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2017-07

タイトルを変更した - 2008.06.30 Mon

ブログのタイトルを、「幸朋カウンセリングルームでの日々」から、「「うつ」-自分にうそがつけない人たち」に変更した。

理由は2つある。

カウンセリングを受けにこられる方々は、もちろんうつの人ばかりではないのだが、私にはやはり、うつが現代人の病理をもっとも端的に現しているように思える、というのが理由の一つ。

もう一つの理由は、私自身も長らくうつ状態に陥り、なんとか「乗り越えた」と言えるほどの経験を持っているからである。

ブログやホームページで、「うつ」の人の病理や現実について少し触れてきたが、それはうつの方々と会ってきた経験だけがベースになっているのではなく、むしろ多分に自分自身の経験に基づいた話である。

今後もそういったスタンスで、このブログを綴っていくことになるが、ここらでうつと自分との関係をはっきりさせておきたかった、ということである。

「うつ」の人が周りから言われること - 2008.07.13 Sun

うつの人たち、もっと正確に言うと「うつになってカウンセリングを受けに来る人」たちが、小さい頃から家族や知人によく言われてきた、お決まりの言葉というのがある。

たとえば、「考えすぎ」「理屈っぽい」「頑固」「融通が利かない」。
ほかに、「何でそんなこともできないの?」というのは、何も手につかなくなるから当然としても、何かにつけて「そこは割り切らないと」と言われたことも多いはずだ。

もちろん、こういう風に言われる人が、すべてうつ的だとはいえないが。

特に最後の「割り切らなきゃ」という言葉は、うつになる人々の特徴を、よく表しているといえる。

「割り切れ」というのは、言い換えると、「感情を切り捨てろ」という意味。
つまり、うつになる人は、自分の感情に背くことができないのだ。

さらには、ものごとの矛盾に敏感で、筋が通らないと思えることには、どう振る舞えばいいのかすら分からない。とにかく、いい加減・適当ということができない。

しかしこれは、人間として、断じて短所ではないと言いたい。

うつを乗り越えた人は、その後、本当によい人生を送れることが多い。
それは、人として筋の通らないことをやらずに生きてきた分、後悔が少ないからである。

自信を獲得するまでの道は確かに険しいが、ひとたび獲得すれば、誰に対しても、またお天道様に対しても、恥ずべき点がないのである。

多くの精神医学書で、うつの人のこういった特徴が、あたかも短所であるかのような書き方をされているが、こういった点を短所と思わせられてしまったこと自体が、何よりも大きくうつの病理を形成している。

そもそも、うつになる人に限らず、こういった基本的な性格は、変えようとしても変わらないし、そんなことをすればするほど、どんどん泥沼にはまっていかざるを得ない。

うつを乗り越えるためには、勇気を持って、周囲の言葉に耳を貸さなくなる必要がある。
そして、自分は少数派でいいのだと、覚悟を決める。
(すぐには覚悟が決まらないのが普通だが……)

もっと頑固に、もっと融通が利かないようにする。
逆転の発想といえばそうだが、その方向にしか、進みようがない。

「あんたは考えすぎだ」と言われた場合など、「まだ考え足りないのだ」と置き換えるくらいでちょうどいい。
誰がなんと言おうと、つい考えてしまうときはとことん考える。
そう開き直れば、意外なことに、余分な考えこみはなくなるから不思議だ。



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「親孝行」という倫理観の重圧 - 2008.07.24 Thu

親との関係の重圧についての、コメントをいただいた。

うつの方々とお会いしていると、ほぼ例外なく、少なくとも両親のどちらかとの確執が大きな問題となっている。
そうしたことから、「親孝行」あるいは「親不孝」とはそもそも何なのかについて、ここ数年来ずいぶん考えさせられた。

それを書いてみようと思うのだが、ここで述べる考え方は、多少なりとも、この世に産んでもらってよかったと感じることのできる人にとっては、抵抗のある考え方だと思う。

まず、結論から言うならば、日本人の倫理観において絶対的なまでの地位を占める、「親孝行が大事」という考え方は、論理的におかしいと、私は考えている。

多くのうつの人は、「親孝行」あるいは「親不孝」という言葉を口にする時、必ずといってよいほど顔を曇らせる。
親が産んでくれた結果、この世に自分がいるのは確かだが、そもそもうつの人々にとって、自分自身がこの世に存在すること自体、必ずしも喜ばしいことではないのである。

多くのうつの人の視点からすれば、気がつけばこの世に存在させられていて、自分は望んだわけでもないのに、親をはじめ周囲の言うがままに生きることを強要され、社会や学校への適応を押し付けられ、あげく、意に沿わなければ、「誰が今まで食わしてやったのか!」と、絶望的な非難をあびせられる。

結果、この世で自分なりの感情を持つこと、好きなように生きることは、許されないことなのだ、という結論にいたらざるを得なくなる。

死を願う人が少なくないのも、当然である。

すべての苦難が自分の望んだことの代償であれば、納得せざるを得ないが、よくよく考えてみれば、人は誰一人として、親に産んでくれと頼んで産んでもらったわけではない。

一方、親の方といえば、いつの間にか子どもを身ごもり、強制的に産まされたということは、よほど特殊な状況にない限り、ありえない。

つまり、親の方は例外なく、産むという選択をして子どもを産んでいるのである。

であるならば、親が子どもの意味ある人生に対して負うべき責任は大きいが、子が親に対して負うべき責任は、本来何もないと言ってよいはずなのだ。

産んでもらったこと自体は、何の恩恵にもならないし、食わせてもらったことも、産んだ側の責任としては当然のはずだ。
親が偉そうに振りかざすべきものではない。

少なくとも私自身は、我が子に対してそういう感覚である。

子が親に対して負わなければならない責任があるとすれば、それは社会的責任である。

つまり、年老いた親を、ただただほうり出せば社会に迷惑をかけるから、社会人として生きようとするかぎりは、親の老後は子が引き受けるしかない、たとえばそういった責任だけである。

ちなみに、私自身の親との関係について少しだけ触れるならば、正直、母親との関係にはかなり厳しいものはあったが、父親に対してはいとおしく思っている。

私の父もまた、私が子どものころは家族の中で弱い立場だったため、正直、母からの守りにはなってくれなかった。
しかし、幸運かつ稀なことに、父は話せば必ず分かってくれたし、きちんと情も責任感もある人だったのである。
だから私は、父が喜ぶ顔を見ると嬉しいと感じ、何か彼が喜ぶことをしたくなる。

しかし、それは決して、倫理観や責任感からくるものではない。
父親が私に、それだけのことをしてきてくれたからなのである。



そもそも、日本人にとって、「親孝行」が絶対的と言ってよいほどの倫理観として根付いたのはなぜか。
もっとも大きな原因は、おそらく徳川幕府の安泰という政治目的からくる、儒教の教育・浸透ではなかったかと思う。

そもそも儒教とは、理想的な政治の実現を目指して興ったものであり、その発展も、政治的利害と常に表裏一体であった。

もちろん江戸時代より前にも、「親孝行」が美徳とされる考え方はあるにはあったに違いないが、徳川期、とくに三代将軍家光以降において、家や社会における序列は絶対である、とされるようになったようだ。

子が親に逆らってはならない、という倫理観の絶対視は、目上は立てなければならない、という考え方にまで広げられる。
だとすれば、ヒエラルキーの安泰をもくろむ為政者にとって、これほど使える倫理観はなかったといえる。

さらには、当時の国民の大半を占めていたのは農民である。
田畑を世襲し、農村という共同体を存続せねばならない農民たちにとっても、「親孝行」「目上を立てる」という倫理観は、非常に目的にマッチするものだったはずだ。

つまり、日本人には、「親孝行」が大事という儒教の教えを、受け入れやすい土壌があったことは確かだ。

そして、こういった個の感情を殺す農村体質は、やはり現代日本人の大半を占めるサラリーマンたちによって、かなり似かよった形で受け継がれている。

徳川の歴代将軍によって受け継がれてきた、民衆支配の根本、それは、「百姓というは、生かさぬよう、殺さぬよう……」である。
つまり、最下辺の生産者として、百姓に死んでもらっては困るが、治世の安定を第一に願う以上、心まで生かしてはならない、ということである。

はっきり言って、現代の大半の企業において、このあり方は脈々と受け継がれている。
そして、繰り返し言うように、うつになる人たちは、本質的に自らの心(感情)を殺せない人たちなのである。

彼らにとっては、そこでうつを発症しないほうがおかしいくらいだ。



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セルフコントロールの限界 - 2008.08.05 Tue

「感情のコントロール」という言葉は、日常生活の中でも、比較的当たり前に使われる。

うつの方がカウンセリングに訪れてこられた際も、「どうしてもやる気が出ない。どうすればやる気になるのか」という希望は、当然ながらしばしば訴えられる。

しかし、うつの人に限らず、感情のコントロールというのは、基本的には不可能であり、あまりしようとしてはいけないことだと、私は思っている。

感情の起伏、すなわち喜怒哀楽は、たとえば目の前で起きたあるできごとや、過去の記憶の想起に対して、ひとりでに生じてくるものである。
たとえば、怒ろうと頭で考えてから怒る人はいないし、喜ぼうと考えてから喜ぶ人もいない。

つまり感情というのは、自分のものでありながら自分のものではないもの、自分の「意志」とは無関係な、一種の生理現象(自然現象といってもよい)である。

要するに、望むと望まざるにかかわらず、「向こうからやってくるもの」なのである。


だから人は、自分の感情に関しては、責任の取りようがない。
いうなれば、「誰がどう言おうと、腹が立っちゃったんだから仕方がない」と思うしかないのである。
これは、開き直りでもなんでもない。ただの事実だ。

他人が、「そこで腹を立てるのはおかしい」などと言うこと自体、筋が違うし、言われてもどうしようもないことなのだ。

責任が取れること、すなわちセルフコントロールがある程度きくのは、せいぜい限られた範囲の、行動の次元でのことに過ぎない。

たとえば、「ここは腹を立ててはいけない」という感情の抑制には無理があるが、代わりに、「腹は立つが、あれやこれやを考えると、ここは笑ってやり過ごしておくのが得策だ。」という行動の抑制はある程度可能だし、社会性の面から考えても、最小限度のそれは必要である。

日本人がかけられてしまっている倫理的な縛りの中に、「陰口は叩いてはならない」というのがある。
しかし、実は陰口も、中身次第では、感情と行動のバランスを取る上でずいぶん有効な、社会的な行動となる。

もちろん、不当な陰口を容認するつもりはないが、たとえば、部下の手柄は自分の手柄、自分の失敗は部下の失敗にしてしまうような、ひどい上司がいたとして、酒場で、同僚とその上司をこき下ろすなどの行動は、精神衛生を保つ上で、かなり上質な「陰口」の使い方だと言える。

たとえ会社では上司に逆らえなくとも、自らの怒りを誰かと共有することで、それを見失わなくて済むからだ。

次の日、会社で上司から嫌味を言われ、頭を下げていても、「これは、職を失えないからやってるだけで、本当はこんなやつ、クソくらえだ!」と思い続けられるからである。
感情そのものを押さえ込んでしまっては、まずよい結果にはならない。

もちろん、こういった行動で自分の感情を守れるのは、普通の人にとってもごく限られた範囲でのことだし、言うまでもなく、うつになった場合にはほとんどまったく不可能である。




うつの人の、本来自分を不当にあつかった人に向けられるべき攻撃性は、大半が自分自身に向かってしまっている。

明らかに不当なあつかいに対しても、うつになりやすい人は、「まあ、確かに、こちらにも落ち度はあったのかもしれない」と思いがちなのである。

しかし、エピソードを細かく聞き込んでいけば、たいてい本人には何の落ち度もない。
それどころか、本人なりにベストのやり方を考え抜いた結果であり、しかも、むしろ普通より的を射ていることの方が多い。

落ち度があったとしても、せいぜい不可抗力的なミスなどである。

うつの人の、「こちらにも落ち度はあったのかもしれない」という考え方の習慣は、ほとんどの場合、歪んだ家族関係や学校の病理の中で、不当に「変」あつかいされ、「やっぱり自分の方がおかしいのかな……」と思わされ続けた結果、極端に自信を喪失してしまったためである。



「感情のコントロールは、基本的に不可能である」と述べた。
では、うつの人たちは、いったいどのようにして自らの感情を抑え込んできてしまったのか。

方法は一つしかない。
ある特定の感情を抑え込むのではなく、感情や感覚そのものを鈍磨させてしまう、という形である。

つまり、ネガティブな感情だけではなく、喜びの感情や晴ればれとした感情まで、丸ごと、ほとんど働かなくしてしまうのだ。
もちろん、無意識に……という意味だが。

人間にとっての生きる意味とは、感情によって成り立っていると言ってよい。
したがって、感情を丸ごと抑え込むということは、結果として、生きる意味を失うことになる。

そして、実際にそうせざるを得ない状況の中を生きてきたのが、うつになった人々である。

返答に代えて - 2008.08.06 Wed

いったん返答のコメントを書きましたが、誤解を招く恐れのある表現が含まれていましたので、それは取り下げ、改めて本文で書かせていただきます。

ここに書いていることは、私自身の体験を通じてのことでもあります。
「セルフコントロールの限界」にコメントをお寄せ下さったお二方のおっしゃるように、私自身うつ状態の中にあったとき、うつである自分が自分の正当性を認めるなど、やはり思いもよらぬことでした。

私は、うつに陥ってカウンセリング(ユング派の分析)を受け、その分析家から勧められてカウンセラーになったのですが、私が自分の正当性を徐々に認めることができるようになったのは、他ならぬ、うつの方々とのカウンセリングを通してのことでした。

第三者という立場に立ってはじめて、彼(彼女)らと自分との共通点を客観的に見、うつの人々が、愚直でありつつも、いかに優れた人格の持ち主が多いかを知りました。
そして、その感動が助けとなって、ようやく自分の正当性や存在価値を認めるにいたったのです。

経緯は詳しく申しませんが、ある瞬間、迷いが晴々と去るのを感じました。
それで、うつから抜け出したことを自覚したのですが、それは、はっきりとしたうつ発症からちょうど10年目のことでした。
(その前は、強い対人恐怖と軽度の自律神経失調症でした。誰にも明かしませんでしたが)

ですから、念のため申しますと、この前のブログで書いたことも、「感情のコントロールをやめなさい。そうすればうつは治ります」という意味ではありません。
もちろん程度の差はありますが、そもそもうつは、心の持ちよう一つで治るといった類のものでないことは、私自身、カウンセラーとしても経験者としても、重々承知しているからです。

多くのうつの人々の苦しみは、一つには、ずるい考えや行動ができない生真面目さからきていますが、うつを乗り越えることもまた、同じその性質によってこそ可能になるように思います。

私の場合、自分のそういった性格、なんでも自分が背負い込んでしまう性格から脱したい、つまり後ろへ逃げようとしていたのを、ある時から、いっそのこと向こう側へ突き抜けようと、決心することができました。
もちろんそう決心できたのも、私の意志が強かったから、といったことではなく、とどのつまり運がよかったのだと思っています。

「それでいいのだから、自信を持ってください」などと、無茶なことは申しません。
ただ、世間がうつを理解することは、うつの人々にとってばかりでなく、世の中全体にとっても重要なことだ、との思いから、これからもこのブログを書き綴っていくつもりです。

第一歩の瞬間 - 2008.08.15 Fri

以前の記事で、「うつを乗り越えるためには、勇気をもって周囲の言葉に耳を貸さなくなる必要がある」と述べた。

うつの人にとって、このことは本当に大事なのだが、また同時に、非常に難しいことでもある。

彼らの多くは、幼いころから、「どうやら自分は、周囲とものの見方が違う」と感じ、しかも少数派であることが多々あるため、「自分の方が変……らしい」と思い込まされているためである。

「他人に「そこで腹を立てるのはおかしい」と言われる以前に
自分で「ここで腹を立てる自分がおかしい」と思ってしまうのです。」
と、コメントを下さった方がいた。

胸が詰まる。
いったい自分は、何のために生きているのか、何のために生まれてこなくてはならなかったのか分からなくなるあの感じが、まざまざとよみがえってくる。

理屈では決して自分は間違っていないのに、「悪いのは自分のほうなのだ」と思い込む。

決してそれが最良の答えでないことは、自分自身どこかで分かっているが、その場しのぎにしろ何とか納得するためには、「何もかも自分が悪いのです」と認めることが、結果として一番ましな方法なのだ。

それが習い性(ならいしょう)となった時、人から指摘されるより先に、自分で自分の非を認め、自らが感情をもつこと自体を悪とみなすようになる。
それは、「自分は不当なことはしていない」という考えの封印でもある。
この封印の度合いが強ければ強いほど、うつは深いと言ってよい。



これから書く例は、ある特定の人のことではなく、私がカウンセリング場面で出会った一部の方々に共通している部分を、ある程度アレンジした、架空の話だと思っていただきたい。
もちろん、特定の個人を思わせるような記述は一切避けるので、抽象的すぎる感があるのはお許しいただきたい。

小さな頃からずっと、他の兄弟から理不尽な目にあわされてきた人がいた。
しかもその兄弟たちは、誰の目から見てもそれと分かる形でひどいことをやるのではなく、いつも陰にまわって、親まで巻き込んで巧みにその人を陥れるために、その人は常に家族の中で劣等者・変わり者あつかいされ続けてきた。

言い返そうとしたことは、幾度となくあった。
しかし、常に多数決で負けるために、やがてその人にとっては、自分の感情は半分殺しておく、というあり方が常となった。
逆らえば火に油を注ぎ、たちまち集中砲火を浴びるに違いなかったし、反発心を表情にすら出さないようにするためには、感情そのものが出ないようにしておく必要があったからだ。

感情を半分殺している人にとっては、集団の中でにこやかに過ごすことなど、途方もなく困難な仕事である。
したがって、こういった人々にとっては、学校生活もまた、しばしば苦痛に満ちたものとなる。
さらには、実際にいじめにあってしまうケースも少なくない。
そもそも、富国強兵を旗印に、「よい兵卒を育てる」ことが目的で始まった日本の学校制度にも根深い問題があるのだが、それについては別の機会に述べたい。

ともあれ、家族関係の中で植えつけられたこの人の劣等感は、さまざまな人間集団の中で、さらに強められていった。

後年、うつを発症したその人は、自分の引きずっている家族に対する感情を断ち切ろうと、さまざまな人に相談した。

相談された人々はたいてい、家族の理不尽さは理解してくれたが、しかし一様に、「もうそろそろ許してあげなさい」「恨んだところで過去は取り戻せません」「大人になりなさい」などと、ただただその人の感情をなだめようとした。
そして、その人自身もまた、鬱勃としつつもそのように努力した。

無理に決まっている。
感情を抑えるということは、その人自身が誰よりも怠らずに行なってきたことであり、そもそもうつになったのはその結果だからである。
当然ながら、努力すればするほど、うつはますます深まっていった。

このような人がカウンセリングに訪れた場合、カウンセリングはどのように進んでいくのか。

カウンセリングでは、さまざまな具体的なエピソードを、大雑把ではなく、かなり細かい質問を投げかけつつ、詳細に聞き込むことが不可欠である。
カウンセラーの当て推量や思い込みを慎重に避け、その人の置かれてきた状況や体験を、できるだけリアルに描き出すためである。

こういった人の話を細かく聞き込んでいると、まず人として、怒りが抑えようもなく頭をもたげてくる。
もちろん、その人を理不尽に押さえつけた人々に対してだ。
しかもその怒りは、できるだけ客観的に、正確に、中立的に、状況やそれぞれの人格を分析すればするほど、より強いものとなる。

自分の話を聞き、怒りを覚えているこちらの様子を見て、その人はまず最初、戸惑いを覚える。
認められた経験の少ないその人にとって、こちらが見慣れぬ反応をしているからである。

もちろん一回の面接でではなく、回を重ねる中でのことだが、その人は、「私のほうも悪かったとは思うんですが……」といった表現を、幾度となく繰り返す。
そういった言葉に対して、私は、ほとんど聞き流すことなく「どういった点で、ご自分も悪かったと思われるのですか?」と尋ねる。
こういったときはいつも、「自分はかなり厳しいカウンセラーなんだろうな」と感じてしまう。

もちろん、尋ねることになっているから尋ねるのではない。尋ねずにおれないから尋ねるのである。

そして、たいていの場合、その人には何ら非のないことが分かる。
そもそも、相手にも自分にも非があると分かりきっている話を、カウンセラーの前でしても意味がないのだから、当然といえば当然だ。

こちらは、「あなたには一切、非はあったと言えませんね」ということを、できるだけ論理的に伝えるのだが、同時に、「あなたは、本当にご自分も悪かったと思っておられたのですか?」とさらに尋ねることがある。

すると、「本当に悪いと思ってました」と、なかば驚いたような表情で答える人もいる。

それはそれで大きな気づきがあったわけだが、逆に、意を決した表情で居住まいを正し、
「いえ、本当を言うと、自分が悪いなどとは思っていませんでした」と答える人もいる。

この人は、まさにこの瞬間、勇気をもって一歩を踏み出したのだな、と感じる。

うつの人が自分の正当性を認めるということが、どれほどの勇気を必要とすることなのか、はかり知れないものがあるのだが、カウンセラーという職業の者は、その瞬間をたびたび目にする機会に恵まれている。
だからこそ私は、カウンセラーであり続けようとするのだ。

ただただ、心の病を抱えつづけるプロセスにつき合うことがカウンセラーの仕事だとすれば、私はカウンセラーという職業に、何の意味も見出さないだろう。



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うつを乗り越えるために - 2008.08.19 Tue

私自身がこのブログを始めてから、うつの人やカウンセラーのブログを見る機会が増えた。

私はここで、うつになる人特有の、生真面目で論理性の高い性格は、本来短所ではなくむしろ優れた面であり、本当はうつを乗り越える上でも、大切な性質であることを述べ続けているわけだが、実は、今のところそういった考えは、専門家であるカウンセラーや精神科医にも、あまり通じたためしがない。

うつに関するどのブログを見ても、とくに専門家のそれにおいては、たいていの精神医学書や心理本と同様、「まじめすぎる」「傷つきやすい」「まわりに合わせすぎる」といった表現ばかりが目に飛び込んでくる。

世の中に、ここまでうつの人が増えていることを考えるならば、もうそれは、その人たちがおかしいという論理だけでは、決定的に何かが足りないという発想になぜならないのか、逆に理解に苦しむ。

うつの人たちが傷つきやすく、まじめすぎて、まわりに合わせすぎているというよりも、世の中全体のほうが「歪み」かつ「鈍感化し」、「人の痛みを感じる能力が欠落してしまった」という側面を考えないと、問題の本質は一向に見えてこないはずなのだ。

多くの専門家がうつを語るとき、「現代社会の病理」ということをよく口にし、一方で、表面的にはうつの人々をいたわるような言い方をしながらも、結局のところ、その病理はうつの人々自身のものとして片づけられている。
はっきり言って、何の根拠もない上から目線だ。

うつの人々にとって必要なのは、いたわりでも哀れみでもない。
真の理解である。
それも、彼ら自身に対する理解だけではなく、彼らの生真面目さを逆手にとって不当に貶めた、家族をはじめとする周囲の人々、あるいは場の、歪み・病理に対する理解も含めてである。

いたわりや哀れみは、弱者や劣等者に対して向けられるべきものである。
つまりそこには、すでに否定的な態度が含まれているのである。

私は彼らのことを、「敏感すぎる」とさえ思ってはいない。
ただ、「まともな感覚の持ち主」と思うだけである。


たとえば、うつの人には「頑張れ」という言葉はかけてはならないと、まことしやかに言われることが多いが、私はその言葉を使わないように心がけることはない。
うつの人たちは、決して頑張れない人たちではないことを知っているからだ。

問題は言葉の文脈、つまり、どの方向に頑張れと言っているかである。

たとえば、会社勤めの中でうつになった人の場合、それは、どうしても納得のいかない、あるいはしんどいばかりで意味のない仕事ばかりさせられていたために、仕事に対する拒絶反応が出てきてしまった結果である。
つまりその人は、「生理的に受け入れられない仕事」に対して頑張れなくなったのであって、仕事そのものに対して頑張れなくなったわけではない。

本来うつの人は、むしろ仕事に身惜しみをしない人が多い。
それだけに、きちんと意味のある仕事、いわば「生きた仕事」をする限りにおいては、むしろ一般よりも高い能力と誠意を発揮する人がほとんどなのだ。
本来身惜しみをしない人が、逆に怠け者あつかいされてしまう。
それはどれほど残酷なことであるか……

ともあれ、私がうつの人に「頑張れ」というのは、たとえば「怖いと思うのは仕方のないことですが、でも、頑張って、周りの人たちの歪みを見極めていきましょう」といった文脈でである。

うつに対する理解は、まずもって周囲の人がしなくてはならないことであるが、実はそれ以上に、うつの人自身が持たなくてはならない理解である。

おそらく風当たりもきついとは思うが、私は、むしろうつの人生来のありようの中に、人間の本来あるべき姿が隠されていることを、主張し続けるつもりである。



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愛情って - 2008.08.26 Tue

以前、クライアントの方から、「先生は愛情という言葉を、どういった意味で使っておられるのですか?」と質問された。
考えてみれば、この年齢までカウンセラーという仕事をしているのに、「愛情」の意味をはっきり言葉にしたことは、一度もなかったな、と気づいた。

「ちょっと、お時間いただけますか?」とことわり、数十秒、自分の中に答えをさがした。

そして、「相手が幸せになったり、嬉しいと思ったときに、自分も本当に嬉しいと感じる、そういった相手への感情。その意味で使っています」と答えた。
「感情」という言葉を、特に強調した。

その方は大きくうなずき、「よく分かりました」と納得された。

このことは小さいようだが、愛情の意味をはっきり言葉にしたことは、私にとっても大切なプロセスだったように思う。

以前の記事、「親孝行という倫理観の重圧」でも書いたが、うつの方は、ほとんど例外なく両親のどちらか、あるいは両方との間に深い確執をかかえ、その確執は劣等感をともなうコンプレックスを形成している。

ある方からのコメントで、「親は、愛情もどきを押しつけてきます」と書かれていたが、愛情の意味を言葉にしていたことで、そのコメントの意味がより深く理解できたように感じる。

愛情に似て非なるものは、家の中だけでも嫌というほどたくさんありうる。

たとえば、親が子に、一緒に暮らすことを強要すること。
「将来のためだ」と、詰めこみ勉強や身体の鍛錬、しつけを押しつけること。
家族みんなでの食事を、無理やりさせること。等々。

確かにこれらは、「愛情の押しつけ」ですらない。
見た目ばかり、いかにも愛情があるかのような欺瞞、つまり「愛情もどき」の押しつけである。

では、こういった感情をともなわない、見た目ばかりの愛情もどきによる家族関係とは、どんな価値観にもとづいて演じられるのだろうか。

まずもって言えることは、古典的なお仕着せの倫理観といえるだろう。

たとえば、
子はみな親を敬い、事あるごとに親の元に集う。
長男は家業を継ぎ、妻子ともども年老いた親とともに暮らす。
子宝に恵まれ、土地や家を、欠けることなく次の代に相続させる。

また、
他人をいたわり、困ったときには助けてやる。
集団の和を乱さない。
目上を立てる。

こういったことが、過剰に美徳とされる倫理観ではないだろうか。

こういった倫理観では、自分を大事にすることや、親が子にかけるべき愛情の中身の大切さについては、完全に欠落してしまっている。

親は絶対的な立場に置かれ、どんな親でも親というだけで敬わなければならないことになり、親が子どもに対してやってきたことは不問に付されてしまう。
また、集団のもつ歪みも、目上の理不尽な行動も、誰からも指摘されることはない。

自分の正当性を主張したり、自分をいたわったりすること、そして、どんな歪みのある集団に対してでもそれを指摘することは、中身に関係なく利己主義あるいは悪とみなされてしまう。

つまり、既成の集団の中で、どれほど不当に甘い汁を吸おうが、集団そのものをこわさない限り容認されるが、一方、集団の論理をゆるがす言動は、どれほどその言動が正当であろうが拒絶され、それでもやめなければ抹殺されてしまうのだ。

以前の記事でも触れたことだが、こういった倫理観が、日本のあらゆる階層に対して徹底的に教育され法にまで反映したのは、たかだか350年ほど前、徳川三代将軍家光のころからにすぎない。

また、その根幹にあった儒教思想自体、中国で興り発展するすべての過程において、為政者の政治的な目的と表裏一体だった。
つまり、儒教思想とは、東アジアの絶対君主が、封建体制を強化するためにたびたびもちいた、民衆の「洗脳」の道具だったのであり、普遍的な真理でもなんでもない。

これは、ほとんどすべての日本人の背景にひそむ一種の「プログラム」である。
そのため、「愛情もどき」を演じる親の理不尽さは、他人からはなかなか見抜かれない。
「どんなひどい親かと思ったら、普通やん」となる。
その他人にも、同じようにプログラミングされているからだ。

ある人は、「いっそ、虐待してほしかった。ひどさが、誰の目にもはっきり分かるから」とまで言い切った。

他人どころか、本人にも分からないことがほとんどである。
この倫理観に逆らうと、きっちり罪悪感がはたらくようにできている、そういった「プログラム」だからだ。

一つ一つのエピソードに即して、「愛情」と「愛情もどき」とをきちんと見分けていくことが、カウンセリングにおいて重要な要素であることは言うまでもない。



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「うつ」の基本型とバリエーション - 2008.09.07 Sun

前回、『こぶとり爺さん』分析の最後、「隣の爺さん」について書くと予告したが、多くのうつのかたのブログを読んでいて、ぜひ早いうちに書いておきたいことが出てきたので、1回だけ別の話題にしたい。

ただ、今回も、少しばかり難しい話しになってしまうのだが、お許しいただきたい。



今回書きたいのは、このブログのタイトル、「うつ-自分にうそがつけない人たち」とは、現在増加している、抑うつをともなった精神疾患の人すべてについて言えることなのかどうか、ということである。

結論から言えば、「自分の気持ちや考えに、どうしてもうそがつけない」というのは、基本的に単極型のうつ、つまり、四六時中、無気力感と劣等感、また不安や不眠と闘わねばならない、いわばもっとも典型的なうつの人に特徴的な性格である。

細かく言えば、過敏性大腸炎や、たびたび微熱を発するなどの身体症状をともなうものも、含めることができると思う。

私はカウンセラーなので、もちろん会っているのはうつの方ばかりではない。
では、なぜこのブログのテーマを「うつ」にしぼったのかというと、私自身が単極型のうつを経験したから、というばかりではない。

現在増加している、社会の歪みの影響を受けたさまざまな症状のうち、単極型のうつが、もっとも基本的で代表的なタイプだと考えているからである。

まだ、系統立てて症状を分類しているわけではないので、まだまだ穴のある考えではあるが、たとえば過食(過食嘔吐を含む)やパニック障害をともなうものなどは、ある程度単極型のうつに近い病理を持つように思う。

それと比べて、双極型の感情障害(躁うつ病)は、大なり小なり自己愛性(ナルチシズム)をともない、超絶な能力を発揮する人も多く、ほぼ例外なく劣等感をともなう単極型のうつとはかなり違った病理を持っている。

躁うつ病の場合は、躁状態にある時、自分の感情をスッパリと置き去りにすることができるのである。
つまり、感情と、思考や行動との間に、ある程度深い亀裂(乖離)が存在するのだ。

で、躁状態の時に突っ走れるだけ突っ走るが、「これ以上の無理はヤバイ」と脳から(身体から?)ブレーキの指令が出るや、それまで切り離していた自らの感情に追いつかれ、うつに入っていくというパターンとなる。

自らの負の感情から解放される爽快感は空を飛ぶごとくであり、太陽に近づきすぎて翼に塗った蝋がとけ、海に落下してしまったギリシャ神話のイカロスの話は、まさに躁うつ病の状況を写し取ったかのような物語である。

過食やパニック障害の場合、基本的にはうつ的なのだが、劣等感や無気力感といったうつの病理をそういった形で症状化し、吐き出すことで、多少なりとも自我のバランスを保とうとしている反応、と言える。
実際、毎日過食嘔吐を繰り返しながらも、何とか社会に適応している人は少なくない。

これらの場合、症状化する段階でやはりある程度の乖離は生じているが、躁うつ病に比べて、乖離の度合いははるかに小さい。
これらが単極型のうつに近いと私が考えるのは、そういう理由である。

単極型のうつの人にとっては、割り切って仕事ができる、つまり乖離できるということは、ほとんど憧れですらあるのだが、どうしてもそれができない。
つまり、「自分にうそがつけない」ということになり、加えて、場の歪みの影響をもろに食らってしまうことにもなるのだ。



ところで、人格障害に関しては、やや事情が複雑であるといわざるを得ない。

というのは、人格障害の場合、基本的に社会性の障害、つまり人間関係の中でどのような問題を引き起こすかが鑑別の基準となっているため、このような内的な病理による類型化がむずかしいのである。

ただ、パニック障害であっても不安障害であっても、当然周囲との間に何らかの問題がともなう場合は多いので、あやまって人格障害と判断されてしまっているケースは多いように思う。

実際、他の機関で境界性人格障害と判断された人で、継続面接してもその兆候がまったく見えないまま、うつやパニックの症状が改善し、円満に終結していった人は少なくない。

たとえば、不安障害の人などは、相談者が何を考えているか分からない場合など、ますます不安が掻き立てられるために、相談者に電話をかけまくったり、予約時間外に押しかけるなど、しばしば境界性人格障害と見まがうような行動に走ることがある。

たとえば、心理テストを行なった後に、かなりの情報を得たにもかかわらず、カウンセラーがほんの少ししか内容を話さなかった場合や、一向に自分の考えを話さない面接が続いた場合などに、このような事態に陥ることがあるのだ。

クライアントは馬鹿ではない。

隠されていることがあればたいてい分かるし、第一、心理テストの結果などは、クライアント本人にかかわることなのに、他人である相談者しか知らない内容がたくさんあるなど、明らかに非人道的だと言いたくなる。

しかし、恐ろしいことに、このやり方は意外と一般的なのである。

私の場合は、全部話す。(めったにテストはしないのだが)
できるだけ詳しく、ここから先はこれこれの理由で分からない、と言えるところまで話す。
でなきゃ、おかしいからだ。
話せないくらいなら、最初からテストなどするべきではない。

現代人に共通する不安の理由の一つとして、周囲に「何を考えているのか分からない、得体の知れない人」が増えた、ということがあげられる。
このことは、昔と今のご近所づきあいの変化を考えれば、容易にお分かりいただけると思う。
日本人の数10パーセントが、隣人の職業すら分からない集合住宅に住んでいるのだ。

なのに、カウンセラーが未知というベールに身を包み、得体の知れない人になって、いったいどうしたいのだ!と言いたい。
まあ、自分を大きく見せたいのだろうと思うが……

突然怒りのスイッチが入って、横道にそれてしまった。

ともあれ、人格障害についてはまだはっきり書くことはできなかったものの、私が単極性のうつを現代人の代表的な症状と考える理由は、ある程度お分かりいただけるのではないだろうか。



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子は親に似る? - 2008.09.24 Wed

ある人間集団の構造や病理を分析しようとする時、非常に有効なひとつの方法がある。

それは、その集団が始まった時のこと、つまり、どのような人たちが、どのような目的でその集団を始めたかを見るという方法である。

以前の記事で、われわれが物語を分析する方法を、「こぶとり爺さん」を題材に少し紹介したが、この場合も、最初の状況を詳細に検討しておくことは、何をおいても重要だ。

ユング派の分析家マリー=ルイーズ・フォン・フランツは、とくに、物語の最初の状況において何が欠落しているかを見れば、今から何が成長し、完成されていくかが類推できる、と言う。

たとえば、スタジオジブリ作品、とくに宮崎駿の作品においては、興味深いことに、ほとんどの作品において、母親がいない、あるいは母親の体調や性格に何らかの問題がある。

『ナウシカ』や『ラピュタ』では母親が登場しないし、『トトロ』では母親は病院に入院している。
また、『千と千尋』では、母親は母性や感情の動かない冷淡なタイプだし、『ハウル』のソフィーの母親は、目立たぬ立場でひとり家業も家事も切り盛りする内向的な娘を、歯牙にもかけず、いまだに玉の輿に乗ることを夢見ているような、派手なわりに中身の空虚なタイプである。

これらの作品では、たおやかさと強さと誠実さをあわせ持つ、大人の女性的性質、あるいは豊かな愛情をもつ母性の成長が、物語の最初から、暗に志向されていることを意味する。
しかもその成長は、当の母親自身によってではなく、次代の娘(たち)によってなされるのである。

もちろんこの公式は、情緒的な文脈のこわれてしまっている駄作には当てはまらないことだが。



興味深いことに、こういった公式は、現実の世界においても当てはまる。

うつになった人々は、ほとんどの場合、家庭の愛情、すなわち母性・父性・兄弟愛などが欠落しているという状況の中で育ってきている。

よく言われることに、「人は、誰かにされたことしか人にしない」あるいは「子は親の通った道を歩く」といった言葉があるが、カウンセラーとしての経験に照らす限り、これらはほとんど当てはまらないと言ってよい。

親ができなかったことを、子どもが果たしていくという流れは、むしろ非常に自然な流れなのだ。
そのとき、むしろ親たちは、しばしば子に立ちはだかる壁としての役割を果たすことのほうが多い。

何度も述べてきたように、うつの人たちは、性質的に一本筋が通っている。

カウンセラーとして、うつの人たちの家族関係を見ていると、第三者だからこそ分かる構図がある。
高圧的な態度や、筋の通らない論理のすり替えによって、うつの人を抑圧したり混乱させ、劣等感を植えつける家族たちは、うつの人の真っ直ぐさを恐れているようなところがあるのである。

うつの人の誠実さや歪みのなさを認めるということは、逆に、自分たちの逃げや歪みをも認めてしまうことになるからではないかと思う。

反対に、うつの人たちが、自分の性質が優れていることに気づき、多少なりともそれを喜びにすら感じはじめると、興味深いことに、周囲の論理・体制がガタつきはじめる。

具体的には、うつの人以外の家族同士で諍いが起きたり、仕事がうまくいかず、かつての権力者が権威をなくしたりと、形はさまざまだ。

しかし、うつの人にとっては、むしろこの時が正念場だと言ってよい。
なぜなら、ガタつきはじめた体制ほど、手負いの獣のごとく、より必死になって、うつの人に対する抑圧を強めてこようとするからである。

このとき、「すでに相手は、ガタつきはじめている」と見切ることは、言うまでもなく重要だ。
しかし、その時ですら、うつの人にできることと言えば、多くの場合、ただ真っ直ぐに立っていることだけである。

「ただ真っ直ぐに立つ」とは、自信をもって、背筋を伸ばして立つということではない。
それは、最後の最後に結果としてできることであって、心がけてできることではない。

「ただ真っ直ぐに立つ」とは、うつの人が、すでにずっとやってきたこと、たとえば、可能な限り「罪のない人に」迷惑をかけない、陥れないということである。
そして、もう一歩踏み込むならば、自分に対する不当なあつかいに、もう従わないということである。

布団に顔をうずめて、ひとり、大声で泣き叫んだ経験のある人は、男性も含むうつの人に多い。

布団に顔をうずめてそれをやるのは、周りに叫び声が聞こえないように、である。
できるだけ周りを巻き込みたくない、という気持ちの表れなのだ。
見た目はくたくた・ボロボロでも、それはやはり真っ直ぐに立っている、ということなのである。



最初に、人間集団の構造を分析するには、その始まりを見ることが有効だと述べた。
何とか日本の学校制度を、その始まりから詳細に見てみたいのだが、正確なことを言うためにはあるていど調べる時間が必要なので、これはもう少し先のことになりそうである。




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職場のうつ - 2008.10.11 Sat

このブログの本来の目的は、うつの人の病理について語ることなのだが、ここのところ、主に現代社会がはらむ病理について述べ続けている。

それはもちろん、「うつ」について語るのをやめてしまったからではない。

うつの人に対するカウンセリングと、自らの体験に照らす限り、うつという病は、その人自身の病理よりも、むしろ家族病理・社会病理の犠牲者としての面のほうが、間違いなくより大きいと考えるからである。

決して非難するわけではないが、うつの方が書いているブログのタイトルには、少しでも心穏やかに、少しでも無理をせず、少しでも淡々としていたい、という気持ちのこめられたものが多い。

医師やカウンセラーにしても、うつに人には、「とにかく無理をしないこと」というアドバイスをすることが多いのだが、正直、これは必ずしも常に正しいとは言えない面がある。

もちろん、たとえばうつを発症して会社に行けなくなった人の場合、いったん長期休暇をとるなりして、会社から距離をとることは、短期的には有効な面がないでもない。

ただ、会社から離れることによって、その間仕事のことを忘れていられるかというと、当然ながらそうはいかない。
むしろ、取り残されていく不安に締めつけられる分、頭のどこかではますます会社や仕事のことが大きく膨らみ、劣等感は強まる一方である方が、むしろ普通なのである。

つまり、見た目の休養をとればとるほど、状況を悪化させてしまう面もあるのだ。
それに、責任のかかる仕事をきちんとこなすことなしに、劣等感からは解放されるべくもない。
ただただ見た目の平穏さを人為的に拵えても、「自分は本来、きちんと社会的にやれる人間なんだ」ということを確認する機会を失ってしまっては、立ち上がる手がかりまでもなくしてしまう。

その人が会社に行けなくなったのは、どうしても「飲み込むことのできない」仕事を課せられたために、会社に対する拒絶反応が出てしまった結果である。
だから、当然ながら、長期休暇という方法がよい結果をもたらすのは、当人が休んでいる間に、会社側が充分に有効な職場改善・体質改善を行なった場合、ということになる。

つまり、うつという症状は、場の歪みや矛盾を真面目な人が背負わされてしまった結果であるために、場そのものが変わらないことには、改善は非常に難しいのである。

もちろん、背負うほうが悪いとは、絶対に言えない。
むしろ、背負うほうが人間としてまともだし、そもそも、背負ったのがその人でなければ、別の誰かが背負わざるを得ない矛盾が、その場にあったからである。

ただ、その長期休暇という時間が、単に休養するためのものではなく、本人が会社内で体験したことを振り返り、自分が会社の要求に応えられなかった内面的な理由と、その正当性、そして、会社あるいは上司の矛盾と不当性を発見することに当てられるならば、症状改善にかなり有効だといえる。



うつの人は、まず例外なく強い劣等感にさいなまれている。
だが、その劣等感には、「他者を高く評価しすぎる傾向」が常にセットになっていることを忘れてはならない。

うつの人は、自分の心にうそがつけないために、ずるいことができない。
もし何か、少しでもずるいと思えるようなことをしてしまった場合など、いつまでも罪悪感にとらわれてしまう。
そして、本人にとって、「ずるいことをしない」のは、余りに当たり前であるために、うつの人は、誰しもが同じ考え方・同じ感覚を持っていると考えがちなのである。

しかし、現実はそうではない。
大なり小なり、ずるいのが当たり前なのだ。

過去にいじめられた経験のある人が、口をそろえたようにする話であるが、同窓会や何かで、昔自分をいじめた人と会ったとき、いじめた方は自分のしたことをまったく覚えていないことに、驚愕させられるという。
いじめた側にいじめた意識がないのは、断じて「罪のない」ことでも「仕方のない」ことでもない。
現実的に如何ともしがたいことであったとしても、された方は絶対に許してはいけないのである。

手前味噌な言い方かもしれないが、私は本来生真面目なうつ性格なので、こういう話を聞くと、自分にも忘れてしまったいじめの経験があるのではないか、と考えてしまう。
もちろん100パーセントないとは言い切れないが、それに類する自分の行為は、やはり、かなりはっきりと覚えているほうではないかと思う。

そして、そのことを思い出すたびに、罪悪感から、大きな声で叫びたくなってしまう。
これが、うつ性格の人間なのである。

「人を恨むのはよくないことだ」という考えにとらわれていたクライアントが、カウンセリングを通じて「私はあの人を恨んでもいいんですね」という考えに至ったとき、大きく症状の改善する場合が少なくない。
もちろん、その方に心の準備ができてからであるが、私ははっきりと、「一生恨み続けてやるべきですね。許す理由などどこにもない」と言葉にすることが少なくない。

その人は、誰かを恨む心にとらえられてうつになっていたのではなく、恨んでしまうことの罪悪感にとらわれていたことが、うつ病理の大きな一因となっていたのである。
「恨んでいいんだ」と心から思えた時から、不思議とその人のことを思い出さなくなった、という人も少なからずいる。
その対象は、親兄弟であることも少なくない。いや、むしろ多いと言える。



以前の記事で、「うつの人は、勇気を持って周囲の言葉に耳を貸さなくなる必要がある」と述べたことがある。
それは、言い換えるならば、周囲を見下すことになるのを、恐れてはいけないということである。

どの道、根本的に性格が違うのだ。
だから、周囲の言う教訓など、うつの人の人生にとって、ほとんど意味のないことばかりなのである。

「おかしいのは自分ではない。周りなのだ」と思うことは、ひどく傲慢に感じられてしまうため、これがなかなか思えない。
たしかに、口に出して言うことはお勧めではないが。

私の場合、とことんまで精神的に追い詰められたとき、「おかしいのは自分ではなく、実は周囲なのでないか」という一か八かの仮説を立てた。
そして、あらゆる現実をその仮説に基づいて見直すと同時に、行動してみたとき、どうしても割り切れなかった矛盾やわだかまりが、次々と解明され、解消されていったのである。

それは、「自分は狂気か、それとも誰よりも正常か」という厳しい問いであったため、それには大変な緊張感をともなった。
10年もの間、私が強烈な不眠症状に見舞われたのは、うつの症状というよりもむしろ、その緊張感のためだったのではないかと思っている。

「自分は間違っていないはずだ」と、自分に言い聞かせることの恐怖。
この恐怖を乗り越えることが、その時の私にとっての課題だったのである。

非常に厳しい言葉になるのを恐れずに言うが、うつの人で誰かを恨んでいる人は多いが、たいていの場合、まだまだ甘いと思ってよい。
うつの人が周囲からこうむった心的被害は、断じて生半可なものではないのである。
誰よりも、うつの人自身が、このことを知るべきなのだ。

うつの人に必要なものは、決して、単に見た目に無理をしないことではない。
冷徹なまでの状況の見極めと、傲慢になることを恐れない勇気、そして、1対100で戦う勇気と、あくまでも自分らしく生きることへの、徹底したあきらめの悪さである。




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職場のうつ-その2 - 2008.11.05 Wed

職場での就労環境や人間関係がもとでうつになった人々の話を聞いていると、立場が下の人から上位の人に物が言いにくいという社内体質が、社員のうつ発症率にかなり大きく影響しているようだ。

経営者が、たとえば、社内から問題提起があった時に、あからさまに嫌な顔をして何も答えなかったり、「そんなことはそちらで何とかしろ」と高圧的な態度をとるのが当たり前になっていると、次の地位に立つ者は、経営者に対して体裁のいいことしか言えなくなる。

こうした上の態度は、必然的に下位の者へと順送りとなり、結果、あらゆる部署で、上司は部下に対し「今、何か問題はあるか?」と尋ねることすらなくなってしまう。
そして結果的には、誰も本当のことが言えなくなってしまうのである。

もちろん、そんなことをしていると部下が困るのは、誰しも頭のどこかでは分かっている。
しかし、部下の問題提起を聞いてしまえば、自分が責任を持って対処しなくてはならないから、部下の苦悩に対して、見えないふり聞こえないふりを決め込むばかりだ。

しかし、営業にしろ製造部門にしろ、実際の現場では、当然ながらちっとも解決される気配のない問題が山積みとなり、もっとも低い立場の管理職か、悪くすると役職のない社員にその責任が集中してしまう。
そこでは、「責任はあるが権限はない」という、まったく奇妙にして悲惨きわまりない状態が生じる。

しかし、もちろん、この「順送りゲーム」は、途中のどこかで止まることもある。
止まる場所は、ほとんどの場合が、ずるいことのできないうつ性格の人のところなのだ。



こういった事態は、経営者の個人的な性格のために起きる場合も少なくないが、とくに、会社の吸収合併や重要なポストにある人物が交代するなど、ある程度大規模な全社的変動のあった前後から生じる場合が多いようである。

大手の得意先などから、天下りのように招かれてやってきた人物が、新しい経営者に就任した場合など、社長には「自社」という思いが薄く、とにもかくにも、自分の定年まで大きな問題さえ起きなければ、それでいいと思っている。
上に挙げたような現場の悲惨な状況は、得てしてこういった会社で多々起き、「社員は使い捨て」といっても過言ではないような体質となる。

こういった企業の体質とうつ発症の関係には、当然ながらある程度気づいてはいたが、ここのところ、逆に非常に良い体質の企業のことをいくつか耳にし、いっそう確信された。

うつを発症して転職した人の話が多いのだが、その人たちが現在生き生きと働いている企業では、私の知る限り、まずもって例外なく「何か問題があれば、すぐに上司に報告する」といった方針が、言葉だけではなく、社長にいたるまで徹底されている
さらには、社員の経験不足などによるミスは責めない、といった点も、特徴として挙げられるだろう。

ただし、こういった企業が社員にあくまでも優しいのかといえば、意外とそうでもない。
社員なりに、懸命に職務を果たそうとした中でのミスには寛容だが、普段から手抜きが目立っていたり、自分のミスを部下のせいにしたりするような卑怯な態度に対しては、むしろ厳しい態度がとられる。
つまり、徹底して合理的な厳しさを持っているのである。

うつ性格の人であれば分かると思うが、たしかにこういった企業では、職務の目的もはっきりと見えるし、成果も正しく評価される。
結果的に、生真面目で論理的に物を考える人が優遇され、得をするようにできているので、うつ性格の人は、かえってのびのびとした気持ちになる。
さらには、社内の風通しがよいので、いじめも起こりにくいし、「お局」などの輩が巾をきかすこともない。

数はごく少なくとも、こういった企業が世の中に存在することは、カウンセラーとしても心からほっとするし、最大限の賛辞を送りたい。
ただ、いまだ大企業については、こういったいい話は耳にしたことがない。



これまで幾度となく述べてきたように、うつを発症しカウンセリングを受けに来られる人々には、矛盾に対して敏感で、ずるいことがしたくてもできない人たちが非常に多い。
しかし、私のこれまでの人生の中で出会ってきたあらゆる人間関係を思い起こしてみても、そこまで生真面目でずるいことのできない人たちの割合は、多く見積もっても1パーセントくらいではないかと思っている。

それが世間一般での、徹底的に生真面目な性格の人々の割合だとすれば、そういったよい体質の企業であっても、生来そういう生真面目な性格の人は、それほど多くはないはずだ。
だが、そういったよい体質の中にあっては、みなが真面目で、他人の痛みが理解できる人々になるのである。

これは、場の性質しだいで、ずるくも生真面目にも、どちらにでもなりうる人々の数が多い、ということなのではないかと思う。
場の体質の重要性というものを、あらためて感じさせられる。





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うつとシャーマニズム - 2008.11.07 Fri

以前このブログで、私のうつ体験について書いたとき、インディアンのシャーマニズム(呪術的民間信仰)について詳しいある人が、「先生の体験って、シャーマンのイニシエーション(呪術師になるための通過儀礼)そのものですね」と話してくれた。

はっきり言って、かなり嬉しかった。

私自身、シャーマニズムには興味、というよりもぜひとも知っておきたいという思いがあり、何冊か本を読んだりもしていたのだが、はっきりと自分の体験に重ねてみたことはなかった。

しかし、そう言われてみれば、自分ばかりでなく、うつの人のカウンセリングをしていても、自然とシャーマニズムについて話すことが少なくない。
どうやら私の目には、うつの人々とシャーマンとが、重なって見えることが多々あるらしい。

一体なぜそうなるのか、話の流れなどを具体的に思い出し、考えてみた。

ごく簡単にシャーマンについて触れるが、頭の中の記憶と感覚だけで書いていくので、記述がちょっと正確でない部分もあるかもしれない。
興味のある方はご自分で調べていただくということで、お許しいただきたい。

シャーマンは、世界各地、特に古くから続く文化を踏襲している地域において、より多く存在し、日本語では「呪術師」あるいは「巫師(かんなぎ)」と訳される。
多くはトランス状態に入り、神の言葉を伝えるという職能の人々のことである。

日本で代表的なものとしては、巫女があげられるが、現在なお実質的な影響力を持つ人々として知られるのは、沖縄周辺の「ユタ」や青森県の「イタコ」が有名である。

青森県の「イタコ」の場合、視力障害を持つ人などが、その職能を身につけるために厳しい修行を行い、その立場を得る。
しかし、沖縄地方の「ユタ」の場合、一部の例外を除き、それまで一般人として生活していた人が、何らかのきっかけで一種の精神病様状態「カミダーリ(神障り)」に陥り、それを克服する中で、自らの「ユタ」としての能力と天命に目覚めていくという経緯をたどる。

日本のシャーマンが、どのような心理学的プロセスをたどるのかについては、正直詳しくはないのだが、イニシエーションにおいてシャーマンがたどるプロセスについて、井上亮(故人)という心理学者から聞いた話がある。

井上氏は大学に助教授として在任中、海外留学先を決める際、周囲の驚愕をよそに、さっさとアフリカはカメルーンの呪術師のもとに留学することを決め、1年を経て、実際に呪術師の資格を得て帰国した人で、さほど口数は多くないが非常に魅力的な人物であった。
シャーマニズムの心理学については、何冊か書物も著しておられる。

私がまだ大学院に在籍していた頃、伺った話なのだが、シャーマンになるためのプロセスの中では、いくつかの課題を克服せねばならないという。
中でも、特に私の記憶に強く残っているのは、「孤独」と「恐怖」の克服である。
氏自身も、「恐怖」の克服こそがもっとも大きな課題であるとして、通過儀礼の中心に位置づけておられたように思う。

シャーマンの通過儀礼においては、「恐怖」の対象は、単なる観念ではない。
戸のない小屋で、夜一人で睡眠をとることを命じられ、ベッドに横たわっていると、黒豹が小屋の中に入ってくるというのである。
この黒豹は、たしかに実体ではあるが、ある大きな存在の化身らしく、普通に自然の中で生活している生きた黒豹とは違うようだ。

通過儀礼を受ける者は、これから逃げてはならないし、起き上がってもならない。
氏が儀礼を受けていた際も、確かにこの黒豹が、小屋に侵入してきた気配があったということである。

これまで自分が生活していた日常の世界から、未知の異世界へと通路が開かれていくとき、夢や物語の中では、異世界を象徴する存在は、しばしば獰猛な動物的性格を帯びる。

以前、このブログで『こぶとり爺さん』の解釈を試みたことがあったが、爺さんが最初に見た異世界の姿もまた、異形の鬼(妖怪)どもの宴であった。
そして、やはりこの爺さんも、「鬼に食われてもよい、わしは踊るのだ」という形で、恐怖を克服したのである。

ごく普通の人の場合でも、外部からの圧力によって表現することを妨げられた感情は、「怒り」という様相を帯びる。
それは、檻に閉じ込められた、あるいは鎖につながれた獣が、怒りのためにより凶暴になるというイメージに似ている。

異世界も異世界への通路も、潜在的にはとっくに存在していたのだが、ただ人の側にそれを受け入れる準備ができていなかったために、意識の向こう側に閉じ込められていたに過ぎない。

かなり前の放送だが、NHKスペシャル『脳と心』の最終章「無意識と創造性」に、宮古島のユタである、根間ツル子さんという女性が出演しておられた。
今でも、ビデオがオークションで出品されることがあるので、興味のある方にはぜひお勧めしたい。

先に述べたユタの例に漏れず、彼女もまた離婚という節目をきっかけに精神病様状態となり、他のユタのもとを訪れて、「この人はユタになる人だ」と見抜かれたのだという。
都会であれば、「精神病」あるいは「人格障害」で片付けられてしまう状態だ。

根間さんに初めて神がかりが起きた頃、ある一つのことが強く訴えられた。
番組では、当時の神がかり中の根間さんの肉声が放送されていたが、まさに壮絶なまでの叫びであった。
「ああ私が悪かったぁー!…………何としてもこの井戸を、これだけは、これだけは頼みます……!」
と、すでに使われなくなり、埋もれてしまっていたある井戸を再び掘りなおすことに、強く執着したのである。

根間さんは実際にこれを実現し、そしてユタとなった。
万物の根底にある地下水脈、地下世界という異界と、この世とをつなぐ通路。
根間さんの魂、あるいは宮古島の人々や自然の魂にとっては、それがその井戸だったと言えるだろう。
不遜を恐れず言えば、私のアスファルトに対する嫌悪感も、同質のものではないかと感じる。

この場合、「井戸は、単に象徴に過ぎない」と言うことはできない。
心理的に大きな何かを乗り越えるというのは、単に「心の持ちようを変える」というのとは、まったく次元を異にする。
うつという病を乗り越えるにも、まず例外なく、ある現実との実際の闘いなくして、遂げられることはない。
だから根間さんも、実際に井戸を開通させねばならなかったのだ。

万物の根底にある地下世界のイメージによって表現される領域を、ユング心理学では「普遍的無意識」と呼ぶが、ユング自身もまた、当時ヨーロッパを席巻していたフロイト心理学と袂を分かった後、精神病様状態をともなう極度のうつを経験している。

そののち、ユングはこの考えを体系化するに至るのだが、彼もまた、フロイトとの決別という苦難に満ちた過程を経ることで、普遍的無意識に達する井戸を開通させたのだと言える。



うつの人々の特徴は、一言でいうならば、ものごとの本質・本筋・矛盾を見抜く目に、曇りがないことである。
だから、まわりの雰囲気や、慣習や、馴れ合いに流されず、いつも本当のことが見えてしまう。
要するに、非常にシャーマン的なのだ。

前回の記事でも述べたが、こういった人々の割合は、どれほど多く見積もっても1パーセントくらいではないかと、私は考えている。
はっきり言って、特殊と言わざるを得ない。
そして、そこにこそうつの人々の苦悩と劣等感がある。

一般の人々は、自力では大きな存在とは繋がれない。それを導き、繋げてやるのがシャーマンである。
本来の姿のままに自然と人間とが有機的に絡み合い、人間性が生き生きとした文化の中であるならば、シャーマンのような立場となるべき人が、うつになるタイプの人々の中には少なくないのではないかと思うのである。

本来ならば、常に真実を見、正しい言葉を語り、尊敬を集めてこそしかるべき人々が、踏みつけにされ、もがき苦しまねばならない社会。
一体われわれは(というよりも私は)、これをどうすればいいのだろうか。




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心の声を聞く - 2008.11.12 Wed

ユングという人は、無意識からのメッセージ、つまり自らの内なる心の声に耳を傾けることを、とても大切にしていた。
ユング派心理療法における、夢分析やアクティブ・イマジネーションは、いずれも、いろいろな深さの無意識からのメッセージを受け取るための方法である。

しかし、心の声を聞くのに、もっと身近で分かりやすい方法がある。
ただ、簡単なこととはとても言えないが。

それはつまり、自分がついついやってしまうこと、また反対に、頭でやらなきゃと思ってもどうしてもやれないことに、逆に意識を同調させる、というやり方である。

かのフロイトは、無意識が表面化するときの例として、「失錯行為」つまりうっかりミスという現象とりあげている。
彼のあげた例とは、「ある会議の議長をつとめることになった人が、開会宣言せねばならない場面で、いきなり閉会宣言してしまった。彼はもともと、この会議が開催されることに無意識的に抵抗を感じていたのだ。」といった話である。

深層心理学の大前提と言ってよいのだが、自分が本当のところはどう感じているのか、人間は直接認識できないことが多い。
とくに、自己評価の低い人の場合、自らの感情に対しても思考に対しても、また認識の仕方についても否定的なので、その傾向はよりいっそう強まる。
つまり、無意識の発するメッセージを受け止めること対して、抵抗が強いのである。

うつや不登校という症状は、これがもっとも典型的な形で現れたものだと言える。
頭では、会社や学校に行かなくてはならないと思うが、身体、もう少し正確に言うと心の深い部分が抵抗して、それができない。

また、人はよく、いろいろな場面で「気持ちの切り替えが大事だ」と言う。
これも、私を含むうつ性格の人にとって、もっとも苦手なあり方の一つである。

とくに人間関係の場面でのことが多いのだが、何かすっきりとしないことがあると、あの場面ではもっとこうしたほうがよかったんじゃないか、自分のあの言葉が相手を不機嫌にさせたんじゃないか、などと、自分のあら探しが始まると、クヨクヨクヨクヨもう止まらなくなる。
過ぎ去ったことなのに、どうして私は、いつまでもそのことばかり考えてしまうのだろうと、自分が考えすぎてしまうことに対してまで、さらにクヨクヨ考えてしまう。

いちおう私の場合、「かつてはそうだった」と言っておこう。

では私の場合、どうやって「ついつい考えてしまう」状態を脱することができたかというと、「ついつい考えてしまう」のではなく、「ガッツリ考える」ことにしたからである。

ついつい考えてしまうことについて、まず言えることは、頭では考えまいとしても、「心は考えたがっている」ということである。
さらに言うなら、単に考えたがっているだけでなく、置き去りにしてはならない何か、今考えておかなくてはならない何かがそこにあるのだと、潜在意識が訴えているということである。

もちろん、答えのなかなか出ないことについて思考するのは、やはりしんどい。
それに、自分と同じように、そんなことをいつまでも考えている人は、少なくとも幼稚園のころから、周囲を見渡しても一人もいなかった。
だからこそ、早くこんな思考から逃れたいと思い、考えまい考えまいとしてきたのだ。

たとえば、「蟻に感情はあるのかないのか」といったことでも、一旦気になりだすと、お遊戯をしていても、弁当を食べていても、そのことが頭から離れてくれなくなるのである。
弁当を食べ終わるのは、だからいつもビリだった。

そうしたとき、家族から、よく「ボーッとしている」と言われたが、正直納得はできなかった。
それがどれほど辛いことなのか、彼らに分かっていないことは明らかだったからだ。
しかし、納得はできなかったが、劣等感は強かった。
少数派は、少数派であるというだけで、常に劣等感の危険にさらされているのである。

そういった思考を止めるための努力は、やりつくしたつもりである。
それでも、どうしても思考ぐせは治らなかった。
では、どうすればいいのか。

私の中で、答えは出かかっていた。というより、すでに出ていた。
しかし、それを認めることは、楽な人生を諦めることでもあり、なかなか決心がつかなかったのだ。

大学生の頃、あることで知り合いになった年寄りのお坊さんが、私のことをずいぶん可愛がってくれ、卒業式の後、自宅での食事に誘ってくれた。
私は自分の「ついつい考える」という悩みについて話したことはなかったが、食事の途中そのお坊さんは唐突に言った。

「松波さん、君、あんまり思い詰めるなと、周りはみんな言いまっしゃろ。そんなん気にしたらあきません。思い詰めなはれ。」
私は「はあ」とだけ答え、話題はすぐに変わってしまったが、私にとってそのやり取りの意味は小さくなかった。
私の中ですでに出ていた答えを、他人の口から聞かされたのだった。

坊さんから言われたのが直接の理由ではなかったが、私が楽な人生を諦めたのは、その前後だったように思う。
つまり、何かにつけて、「俺はもう、とことんまで考えるしかない」と観念したのである。

結果的に、これは紛れもなく自己解放となった。
クヨクヨ思考というのは、「考えても仕方ないのに……」と思いながら考えている状態だ。
そういった思考は、意味のある結論に達することは少ない。
しかし、覚悟を決めた思考は、きわめて重要な結論を導き出すことが少なくないのである。
たとえばそれが、「生きる意味について」といった、大きな問題であってもだ。

言うまでもなく、逆に、頭では考えようと思っても、どうしても突きつめた思考ができない場合もあるはずだ。
私がここで言いたいのは、「考えるのはいいことだ」ということではなく、自らの無意識の衝動に対して、最終的にはつき従うこと、つまり自らの意志で、主体的に敗北せねばならないことが多々あるということである。


私の最初の夢の記憶は、4歳くらいの時のものだ。
夜なのか、うす暗い森の中で、怪獣(ウルトラマンに出てきたガマクジラに似ていた)が暴れ、木々をなぎ倒している。
その怪獣が迫ってきたので、私は必死に走って逃げるが、「なんだか変だ。これは夢じゃないか」と思う。頬をつねった。……痛くない。やっぱり夢だ。
夢だと分かれば、もう怖れる必要はないはずだ。
私はとっさに、「よし、口の中に飛び込んでやろう」と思い、逃げてきたのと反対方向に走り、自ら怪獣の口の中に飛び込む。
口の中は真の闇だった。しかし、頑張れば目が覚ませるかもしれない。そうすれば、はっきり夢だと分かる。
私は、すべての意識をまぶたに集中し、拳を握って、ガッと目を開いた。
本当に、布団の中で目を覚ました自分がいた。

私はすごく誇らしげな気持ちになり、親に夢のことを話そうとしたが、あまりに気のない返事をされたので、途中で話すのを諦めた。
そのような扱いを受けてはいけない大切な夢であることが、どこかで分かっていたからだと思う。
夢とはいえ、凄まじい恐怖を、生まれて初めて独力で克服したのだから。

この夢の象徴性をあえて解釈するならば、夜の森で暴れる怪獣は、私の無意識そのものであり、その喰らおうとする衝動と強大な力は、私がその無意識の発する欲求に逆らえないことを意味している。
そして私は、その衝動に逆らって不本意のまま喰われるよりも、自らの意志でその衝動を満たしてやる道を選んだということである。
思えば、それから約20年後にたどりついた私の決心は、その時すでに予見されていたと言ってよい。

自らの無意識と良い関係を築き、保つことの大切さ。
それは、動物と信頼関係を築く感覚と、非常によく似ている。
屁理屈が横行する現代社会では、これがすごく難しい。





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冬のはじまり 鬱々 - 2008.11.24 Mon

ここのところ、ブログの更新が停滞している。
何かしら、気持ちが非常に言葉になりにくいのである。

季節が冬に切り替わるちょうど今頃、脳内ではセロトニンの分泌量が少なくなり、人の感情や感覚が鈍くなるという説がある。
説の真偽はともかく、うつの人たちにとってはすごく辛い時期であることは確かである。
私の脳や身体もまた、冬ごもりの準備を始めているということなのだろう。

また、前々回の記事、「うつとシャーマニズム」を書いたとき、一種の解放感を覚えたことも、今言葉が出てこないことに少し関係しているかもしれない。
あの記事で書いたことが、現時点での私の一番言いたいことだったように思う。

このブログを立ち上げて以来、私がカウンセラーとしてずっと持ち続けてきた考え、……つまり、うつの病理は、本人の内部よりもむしろ周囲・場のほうにあるということを、ぶつけるように書き綴ってきたのだが、『うつとシャーマニズム』の記事をもって、言いたいことはいったん書き切ったように感じるのである。



ところで今日の昼間、NHKで『プロフェッショナル仕事の流儀スペシャル 宮崎駿のすべて~“ポニョ”密着300日』という番組を放映していた。
『崖の上のポニョ』製作にまつわる宮崎監督の苦悩にからめ、監督自身の生い立ちや表現者として出会った社会的困難について、かなり突っ込んで触れられていた。

以前このブログで、宮崎監督の作品では、必ずといってよいほど、母親という立場の人が何らかの問題を抱えている状況が描かれている、と書いた(記事43『子は親に似る?』)が、番組では、その秘密の一端が言及されていた。

氏の母親は、氏が幼いころ難病にかかり、それから亡くなるまでの数10年はただただ闘病の生活を強いられたため、幼い監督は甘えることができず、むしろ母を安心させるためにいい子を演じ続けなければならなかったそうである。

朝から雨、しかも冬の始まりという、この時期特有の鬱々とした気分にとっては、本当にしっくりとより添ってくれる思いのする番組だった。
また、宮崎作品の持つあの凄みが、どこから来るものなのかについても、ほんの少し見えた気がする。

それを一言で語るのは難しいが、一つ言えることは、宮崎駿という人は、半端じゃなくうつ性格の人なんだな、ということである。
もちろんそれは、「自分にうそがつけない」という意味において。





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世の中のリズム - 2008.12.09 Tue

先日、『冬のはじまり 鬱々』という記事で、季節とうつの関係について少しだけ触れたが、カウンセリングルームで会っている方々の全般的状況を見ていると、今年の場合例年よりもかなりひどい気がする。

ただ、世の中全体がこのような状態の時は、全体的にただただ沈んでしまうのかというと、そういうわけでもない。

もともと人に迷惑をかけることのできないうつ性格の人々の場合は、もちろん普段以上に落ち込んでしまう。
一方、人の痛みを解することができず、かつ論理のすり替えをたびたびやる、うつ性格の人にとっては天敵のようなタイプの輩もまた、潜在的には鬱々とするのだが、彼らの場合、そのうつ気分を自分で引き受けることはしない。
その気分を誰かのせいにし、押し付けることで回避しようとするのである。
その分、うつの人に取ってはなおさらきつい。

だから、世の中全体が沈み切るというよりも、むしろ殺伐とした雰囲気が強く感じられる人も多いと思う。

いずれにせよ、冬至までやり過ごせば日照時間が長くなりはじめるので、少し気分が上がってくることは期待できる。
うつや人格障害の人をはじめ、精神的に苦しんでいる人たちが、この時期を何とか持ちこたえて過ごすことを、心から祈りたい。





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未知のゾーン ― うつの人が生き抜く方法論 - 2009.05.12 Tue

先月の9日以来、1ヶ月あまりブログを更新できなかった。
更新しなかった期間の記録更新である。

この前の記事「発見」で書いたが、持っているだけで社会に自動的に認められる資格を手放してみて、はじめて自分の等身大の力量の程をひしひしと感じている。
あの記事は、資格放棄からわずか1週間あまりで書いたものだが、1ヶ月たった今、自分の非力さがますますくっきりと、さらに重みを増して襲ってきている最中なのである。

同時に、すでに自分の中にあった、カウンセリングや心理学や社会病理に関する、定式化されていたはずのいくつかの考えまでが、本当にそれでよかったのかと不安になってくる。
このブログで言葉を発するのがためらわれたのも、主にそれが原因だったと言ってよいのだが、思えばそれは半年ほど前から始まっていたように思う。

人は、たとえば目の前にいる相手より収入が多いというだけで、自分のほうが世の中のことをよく理解していると勘違いし、社会が認める資格を持っているだけで、持っていない人よりも見識が深いと勘違いするものである。
大人だというだけで子どもより状況が分かっていると勘違いするのも、カウンセラーであるというだけで、クライアントよりも人格的に優れていると勘違いするのも、うつではないというだけで、うつの人を見下すのも同じ理屈である。

そういう人間の一般的性質のことは知っていた。
知ってはいたが、それでも私自身、少なからず「資格」というものの魔術にはまってしまっていたらしい。

まったく、自分のありのままの力を知るという単純なことだけでも、単なる「考え方の切り替え」というものが役に立つことはほとんどなく、実際の行動がどれほど大事であるかを改めて知る思いだ。
ただで手に入るものなどない、ということなのかも知れない。
もちろん、闇雲で無節操な行動を勧めるつもりはないが。

自分の思考がいまだ至らないと感じた点について、一例をあげるならば……、
うつの人々が、家庭や学校・職場の中でどれほど不当な扱いや評価を蒙っているかについては、これまでさまざまな角度から述べてきたとおりであるには違いない。
しかし、では実直で正当な生き方しかできないうつ性格の人々が、そういった理不尽な圧力を加えられたときに取りうる対応の方法はどうなのか、という点である。



現在の私がうつの人と会った場合、まずはその人の家族をはじめ、周囲の人々を批判的に見ることによって、場が内包する矛盾や、本人が気づかなかったその人の正当性をつまびらかにするよう努めることになる。
そして、その人が自分の置かれている状況を詳細に俯瞰できるようになると、約半数の人はかなり早い段階で自信を回復し始める。

とくに、すでに「自分は間違ってなどいないのではないか」という気持ちをかなり明確に持っていた人など、たった1回の面接で見違えるほど生気を取り戻す人も多く、もちろん、そのまま終結というケースも少なくない。
ちなみに、こういった心理的変化は皮膚によく現れるようであり、まず例外なく色つやが別人のようになる。
また面白い例では、髪の奇妙な寝癖までが、見る見る落ち着いてしまう人もいる。
ともあれ、そういった場合、自分の正当性を「確認しに来た」というニュアンスが、そもそも強いのである。

しかし、残りの半数の人たちはそうはいかない。
理由はいくつかあるが、概して、不当な人格否定・圧力を受けてきた歴史があまりに長かったり、また圧力を加えてきた側の理屈があまりに不合理で訳が分からないために、かえって容易には自分の正当性を認知できないのである。

人間関係、とくに家族関係の中で展開されるカオスというのは、実に恐ろしい。
まったく筋の通らないことなのに、自分が多数派であることを頼みにしてさも自信ありげに言われてしまうと、言われた方は、何が何だか訳が分からなくなってしまう。
しかも皮肉なことに、言われた側が、ものごとの理非曲直がよく見える人であった場合、訳の分からなくなる度合いはいっそう強いのである。

考えてみればそれは当然の話で、「自分ならば、そこまで自信たっぷりに言うからには、それなりの根拠がある場合に限る」という見方で、相手のことも見てしまうからである。
うつ性格の人は、世に「何の根拠もない自信」というものが数限りなく存在することを、はっきりと意識しておかなければならない。
もちろん、それは深いところにある空虚感を打ち消そうとするための、偽物の自信・威嚇のための道具ではあるが。

集団の中で、具体的に自分がどのような目に遭ってきたのか、漠然としか想起できないうつの人は多い。
とくに親との関係においてである。

経験的に見る限り、それがよく思い出せないのは、あまりにも苦痛を伴う体験だったからというよりも、相手の態度や言い分があまりに訳の分からないものであったために、うまく記憶が整理できていない為である場合が圧倒的に多い。


しかし、こういった人々が自分の正当性を認知できないのには、別の理由もあるのではないかと、ここのところしきりに思うのである。
その理由とは、「自分の正当性などに気づいても、なす術がないのだから仕方がない」という理由である。

確かに、自分の正当性・相手の不当性に気づいても、その後どうしようもないのでは、気づかないほうがましだと言える。
言わば、下手に気づいてしまうことによって、「私がすべて悪いのです」という思考の逃げ場までも失ってしまうからだ。
実際、「全部私が悪いのです。私さえ周りの思い通りにやれれば、何も問題はないのです」という考えは、人を責めると胸の痛むうつ性格の人にとって、しばしば逃げ場のようなものとなっている。


不当な圧力や攻撃や否定を受けたときでも、最終的にその場をやり過ごす、あるいは制することのできるような方法……
たとえば、相手からの攻撃を起点としつつその体を崩し、なおかつ技にかかったものを笑わせてしまうような、合気柔術のような方法論が、人間関係においてもありはしないのだろうか。

これまでのところ、一切ぶれることなく、極限まで正確に自他のありようを見切れば、おのずと先のことも見えるはずだと考えていたのだが……
このような方法論は、やはり私の妄想なのだろうか。
ただいずれにせよ、今の私にとっては未知のゾーンであり、何らかの試行錯誤はせねばなるまいと思う。


追記

以前の記事について、二人の方が縄文人と弥生人のことについてコメントを下さり、それについていずれ詳しく述べると言ったのだが、その約束がなかなか果たせない。
理由は、詳しく考えれば考えるほどこの問題は根が深く複雑であるということと、時代が古すぎて実態を知るのが難しいということである。
だが、このことを考えずして、日本人の心理を読み解くのはほとんど不可能ではないかとすら思うほどのテーマなので、じっくり時間をいただきたいと思う。
nulikabeさんとあなすたしあさん、どうかご容赦くださいませ。

追記2

何も考えず当初のままほったらかしにしていたのだが、ブログの副題「カウンセリング三昧の日々、徒然」が実状に合わないと気づいた。
「徒然」どころか、はっきり言ってどの記事も目一杯ガッツリだからである。
そこで、副題を「カウンセリング三昧の日々に思うこと」に変えさせていただきます。





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うつを病む人の家族のあり方について - 2009.05.15 Fri

メールや鍵コメで、ときどきうつの人を家族に持つ方々から、どのように接すればよいのか、どのような心構えが必要なのか、といった趣旨の質問が寄せられることがある。
最近もそういったコメントがあったので、返答に代えて少し触れておくことにしたい。

まず断っておきたいのは、このブログの第一の目的は、うつの原因・病理について、まずうつの人自身に知っていただくことにある。
しかし、言うまでもなく、うつではない人々にも、うつという病の本質を知っていただく目的も含んでいる。
なので、うつの人の家族がどのような心構えを必要とするかについての私の考えは、このブログを読み込んでいただけば、ある程度はご理解いただけるはずであるということを、まずもってお断りしておきたい。



以前の記事(2008/8/19)で、私は次のように述べた。
「うつの人々にとって必要なのは、いたわりでも哀れみでもない。
真の理解である。
それも、彼ら自身に対する理解だけではなく、彼らの生真面目さを逆手にとって不当に貶めた、家族をはじめとする周囲の人々、あるいは場の、歪み・病理に対する理解も含めてである。」

家族の心構えとして一般的に言えることは、詰まるところこのことだけしかないのではないかと思う。
私が敢えて「いたわりでも哀れみでもない」と述べたのは、実際のところ、「理解」と「哀れみ」の区別の行われていないことが、あまりに多いことを思ってである。

うつの人の家族と面接する機会は少なくないが、その際に我々がしていることは、少しでもうつの人に対する理解が進むための、解説のようなものがほとんどだと言ってよい。
これは当然のことで、なぜその人がうつになってしまったのかは、多くの場合、その人自身にも分からないことだからである。

またさらに、周囲の歪みについても理解するべきだと付け足さねばならなかったのは、うつの人よりも、その周囲のほうに同調したくなる気分が、しばしばうつの人に対する理解を妨げるからである。

たとえば、うつになった人が、会社の上司がとった態度の矛盾について、家族に話したとする。
そのとき聞いた方が、「きっとその上司も、悪気があってそんな風にやったんじゃないのよ」と答えたとしたらどうだろう。
矛盾を訴えた方は、悪気のない人を非難していることになる。
結局のところ、うつになった人のとらえ方に問題があるのだと、間接的に言っていることになってしまうのである。

これは、厳しいようだが、慰めに似た非難であると言わざるを得ない。
うつの人に対する理解とは、その人が置かれた状況の矛盾に対する理解なくして、完成することはないのである。

「中立的」という言葉は、実は恐ろしい言葉だと思う。
その文字を見ると、中間に立つ、つまりどちらも悪くはないとする立場を意味しているかのように見えてしまうからである。
ごく客観的な立場を意味しているように見えながら、多くの場合、真実すら覆い隠してしまう言葉である。

誰も悪くないのなら、どうしてその人はうつにならなければいけなかったのか……。

本来の「中立的立場」とは、不正を行った選手に対しては、それなりのペナルティーを科し、試合が公正に進むよう努めるレフェリーのようなものでなければならないはずだ。
もちろんそのためには、ただただ長時間話を聞くことよりも、前後の状況について正確に聞くことのほうが重要となってくる。



一般論としては、以上のようなことになろうかと思う。

ただ、「うつ」自体は人格障害・摂食障害・精神病・不安神経症・双極性障害など、ほとんどあらゆる精神疾患に伴うと言ってよいほどのものであり、私がこのブログで主に対象としている単極性のうつだけとは限らない。
また、原因も、家族病理のほうが重いのか、職場でのことのほうが重いのか、それもまちまちである。
ゆえに、細かいところを個々別々に聞かずして、詳しい判断をするわけにはいかない。
この点は、ご理解いただきたいと思う。




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「微妙な家族」との関係 - 2009.08.17 Mon


直接的には職場や学校での人間関係が原因でうつになった人でも、まずほとんどの場合、家族関係に深刻な問題が隠されている。

つまり、家族から否定され続けた経験によって、もともと根深く劣等感が植えつけられており、それが社会での人間関係の問題によって刺激され、悪循環が起こって、自己評価がさらに激しく低下したのである。
だから、うつの人のカウンセリングを行なう場合には、より問題の根本にある家族関係、特に親との関係について掘り下げることは不可欠だ。



うつになった人の親との関係を分析していくと、もちろん例外は少なからずあるが、一方の親が非常に理不尽かつ横暴で、もう一方の親は、「一見」比較的ましに見えるというパターンが多い。
大まかに言うと、都市部ではない旧体質の強い地域ではよりパターン的で、父親の横暴さが際立っているのに対して、母親は世間体を気にして子どもに我慢をさせる、というケースが比較的多くなるように思う。
これが都市部や新興住宅地でだと、状況はもっと非パターン的・ランダムになるようだ。

親子関係の分析においては、誰が見てもひどい親の性格を把握することも当然重要だが、意外と、比較的ましに見えるほうの親の言動のパターンの分析が、さらにもっと重要であることが少なくない。


ご存知の方も多いと思うが、「サブリミナル効果」に関する有名な実験がある。
アメリカでのことだが、ボランティアの観客にある映画を見せ、数分に一度、一コマだけ、つまり人間には知覚できない時間で「コカコーラを飲め」というメッセージの字幕を挿入したところ、売店でのコカコーラの売り上げが倍増したという実験だ。

実のところ、近年になって、実験自体捏造された可能性の強いことがわかり、以来この実験は真面目には取り上げられなくなった。
ただ、それがまるで嘘だったとしても、考え方に興味深い示唆が含まれているとは言える。
つまり、人間にとっては、予測できない、あるいは認識しがたい出来事の方が、より深い影響力を持ってしまうという点である。

これを、先に挙げた親子関係に当てはめてみると、どういうことになるか……。

日常的に理不尽な暴力を振るう、あるいは働きもしないで文句ばかり言うなど、誰がどう見てもひどい親は、やられる者から見てもやはりひどいために、自我はバリアを張ることができる。
つまり、その親に対しては、比較的早い段階で「人としてだめな奴」だと見切ることができるのである。
だから、ある程度ひどい仕打ちを受けても、「自分にも問題がある」とはならず、直接、自己評価の低下にはつながりにくい。

しかし一方、比較的ましな方の親に対しては、何をされたのか複雑すぎて分かりにくいために、容易にはこのバリアが張れないのである。

例えば、理不尽なことを子どもに押し付け、言うことを聞かなければたちまち罵り、殴ったり蹴ったりする父親がいたとする。
それに対して、母親が「あんたが逆らうから叩かれるんや。逆らうあんたも悪い」と言うとする。
この場合、父親に対する子どもの怒りや恐怖はある程度単純なのに対して、母親の言葉は子どもをひどく混乱させることになる。
そもそも理不尽なことを言われるから拒絶し、暴力を受けたのに、いつの間にか、被害者であるはずの自分が悪者になっているのである。
家族コンプレックスは、こうした混乱の複合によって形成されている面が大きい。

こうした母親は、彼女自体暴力を振るわないし、時には優しいことも言ったりする。
それだけにこの母親は、子どもにとって頼みの綱とも言うべき存在なのだが、その母親が、一見筋が通っているように見えなくもない理屈で、子どものほうを否定してきたのである。
子どもは訳が分からず、納得のいかないまま自分を否定し、こうしたことが常態化すると、やがて自らの存在そのものを消し去りたいとまで思うようになってしまう。

この母親がこのような行動を取ってしまったのは、無茶苦茶な人物である父親の方をあからさまに否定することは、かえって事態を紛糾させてしまうからであろう。
言い換えると、聞き分けのよい子どもに我慢させる方が、都合がよかったのである。

もちろん、混乱させるパターンはさまざまだし、それぞれの役割を誰が演じているかも、必ずしも両親がらみとは限らず、さまざまだ。
確かに、どちらかの親が、子どもに対して、常に論理的に矛盾のない立場に立っている場合も、稀ではあるが存在する。

何をやるにも「面倒くさいなあ」と思っている人が、「あんたは面倒くさがりやなあ」と周囲から指摘されても、さほど厄介な劣等感を持つに至ることはない。
なぜなら、その指摘は客観的に見ても主観的に見ても正しいからだ。
しかし、例えば、一生懸命周りのことを考えつつ、常に最善を尽くそうと心がけている人が、「あんたは自分のことしか考えてない」と言われる時、根深い混乱と劣等感が生じるのである。

うつになる人の多くは、生来内省的で聞き分けがよく、責任感が強い。
それだけに、非を引き受けてしまいやすいのである。
「くよくよ考えてしまう」と感じているのも、それは本来内省の強さから来ているのだ。
だが、内省性も聞き分けのよさも責任感の強さも、これを捨てようと考えてはならない。
誰がどう言おうが、それはやはり得がたい生来の長所であり、また捨てようと考えても断じて捨てられないものだからである。

大切なことは、自分が劣等感を負うことになった元の人物の矛盾を、傲慢・不遜・冷徹になることを恐れずに、正確に見抜いていくことである。
突き詰めていくと、傲慢・不遜・冷徹になってしまう恐怖を乗り越えることが、もっとも大きな難所であるようだ。




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今年も冬の始まり - 2009.11.04 Wed

今年も、敏感なうつの方々にとっては厳しい季節がやってきた。

3回にわたって自分の不眠体験について書いてきて、なんとか完結させようと思うのだが、その言葉がなかなか綴れない。
あれ?こういうことを前にも書いたなと思い、見てみると、きっちり昨年の11月だった(『冬の始まり 鬱々』)。

寒さへの温度変化の角度が深いこの時期には、精神面・行動面ともに、人間の活動量は低下する。
うつの人たちは「意欲が低下しないだろうか」という恐怖を持っているため、こうした人間の野生動物としての反応にショックを受けてしまい、よけいに抑うつを深めてしまうのである。

この時期には、食料の供給量が地球規模(北半球)で低下する一方で、体温の放出のために個々人の体力も奪われる。
だから、消耗を避けるために、脳が活動を低下させる指令を出す。
いうなれば、ちょうど給料日前の買い控えのようなものだ。
つまり、この時期の活動低下は悪いことなのではなく、非常に合理的な反応なのである。

この時期に無理にテンションを上げようとすると、それは往々にして攻撃性として出てしまうために、人間関係にも悪影響がでてしまうことが多い。
年末に犯罪が多いのも、こうしたことが影響しているのではないかと考える。

だから、できるだけ慌てないほうがいいのは言うまでもない。
当然ながら、内に籠もるべき時期には籠もることが必要であり、それでも必要上、活動的にならざるを得ない場合は、「自分は仕方なく活動しているのだ」と、自分に言い聞かせるくらいの方がいいだろう。


ところが、完全に冬が深まってしまうと、次にやってくるのは春なのだから、かえってだんだんテンションはあがってくる。
その為のきっかけとして人間の編みだしたものが、冬至の祭りや儀式、つまりクリスマスの元となった儀礼や、正月の儀礼である。

だから、クリスマスはまさに、日照時間がもっとも短い冬至の時期だし、日本の旧正月は、寒さの最も強まる時期なのである。
「もう春に向かっているぞ!何とか残りの冬を乗り切ろうぜ!」という儀礼なのだ。
まったく、うまいことできている。

また、日本の「冬」という言葉の語源は、「殖(増)ゆ」だそうだ。
「潜在的エネルギーの蓄えられる時期」という意味である。
つまり、エネルギーは外向するべきではないのだ。

とにかく、あわてないように、あわてないように。
クライアントの方々には、これを話しているところである。


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「うつ」増加の原因 - 2010.04.19 Mon

もう半月以上前になるが、ある方とのカウンセリング中に、非常に重要と思われる気づきがあった。
というのは、
①現代社会でのうつの有病率の高さ。
②(少なくともカウンセリングに訪れる方々に限り、)そのほとんどの年齢層が、40代以下であること。
これらの社会構造的な理由についてである。

まず一言で要約するならば、それらの層は「上と下からの板ばさみ世代」だということである。
さらに、ちょっとヒントめいたことを言うと、目下を押さえつけることのできる人は、自分が目上や多数派から押さえつけられても平気だが、目下を押さえつけられない人は、うつになるしかなかった、ということである。



このブログで何度か書いたように、日本人家庭における上下関係の教育においては、「劣等感を植え付ける」という方法が根強い。
だから多くの日本人は、他人のことは褒めるのに比べて、自分自身や家族、身内や職場の部下を褒めるということがひどく苦手であり、けなしていてちょうどいいくらいに感じてしまう。

自分の妻のことを「愚妻」と呼ぶなどは、何の根拠もなく、もう妻というだけで貶(おとし)めていることの現れであるが、これは単に男尊女卑的風潮にだけ由来するものではない。
何となれば、自分自身のことすら対外的には「拙者」と呼び、贈り物をするときには「つまらない物ですが」と言って差し出すのである。

集団の上位に立つ者自身、劣等感が深いものだから、目下からナメられはしないかと絶えずピリピリしており、強迫的に目下を否定することでかろうじて優越感を得、自らの劣等感を相殺しようとする。
結果、異常なまでに権威的となるのである。

たとえば、日本の古典的な父親のイメージは、ひどく権威的・横暴であり、「白いものでもワシが黒といえば黒だ」という姿にまで押し上げられていた。
また、子どもの立場からいうと、「親孝行」というものの価値が異常なほど高く、親のどんな無茶でも受け入れる、すなわち「素直」であることが最善とされてきた。
もちろんこの構図は、敗戦以前の軍隊ばかりでなく、師弟関係や職場においても、はたまたクラブの先輩後輩関係においても、「親」を「目上」と置き換えて、ほぼそっくりなぞられてきた。

このように、異常なまでに権威的な構造が強かった歴史的背景には、日本人という民族の成り立ちが、あまりにも複雑であるという事情が潜んでいたことは、推測するに難くない。
つまり、成り立ちが複雑で、DNAのレベルから価値観の異なる集団から成る社会を安定させるためには、それだけ強い権威的姿勢と、断じて上に逆らえなくする劣等感が必要だったのだろうと考えるのである。
ましてや、言うまでもなくほとんどすべての日本人は、異なる血統の混血なので、同時に一人一人が、自らの内部にもそうした矛盾と混乱を抱えているわけである。

今日ようやく一部で薄まってきた、古典的な精神論・根性論などは、自らの内外での葛藤・不安定を力ずくで押さえ込む、最も単純な方法に他ならない。
鈍感な人間が巾をきかす風潮も、また然りである。



ところで、今日うつを訴える人々は、まず例外なく、こうした目上からの抑圧・横暴なまでの権威主義にひどく振り回されてきた経験を持っている。

ここで一つの疑問が生じる。つまり、
「では、昭和以前の日本人は、今日に比べ、なぜそれほどうつが多くなかったのか?」
という疑問である。

この疑問は、我々カウンセラーにとっては常に重要な疑問であり(あまり考えていない人も多いが)、以前私は、小さな地域社会、すなわちご近所づきあいが実質上崩壊したことで、市民それぞれが孤立化してしまったことを、ひとつの理由にあげた。
だが、これはうつにおける一つの要素、つまり不安と人間不信の増大の説明にしかなっていなかった。



昭和までの日本人もまた、今日と同じように上からの圧力が強かったにもかかわらず、うつになる人が少なかった理由……
それは、自分にもまた目下がおり、自分が上からされてきたのと同じことを、自分もまた下にやっていれば問題なかったからではないかと、私は考えている。
もちろん、それなりによい父親の場合は、横暴な代わりに、家族に関する内外の全責任を一身に引き受ける覚悟を持っていたことも確かだが。
ともあれ、目上が目下を頭から押さえ込む理不尽さは、矛盾が矛盾のまま、次世代、次世代へと連綿と伝達されてきたのである。

ところが今日、「目上」像は大きく、しかもかなりの速度で変化しつつある。
その代表例としてあげたいのは、宮崎駿監督『となりのトトロ』の父親像だ。

彼には、権威主義的なところがまったく見られず、5歳の娘の言うことにもきちんと耳を傾け、評価するべきは評価し、自らの非も認めるべきは認めるが、父親として夫として、やらなければならないことは逃げずにやりきるだけの強さを持っている。
(おそらくはさまざまな問題を乗り越え、妻の転地療養のために田舎に引っ越すなどが、その典型的な態度である。)
また、心理学的に見るならば、それができるということは、彼は権威や多数派に媚びていないはずだ。

私は、一見ひ弱な彼を見て、非常に「男性的」だと感じた。
そして、同じその視線を、古典的・横暴・暴力的な父親像に向けたとき、「男性性が欠損している」と目に映ったのである。
それはまず直観的な感覚だったが、くわしく言うと、言動に論理的正当性・整合性・一貫性があるかないか、ということになるだろう。

今日、部分的ではあるが、こうした父親像はある程度浸透してきている。
「男子厨房に入るべからず」と権威ぶっていた父親から、「子育てにも家事にも積極的な、いいお父さん」像へと変化してきたわけだ。
もちろんそうした像は、職場や学校での上下関係にも反映している。

こうした変化は、わずか30~40年、つまり1~2世代ほどの間に急速に進んでおり、現在も進行中と言っていいだろう。
また、大きな社会規模での、これほど急速かつ根本的な価値観の変化は、メディアが発達していなかった頃には、考えられもしなかったのではないか。

一方、団塊などの高年世代では、そもそも旧体質のまま日本を引っ張ってきた自負があるし、こうした価値観の変化が著しくなった頃には、すでに多くは社会的地位も安定していたから、大部分は、世の中の価値観の変化という怒涛からは、すでに埒外となっていたはずである。
だから、彼らのピント外れな発言に、40代後半の私でもゲンナリさせられることは多い。
つまり、おおむね高年世代と低年世代とでは、上下関係についての価値観に、かなり大きな開きがあるようなのである。

だとすると、問題は中年世代以下の人々である。
この世代の人々は、古い価値観のままの上の世代からは押さえつけられるが、自分はもう誰も押さえつけるわけにはいかないのだ。
妙な言い方だが、「押さえつけられ損」ということになるのである。

しかし、うつの方によく言うことなのだが、やられっぱなしはよくない
『トトロ』の五月とメイの父親が、もしも目上の横暴に対して逆らえない人であったならば、彼は間違いなくうつになっていただろう。

もちろん、河合先生が言われたような「中年期危機」という要素もあるだろう。
また、女性の30代、男性の40代、すなわちいわゆる厄年の前後は、たしかに人生の節目となりやすい。
若い間は何事も人生の下積みと思い、かなり我慢がきくものだが、その世代になると、今すでに甲斐のある人生を送れていなかったら、いいことが何もないまま老年期を迎えなければならないからである。
だが、カウンセラーの実感として、うつは確実に20代、10代にまで広がりつつある。


はじめに、半月前に気づいたと言ったが、なぜすぐに書けなかったのかというと、他のクライアントにもこの考えが当てはまるのかどうか、検証していたからである。
で、クライアントの方々に、実際にうつ発症の原因や前後の状況を確かめてみると、目下からの突き上げがあったり、権威ぶるわけにいかない状況があったり、総じて、目下をどう扱えばいいのか分からなくなっていた場合が、非常に多いのである。
もちろん、曲がったことができないうつ性格が関係している度合いが高いことは、言うまでもないが。

滅び行く者はパニックを起こし、あがく。
そして、あがいている状態にある者は、古い価値観にこれまで以上にしがみつく、つまり、古いあり方が一時的に強まるのである。
結果、板ばさみになる者としては、より強いプレッシャーを受けることになるのである。


次回に続く >


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敵を知る - 2010.05.29 Sat

たしか、伊達公子がウィンブルドンで準決勝に進み、当時女王の座に君臨していたシュティフィー・グラフと対戦していたときのことだ。
試合中盤、伊達が押しに押しまくっていた時間帯があった。

応援席では、例の「熱き男」松岡修造が声を嗄らさんばかりに声援を送っていたのだが、今伊達が押しているにもかかわらず、松岡は早くも「あとは根性だ!根性だけだ!」と叫んでいた。
この独りよがり(?)な声援が、伊達のいい集中を切ってしまうことになりはしないかと、ハラハラしながらテレビを見ていたものだ。

日本人の悪い癖だが、何でも自分が引き受けすぎてしまうところがある。
「根性、根性!」とただ叫ぶことにも、「結局は自分次第だ」という意味が含まれてしまっている。
実際、根性論者は「勝負とは、まず己れとの戦いだ」とも言う。

「根性だけあれば、あとは何とかなる」「死に物狂いでやっていれば、最後は神が味方してくれる」という根性論が現実的じゃないことは、歴史上の無数の例が示すとおりである。
予測と希望的観測が、ごちゃ混ぜになっていると言わざるを得ない。
そもそも、どれだけこちらが必死になったところで、敵だって必死なのだから。

いまさら……と思われるかもしれないが、まず敵を知ることはきわめて重要である。
古典的兵法書『孫子』にも、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」とある。
まず敵を知らないことには、戦いになるはずがない。



日本人においては、この「相手を知る」という側面が、概して非常に弱い。
うつ性格の人々において、このことはよりいっそう顕著だ。
おそらく、「何でも自分次第だ」と教えられてきたことについても、生来の生真面目さが働くからだろうと思う。

日本人の家庭・学校教育においては、「劣等感を植え付ける」ことで、上に対する従順さを強化する面が強いことはしばしば書いてきたとおりだが、この「何でも自分次第」というのも、それに連動するものではないかと思う。

うつのカウンセリングにおいては、たいてい劣等感をどう乗り越えるかがもっとも大きなポイントとなるのだが、自信というものは、いくら「自信を持たなきゃ」と力んだところで得られるものではない。
まず例外なく、「劣等感」すなわち自分を低く見すぎる傾向は「周りを高く評価しする傾向」と対になっており、大きく見えすぎている周りの人間が等身大に見えてこないことには、自信は生まれないのである。

長年、絶対的で大きく見えていた親が、実は不安が強いために支配的なだけだったことに気づかれる方も多く、その場合には、たいてい思いのほかショックよりも呆れてしまうような感覚が強いようだ。
そして、これまで騙されていたことにも気づき、ふつふつと怒りの感情が湧いてくるわけだが、ここまでくると、うつの病理はもう半分以上抜け出していることが多い。

また、それに伴って、職場などでの他人との関係も変わってくる。
本人にとって主要な場所で、間違ったことを信じ込まされている状態だと、その他の場所でも人を客観的に見ることができない。
しかし、その主要な場所で、本当はどういう目に合わされていたかが見えてくることによって、あらゆる場面での人に対する見方が変わってくる。
つまり、ある種の呪縛から解放されるのである。

繰り返すが、劣等感コンプレックスから解放されるためには、他者を見抜く目の鋭さがきわめて重要なのである。

うつの人は、敏感すぎたためにうつになったと考えてはいけない。
他者を見抜く鋭い目をもつという発想と、他者を見下す勇気が持てなかったためだと言うほうが、実情にはるかに近い。


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「悪い人じゃないんだけど……」? - 2010.08.07 Sat

たとえば、飲み屋でのサラリーマンの会話。
A「あの人(上司)さぁ、もともと自分がミスしたくせに、まるでこっちがミスしたみたいに、みんなの前で言うんだぜ。」
B「ああ、あの人時々そういうことやるよね。わかるわかる……。
まあ…、悪い人じゃないんだけどね。」

一見、どこにでもありそうな、いや、実際しょっちゅう耳にする内容の話である。

しかし、私はいつもこのBの言葉の最後のところ、日本人がやたら使いたがる「悪い人じゃないんだけど……」という部分にひどく引っかかる。
はっきり言って、「思いっっきり悪いやんけ!」と思うのだ。

この上司は、家庭を構え、毎日会社に出勤して妻や子どもを養っているのだとしたら、少なくとも表面的には、確かにいい夫であり、いい父親なのかもしれない。
また、社内でも、細かく彼のことを知らない人からすれば、多少いい加減なところはあるけれど、陽気で弁の立つムードメーカーなのかもしれない。

だがそんなことは、この会話の内容に関する限り、何の関係もないのである。
会社でミスを起こすことは、当然ながらその後のマイナス評価につながる。
ミスをやったのが誰なのかということは、言うまでもなく、サラリーマンにとっては死活問題なのだ。
また、だからこそ、この話題の人物は自分のミスを人のせいにしたのである。

さほど大きくないことだったとしても、この人物は、自分の負うべき責めを、無実の他人に押し付けたのだ。
その人間を「悪い人じゃない」と、なぜサラリーマンBは言うのだろうか。
このことが悪くないとして、じゃあどういうことならば悪いということになるのか。その基準はどこにあるのか……
そもそも、ひどい目に合ったAをいたわるべき場面で、なぜひどいことをやった上司のほうを弁護してしまうのだろうか。

日本人が形成するあらゆる集団では、目上に反論することはそれだけで「悪」という色合いを帯びる。
言い換えるならば、下に対しては、やりたい放題がまかり通るということなのだ。

Bの言葉は、彼がそれを容認する立場に立っていることを意味する(もちろんそれが大多数派なのだが)。
だから、問題になっている事実とはまったく無関係の、その人物の違った側面を持ち出してきて、「害悪のある人間」のことを「悪くない人間」とすり替え、Aに対して「この矛盾を飲み込め。そしてもう二度と触れるな。」と言っているのである。

Aは、この会社を辞めるか、自分自身が誰かに対して矛盾を押し付ける人物にならない限り、うつになる可能性が高い。
「泣き寝入り」することと、「そんなことを考える自分が悪いんだ」という諦めは、まずもってうつの最大の要因だからである。

もしAがうつになったとしても、Bは自分にも原因があるとは絶対に考えない。
それどころか、Aがうつになっても、まったく知らない振りを決め込むか、さもいたわるような口調で、「気にしすぎだよ」とダメ押しの追い討ちをかけるであろうことは、ほぼ確定事項である。

さもいたわるような口調で言われると、Bのやっていることのひどさは、AにもB自身にも認識されにくい。
ましてやAとしては、数少ない味方を一人でも減らしたくない気持ちがあるために、よけいにそうなってしまう。

日本人の、「上には決して逆らってはならない」という刷り込み・洗脳は、どうすれば解除できるのか……
日本でカウンセラーという仕事をしていると、このことが最大の問題ではないかと、よく感じさせられる。

もちろん誰しも、上の者がやろうと下の者がやろうと、理不尽は理不尽だということは、頭のどこかで分かっている。
分かってはいるが、その思いと考えが抑圧されているのである。

心理学的見地から言うと、抑圧された感情は例外なく、あらぬ方向に向かって歪んだ形で表現される。
不当に押さえつけられた者自身が上の立場に立ったとき、やはり自分も下を押さえつけるのは、その一例と言えるだろう。
これは、矛先を向けるべき相手のすり替えであり、「上が下を押さえつける」という集団の因習に、自らが同化した形だ。

また、無差別殺人衝動などにおいては、その対象が不特定多数に広がってしまっている。
考えてみれば、池田小の事件にしても秋葉原の事件にしても、対象は小学生であったり、ある程度マニアックな人々であったりと、攻撃性が社会的弱者・少数派に向かっている。

日本の教育に恨みを抱く者が、その刃を子どもたちのほうに向けてしまう……
この上なくおぞましい人間心理である。
多くの幼児・児童虐待や、学校・会社におけるいじめにおいても、まず間違いなく、これと同様の心理が働いている。



うつになる人々の多くは情緒が発達していて、人の痛みを感じやすいために、争いを好まず、自分が誰かに対して不当なことをすることもできない。
だから、何らかのせめぎ合いが起きたときには、例え相手の方が不当だとどこかで分かっていても、自分のほうが引き下がって気持ちを飲み込んでしまうし、結局そちらのほうが楽だと考えてしまう。

だが、心は嘘をつかない。
理不尽を飲み込めば飲み込んだ分だけ、それは攻撃性として、澱(おり)のように感情の深いところに溜まっていく。
そして、やがてその「外に向かわない」攻撃性は自分自身へと向かい、痛めつけ始める。
それが「うつ」なのだ。


誰彼なく、相手に対して攻撃的になれとは言わない。
ただ、自分自身の心を守るために、「降りかかる火の粉を払う」気性と攻撃性だけは、何が何でも身につけなければならないのである。
自分の心は、突き詰めれば自分しか守ってやれないのだ。
きわめて厳しいことだが、それすら拒否するということは、「この世で生きる気はない」という意志を表明してしまうも同然なのである。

多くのうつの人たちに、この自覚を、切に切に願う。


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見返りを意識すること - 2010.11.07 Sun

今年の激しい気候の変化のせいもあるのだが、ここのところ疲労感が強く、ブログの更新のほうも無理をせずにいたところ、何とブログ開設以来初めて、未更新が2ヶ月以上も続いてしまった。
この間、自分の疲労感と向き合ういい機会になったように思う。

カウンセリングルームを開設してちょうど2年半。
はじめは、どのくらいクライアントが来られるか分からない不安があり、どうしてもサービス過剰気味になってしまっていたのだが、ようよう採算に安定感が感じられるほど忙しくなってきたところで、この過剰サービスがわが身に跳ね返ってきた感じである。

そこで、ここしばらくは、延長料金を設定したり少し休みを増やしたり、身を守るために、ルームの運営に関していろいろと手入れを行なってきたわけである。


今、社会全体において最も問題となっている、単極型のシンプルなうつの人々においては、このように「見返り」を意識する態度がきわめて重要である。

繰り返し言うように、それらの人々の多くは、根が善良で察しがよい。
もちろん、家族関係など他にも要因はあるのだが、まずその結果として、人の気持ちや都合を考え、自分の欲求を後まわしにしてしまう傾向が強い。
さらには、相手が「悪いね」と言ったとしても、「あ、全然いいねん」と、つい口をついて出てしまう。

ご近所づきあいなど、コミュニティにおける人間関係の感覚が全体に安定していた時代でだと、それもある程度は成り立っていたのではないかと思う。
それは言うまでもなく、そういう態度を、全員とまではいかないまでも、かなり多くの人々が持っていたからである。

「情けは人のためならず」という言葉で表されるように、たとえその場その場で見返りを求めなくとも、人に情をかけてさえいれば、誰かがどこかでそれを見ていて、自分もまた人の情けを受けることがあるはずだ、という考えが成り立っていたのである。

ところが、はっきり言って、現代社会ではすでにこのことが、ほとんど成り立たないようなのである。
さまざまな意味で、現代は価値観が「まだら」なのだ。

こちらが自分の身を切ってやったことであっても、相手は際限なく要求を繰り返し、とうとう音を上げて「もうできない」と言うと、逆にキレられる。
ましてや、「もうできない」と言う代わりに、職場などに行けなくなって「うつ病」と診断されなどしてしまうと、口では言わずとも態度で劣等者扱いされてしまう。
人の都合や感情を慮(おもんばか)ってきた結果がそれというのは、たしかに、あまりにも酷である。

きっちり線を引くのが難しいことであるのは確かだが、うつに陥らないためにも、自分の身は自分で守るということ、また見返りのない奉仕をできる限りやらないことは、どこかで必ず意識しておかねばならない。


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戦う力 - 2011.02.25 Fri

ここ数ヶ月、ルームの休みを増やしたり、延長料金の設定をしたりと、少しずつではあるが、我々カウンセラーの負担を軽減するための方策を講じてきている。
また、4月からは、定休日を金曜から日曜に変えたいと思っている。
休みが平日だと、子どもを学校に送り出す準備のために早起きせねばならず、結局ほとんど休息にならないからである。

とにかく、私も妻も疲労が激しい。
しかし、この疲労の理由は、休みが少ないためばかりではない。
クライアントの方々の置かれている状況が、おしなべて、年々難しくなってきているためだろうと考えている。

とくに、さまざまな精神疾患の温床となっている企業体質の悪化については、年々ひどくなっていく加速度が大きい。
本来、おおよそ人の上に立つだけの能力のない者、つまり問題全体の構造は見えず、他者の痛みは感じず、躊躇なく目下に理不尽を押しつけることのできる者が、「その理不尽さゆえに」出世してしまっている傾向も、以前よりはるかに強いと感じる。

長引く経済不況が企業を圧迫し、そこで生まれたひずみが、おもに生真面目な人々のところへ集まってしまっているのである。
だが、経済不況の影響ばかりが原因だとは言いがたい。
経済不況を一つのきっかけとして、「日本」という集団・国家が、長い歴史を通じてもともと潜在的に持っていた不合理な傾向が暴き出されてきている側面もあることを、見逃してはならないだろう。

さらにはその背後に、世界全体が決して良い方向には向かっていないのではないかという、嫌な予感も多分にある。
法治国家ではない中国の経済発展などを見ると、必ずしも卑怯を嫌う者が報われるわけではないという現実を鼻先に突きつけられているような、苛立ちと空虚感を覚えさせられる。



カウンセリングルームを訪れる生真面目な人々の多くは、争いを好まない。
一つの物を取り合うような状況になると、「争うくらいなら、譲るほうがましだ」と、あっさり譲ってしまう。
出世欲も、ほとんどない人が多い。
結果、彼・彼女たちは、「好き放題にしていい相手だ」と周りから認知されてしまう。

だが、彼・彼女たちも、我々も、まだまだこの歪んだ社会の中で生き抜いていかねばならない。

戦う力の必要性を、この上なく感じさせられる。

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「謙譲の美徳」が引き起こす混乱 - 2011.02.27 Sun

1ヶ月ほど前だったと思うが、鳥越さんの『スーパーモーニング』で、面白い実験をやっていた。
就職活動中の大学生と、日本で就職した(就職活動中だったかな?)日本語の話せる外国人数名ずつに対し、面接形式で「あなたの長所を教えてください。時間は無制限です」と頼んで話してもらうという実験である。
外国人のほうは、アジアや欧米などさまざまだったように思う。

実験の結果、日本人大学生と外国人との間には、反応に明らかな違いが出た。
日本人のほうは、ほぼ例外なく、かなり困ってからようやく一つだけ自分のいいところを話し、時間的にも1分程度で終わってしまうのに対し、外国人のほうは、ほんの少し「そうですね……」と考える時間はあっても、平均3~5分、まず淀みなく自分の持てるスキルや性格的な長所のいくつかについて語っていた。

データとしては少ないが、ここまではっきりと態度が分かれていると、やっぱり違うんだなあと考えざるを得ない。
しかも、外国人の国籍はさまざまであることを考えると、日本人だけが、自分の長所を語るについて極端に不得意なのである。



この実験でとくに印象的だったのは、自分の長所について淀みなく話す外国人の姿には、ちっとも傲慢さや嫌らしさが見えなかったことである。
それどころか、自分の長所を相手に伝えることの必要性を素直に理解し、それを誇張なく正確に話そうとする彼らの態度には、むしろ好感さえ覚えた。

これは実験の場面ではあったが、おそらく現実の就職面接においても、彼らは自分の持てるスキルを提示し、それを必要とする企業と雇用契約を結ぶという、「契約」の本質が理解できているのであろう。
つまり彼らの場合、日本人に比べて、雇用者と被雇用者の立場が、かなり対等に近いものとして認識されているのだと思う。

また、ふと気づくのは、私の「ちっとも傲慢さや嫌らしさが見えなかった」という表現自体、外国人から見ればかなり違和感を感じるだろうということだ。
「自分の長所を人に話すことが、どうして傲慢で嫌らしいことなの?」と思うに違いない。
しかし、この感覚はひとり私のものではなく、大部分の日本人に共通する感覚であることは、間違いないだろう。

大学の学生相談室には、就職活動でうつになった学生が多く来談する。
彼らの混乱のほとんどは、大学の就職支援センター(キャリアサポートセンター)での採用面接指導で、「もっと自分のいいところをアピールしなさい」と言われる点にある。
彼らは日本人として、自分の長所を語ることに、根深い抵抗感を植えつけられているのである。

我々が子どもだった昭和の頃には、あるいは今以上にもっとはっきりと教えられていたかもしれない。
大人いわく、
「人のいいところを見つけて、そこを褒めなさい。そうしたら、人があなたのいいところを見つけてくれるんだよ(もちろん、大阪人なのでこんなにきれいな言い回しではない)。」
「自分の値打ちを決めるのは、自分じゃない。人だよ。」
つまり、自分で自分のいいところを強調するのは、いや、口にすること自体、非常に下品なことであると繰り返し刷り込まれてきたわけだ。

時代が下っても、やはりこうした刷り込みはある程度なされていたに違いないのだが、大人になった途端、今度は自分の長所をアピールしろと言うのである。
でも、汗をかきかきアピールしたらしたでやっぱり、よい評価を下さない面接官もいることだろう。面接官もまた日本人なのだから。

紛うことなき、ダブルバインドだ。



『スーパーモーニング』の実験での外国人たちのように、すっきりと嫌味なく自分の長所を紹介できるならば問題はなく、実際にそれがやれる日本人もいるにはいる。
それができない人からできる人を見ると、劣等感を刺激され、圧倒される感覚を覚える。

では、それができる人々は、一般的日本人とどう違うのか。
すでに達観しているというごく稀な例外を除いて、大きくは2つの場合が考えられる。
そういう価値観の家庭環境で育ってきたか、その人自身が本質的にある程度自閉性の強い、空気の読めないタイプ*であるかのどちらかだ。

挫折の経験がなくて、その実空気の読めないタイプの人は、しばしば他者を圧倒するキャラクターの持ち主であったりするのである。
たとえば妙に威厳のある雰囲気の人だとか、バイタリティーあふれるタイプだとか……
もちろん、周囲の評価ばかりか彼ら自身にも、「空気が読めない」という自覚はまずない。

ともあれ、自己の長所をすんなりアピールできる日本人は、あまりいない。
では、日本人の風潮に埋もれ、自己の長所をアピールできない人が、それでも面接官や上司から評価されるためには、どういう方法があるだろうか。

その答えは、私には1つしか見出せない。
「上にへつらう」ことである。

恥ずかしげなくへつらうことのできる人が出世していくケースは、言うまでもなく、嫌になるほどよく耳にする。
しかも、「へつらう」という行動の中には、上司がダメ出しをした人物を嵩にかかっていじめるという、最悪の行動までがしばしば含まれる。

自分に嘘がつけないタイプの人にとっては、ここで八方ふさがりにならざるを得ない。
しかし、私はカウンセラーとして、彼らに「嘘がつけるようになりましょう」と勧めることは、まずもってない。
彼らにとって「へつらう」ことは、ヒマラヤに登頂するよりも困難なことなのだ。

上にへつらうことのできない人の中には、「プライドが高すぎるんじゃないの?」と人から言われ、傷ついた経験の持ち主が多いが(ほんとに無神経な言葉だ!)、決してプライドがそうさせるわけではない。
彼らは、自分の行動の歪みに、拒絶反応を起こしやすいのである。

自分に嘘がつけないという性質は、たとえ望んでも得られない絶対的長所・利点であり、同時に捨てるのもかなわないものである。
それを捨てるということは、自分そのものを放棄するに等しいことなのである。

突き抜けるしかないと、私は思う。
上司や会社ばかりにではなく、「日本」という怪物にも勝つしかないと思うのである。
むしろそのことが、日本文化の本当のよさをも引き出すことになるはずだと、私は考える。

*「空気が読めないタイプ」については、少し詳しく説明する必要があるが、できれば次に別の記事としてアップしたい。

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うつの原因1-華のある人には注意 - 2011.06.19 Sun

日々うつの人々のカウンセリングを行なう中で、一般的に「うつの原因」となるものについて、しばらくシリーズで書いていきたいと思っている。

ただ、「縛り」のあることが、記事を書くモチベーションを下げてしまう場合もあるので、他のテーマも挟み込んでいくかもしれないし、どこかで尻切れトンボになってしまうかもしれない。
なので、必ず書き上げる約束はできないが、その時はお許しいただきたい。

今回は、「華のある人には注意」というテーマで、普段気づいたことを書いていきたい。

さまざまな人間関係、家族関係におけるストレスに、その原因の多くの部分が含まれていることは言うまでもないのだが、実は、問題なのはストレスの量だけではない。
ストレスの中身・質がかなり関係しているのである。

たとえば、決して健康な状態とは言えないのだが、週末まで返上して、毎日夜遅くまで働いている人々がいる。
もちろん、こういった人々には多大な肉体的ストレスがかかっているのだが、ではそのすべてがうつの危険にさらされているかというと、必ずしもそうは言えない。

たとえば、たくさん給料をもらっているとか、周囲から高い評価を得ている、あるいは仕事の結果として確実な進捗や手応えが常にある場合には、こうしたストレスもうつの発症にはつながらないのである。

また、褒められた話ではないのだが、部下や仕入先など、立場の弱い者に理不尽な要求や叱責を行ない続け、なおかつその相手の痛みの感情を感知する能力の低い者は、どれだけ長時間働いても、やはり決してうつになることはない。

こういった人の痛みに対して鈍いタイプの人物は、どこか強迫的だったり、身体感覚も鈍いことが多いようだ。
「バイタリティーの塊」と言われるタイプの人には、こうした人が多いように思われ、多くは自分の疲労感に気づきにくい反面、「休まず働くことはいいことだ」といった強迫的思い込みがあるために、働けてしまっているのではないかと思われる。

ただ、その一方で、その疲労感を漠然とした不快感としてどこかで感じており、その不快感は、しばしば目の前にいる弱者に投影される。
その不快感が、自分の身体の内部から生じているものであることをうまく感じ取れず、その原因が、押し付けても差し支えのない(抵抗できない)相手に押し付けられるのだ。

職場が原因でうつになった人達の話を多く聞く中で、いわゆる「切れ者」と呼ばれる人とか、また「あの人には華がある」と言われる人にも、本質的にはこうしたタイプが意外と多いように思われる。
いわゆるワンマン社長などは、その典型だ。
言うまでもなく、こうしたタイプの人は、一般に周囲からの評価は高い。

我々相談者としては、会社が原因でうつになった人から、「上司に、こういうすごい人がいまして……」と、非常に華のある人のことを話されても、「その人は本当に大丈夫なんだろうか?」と、一応の注意を払うのが常となる。
そして実際、その上司の複雑な問題点が次第に明らかとなり、その結果、クライアントが背負わなくていい非を多く背負っていたことが明らかとなり、非常に間違った形で低下していた自己評価がアップし、症状にも好影響を与えることが少なくないのである。

こちらがそのように睨み、実際そうだった率は、半数強といったところだろうか。

使い古された格言のようだが、「光あるところ、影がある」という言葉は、我々心理相談者にとっては、常に新たに意識される。

以前、「敵を知る」という、やや過激なタイトルで記事をアップしたことがあったが、この「敵を知る」という言葉には、2つの意味がある。
1つは、敵の本質を詳しく知るということだが、もう1つは、いったい誰が本当の敵であるかを知るということでもある。

破天荒な父親が原因でうつになったと思い込んでいた人が、実は一見穏やかに見える母親から、長年、間接的な人格否定を受けつづけていたことの方が、より大きな原因だった、というケースも少なくない。

「敵を見極めよ」という記事をアップするについては、被害感の強い人にとっては、かえってそれを強めてしまう危険性もあるのだが、実際理不尽を飲み込まされ続けた結果うつを発症してしまった、典型的なタイプの人にとっては、ぜひとも知っておかなくてはならないことなので、あえてアップさせていただいた。


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うつの原因2 -やられっぱなしはよくない - 2011.07.13 Wed

ここのところ、さまざまなケースに共通するうつの原因について述べているのだが、各々の現実場面で見てみると、うつの原因は一見さまざまな側面をもっており、それを体系化するのは簡単ではない。

ただ、比較的シンプルな病理を持つ単極型のうつの根本的な原因を、あえて一言で表現するならば、「この先、解放される見込みのない、我慢の蓄積」であると言い切って、まず差し支えない。
つまり、うつになるかならないかは、飲み込んできた我慢の量で決まるということである。
ということは、飲み込む我慢の量を減らすことと、すでに飲み込んできた我慢を、何らかの形で解放することで、うつの軽減または消失が期待できるということになる。
もちろん、あくまでも単純に図式化すれば、ということであるが。


たとえば、職場が原因でうつになった人のカウンセリングの過程では、当然ながら退職という選択肢も出てくる。

日本には「立つ鳥、後を濁さず」という諺に示されるように、去る者は多くを語らないのが美徳とされる傾向がある。
ところがこのことは、うつという症状からすると、必ずしもよくない面がある。
それは、やりきれない思い、言いたいことがいっぱいあるのに、それらをすべて飲み込んだままでいようとする態度だからだ。

過ぎ去ったことは、いいことも悪いことも、目の前からはなくなる。
だがしかし、決して記憶から消え去るわけではない。
一見忘れてしまったものことであっても、それは無意識の領域にとどまり、はっきり残っている記憶以上に、マイナスの影響を与え続けるのだ。

とくに問題なのは、鬱積した我慢が攻撃性となり、さらにはその出口が見つからないことで、攻撃性が自分自身に向かってしまって劣等感コンプレックスを形成し、自傷行為や希死念慮を引き起こすことである。
また別の場合には、その攻撃性が関係のない他者、多くは身近な、下位の立場の人に向かってしまうこともある。


ともあれ、前の職場をどのようにして去ったかは、次の職場で心機一転できるかどうかについて、少なからず影響を持つ。

では、どのように職場を去ればいいのか。
アルバイトなどの立場でない限り、退職前には、たいてい人事担当あるいは部長クラスの上司などとの面談のあるのが普通である。
そのときに、直属の上司の要求や叱責があまりに理不尽だったなど、自分を退職に追い込んだ職場でのマイナスの状況について、できるだけきちんと伝えておくことである。
つまり、たとえ小さくとも、一応の反撃をしておくことなのだ。

会社側としても、直属の上司より上位の人が出てくることが多いので、面談者に対する直接批判ではないし、どうせ去る者の言うことというのもあって、こちらの言い分を意外と中立的な立場で聞いてくれることが多い。
カウンセリングの経験上、これをやっておくのとおかないのとでは、次の職探しの意欲に、大きな違いの出ることが少なくないのである。
ただ、言うまでもないことだが、退職を決める前に、職場環境が改善されるよう、何らかの運動なり努力をするべき場合は多々あるが。

同じ職場で働き続けている場合でも、たとえば理不尽な叱責をされた時など、誰からも見えない場所で「チッ」と舌打ちしておくだけで、うつを食い止めるのに多少の効果があることがある。
うつの人のカウンセリングをしていて、だんだん感情が表に現れるようになってくると、こうした「ブラックな感じ」を身にまといはじめることが多い。
このような性格変容は、うつを乗り越えるプロセスでは、かなりいい兆候だと言えるのである。

要は、自らの尊厳を守ること。そのためには、「やられっぱなしはよくない」のである。


職場の問題とは状況は違うのだが、『ユング自伝』に記されているある逸話を書いておきたい。

ユングのもとを訪れたある女性患者は、それまで何人もの治療者に平手打ちを食らわせてきており、ある時ユングに対しても平手打ちするぞと脅してきた。
それに対してユングは、「では、あなたが先に私をぶちなさい。しかしそのあと、私があなたをぶちます。」と答えた。

我々カウンセラーもまた、自らの尊厳が守れないとき、うつの危険に晒されることになるのである。



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2015年2月28日発売
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プロフィール

kohocounsel

Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

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