています。
このブログでも、ある程度私のうつの病歴を書いていますが、私の生い立ちその他細かい体験、私の個人的な電話番号等、かなりの個人情報まで知っているクライアントは少なくありません。

もちろん、自分の体験について話したほうがいい理由がなければ、わざわざ話すことはありませんが、ある程度心がけて話しているのは事実です。
私の個人情報まで知っている何人かのクライアントは、パニックにともなう自傷・他害や、自殺の危険性のかなり高い時期のあった人たちですが。

また、こちらからの質問の意図が見えないと思われる場合には、「これこれの理由で質問したいのですが……」と、できる限り前置きしてから質問します。
滅多にしませんが、ご本人の希望で心理テストを施行した場合など、その結果を余さず伝えることは言うまでもありません。
本人に関する重大な情報を、本人が知らないのにこちらだけが知っているというのは、人権上の理由から、よほど特殊な理由がない限り、あってはならないことだと思うからです。
しかし、ご承知のように、このことすら、カウンセラーとしては必ずしも多数派ではない行動に属します。

もちろん、何らかの指摘を行なう場合など、劣等感や不安の強い方が誤って自分を責めてしまわぬよう、細心の注意は払いますが。

当然ながら、大学院では、こうした徹底的な自己開示は否定されるどころか、そんなことはしないというのがあまりにも当然の前提とされていました。
その主な理由は、「自己開示は転移を誘発するから」などでしたが、私にはよく理解できませんでした。

しかし私は、自分の意志でこの道を選んだプロです。
はっきりした理由も分からず、実際にやってもみないで、「何だか変だなあ……」と感じていることを、ただすんなりと受け入れる訳にはいきませんでした。

もちろんはじめは恐る恐るでしたが、実際に「自分を隠さない」という態度を貫いてみて分かったことは、生身のカウンセラーの姿が等身大でクライアントに見えているほうが、はるかに転移は起こりにくい、ということでした。
おそらく、理想化などが起きにくいからだと思います。
普通に考えれば、当然のことですね。
私のこの経験的結論は、逆にロジャーズ技法も少なからずやってみて、かつ手痛い失敗も少なからず経験した上で導き出したつもりです。



ともあれ、自らの感情を支配することが前提となっている一点のみにおいてすら、私は、ロジャーズ的世界においては、カウンセラーに神のごとき全能の存在が投影されている、すなわちかなり危険な考え方であると結論せざるをえませんでした。

カウンセラーの自我肥大の危険です。
そして、その危険性が現実化してしまっている例は、文字通り嫌というほど見てきました。

多くの場合、一見コントロールされたかに見えるカウンセラーの感情は、無意識的な支配という形で無制限に暴走し、何とか殺されまい、何とか生き延びようとするクライアントの感情に対し、最後のとどめを刺そうとします。
また彼らは、「カウンセラーは正しき者であり、クライアントは劣等者である」という何の根拠もない前提に、一度たりと疑いを持ちません。

ロジャーズ理論は、カウンセラーの「非指示」「自らを語らない」という態度とも相まって、カウンセラーが、自らを専門家というベールの向こう側に置き、現実世界のクライアントからは手の届かぬ安全な場所に居つづけるという卑劣な態度を、合理化してしまったのだと、断じざるを得ません。

しかも恐ろしいことに、他のあらゆる学派のカウンセラーの多くも、ロジャーズ理論の「自らをベールの向こうに置き、姿を見せない」という性格だけは、取り入れてしまっています。
はっきり言って、自らの権威の保護という、低次元な利得が大きな理由ではないかと思います。

思えばカウンセラーのこの態度は、ロジャーズ以前、フロイト初期の治療法、すなわちクライアントを寝椅子に寝かせ、治療者はクライアントの頭部方向にいて、姿を見せないまま会話するという方法を取った時以来のことなのかもしれません。

以上のような理由で、私は「ロジャーズの原則そのものに問題はないが、解釈する側に問題がある」という立場には、どうしても立てません。

ロジャーズ自身、自ら打ち立てた原則に、必ずしもとらわれずにカウンセリングを行なっていたのだとしたら、ロジャーズは「あの原則には、こういう問題点があった」と自ら指摘し、変更なり取り下げをしなければならなかったはずですが、彼は死ぬまでそれはしませんでした。

「私はロジャーズであって、ロジャーズ派ではない」とは、言ってはならないことです。
ロジャーズ派というものが社会的に形成される時に、彼が一大反対運動でも起こし、「あのカウンセリング理論はあくまでも私個人のためのものであって、汎用性はない」と宣言していたのなら話は別ですが。

私は、彼がもともと牧師を志望していた、牧会カウンセリング出身の人であることを知った時、「なるほど」と唸らざるを得ませんでした。
ロジャーズという人物は、彼自身が意識していたかどうかは知るよしもありませんが、終生変わらず、キリスト教的「神」の代行者であろうとした人ではなかったかと思えるのです。
また、結果的に彼は、何の根拠もないカウンセラーの絶対的優位性という幻想を、終生手離せなかった人なのではないでしょうか。




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安全策の落とし穴 - 2009.05.15 Fri

もう何10年も前の作品だが、本宮ひろ志さんが三国志を題材にして描いた「天地を喰らう」という漫画があった。
読者からの受けはイマイチで、本宮さんのものにしては珍しく早々に打ち切りとなってしまった、いわば幻の作品である。
だが、その作品の中ですごく印象に残った場面があった。

小さな記憶違いがあるかもしれないので、その点はお許しいただきたいが、龍女と交わったことで地上最強の肝っ玉を得た劉備が、義兄弟で豪傑の張飛と二人で旅をし、廃墟となった城で一夜を明かす場面である。

野盗や飢えた敗走兵が跋扈する危険な場所であるにもかかわらず、劉備は敢えてすべての城門を開け放って堂々と眠る。
やがて皇帝となるべき劉備の身を案ずる張飛の心配をよそに、劉備自身は、「門をすべて開け放っておけば、人はかえって恐れて入ってこれぬものよ」とこともなげに言い、いびきをかき始める。

現実的じゃないと言えばそれまでだが、一見合理的な方法からは逆に見えることのほうが的を射ていることは、決して少なくない。
一理あると思った。

カウンセリング場面でも、そういった局面は多々ある。
たとえば、いわゆる境界性人格障害の人などの場合、それまでの家族・人間関係の悲惨さなどから、不安と人間不信が強い。
彼女たちにとって他者とは、どこまでも得体の知れない、不気味な存在である。
さらには、相手もまた自分のことをどう思っているかが気になって仕方ないために、こちらの言動の裏を深読みしすぎる傾向が極端に強いのである。

それゆえ、カウンセラーの人柄や本心を知りたいと思うあまり、その個人的な情報、たとえば年齢、家族構成、出身地など、場合によるとどちらがカウンセラーなのか分からないくらいに突っ込んだ質問を受けることもある。

私が知る限り、あらゆる臨床心理学・カウンセリングの教育場面で、こういったタイプのクライアントに対しては、絶対に個人情報は教えてはならないと教わる。
一つ教えれば切りがなくなるというのが、どうやらその理由らしい。
「転移感情(理想化などを伴った、クライアントからカウンセラーへの思い入れ・好意)」を刺激しすぎる、という理由も言われる。

加えて、こういった質問をいかにかわすかという方法についても習う。
まずたいていは、「どうしてそのことが聞きたいと思ったのですか?」と、逆に質問で返す方法が一般的だ。

私は新米カウンセラーの頃、この教育には実に苦しまされた。
教員も諸先輩方も口を揃えてそう言うのだから、当然ながら、やはりそうした方がクライアントのためでもあるのだろうと思い、教えられたとおりにやる。
しかし、こういったやり方をしていると、支配と被支配の関係ばかりが固まってしまい、かえってどうしても深い信頼関係が築けないのである。
ましてや、質問に対して質問で返すなど、どう考えても失礼だと感じ、こちらのほうがやりきれない感情にとらわれてしまう。

先に述べたように、いわゆる境界性人格障害の人の心は不安と猜疑心に満ちているが、彼女らに限らず、あらゆるクライアントは目の前にいるカウンセラーがどういう人物なのか、信頼関係が成立するまでは値踏みを続けるのが当たり前だ。

で、ごく一般的に言って、不安を軽減する方法とは何か。
それは、「不安など感じなくていいのですよ」と伝えることでないことは、言うまでもない。
要するに、何かが見えなくて不安ならば、それを見せることである。

数年かかって、この単純な理屈にたどり着いた私は、はじめは恐る恐るではあったが、あらゆるクライアントに、自分の個人的な情報や考えをほとんど隠さず話すようになった。
今となってはあまりに当然のことだが、それによって問題が起きたことは、いまだに一度もない。
また、不安の高いクライアントからの、1日に何10本もの電話やメールにくたくたになっているカウンセラーの話を聞くことは少なくないが、私にはそのような経験もない。
さらには、カウンセラーは等身大の自分を見せてしまうのだから、極端な理想化も生じにくい。

もちろん、重い境界性人格障害のクライアントのケースも含めてである。

私がクライアントの質問に答えられないときは、まず例外なく、どれほど考えてもその答えが分からないときだし、そのような場合には、「ここまでは分かりますが、ここから先は分からない」とはっきり伝える。
カウンセラーのこうした態度によって、クライアントのカウンセラーに対する猜疑心のみならず、人間不信そのものも、かなり速いスピードで軽減することが圧倒的に多い。
つまり、どれほど強い不安を持っているクライアントでも、不安に駆られて、衝動的にカウンセラーにメールを送信する必要そのものがなくなるのである。

今になって、「特に不安の強いクライアントには、カウンセラーの個人情報は教えてはならない」といった教訓は、かなり論理性を欠いた幼い反応であることが分かる。
要するに、クライアントの不安に圧倒され、恐れて、殻に閉じこもるが如き反応をしてしまっているのである。
この記事のタイトルを「安全策の落とし穴」としたのは、このことである。

ましてや、恐れているだけなら可愛いげもあるが、上の立場のカウンセラーが若いカウンセラーにそれを強要し、さらにはその「掟」を破った者に対し罵倒するなど、自らの恐怖心のたちの悪い合理化・正当化である。言語道断と言わざるを得ない。


すべての道が車道化したために「ご近所づきあい」の機会が減り、それによって現代人は「周りの人々が何を考えているのか分からない」という暗闇に放り込まれることとなった。
当然ながら、それは精神疾患増加の大きな一因である。
そういった人々と会いながら、多くのカウンセラーが、その状況を最悪の形で再現しているという事実。
そういう場面に多少なりとかかわりのある人々は、必ずやこのことは知っておかなくてはならない。


今回はカウンセリングのことで書いたが、「安全策の落とし穴」というテーマは、実は社会や家庭内でもさまざまな歪みを生じさせる原因となっている。
今後しばらくは、視点を変えつつ、このことについて書いていくことになろうかと思う。




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この1ヶ月のこと - 2009.08.14 Fri

記事を更新できなかったこの1ヶ月あまり、「厳格さ」というものについて意識させられることが非常に多かった。

どうしたわけか、この1ヶ月、うつや摂食障害の人の家族との面談で、不条理や論理の歪みをいつも以上に多く見てきたのだが、「厳格さ」を必要とする場面ばかりだったのである。

カウンセリングという仕事をしていると、ユングが「シンクロニシティ」という発想を持たざるを得なかったことが、しばしば感じられる。
たとえば、相談の内容や症状・テーマなどが、一時に重なることが非常に多いのである。

一例をあげると、同じ日に「胃の調子が悪い」「父が胃癌になりまして……」「昔、私は大変胃が弱くて」などと、今日は胃の話ばかりだったなと思わせられるようなことも、決して珍しいことではない。
しかもそのような日は、自分自身も朝から「胃がおかしいな」と感じていたりするのである。

その文脈でいうならば、この1ヶ月は、「当たり前であるはずの理屈がまったく通用しない家族」という構造・モチーフが、かなりはっきりと布置していた。


当然のことだが、カウンセラーとしての私は、常に細心の注意を持って言葉を選択し、クライアントにそれを語る。
だから私は、面接室での私自身の言葉に対して、明確な責任の意識を持っている。
だが、カオスのごとき論理性の彼らにあっては、言っていないことが言ったことになっていたり、明言したはずのことが「そんな言い方ではなかった」ということになったりする。

それはもちろん、彼ら自身の言葉についても同じだ。
論理や事実のすり替えが、とにかく多発するのである。
だから、しばしば会話そのものが成立しない苛立ちを覚えさせられる。

虚しい議論からくる疲労感に、つい負けてしまいそうになる自分を、まさに奮い立たせ続けた1ヶ月だった。
「うんうん」と頷いてしまったほうがいっそ楽になれるのだが、不当な被害に合っているクライアントを守らねばならないから、踏ん張らないわけにいかない。

「負けを認めたら終わりだ」とか、「とにかく勝たねばならない」という意識は、まったくない。
相手が論理的に筋の通ったことを言ってくれれば、また私の方にに非があると正確に指摘してくれれば、いつだって、何の迷いもなく私はそれを認めるのだが、とにもかくにも無茶を押し通そうとする相手については、聳え立つ山のごとくにならざるを得ないのだ。


幼い頃から親と意見が食い違い、言い合ったときのことも蘇る。

そのような時、親はたいてい多数決を頼みにし、「親不孝」という言葉で罪悪感と恐怖を刺激し、ついには「屁理屈」という言葉で私の言い分を封じ込めた。
そして、そういった経験の数だけ、私の劣等感と対人恐怖は強められた。
その流れは、私が三十路にさしかかり、ある一大事に関する、家族親戚のほとんどを敵に回した戦いに完全勝利するまで、断ち切られることはなかった。

丸1年に及ぶ議論の末、勝敗を決したのは、生真面目でおとなしく、結婚以来母の尻に敷かれ続けてきた父の「こいつの言葉には、矛盾がない。」という静かな一言だった。
それを認めることのできる父が存在したこと……、多くのうつの方々と接する中で、私はやはり非常に幸運だったのではないかと感じる。
私のカウンセリングのイメージには、部外者ながら、あのときの父のような役割をカウンセラーとして果たすことはできないだろうか、という面が確かにある。

ともあれ、それ以前の古い記憶が、矛盾だらけのクライアントの家族と相対するときに蘇り、罪悪感を刺激されて、気を萎えさせようとするのである。



この間、私の頭の中では、真言密教におけるきわめて重要な仏尊、「不動明王」のイメージが踏ん張り続けた。
はじめから意識していたのではない。
気がつけば、火焔に包まれ、剣を真っ直ぐに立て、忿怒の形相であらゆる方向に睨みをきかせている不動明王の像が浮かんでいたのである。

弘法大師空海が、この世の全体と調和、完全性を体現する大日如来の化身としての座に、何ゆえ不動明王を据えたのか、少し感覚的に分かるような気がした。
大日如来が描く大円満の日輪は、人のあらゆる邪(よこしま)な思いを断じて許さず排除する、不動明王の一大決心によって裏打ちされているのである。



『古事記』の解釈をすると宣言していたのだが、それとこれは無関係ではない。
というのは、アマテラスの完全性を完成させたのは、一見わがままの塊に見える、天衣無縫の男神スサノオである。

父神イザナギは、この地上を拓いた存在ではあるが、罪なき子ヒノカグツチを斬殺したり、理(ことわり)に背いて黄泉に降ったり、妻イザナミに蘇ってほしいと自ら望んだにもかかわらず彼女を黄泉に閉じ込めたり、あまりに矛盾だらけの存在であった。
そういった矛盾に対し、最初に反乱を起こしたのは、アマテラスではなくスサノオだったのである。
スサノオは、天衣無縫であるがゆえに性質に歪みがなく、そのため思いのままに取る行動が、そのまま矛盾を正していくこととなる。

不動明王の本性は、剣と索(さく:邪気をとらえる縄)と火焔によって表現されるが、不動明王とスサノオは、剣という属性において共通している。
皇統に伝えられる三種の神器のうち八尺の勾玉(やさかのまがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)は、アマテラス再臨の呪術のときに献上されているが、残る草薙の剣(くさなぎのつるぎ)は、スサノオが退治した八股の大蛇(やまたのおろち)の尻尾より取り出し、アマテラスに献上したものなのである。

ついでに言うと、大日如来とアマテラスの共通属性は、言うまでもなく日輪である。


『古事記』解釈の続きは次の機会に譲るとして、ともかく今回はブログを更新できなかった間の心情について報告しておきたかった。




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カウンセリングと博愛主義 - 2009.11.22 Sun

実はこの記事、昨年の5月28日にアップした記事である。

ごく最初のほうの記事だし、"はてな"の方からFC2に移転して、それまでの記事をまとめてどっとアップしたうちの一つでもあったので、読まれた方は少ないと思う。
そこで、ここのところの話題にかんがみ、ほんの少しだけ手を加えて、最新の日付に直して再度アップしておきたい。

例に洩れず、見ようによっては尖った内容だが、あくまでも私の正直な感覚であることは言うまでもない。




こういう仕事をしていると、困っている人は誰でも分け隔てなく受け入れるイメージというか、どこか博愛主義的なイメージを持たれやすい。
だから、例えば「お年寄りや子どもは、(当然)お好きなんでしょうね」といった質問をされることが少なくないのである。

しかし私の場合、正直言うと、子供だから、お年寄りだから好きだ、あるいは嫌いだといった感覚はまったくない。
もちろん、「近頃の若者というのはどうも……」と、中年世代にお決まりの感情を抱いたことも、一度としてない。

つまり、好きな子どももいれば苦手な子どももいるし、お年寄りに対しても若者に対しても、その点ではまったく同じだからである。

私としては、至極当然の感覚だと思っている。
それどころか、そもそも博愛主義者・献身主義者には、カウンセラーは勤まらないのではないか、とさえ思うのである。

なぜそう思うようになったのか、少し説明することにしよう。

人間はうつや不登校になれば、誰でもカウンセリングを受けに来るのかといえば、決してそういうわけではない。

少なくとも私が会っているクライアントの多くは、考え抜いて、自分でできる限りのことをやりつくし、自らは他者に迷惑をかけることはなく、それでいてさまざまな人間関係の中で不当な役割を引き受けさせられ、あげくに自信を喪失した(あるいは一度も持てなかった)人々である。

私は、こういった人々にいとおしさを覚えると同時に、深い尊敬の念をも抱く。
もちろん、年齢は関係ない。また、だからこそ、長年カウンセラーという職業を続けてこられただけでなく、もはややめることなど考えられもしないのだと言える。
彼らとの時間は、私にとって珠玉の時間であると言っても過言ではない。

もちろん私は社会人でもあるので、こういった方々が、現代社会においていかに希少なタイプの人々であるかは、よく理解しているつもりである。

はじめは、自分の元には、「たまたま」こういったすごい人たちがやってくるのかと、不思議に思っていた。
しかし、世間には少ないはずの、こういったタイプの方があまりにも多くやって来られるので、ここ5~6年、ようやく「たまたま」ではないのだと思わずにおれなくなった。

そして、次のようなことに気づいたのである。

たまたま職業を聞かれて「カウンセラーです」と答えたとき、まず一般的な人々の10人中7~8人が、表面的には関心を示しながら、やや硬い表情となり、少し身体を後ろに反らすしぐさをする。

もちろん私の力量は、「黙って座っただけですべて見抜く」といった達人の境地には程遠いのだが、やはりカウンセラーというだけで怖がられるものなんだなと感じていた。

そこで考えてみれば、クライアントの方々とは、そんなカウンセラーの前に、何一つ隠さないという前提の下に、怖がらずに座ることができた人たちなのである。

彼らは表面的には自信を喪失しているが、どこかで深い自信に裏付けられているからこそ、カウンセラーの前に座ることができる。

その自信とはつまり、いわば「おてんとう様に顔向けができる」自信である。
もちろん、たいていのクライアントの方は、自分でもその自信に気づいていない。
つまり、カウンセラーの前に座ることなど、取り立ててすごいことだとは思っていないのである。
(もちろん、カウンセリングを受けようとしない人が不正直という意味ではないが。)

彼らの多くは、意識していないことが多いが、本質的に自分の気持ちに嘘がつけず、筋の通らないことはどうやればいいのかすら分からない。

クライアントの多くがそのような方たちだからこそ、カウンセラーとしては肯定し支えることに意味が見出せるし、力強くもなれる。

しかし、カウンセリングだからといって、クライアントならば誰彼なしにその考えや生きざまを肯定し、受容できる、というわけにはいかない。
実に論理的な思考と澄んだ目を持っているのに、少数派であるがために、自分のことを「ダメ人間」と言う人がいる。
そんな考えは肯定できるはずがない。
また、「あなたはそう感じられるのですね」と、肯定の立場も否定の立場も取らないでいて、その実最も絶望的な突き放しをやれるはずもない。

また一方、比較的少数ではあるが、中には、無謀な理屈に対する無謀な容認を要求してくる人がいるのも、また事実なのだ。

自らの論理と感情に慎重にかんがみ、否定すべき点は隠さずに否定する。
でなければ、こちらの論理や姿勢が崩れ、たちまち状況の本質を見失ってしまう。
つまり、本来カウンセラーとは、相手の論理の是非を明確に切り分ける、きわめて厳格な目と態度が要求される立場なのである。

「博愛主義者にはカウンセラーは勤まらないのではないか」と私が思うのは、そういう理由である。
もちろん、人間の本性に対する肯定的な感覚が背景になければ、そもそもカウンセラーはできないので、広義ではきちんと否定することも博愛的と言えなくもないが、……。

ところで、日本の大学・大学院で教えられるカウンセリング技法の代表といえば、まず第一に、アメリカ人ロジャーズによって創始された「来談者中心療法」という技法である。

この、まるで大前提であるかのように、カウンセラーの卵たちに教え込まれる「来談者中心療法」は、私にとってはあまりに博愛主義的であるばかりでなく、論理的に決定的な矛盾が含まれると考えている。

その批判については、『ロジャーズ理論の問題点』を参照いただきたい。



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専門用語が苦手やなあ…… - 2010.05.16 Sun

専門用語が苦手なのである。

心理学者のメラニー・クラインのことを、「カルバン・クラインがね……」と言ってしまって同業者に笑われたり、クライアントにADHD(注意欠陥多動性障害)のことを説明するのに、終始「ADSLっていうのは……」と言い続け、あとで赤くなってしまったりと、そんなことがちょいちょいあるのだ。

先日、久しぶりに同業者と飲む機会があった。
非常に博学な方ながら、あまり専門用語を使われないところが好感が持てたのだが、それでも会話をするために(先方にすれば)最低限の専門用語は必要で、それでもあまりついていけなかった。
「最近流行りの専門用語については、クライアントの方から初めて聞くことも多いくらいで……」などと言い訳したのだが、まあそうしたことが恥ずかしいと感じたのも、10年くらい前までである。

私にとっては、たとえば医師と連携するときに紹介状でやり取りしたり、クライアントに症状の説明をしたり、ブログはじめいろいろな書き物で特定の心理学理論のことを取り上げたりする時に、ある程度専門用語の知識は必要なのだが、それが実質的に役立つと感じることはほとんどない。

かつての私にとっては、多くの理論が、人の心理を考え研究する上でのきっかけ・叩き台になったことは確かなのだが、今は自分の目で正確に見て自分で思索するほうが、はるかに早く確かな考えに達すると実感しているのである。
それどころか、習ったことが固定観念・先入観となり、大切なことに気づくのが数年遅れてしまった経験さえある。

とくに最近は、さまざまな精神疾患に関する概念をアルファベットで表記することが多いのだが、正直もうやめてくれと思う。
そういえば、オーバードーズ(多量服薬)のことをODというのも、最初に聞いたのはクライアントの方からだったし、アダルトチルドレンのことをACと言われたときには、本当に「公共広告機構?」と思った。

こうなると、臨床心理学の専門用語からは人の言葉という色合いがますます薄れ、より記号的となる。
ひいては心理学という学問自体いかにも機械的に感じられ、人間を理解するためにはまず無機的な感覚と態度が前提であるような、妙な印象が強くなってくる。

だが、そうした印象は、はっきり言って間違いである。
どの症状も、どの病理も、本来きわめて人間的・有機的な反応であり、異常な状況に対する正常な反応なのだ。

あの記号的な表現、いい加減やめてくれないかなあ……


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きれいごとではない - 2010.08.31 Tue

古い記事のコメント欄ではメールアドレスを公開していたのだが、迷惑メールがちょいちょい届くため、ウェブ上でのアドレスをできるだけ削除しようと、ここのところそれらをアップしなおす作業をしていた。

当然、古い記事を再び読み返すことにもなったのだが、拍手数やコメントが、平均して今よりもずっと多かった。
「うつ」や「人の心」というものについて長い間考え続けてきて、このブログで初めてそれらをまとめて吐き出していたのだから、さもあらんというところだ。
明らかに、言葉の温度が高いのである。
もちろん、書きたいネタ自体は、今でも限りなくあるのだが。

ところが、古い記事の中でも、私自身がかなり気に入っている記事に対するコメントや拍手数は、意外とかなり少ないことが分かった。
とくに『感情』http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-53.htmlという記事である。

私自身が幼い頃、昆虫たちに加えてきた虐待についての記事である。
正直、ちょっと書くことがためらわれたのだが、自分の中の見たくないものから目を逸らさず、できるだけ正確に見るという作業を公開の場で行なうことで、このブログが「きれいごとではない」ということを示しておきたかったのだ。
今読み返しても、それを書いたときのある種の苦痛が蘇る。

あらゆるカウンセリングの山場においては、まず例外なく、こうした「目を逸らさぬ苦痛」がともなう。
この苦痛がいかに大きなものであったとしても、今とは違う場所に辿り着こうとする以上、こればかりは乗り越えないわけにいかないのである。

もちろん、何人たりとそれを強要するべきではない。
違う場所に行こうとするのかしないのか、それは当人の選択によるべきものだ。
言うまでもなく、我々カウンセラーもまた同じ立場である。

しかし、違う場所に行く道を選択する以上は、必ず乗り越えなくてはならない。
ここには、選択の余地はないのである。


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安全策の危険性 - 2012.04.30 Mon

現在、幸朋カウンセリングルームHPの大幅リニューアルに向けての作業中である。
その中で、ブログから抜粋した記事集の内容にもあらためて目を通しているのだが、書いた当初と現在とで気づきの深さがかなり違うものもあり、順次加筆訂正している。

中には、加筆訂正しているうちにほとんど別の記事のようになってしまうものもあり、今回のブログではその一つを公開させていただくことにした。
元は『安全策の落とし穴』というタイトルだったが、『安全策の危険性』と変更する。

私の、臨床心理学というものに対する現時点での考えが濃厚に含まれているはずである。




もう何10年も前の作品だが、本宮ひろ志さんが三国志を題材にして描いた「天地を喰らう」という漫画があった。 読者からの受けはイマイチで、本宮さんのものにしては珍しく早々に打ち切りとなってしまった、いわば幻の作品である。

だが、その作品の中ですごく印象に残った場面があった。
龍女と交わったことで地上最強の肝っ玉を得た劉備が、義兄弟で豪傑の張飛と二人で旅をし、廃墟となった城で一夜を明かす場面である。

野盗や飢えた敗走兵が跋扈する危険な場所であるにもかかわらず、劉備は敢えてすべての城門を開け放って悠々と眠る。
やがて皇帝となるべき劉備の身を案ずる張飛の心配をよそに、劉備自身は、「門をすべて開け放っておけば、人はかえって恐れて入ってこれぬものよ」とこともなげに言い、いびきをかき始める。

現実的じゃないと言えばそれまでだが、一見合理的な方法からは逆に見えることのほうが的を射ていることは少なくない。
一理あると思った。

カウンセリング場面でも、そういった局面は多々ある。
たとえば、いわゆる境界性人格障害の人などの場合、それまでの家族・人間関係の悲惨さなどから、不安と人間不信が強い。
彼女たちにとって他者とは、どこまでも得体の知れない、不気味な存在である。
さらには、相手もまた自分のことをどう思っているかが気になって仕方ないために、こちらの言動の裏を深読みしすぎる傾向が極端に強いのである。

それゆえ、カウンセラーの人柄や本心を知りたいと思うあまり、その個人的な情報、たとえば年齢、家族構成、出身地など、場合によるとどちらがカウンセラーなのか分からないくらいに突っ込んだ質問を受けることもある。

私が知る限り、あらゆる臨床心理学・カウンセリングの教育場面で、こういったタイプのクライアントに対しては、絶対に個人情報は教えてはならないと教わる。
一つ教えれば切りがなくなるというのが、どうやらその理由らしい。
「転移感情(理想化などを伴った、クライアントからカウンセラーへの好意あるいは嫌悪)」を刺激しすぎる、という理由も聞かれる。

加えて、こういった質問をいかにかわすかという方法についても習う。
まずたいていは、「どうしてそのことが聞きたいと思ったのですか?」と、逆に質問で返す方法が一般的だ。

私は新米カウンセラーの頃、この教育に随分苦しめられた。
教員も諸先輩方も口を揃えてそう言うのだから、当然ながら、やはりそうした方がクライアントのためでもあるのだろうと思い、教えられたとおりにやる。
しかし、こういったやり方をしていると、相手が怒り出すか、でなければ支配と被支配の関係ばかりが強まってしまい、かえってどうしても深い信頼が築けないのである。

一方は自分の情報をあまさず話し、もう一方は自分の個人情報はもちろん考えや見立てすら言わないのだから、支配的関係にならざるを得ない。服を着た人と全裸の人が面と向かえば、服を着た人が精神的に圧倒的優位に立つのが当然である。
こうなると、臨床心理の授業でのあの指導は、もっとも有効な精神支配の方法を教えていたことにすらなる。

そもそも質問に対して質問で返すなど、どう考えても失礼な話だ。
カウンセリングの会話は普通の会話とは違うということを、強調しすぎるカウンセラーは少なくない。
だが、本来失礼なはずの態度が、カウンセラーだからといって許されるとは考えるべきでないし、逆にクライアントのことも、いかに失礼な態度であっても受容しなくてはならないと考えるべきではない。

先に述べたような、不安と猜疑心に満ちているいわゆる境界性人格障害の人ならずとも、あらゆるクライアントにとって、本音では目の前にいるカウンセラーがどういう人物なのか、信頼関係が成立するまでは値踏みを続けたいはずである。
だから、クライアントがカウンセラーの年齢を聞いてきたのに対し、「なぜそれが聞きたいと思ったのですか?」というのは、普通に考えれば愚問以外の何物でもない。
今から人生にかかわる相談をしようと思っている目の前のカウンセラーが、「どのくらいの人生経験を積んできているのか?」ということは、クライアントにとって死活問題である。それを年齢によって推し量ろうとしていることは、まず誰にでも分かることだ。
「年齢と能力は必ずしも一致しないですよ。」と言うことはあるが、それはきっちり年齢を答えた上でのことである。

そのあまりにも分かりきったことに対して、「なぜそれが聞きたいのか」と聞き返すのは、普通「そんなことは聞かないように」という厳しい禁止の意味しか持たない。
カウンセラーは表情一つ変えず、もしくはにこやかに、その厳しい禁止の言葉をクライアントに突きつけているわけだ。
何とも不気味で恐ろしげなやりとりである。

そもそもごく一般的に言って、不安を軽減する方法とは何か。
言うまでもなく、「不安など感じなくていいのですよ」と伝えることではない。
要するに、何かが見えなくて不安ならば、それを見せることである。

数年かかって、この単純な理屈にたどり着いた私は、はじめは恐る恐るであったが、質問さえ受ければ、自分の個人情報すら、そのほとんどを隠さず話すようにした。
(その代わり、いかに不安の強いクライアントであっても、それに見合うだけの自分の情報を隠すことは許さなかった。)
当然といえば当然の結果だが、それによって問題が起きたことはいまだに一度もない。

不安の高いクライアントからの、1日に何10本もの電話やメールにくたくたになっているカウンセラーの話を聞くことは少なくないが、私にはそのような経験は一度としてないのである。
「カウンセラーはいったい自分のことをどう思っているのか」という不安に駆られて、衝動的にカウンセラーにメールを送信する必要そのものがなくなるからだ。

さらには、カウンセラーは等身大の自分を見せているのだから、極端な理想化転移も生じにくい。
つまり、信頼関係は成立しながら、カウンセラーに対する依存がほとんど生じないか、もしくは早々に解消されるのである。
もちろん、重い境界性人格障害のクライアントのケースも含めてである。

私がクライアントの質問に答えられないときは、まず基本的に、どれほど考えてもその答えが分からないときだけで、そのような場合には、「ここまでは分かりますが、ここから先は分からない」とはっきり伝える。
カウンセラーのこうした態度によって、クライアントのカウンセラーに対する猜疑心のみならず、人間不信そのものもかなり速いスピードで軽減することが少なくない。
不動点がたった一点定まることで、方向感覚を取り戻していくということなのではないかと思う。

今にして、「特に不安の強いクライアントには、カウンセラーの個人情報は一切教えてはならない」といった教訓が、いかに論理性を欠いた幼い反応であるかが分かる。
要するに、クライアントの不安に圧倒され、恐れて、殻に閉じこもるが如き幼稚な反応をしてしまっているのである。
私は若いカウンセラーのスーパービジョンも行なっているが、バイジー(受けている人)がこの点をきちんと理解すると、途端に重心が落ちて腹の据わった感じになる。

あるカウンセラーのケースでは、いったん帰ったはずのクライアントが戻ってきて、「さっき先生のおっしゃったことの意味が分からなくて」と不安を訴えた。
ところがその担当カウンセラーはクレームを言いに来られたと勘違いし、「私はいないと言って」と受付の女性に頼んで声を潜めて隠れていたところ、その受付の女性が見事に腹の据わった対応でクライアントの不安を解消した。

それはあとで別の職員から聞いた話だったが、おそらく同じクライアントから電話がかかってきたときも、やはりそのカウンセラーは震えんばかりに「私はいないと言って」と繰り返していた。
そのときのカウンセラーの真っ青な表情と、ごく普通の健康な人が持つ能力の対比。
それを目の当たりにして、日本の臨床心理学教育に対する私の絶望感はますます深められた。

以上は、超一流の大学院で、臨床心理学の高等教育を受けたカウンセラーの話である。
臨床心理学の教育の過程では、カウンセラーの卵たちは、徹底してクライアントへの恐怖を植え付けられるという面が非常に強い。
だから多くの臨床心理士が、その資格を取ったにもかかわらず、あまりカウンセリングをしたがらず、できることなら教育職・研究職につきたいと考える。

教育・研究職につけば、当然ながらますますカウンセリングはできない。
だから、カウンセリング経験のほとんどない者が、カウンセリングの"高等"教育を施す立場に立つという奇妙な状況も、数限りなく出現している。
そして、そういった研究者ほど学生や院生に対して、平均して高圧的であるように思えてならない。
思うに、潜在的な恐怖と劣等感が反転しているのであろう。

プロフィールをごらんいただけばお分かりと思うが、ありていに言って、私や家内が研究職につく機会は人並み以上に恵まれていた。
にもかかわらず、あくまでも一カウンセラーであることに固執し続けたのは、こうした歪んだ体制に迎合することを強く拒絶した結果でもある。

一般的に見ても、昨今は他人に対してとにもかくにも個人情報を隠したがるが、これは当たり前に他人を信頼する感覚の薄れ、反対に恐怖心がとてつもなく強くなっていることの現われなのだろう。
ともあれ、この記事のタイトルを「安全策の危険性」としたのは、このことである。

まだしも恐れているだけなら可愛いげもあるが、先輩カウンセラーが若いカウンセラーにその恐怖を強要し、さらには「掟」を破った者に対し罵倒するなど、自らの恐怖心のたちの悪い合理化・正当化である。

すべての道が車道化したために「ご近所づきあい」は分断され、さらに子どもたちが家の周辺で集団遊びできなくなったために、「幼馴染」という、昔なら一生の付き合いになったはずの基礎的コミュニティは姿を消した。
そのため様々な性質の他人と接する機会がなくなり、現代人は「周りの人々が何を考えているのか分からない」という暗闇に放り込まれることとなった。

おそらくそれらは、精神疾患・人格障害の増加と重症化のもっとも大きな要因である。
そういった現代人と会いながら、多くのカウンセラーが、「周りの人々が何を考えているのか分からない」という状況を臨床場面で再現してしまっているという現実は、決して否定できないのである。

今回はカウンセリングのことで書いたが、「安全策の危険性」というテーマは、実は社会や家庭内でもさまざまな歪みを生じさせる原因となっている。



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カウンセリングに対する私たちの考え方 - 2012.05.11 Fri

カウンセリングルームのHPをリニューアルしたのですが、前のHPを最初にアップした頃と世情が変わっている面もあり、またこちらの意識の置き所が微妙に変化したこともあって、トップページ冒頭の言葉を書き直しました。
その全文をこのブログでもアップしておこうと思います。
追記の部分は、HPの方でも別ページとなっています。




うつ・パニック障害・摂食障害、あるいは家族関係や人間関係の問題……

カウンセリングに訪れる方々の訴えはさまざまで、またその傾向も時々刻々変化していますが、最近では、「私はアダルトチルドレン(AC)ではないか」とカウンセリングを希望される方が急増しています。

ただ、「私はACでは」と来談される方々の場合でも、実際に現れている症状は「うつ」や「パニック障害」であったり、漠然とした不安・劣等感や、人間関係上の問題を抱えておられたりと、状態はさまざまです。

つまりACとは、「うつ」などの症状を表現する用語というより、「機能不全家族の中で育った」という「背景」を捉えた言葉です。

2010年頃までは、「うつ」という訴えがカウンセリング全体の半数にもおよび(今も多くおられます)、私たちは自分ばかりを責めてしまううつの方たちに、家族や周囲の問題に目を向ける重要性をお話しせねばならないことが、多々ありました。
それを考えると、悩みを持つ方々の意識が家族の問題にも向かい始めたのは、精神疾患に対する一般の見識が深まった結果のようにも思えます。

しかし、……

クチコミサイトの件 - 2013.10.08 Tue

最近、yahooその他の口コミサイトに、下のような誹謗中傷コメントが掲載された(yahooのほうは削除済み)。

うちは開業して5年半になるが、ネット上での誹謗中傷の書き込みはこれで2件目である(1件目についてもこのブログで取り上げている)。
当カウンセリングルームのHPを見ていただければ、この人物の言い分が的外れであることはすぐにお分かりいただけると思うので、わざわざ表だって訂正するほどのことでもないのだが、幸朋カウンセリングルームの基本的な態度を知っていただくいい機会でもあるので、あえて取り上げることにした。

ちなみに、はじめに言っておくと、yahooでの書き込みのことをツイッターで少しつぶやいたところ、瞬く間に数人のクライアントの方たちが、同じサイトに高評価の書き込みをしてくださったので、むしろありがたい結果にはなったのだが。
それに、もともとこの書き込みのことを教えてくださったのも、クライアントの方々である。
この場を借りて、お気遣いくださった方々に、心よりお礼申し上げたい。

さて、以下がその内容である。



『また一方、クライアントとしては少数ではあるが、中には無謀な理屈を述べて、カウンセラーにその容認を求めてくる人がいるのも事実なのだ。
自らが立てる論理と感情に慎重にかんがみ、否定すべき点は隠さずに否定する。
でなければ、こちらの論理や姿勢が崩れ、たちまち状況の本質を見失ってしまう。
つまり、本来カウンセラーとは、相手の論理の是非を明確に切り分ける、きわめて厳格な目と態度が要求される立場なのである。決して、何もかもを無条件に受け入れるべき立場でもないし、人種でもないのだ。
とブログに書いている奴ですが。
もともと身体疾患も併発したうつで、初回だけは頑張って面談で受けに行き、遠方っだったためその日身体がボロボロに疲れたので、次回以降は、電話でと依頼したところ。電話でも可能と謳っているくせに、”自分の心身が疲弊するから、電話はいやだ”
と悪びれもなく、当たり前のようにのたまってきた。
なら店じまいしろw 電話カウンセもやめれw
私は下記のような、メールを奴に送りました。
以下メール内容転載・・・・・・
ブログ記事、全くもってあなた自身のことですね。
カウンセリングを開いているのに、”自分の心身が持たない”などと馬鹿げたことを言って、体調の悪い患者でも電話でなく来訪させようとする。
体調が悪いなら、店を〆なさいよ。
開けてる以上、ましてや電話でも可能と謳っているんでしょうが。
いざ蓋をあけたら、
”患者:体調が悪いので次回は電話がいい”
”あんた:電話は困ります。”
”患者:は?なんで?いいって書いてあるでしょうが”
”あんた:僕の心身が疲弊するんでw”
っておかしいでしょう。
どっちが患者なん?
やめてしまえ
あんたの”論理や姿勢”が、キチガイじみていますよ。そんなもので他人を裁けるとでも?
自分が一段他人より上にいる(と思いこんでいる。同時に自分が全て正当だとも、思いこんでいるようですね)かのような言い方が、にじみ出ていますね。
思いあがりですね。』



この人物の言い分が的外れである点は、まさに挙げればきりがないので細かい点には触れないが、根本的な部分についてのみ言うならば、まずもって当方は「電話カウンセリングもOK」とは謳っておらず、むしろ「電話カウンセリングは致しません」と謳っているのである。
分かりやすく言うと、電話カウンセリングは、うちで取り扱っていない商品なのである。
電話カウンセリングを希望するのならば、他の電話カウンセリングを行なっている施設に依頼されるのが筋である。

ただ当方の場合、例外として、ごく遠方にお住まいの方と、外出が不可能な重度の身体障害をお持ちの方に限り、スカイプカウンセリングに応じることにしている。また、さらにその中で、高齢の方などでインターネットが使いこなせない場合を想定して、スカイプの用意ができない場合は電話カウンセリングでも対応します、と但し書きをつけている(電話カウンセリングについてのインフォメーションはすでに削除)。
この人物が、うちのHPで「電話でも可能」と謳っていると言うのは、その部分の拡大解釈なのだろう。

もちろん、うちが基本的に電話カウンセリングを行なわないのには理由がある。
電話カウンセリングの場合は、相手の仕草や表情その他、聴覚以外の情報がまったく得られないのと、その聴覚情報ですらかなり限定されるために、多くの場合ほとんど有効なカウンセリングにならないことを経験的に知っているからである。

現状としては、近畿圏外の方などに対するスカイプカウンセリングには、少なからず応じており、上記のようなやむを得ない理由から、電話カウンセリングにもごく少数応じている。
つまり、この書き込みをした人物は遠方に住んでいるわけではなく、身体障害を持っているわけでもないことは言うまでもない。





さて、この問題にからめ、私や家内のカウンセリングに対する考え方として強調しておきたいのは、まさにこの人物が最初に書いた、私の言葉の引用部分である。

『(相手がクライアントであっても、)自らが立てる論理と感情に慎重にかんがみ、否定すべき点は隠さずに否定する。
でなければ、こちらの論理や姿勢が崩れ、たちまち状況の本質を見失ってしまう。
つまり、本来カウンセラーとは、相手の論理の是非を明確に切り分ける、きわめて厳格な目と態度が要求される立場なのである。決して、何もかもを無条件に受け入れるべき立場でもないし、人種でもないのだ。』

何年前に書いた文章かは忘れたが、今読み返してもこの考えは変わっているどころか、カウンセリングという仕事を続ける中で、むしろますます確たるものになっている。
だから、相手がクライアントさんだからといって、理不尽にキレられたからあわてて頭を下げるということはせず、自分が正当な立場であればその正当性をあくまでも主張するし、できないことはできないと言うだけである。

当然、クライアントさんの尊厳と同時に、自分自身の尊厳もきっちり守る。また降りかかる火の粉は払う。
もちろん、本当にこちらに落ち度があれば、先方がいいと言っても頭を下げる。
言ってみれば、ごくごく当たり前のことである。

ただ、こうした態度はおそらく日本人には珍しいだろうから、こうした反発は他のカウンセリング施設よりも受けやすいのかもしれない。
もとよりそれは覚悟の上だ。

一般的に言っても、ただただ事を丸く治めようとするあまり、大切なことを歪めてしまうという傾向が、日本人の場合は非常に強い。
「意見聞く時ゃ頭を下げろ。下げりゃ意見が上を越す♪」という昔ながらの都都逸(どどいつ)が、日本人の事なかれ傾向を如実に表している。

強者から押し付けられた理不尽を飲み込むことの問題は、飲み込まされたその人自身がうつにならない限り、必ず他の弱者に理不尽を押し付けて、その鬱憤を晴らすことになる。ひいては、立場が弱い人弱い人へとしわ寄せが集中していく点である。
たとえば、クレーム対応専門の社員が、「とにかく、まずは謝れ」と上から教育され、毎日それをこなしていくうちに、ある日突然色や味が感じられなくなるという、急性のうつ症状に見舞われたりする。

本来責任のない人が責任を取らされることが多いのは、こうしたことが常識化している社会体質からだし、日本人のうつが、他国に比べて格段に多い大きな原因でもある。
また、理不尽にキレるほうも、怒ってねじ込めば、相手は角が立つのを恐れて頭を下げるものだと思いこんでしまっている。
クレーマーが巾を利かすのも当然である。

今回の問題自体大きなものではないし、いちいち取り上げて大人げないと思われるのもどうかとは思った。
しかし、あえてここで書き込みの件を取り上げたのは、そうした理不尽さに安易に屈していては、正直で卑怯さを持たない人が応分に報われ、安らかな生活を手にすることはできないのだということを、多少なりとも示す機会にしたかったからである。

うつ性格(メランコリー親和型性格)の方々、内向型の性格の方々は、他人の上に立つという欲求が小さく、そのため今の時代にあっては、瞬く間に美味しいところを持っていかれたり、不当に我慢を押し付けられて泣き寝入りすることが多い。
しかし、それだと人生において喜びや楽しみが感じられなくなり、やがて生きる意味すら失ってしまう。

だから、そういったタイプの人たちにこそ、自分や、自分が大切にしている人の尊厳を守り切る毅然とした態度。
そして、その結果生じる逆風に、断じて屈しない覚悟。
また、それなりの計算や策略が必要不可欠なのである。


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大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

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