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2017-04

こぶとり爺さん-その1 - 2008.09.03 Wed

私は、昔話の『こぶとり爺さん』という話が大好きである。

ユング派系の心理学者(ユング派分析家の資格を持っていない人を含めて)は、人の人生や、睡眠時の夢において生じてくる、さまざまな出来事・事物を象徴的にとらえる感覚を養うなどの目的で、よくおとぎ話を心理学的に分析する。

一人の人間が書いた物語や、一言一句違わずに伝承される神話に比べ、おとぎ話は無数の語り手の自由な裁量によって変化させられつつ、数百年、あるいは数千年にわたって語り伝えられた歴史を持つものばかりである。

だから、時代を越えた普遍的な人間心理を運ぶ、理想的なパッケージのようなものでもあるわけだ。

当然、私も昔話を分析する機会が多かったのだが、私の場合、この『こぶとり爺さん』に完全にはまってしまった。
分析していけばいくほど、この物語は、うつの人がそれを乗り越えていくプロセス、というよりも、おこがましいようだが、私自身がたどったプロセスともかぶってくるのである。




右の頬に大きなこぶのある爺さんが、その醜い姿を恥じ、人目につかない山中の一軒家に妻と隠れ住むが、ある日、焚き木をとりに山に入ったところ、雨が降ってきてしまう。
仕方なく木のうろ(空洞)で雨宿りするが、あたりはにわかに暗くなり、なぜか夜になってしまう。

心細さに身を縮ませていたところ、なにやら楽しげな歌や手拍子が、木のすぐ横手から聞こえてくる。
そろりと外を覗いてみると、なんと一つ目の大入道や目無し・口無しなど、異形の鬼ども(今でいう妖怪たち)が輪になって、酒盛りを始めているではないか。

はじめは恐ろしさのあまり気を失わんばかりだったが、さて怖さに慣れてくると、鬼どもの手拍子や歌のあまりの調子よさに、爺さん、踊りだしたくてうずうずしてくる。

“そんなことをすれば食われてしまう……、いや……しかし踊りたい。”
理性と衝動は葛藤するが、爺さん、とうとう我慢できなくなって、
「もう食われたってかまうものか!」
と、鬼どもの輪の真ん中に飛び出して舞い踊る。

伸び上がったり屈んだり、そこいら中をくるくる駆け回る爺さんの舞いっぷりの、見事なこと見事なこと。
はじめは鬼どものほうがびっくりするが、しまいには全員がやんやの大喝采。

やがて鬼どもの頭領が、
「また何とも見事な舞だわい! この次の酒盛りにも必ず来るように、お前が大事そうに顔にくっつけとるそのこぶを、このわしが預かっといてやるわい。」
と、爺さんの頬にぶら下がっていたこぶを、ひねり取ってしまった。

こぶを引きちぎられたと思ったが、痛みもなければ、あと形すら残ってはいない。
爺さんは大喜びした。

この爺さんの家の隣には、同じように左の頬にこぶのある爺さんが、やはり人里から隠れ住んでいたが、この話を聞いた隣の爺さん、「わしもこぶを取ってもらおう」と、ひとり山に入っていった。

はじめの爺さんが言ってた木のうろを見つけ、中に隠れていると、果たして辺りはたちまち闇に包まれ、鬼どもの歌と手拍子が聞こえてきた。

「今だ」とばかりに、輪の中に飛び出した隣の爺さん、踊り始めたものの、形ばかり真似たものだから、ギックシャックしゃっちょこばってばかりで、不格好この上ない。

イライラし出した鬼の頭領は、
「この前はあんなにうまかったのに、今度の舞のひどさはいったい何だ!
預かったこぶは返してやるから、もう二度と来るな!」
と、持ってたこぶを顔に投げつけた。こぶは隣の爺さんの右の頬にくっつき、爺さんのこぶは二つになってしまった。


長くなったが、こういう物語である。

この物語の最大のクライマックスは、普通に考えるならば、主人公の爺さんが鬼どもの目の前で舞い踊るところ、ということになるであろうが、私にとっては違っていた。

爺さんが「もう、鬼に食われたってかまうものか!」と、自らの心に従う決心、覚悟を定めたその瞬間なのである。
それは同時に、命がけで常識の壁をぶち抜いた瞬間でもあった。

このブログでも、「うつを乗り越えるためには、勇気をもって、周囲の言葉に耳を貸さなくなる必要がある」と述べた。

それは、こういうことなのである。

周囲の常識よりも、自分の衝動や感覚の方により大切な意味があると信じること。
いや、この爺さんの場合、信じる信じないといったことすら無関係だった。
たとえ結果がどうなろうとも、自分の深い欲求に従わずにおれなかったのだ。


予想はしていたが、案の定、長くなりそうだ。

続きは次回ということにしたい。



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こぶとり爺さん-その2 - 2008.09.05 Fri

前回からの続き


さて、昔話『こぶとり爺さん』は、どういった点でうつ克服のプロセスに似ているのか。
なるべく学術的な言葉や解釈は避け、うつという症状の実情に引き寄せつつ、物語を見ていきたいと思う。

まず爺さんは、こぶがあったからにせよ、自らの姿を醜いと思い込み、できるだけ人目を避ける生活をしている。

もうこれだけでも、周囲の圧力から「自分はおかしい」と思い込まされ、強い劣等感にとらわれているうつの人の実情を、比喩的に思わせるものがある。

しかし、さらに話を分かりやすくするために、あえて、ちょっと無茶な仮定をしてみよう。
「もしも、爺さんには、本当はこぶなどなかったとしたら……」という仮定である。
だとすれば、それはもう完全に、認知に歪みがあると言わざるを得ない。

醜形恐怖という症状がある。
自分の身体の一部が、異常な形をしていると思い込む症状だ。

たとえば、「目と目の間、鼻筋のところが凹んでいるので、恥ずかしくて人前に出られない」といった訴えだったりするのだが、実際に会ってみると、まず容貌に異常なところは見受けられない。

ただ、本人の指摘する部分をよく見ると、言われてみれば、確かに少しはそうなのかもしれないが……といった程度の特徴はある。
つまり、特に鼻の高い人が、「私の鼻は低い」と訴えることは、まずないといってよい。

先ほどの仮定は、「もしも爺さんが、醜形恐怖だったとしたら……」と言い換えることができるわけだが、だとすれば、爺さんの頬は、左よりも右の方が少しふっくらしているといった、個性の範囲におさまる程度の特徴はあったと言えるだろう。

うつの人の劣等感の多くは、「自分は理屈っぽすぎる」「精神的に弱い」あるいは「頑固だ」といった、目には見えない性格にまつわるものなので、もともと主観に左右されやすい。
だから、醜形恐怖ほど妄想的でないのは確かだが、もともと短所ではない自分の個性を、短所だと思い込んでいる(思い込まされている)点で、やはり広い意味での自己認知の歪みがおきているには違いない。


ところで、この物語では、二種類の狂気が表現されている。

一つは、今あげた極端すぎる劣等感、自己評価の歪みという、一種の潜在的な狂気である。
そしてもう一つは、恐ろしい鬼(妖怪)どもの輪の中に飛び出して、我を忘れて乱舞する、「陶酔」という名の狂気である。

「狂う」という言葉は、何かが壊れたり、ずれたり、歪んだり、とにかく本来の正常な状態ではなくなってしまうことだ。
『こぶとり爺さん』の最初の状態、極端な劣等感・認知の歪みは、これに相当する。

一方、「くるう」という言葉を語源的にみると、かならずしも異常性とは関係はなく、人間がくるくると回ったときにおきる、酩酊感や陶酔感からきているようなのである。
こちらのほうは、まさに鬼の輪の中で踊り狂っている爺さんの狂気そのものだ。

ちなみに、近年流行したトランスと呼ばれる音楽は、ある種の陶酔感を引き起こすが、それは、純粋な意味での陶酔ではない。
音質的には平板かつ機械的でありながらド派手なシンセサイザーの音を、あえて等間隔・小刻みなリズムで脳に叩きつけてくるような、あの音楽である。

確かに陶酔に近いことは近いのだが、方法論としては、むしろ感覚を麻痺させることを目的とした手法の音楽だといえる。

反対に、たとえば一部の民族儀礼や民族音楽のもたらす陶酔は、この上ない高揚感・万能感をともないつつも、むしろ感覚や意識は極限まで明晰となった状態であることが多いと言われる。

「トランス」という音楽と、このタイプの民族儀礼・音楽の違いは、前者が現実逃避的であるのに対して、後者は、「やるべきことをやっている」という自覚と、「やりたいことを存分にやっている」という感情が、同時に存在する状態にある点なのだ。
このような心の状態を、自己一致という。

主人公の爺さんの踊りは、決して、破れかぶれの現実逃避からやったことではない。
「鬼に食われてもかまわない」と、これから起こるかもしれない最悪の状態をもすべて受け止め、覚悟を定めた上での行動である。

言いかえるなら、爺さんが最後に選んだ態度とは、「たとえどうなろうと、自分にうそをつくのは、もうやめだ」ということなのであり、それはとりもなおさず、この上もなく理想的な自己一致の状態だったのである。

このブログのタイトルは、「うつ-自分にうそがつけない人たち」である。
しかし、「うつ」をもっと正確に言うならば、「本来は自分にうそがつけないのに、周りの圧力から、つかざるをえない状態にあった人たち」であり、そのために身体が緊急停止してしまった人たちなのである。

性格的に「自分にうそがつけない」ことと、「もう、自分にうそはつかない」と決心した態度との間には、はっきりとした次元の違いがある。

雨に降り込められ、小さな木のうろの中で身動きできなかった爺さんのごとく、八方ふさがりとなってしまったうつの人たちにとって、進むことのできる道はどこにあるのか。

どの道「うそがつけない」のならば、「もう、うそはつかない」と決心するより他ない場合が多いはずだと、私は思う。

ただ、こればかりは、第三者がとやかく言える次元の問題ではない。
カウンセラーにできるのは、「あなたは今、こういう分岐点に立っておられます」と伝えるところまでだ。

また、こぶとり爺さんの場合、大変な危機的状況に見舞われ、葛藤し、決心を迫られたからこそ、ある一つの選択肢を選ぶことができたと言える。
そのような局面が迫ってきてくれないことには、決心もしようがない。

そのような局面に出会わず、葛藤も覚悟もせずに、鬼の前に飛び出してしまったのが、隣の爺さんだ、とも言える。

前に、私がうつを乗り越えることができたのは、とどのつまり運がよかったのだと書いたが、それは、私がそのような局面に運よく出会えたのと、たまたまこういう性格だったという意味である。


あまりに複雑な分析になるため、続きを書こうかどうしようか迷ったのだが、ここまで書いたら、「隣の爺さん」のくだりに触れないわけにはいかない。

というわけで、次回は「隣の爺さん」についてです。

こういう話に興味のない方、申し訳ありません。




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こぶとり爺さん-その3 - 2008.09.07 Sun

さて、前々回の予告どおり、『こぶとり爺さん』に出てくる「隣の爺さん」について書くことにする。

実は、この物語が最初に私の目を引いたのは、「隣の爺さん」のくだり、つまり物語の結末部分が、何とも不可解であったためだった。

『こぶとり爺さん』は、学術的な分類によれば、「隣の爺譚(となりのじいたん)」という種類に属する。
代表的なものとしては、『こぶとり爺さん』の他に、『花咲か爺さん』や『舌切り雀』(この場合婆さんだが)などがあげられる。
いずれも、主人公は何かの行為に対して恵みを受けるのに対し、後から出てくる老人は、似て非なるひどいやり方をしてしまったために、悲惨な目にあうというものだ。

「隣の爺譚」は、朝鮮半島の民話にも多少存在するが、比率としては圧倒的に日本に多い種類の話であり、ヨーロッパにはほとんど存在しない。

悪玉が悲惨な目に合い、はじめは虐げられていた善玉がやがて報われるというモチーフは、世界の民話に共通するテーマなのだが、たいていは、はじめに悪玉がまず失敗し、最後に善玉が成功するというパターンが多く、これらは「隣の爺譚」として数えられないのである。

「隣の爺譚」の中でも『こぶとり爺さん』が他の話とまったく違う点は、一見、主人公は別に善いことを行なったわけではなく、また、隣の爺さんも悪いことをしたわけではないのに、結末は他の話と同様という点である。
私にとって不可解というのは、この点だった。

『こぶとり爺さん』-その1について、ある方が、
「隣の爺さんは、こぶのあることが恥ずかしくて人目ばかり気にし、あげくこぶのとれた主人公が羨ましくて、踊れもしないのに鬼の前で踊ってこぶが二つになってしまった。自分はむしろ、そういう隣の爺さんに自分を重ねてしまう。」
といった趣旨のコメントを下さった。

この方の気持ちは理解できる。
ある程度同じことを感じたからこそ、私はこの物語を分析の対象に選んだのだから。

ちなみに、この物語を最初に取り上げた頃の私はまだうつの最中だったのだが、失礼を承知で申し上げるならば、当時の私同様、このコメントを下さった方も、やはりうつ状態にある人特有の傾向の持ち主であることが分かる。

なぜならば、うつの人の場合、自分のことを低く見すぎるばかりでなく、他人のことを高く評価しすぎる傾向があるからである。
もちろん、それら二つの傾向は、同じ体験様式と体験の中身による、表裏一体の反応であると言える。

深く傷つき、悩み抜き、それでも必死の思いで鬼の前に飛び出して行ったという「隣の爺さん」の内面は、物語の中では一切語られていない。
なのに、当時の私やコメントを下さった方がそう考えたのは、「自分がその立場だったら絶対そうなる」という考えに基づく、深読みといわざるを得ないのである。

これが、子どもに語られるおとぎ話であることを思えば、「隣の爺さん」のそういった内面のプロセスについて何も語られていないのであれば、そういうプロセスは何もなかったことが前提となっている物語だととらえるべきなのだ。

うつになる人の、物事の筋をとらえる能力や感性の豊かさは、本来かなり高度である場合が多い。
しかもその能力を評価するには、評価する側にも同様な感性が必要であるために、滅多に評価されることはない。「実はすごいのに、目立ちにくい」性質なのだ。
それどころか、ここで書き続けているように、その能力は「理屈っぽさ」や「頑固さ」として、非難されてしまうことのほうが多いくらいなのである。

うつ性格の人にとっては、「こんなこと、少し考えれば誰にでも分かる当たり前のこと」と思えることが、ほとんどの人に通じない、という体験が無数にある。

その場合、通じなかった相手は、馴れ合いのお決まりルールや、責任回避的発想で判断し、深い考慮など何もしていなかっただけなのに、うつ性格の人の方は、通じないことがあまりにショックであるために、「私には、まだ考えの及ばないところがあるのではないか」などの疑念に半分取りつかれ、自分のほうが矛盾の責任を引き受けてしまうのである。

ひとつには、少数派の方が折れておくのが一番穏便な方法だから、という理由もある。

感情の豊かな人は、場に荒々しい感情が立ってしまうことを嫌う傾向がある。
だから、例えば誰かからたちの悪い皮肉を言われた場合にでも、はじめはできるだけ善意に解釈しようとするが、どうにも解釈しきれなくなって、次第に腹が立ったり泣けてきたりする。
つまり、かなり時間がたってから腹が立ったり、悲しくなってくることが多いのである。

それは、決しておっとりしているからでも、鈍感さのゆえでもない。
角の立つ雰囲気を、できるだけ避けたがっているからなのである。

このブログには、かなり厳しい表現が多いと思うが、私はもともと好戦的な人間ではない。

信じられないという人もいるかもしれないが、死を見つめつつ、うつを乗り越えていくプロセスで、不当なこと、歪んだことを、あくまでも排除する覚悟と姿勢を身につけた結果である。

うつから社会復帰した人の場合、常に再発の不安を抱えねばならないことが多いのだが、私の場合は、その心配はしていない。
降りかかる不当という火の粉は、命がけでも振り払う決意を翻すつもりはないからだ。
そして、もはや自分がいるべき場所ではないと判断すれば、何をどうしてでもそこを立ち去る決意があるからである。

これは逃げではない。むしろ大切なことから逃げないために、である。

話は違うが、光市母子殺人事件の被害者の夫である本村さんの態度には、感服させられた。
私が同じ立場であれば、まったく同じ態度を取るであろう。

相手が心神耗弱状態であろうが喪失状態であろうが、また精神病であろうが、それは関係ない。
百歩譲って、加害者が何らかの意味で不幸であったとしても、それはそちらの問題であって、被害者が不当な行為の犠牲にならねばならない理由にはならない。
加害者は、自らの不幸をも背負い、死を受け入れざるを得ないのだ。
私にとってこのことは、当たり前すぎて議論の対象にすらならない。


だいぶ横道にそれてしまったようだ。
話を戻そう。

長くなるので細かい説明は避けるが、主人公の爺さんが雨に降り込められ、木のうろの中で動けなくなったのは、うつの発症(顕在化といってもよい)になぞらえることができる。
だとすると、「隣の爺さん」は、うつ発症という大きな決心を迫られる機会も、「鬼に食われようとも、もう自分に嘘をつくのはやめだ」という覚悟も経なかったことになるのだ。

主人公と隣の爺さんの命運を分けたのは、言うなれば踊りの上手・下手ということになるわけだが、これは一般的な意味での上手・下手と解釈するべきではない。

鬼(妖怪)とは、異界、すなわち心理学的に言えば無意識の世界に棲む住人である。
そして、主人公が常識(表層意識における決まり事)よりも、自らの衝動(無意識からのメッセージ)に従う覚悟を決めたということは、もうすでに異界や鬼を朋輩としたも同様だったのである。

鬼どもが褒め称えたのは、普通の意味での踊りの上手さではなく、異形のものどもを朋輩として受け入れた、爺さんの心ばえ・勇気だったのだ。



またまた長くなってしまった。
まだほんの少し解釈は残っているのだが、やはり次回ということにしたい。




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こぶとり爺さん4-お笑いのすすめとして - 2008.09.09 Tue

ユング心理学的知識のない方が読むには、やや難しい話は、ようやく今回で終わりである。


前回の記事で、世界のおとぎ話の中でも、『こぶとり爺さん』に代表される「隣の爺譚」という種類の話は、日本に特有のものであると述べた。

もう一度説明するなら、悪玉キャラが悲惨な目に会い、善玉キャラが報われるというパターンは、世界中のおとぎ話に共通して見られるのだが、そのほとんどにおいて、悪玉の失敗が先で、最後に正しい者が成功を収める。

ところが、「隣の爺譚」の場合、善玉が成功を収めた後、それを似て非なるやり方で真似た悪玉が悲惨な目に合う。
つまり、順番が逆なのだ。

なぜ日本でだけこの順番になっているのか、今回はそれについて書いてみたい。
キーワードは何と、「お笑い芸人」である。


『こぶとり爺さん』の話は、「鬼に瘤取らるる事」という題で、鎌倉時代初頭に編纂された『宇治拾遺物語』に収められている。
その前後の時代の芸能について調べてみると、実に面白いことが見えてくる。

能楽の大成者として有名な、観阿弥・世阿弥親子は、それより100~150年ほど後の、南北朝から室町時代にかけて活躍した芸能人である。
能楽は、当時猿楽(申楽)とよばれていたが、世阿弥によれば、猿楽の中で最も重要かつ神聖な曲は「翁」の舞であり、猿楽者の本来の仕事はこれを舞うことにこそあるという。
あの、肌もひげも眉毛も真っ白な、柔和な表情を浮かべた老人の仮面をつけて演じられる、有名な曲目だ。

ご存知の方も多いと思うが、現在の「翁」では、2人の老人が現れる。
前半は、今述べた白っぽい仮面をつけた能楽師によって舞われるのだが、後半は能楽師ではなく、老練な狂言師によって、同じ老人ではあるが、真っ黒な肌の仮面をつけて演じられるのである。

世阿弥の時代から現在にいたるまで、この演目はごく真面目に演じられるものではあったが、後半の黒い老人(三番叟と呼ばれる)の舞いぶりは、白い翁の舞の重厚さに比べて、非常に軽やかで、見ようによってはひょうきんな動きとさえ言える。
何となれば、舞っているのは、現在でいうところのコメディアンの代表、狂言師なのである。

実は、世阿弥は「翁」のお笑い芸能的性格を否定したがっていたのだが、それより古い猿楽の歴史を調べた歴史学者や、民俗学者の考察によって、もともと後半の「三番叟」は、「もどき」と呼ばれるお笑い芸能の性格を持っていた可能性が高いとされている。

今でも、本物に似て非なるものを指して、「……もどき」という表現をもちいるが、あれはここから来ている。
要するに三番叟は、もともとははじめの老人の所作を滑稽に真似る、一種の物まね芸だったのだ。

現在でも、物まね芸はお笑いに属するが、その面白さの本質は、本物をそっくりそのまま真似ることにあるのではない。
むしろ、コロッケなどの芸を見れば分かるように、特徴の誇張すなわちディフォルメや、わざと物まねを失敗して見せるところにあるというべきである。

そう考えてみれば、「もどき」すなわち物まね芸は、すべてのお笑いの基本とさえ言える。
(もっと基本は、素っ裸になることかもしれないが。)
たとえば志村けんの「バカ殿」でも、本来、威厳があるはずの殿様に対しての、「もしも彼がバカだったら……」という仮定に立った、ナンセンスな描写なのである。


さて、『こぶとり爺さん』に話を戻そう。

『こぶとり爺さん』の前半と後半をつなぐテーマは、二人の老人、および物まねの失敗である。
まったくオリジナルの考えだが、時代的に見ても中身を見ても、『こぶとり爺さん』と古い時代の「翁」は非常に似通っているので、私はこれら二つの間には、かなり影響を及ぼしあった関係があるのではないかと睨んでいる。

また、大人が寝床についた子どもに、『こぶとり爺さん』を物語ってやるとしたら、後半の「隣の爺さん」のくだりは、どのように聞かせてやるだろう?
まずたいていは、爺さんが不恰好に踊るようすを、できるだけ面白おかしく表現するはずである。

この話は、「格好ばかりの人真似は、してはならない」といった意味の言葉で締めくくられることが多いが、おとぎ話の本質は、薄っぺらな教訓などではない。
話のどの部分においても、教訓以上の何かがあり、だからこそ世代を越えて、かつては子どもとして聞かせてもらっていた立場の者が、成長して我が子・我が孫に聞かせてやろうと思うのだ。

また、『こぶとり爺さん』が実話であったとしたら、悲惨な話となってしまうが、作り話という前提がある以上、本当の被害者はどこにも存在しない。
つまり、後半は心おきなく笑える話であり、同時に、前半のシリアスで涙ぐましい話によって高まってしまった興奮を、いい感じに下げてさえくれるのである。

私はこのブログで、現代社会の歪みがいよいよ強まり、そのせいでうつの人が増えていると述べているが、世の中に対して完全に悲観的になっているわけではない。
その一つの理由は、お笑い芸人たちの活躍である。

お笑いの一つとして、「キレる」という形がある。
最近ので典型的なのは、たとえば町で出会った無神経な人間のことなどを話し、「考えられへん!!」とキレるパターンのお笑いだ。

人々はあれを聞くと、「自分以外にも同じような目にあった人がいるんだ」という安心感・仲間意識や、「ああ、こんな風に怒っていいんだ」という“許され感”を覚える。
また、怒り方のコツも覚える。
宗教家に、何の根拠もなく「あなたは許されました」と言われるより、はるかに上質な“許され感”である。

また、ダウンタウン松本が司会兼メンバーをつとめる「すべらない話」などでは、芸人たちが競うように、自分の家族のとんでもない行動を暴露する。
で、彼らは軽蔑・嘲笑されるのかというと、逆にむしろ最大限の温かさで受け入れられてしまうのである。

お笑いにおける笑いは、受け入れる笑いであり、相手を否定するのが目的の、いじめの時などの嘲笑とはまったくの別物なのだ。

次長課長河本の家族の暴露話に、松本人志が思わず「ええなあー!」と叫んだ時、常識がブッ壊される爽快感を覚えたのは、私だけではないと思う。

たしかに常識というものも、なければないで意思疎通に時間がかかり、面倒くさいに違いないが、人の感情や物事のまっとうな筋道よりも、常識の優先順位が上になってしまうと、確実に人の心は死んでいくのだ。
抑圧される側の心ばかりでなく、する側の心もである。

お笑い芸人たちの活躍とは、人間の心が死んでしまうのを防ぐための、社会現象だと思う。





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Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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