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2008-05

子どもの心のでこぼこについて① - 2008.05.31 Sat

HP上でPDFファイルで紹介している文ですが、現代の社会や子どもたちに対する私の考え方を紹介する意味で、『子どもの心のでこぼこについて―心理教育相談の現場から』というエッセイを、少し手を加えて、何回かに分けて載せることにします。
(雑誌『子どもの文化』2004 年11 月号掲載)


子どもの心のでこぼこについて


道路舗装の体験


私は仕事がら、不登校や引きこもりなどの子どもたちとお会いすることが多く、カウンセラーという立場から、子どもについていろいろ考えさせられることが多いのですが、まずはあえて、私自身の子どもの頃のある体験からお話ししたいと思います。

その体験というのは、私と同世代の人にとってはとりたてて珍しいことではなく、「地面がなくなっちゃった」体験、つまり道路舗装の体験です。
ただ、自分自身の内面的な体験を中心にお話ししていきますので、かなり主観的な内容になることをお許しいただきたいと思います。

私は大阪市浪速区、まあ大阪の中でも、とくに大阪っぽいんじゃないかと思われるノリの、下町の出身です。今では想像もつきませんが、大阪のど真ん中といっても、私が小さかった30~40 年前頃は、幹線道路をのぞくほとんどの道路はまだ土のままでした。

ところが、私が小学校3 年(1970 年)頃だったと思うのですが、ある日学校から帰ってくると、家の前の地面が一面灰色の砂利で固められていました。
私には一体何が起こったのかさっぱり分かりませんでしたが、さらに数日後、また学校から帰ると、私の家の前の道は、鏡のようにまっ平らで無機質で、それでいておぞましいほどに青黒いアスファルトという蓋によって、とうとう完全に閉じ込められていたのです。

私はその光景に茫然とし、母親だったかおばあさんだったかに、「道路はいつ元にもどるん?」と尋ねずにいられませんでした。しかし答えは「そんなん、もうずっとあのままや」という素っ気ないものでした。

その瞬間私の中に最初に湧いてきた言葉は、「何で僕らにも前もって相談してくれなかったんやろう」という、誰に向ければいいのか分からない、強い怒りと悲しみを含んだ疑問だったことを覚えています。
その喪失感は、30 年以上たった今でもほとんど目減りしないほど強いものでした。

私の家は木材加工の町工場だったので、おが屑や木っ端、釘や金槌などの室内遊び道具にこと欠かなかったことは、せめてもの救いだったかもしれませんが、もうビー玉遊びも、棒1 本・小石1 個で地面に絵を描くことも、家の前ではできなくなりました。

道端に生えた雑草の根っこの下で、蟻たちがどのように活動しているかを、日がな一日観察することもできなくなりました。
私にとって蟻の巣の観察は、まさに土の下に存在する異世界の探索でした。
土の道の片隅には、季節によって異なる雑草が生えたり、枯れたりします。また穴を掘れば穴があき、土を寄せれば山ができ、と、無数の表情があるばかりでなく、こちらの働きかけをきちんと受け止めて変化してくれます。それでいて、一日雨が降れば、その生々しい跡形は人間が物事を忘れてしまうように見えなくなります。

だから私にとって土の地面とは、自分の存在や感情を受け止め、映し返してくれるばかりでなく、近所の仲間と共有できる、代わるもののない愛着の対象だったのです。
ですから、学校帰り、ただ足元の小石や草や水溜りのアメンボにちょっかいを出すだけの道草すら、私は楽しくて仕方ありませんでした。

私の経験から見るかぎり、アスファルトの道路はこの役割をまったく果たしませんでした。舗装道路だと、サッカーやキャッチボールなど、外向的な遊びは前よりもやりやすくなりましたが、私のような内向的な子どもにとっては、道路舗装は痛手以外の何ものでもありませんでした。

やがて表面的には、みな舗装道路に慣れてしまったように見えましたが、それと反比例するように、大半の子どもはあまり外では遊ばなくなりました。少し離れた公園まで行けば土の地面はありましたが、子どもにとっての心理的テリトリーはそれほど広くありません。それに、「ここは遊ぶ場所」と他人に決められた場所で無心に遊べるのは、ごく幼い頃だけです。

自我の芽生えに伴って、子どもは自分で遊ぶ場所や遊び方を選ぶようになります。例えば、少し大きくなった子どもは、公園でも塀やフェンスや街灯といった本来遊具でないものを遊び場にし、大人には到底考えつかない遊びを始めます。

そもそも「遊び」という言葉には、「自由である」という意味がすでに含まれており、他人に決められた物・場所で、決められたように遊ぶというのは、本来の意味での「遊び」とはいえないのではないかと思います。

家庭用ゲーム機の普及について、私は必ずしも反対ではありませんが、決められたプログラムの中に狂ったようにのめりこむ子どもたちの姿には、やはりある痛々しさを感じさせられます。
いくらのめりこんでも、他の何ものもとって代わることのできない「自分」というものを、決して映し返してくれないので、いつまでたってもそこから離れられないという現象が起きているように見えるからです。

以前、ある自治体が運営する「子ども家庭センター」にセラピストとして勤務していたころ、砂場に作られた山を見て、「ああこれは○○ちゃんの作った山だ」と分かることが時々ありました。
子どもの作るものには、その子の個性が、思ったよりも色濃く反映するものなのです。
ところが、他者によって作られたゲームのプログラムなどは、素材としてその機能をほとんど持たないのです。

今から思えば道路舗装というできごとは、少なくとも私にとっては、故郷を失ったといってもよいほどの体験だったように感じています。

それから1~2 年後、私は不登校にこそなりはしませんでしたが(当時、不登校の小学生は皆無でした)、学校にいても家でご飯を食べていても、理由もなくただ涙が出てきて仕方ないという抑うつ症状に、2 週間ほど悩まされました。
心の深い場所が傷ついた場合、それが症状として現れるにはある程度の期間が必要なのです。

たしかに、あらゆる道路の徹底したアスファルト舗装は、車社会という新しい社会への変化を加速させ、飛躍的な経済効果をもたらして、1960~70 年代の高度経済成長に力を与えたことは間違いありません。

アスファルトというのは原油を最初に加工する段階でできる沈殿物、つまり石油の搾りカスです。
石油製品を大量生産し、石油から生成された燃料で人や物を運び、一方道路は走りやすいようにその搾りカスで固める。なんというムダのない仕組みでしょうか。しかも、住民にとっても、雑草を抜いたり玄関の土を掃き出す手間もなくなりました。

こういった仕組みにとっては、土のでこぼこ道など、ムダ以外の何ものでもありません。しかし、こういった一見ムダなものを排除する仕組みが、いかに人間にとって大切なものを物心両面から破壊してしまったか、はかりしれないものがあります。

土中の微生物や昆虫の生態系も壊されましたが、私自身の体験からも分かるように、子どもの本能的で自然な心、内面の世界までも、相当深いレベルで破壊してしまったのではないかと思うのです。

2008/05/14の記事 HP更新+…… - 2008.05.29 Thu

この前のブログで、次はロジャーズの理論を批判的に検討すると書いたが、まああまり読まれているとは思えないブログであっても、論理的な批判となれば、それなりにきっちりしたものを書かないわけにいかず、細かい部分を調べるのに手間取っている。

で、いったん批判は先送りにするとして……
幸朋カウンセリングルームのHPをあらためて見直してみた。

すると、どのようにカウンセリングを行っているのか、またカウンセラーが主にどのような症状の方々と会ってきているのかなど、はじめて見る人にはほとんど具体的にはつかめないだろうな、という内容であることに気づいた。

個人的な面接の中身に触れないよう、内容と言葉を選んでいるせいもあるが、何かしら必要以上に曖昧模糊としているというか、公開という点においていまひとつ思い切りがないのだ。

まあ我々自身、これれまで大学や自治体という、生活や地位の保証された安全なパッケージ内の面接室で体験してきたことだけを頼りに、ただただ雲をつかむような気持ちでカウンセリングルームを立ち上げてきただけに、HPでルームを紹介するにしても、ずいぶん腰が引けていたんだなと、我ながら苦笑がもれる。

もちろん、内容はすぐに更新した。

私がHPの中身の分かりやすさにこだわるのは、ブログの始めのほうで書いたが、カウンセラーやカウンセリングルームは、得体の知れない存在であってはいけないと思っているからである。

その考えは、例のロジャーズ批判ともつながってくる。

うーん……、今日のところはロジャーズ批判はしない予定だったのだが、雲行きが……。
まあこういうのは内側から出てくるときに書くのが一番いいと思うので、指に任せて続けよう。

大学院でロジャーズを習うとき、たとえばクライアントが「私はこれこれのことが、こういう風に辛かったんです。」と話したとすると、「ふんふん」とうなずくか、「そうですか、あなたはそのことがそういう風に辛かったんですね。」とオウム返しするのが正解だと教えられる。

あくまでクライアントの感情を受容するために、カウンセラーは自身の感情を話してはいけない、というのがその理由だ。

「ふんふん」とうなずくのは状況によって問題ないとしても、オウム返しの方は、対話の形式をかたどってはいるものの、本当の意味での会話と呼ぶわけにはいかない。

完全に、情報の一方通行である。

クライアントのほうは、自らの危機を乗り越えるために覚悟を決めてカウンセラーの前に身を投げ出し、何事も隠さずに話そうとしているにもかかわらず、もう一方のカウンセラーのほうは、自らの気持ちも考えも話さないのである。

単純に見て失礼極まりないし、ごく普通の意味で、共感的関係など生じるはずがない態度である。

実際、カウンセラーがこういった態度をとり続けた場合、たいていのクライアントは、いつまでたっても、どのような見立ても指針も話さないカウンセラーにイライラを募らせ、吐き捨てるような言葉を残してカウンセリングを受けに来なくなる。

こうした場合、カウンセラーの側において、自分の態度にどういう問題があったかについて、充分に検討されることはあまりない。
なぜなら、カウンセラーとしては教えられた原則どおりに、カウンセリングを行なったに過ぎないからである。

ひどい場合には、あのクライアントにはこういう人格上の問題があったのだと、分析めいたことを言って自分を納得させるカウンセラーも少なくない。

しかし、怒って来なくなるというクライアントの反応はまだよいほうである。

別のタイプのクライアントは、今はカウンセラーの先生の考えはベールの向こうにあるけれど、いつかは本当のことをきちんと話してくれるに違いないと、青ざめた表情で、何の答えも自信も得られぬまま、何年でも延々とカウンセリングに通い続けることになる。

この場合、カウンセラーが自らのスタンスについて反省するということは、まずないといってよい。

なぜなら、意外に多くのカウンセラーが、とにもかくにもカウンセリングが長く続くことは良いことであると、思いこんでいるからである。

言うまでもないことだが、カウンセリングは長く続けばよいというわけではない。

もちろん原理的には、問題の次元が深いか、あるいは現実的な問題の規模が大きければ、何10年も集中的な面接が続くこともありえないではない。
しかし逆に、必要な問題の解決が見られれば1回で終わることも、あって当然である。

しかし、カウンセリングで一向に何の答えも得られないにもかかわらず、次こそは何かが得られるのではないかと思わせられ、延々と通い続けてしまう(通わざるを得ない)というのは、明らかに異常である。

しかし、異常であるにもかかわらず、そのようなケースは決して少なくないのだ。

はっきり言って、断じてあってはいけないカウンセリングである。

その時点その時点で、何か確実な見立てが立ち、クライアントに理解する準備が整っていると判断すれば、できるだけ早くそれをあまさず話すべきだし、私の場合、必要性・必然性があれば自分自身の個人的な体験も語る。

そしてもちろん、見立ての立たない点があれば、「ここまでは間違いないが、その点は分からない」と伝え、理由も話す。

少なくとも、分かっているのにあえて言わないのか、分からないから言わないのか、どちらか判別のつかないようなそぶりはしない。

当然ながら、クライアントはほぼ例外なく、カウンセリングに訪れる時点でかなり高い不安と緊張を抱えているばかりでなく、深い人間不信に陥っていることが多い。
つまり、周囲の人が何を考えているのか、また自分がどう思われているのか、分からなくなっている人がほとんどなのである。

そのような人に対して、何を考えているのか見えない対応をするということは、いったい何していることになるのか。
クライアントたちが、世間や家庭でこうむってきた不当な被害を、カウンセラーが最悪の形で再現しているということなのである。

また、カウンセラーがどのような態度を取るにせよ、クライアントの側から見れば相手は専門家なのだから、そこには「カウンセリングとはこういうものなのですよ」という前提はどうしても含まれる。
だから、クライアントはモヤモヤしながらも、「もっとはっきりしゃべってください」とはなかなか言い出せない。
自分は素人で理解できないが、カウンセリングとはこういうものなのかと納得するか、カウンセリング自体を無意味なものとして、あきらめるしかないのである。

私の考えは、相談者としてなんら特殊なことではないはずである。というよりも、私には当たり前としか思いようがないのだ。
熟練したカウンセラーの中には、賛同する方も少なくないはずだ。

ただおそらく、研究職についているカウンセラー、すなわちほとんど現場を離れ、現実離れした理論を教えるばかりの研究者兼カウンセラーについては、大半が私の考え方を否定するのではないだろうか。

私が、大学や自治体など、カウンセラーにとって一定の給料と地位が保証される、安全な場所に見切りをつけざるを得なかったのは、一つには、周囲にこういった痛々しいケースと指導方針を、数多く見なければならなかったからである。

もちろん現場責任者でもあったわけだから、他のカウンセラーにこのような考えを話したり、当事者には意を決して指摘もしたが、「考え方の違い」ということで終わらせられるか、「フロンティアですね」と、褒めらるというよりも、お茶を濁されるのが落ちであった。
うまい返しをやってしまっては、絶対にいけない場面もあるのだが……

身を切られるような思いとは、まさにあのような感情を言うのであろう。

今となっては、自分だけは安全な場所に身をおきながら、身を投げ出してくるクライアントたちと会うというのは、そもそも矛盾のある立場ではなかったかと、反省せざるを得ない。

ロジャーズをきちんと疑ったことのないカウンセラーは、このような批判を受けると、それでも感情の受容のためだからそうせねばならないとか、カウンセリングの対話は日常的な対話とは質が違うのだとか言って反論する。

果ては、そもそもロジャーズ自身、自分の決めた原則どおりにはカウンセリングを行っていなかったし、ただただ原則どおりにやるのはまだカウンセラーとして未熟なせいなのだ、と開き直る。

どう中立的に見ても、原則そのものを疑うべきなのにそれをやらないのは、ロジャーズの原則がカウンセラーに、何らかの利得をもたらしていると考えざるを得ない。
おそらくその利得とは、自らをベールのこちら側に置くことによって、いかにも底の知れない大きな存在に見せるという利得である。

今回は、ロジャーズ批判からはいったん離れると宣言したのに、結局、突如としてスイッチが入ってしまった。

どうやら、ロジャーズ理論と、それを疑わない多くのカウンセラーたちに対する私の怒りは、私自身が考えている以上に大きいようだ。

2008/04/25の記事 - 2008.05.29 Thu

国際グラフ取材


昨日、『国際グラフ』誌の記者の方から電話があり、各方面の企業人のインタビュー記事を掲載しているので、幸朋カウンセリングルームも応じてくれないかとの依頼があった。

はじめは取材の話だと思ったので、願ってもない広告の機会だとばかりに喜んだのだが、もちろん掲載してもらう方にはそれなりのメリットがあるわけだから、有料であることがわかった。

そりゃそうだ。

正直ほんの少し落胆はしたが、よくよく考えた上、やはり掲載をお願いした。

で、なんと昨日の今日なのだが、MBSの『ちちんぷいぷい』などにレギュラー出演しておられるフリーアナウンサーの梅田淳さんが、インタビュアーとして当カウンセリングルームにやってこられた。

テレビ画面での梅田さんの印象だと、ずいぶん陽気で快活なのだが、今日は終始実直そのものといったたたずまいでインタビューしてくださった。

こちらはこういったことに慣れていないので、言うまでもなく緊張していたが、いっぽう梅田さんもまた「緊張してます」と、インタビューの終わり頃に告白しておられた。やはりカウンセラーという職業は、何でも見抜くと思われてしまうからだったのか……。

言うまでもなく、実際なかなかそうはいきません。

インタビューの要点は、「うつ」や「不登校」の増加と社会状況の変化について、といったところだった。詳しい内容については、後日記事になったものをHP上にアップしようと思う。

ともあれ、梅田さんと記者のSさん、本日はご足労いただきありがとうございました。



追記  後日記者の方から連絡があり(この記事を見たのかもしれない)、著作権の問題から、掲載された内容はどこにも転載できないとのこと。ちょいガックシである。

2008/04/03の記事 - 2008.05.29 Thu

ようやく開設。


この4月1日に、ようやく幸朋カウンセリングルームの業務開始にこぎつけた。

しかし、まずこの3日間で、これまで京都でお会いしていたクライアントの方々が数人来られたところ、たちまち面接室の家具の配置その他に違和感を感じ始める。

さまざまな面接室を経験し、また多少ながら自分でも拵えてもきたのだが、やはり実際にクライアントの方に来ていただいてカウンセリングをしてみないことには、充分しっくり来る形というのは見えてこないものだ。

また、決して広いとはいえない施設(2LDK)のことではあるし、カウンセラーが息を抜く部屋、いわゆるスタッフルームなどは作らない方針でスタートしてみたが、やはり無理のあることに早々と気づかされる。

考えてみれば当然のことなのだが、自分で自分のリラックスや感情を大事にしていない状態では、すんなりと相手の体験世界に入っていきづらい。

カウンセリングの目指す方向性は、割り切って感情を切り捨てるありかた、いわゆるビジネスライクとは対極にあるわけで、うかつといえばうかつだったが、まあやってみないことには本当に分からないものだ。

2008/03/26の記事 - 2008.05.28 Wed

今回お世話になった方々2

前回の日記に続き、今回幸朋カウンセリングルームの立ち上げでお世話になった方々に、お礼を申し上げたい。

まずは、今回の物件をお世話いただいた、個人で不動産の会社を経営しておられるKさんである。

もともと家内と奥さんが習い事を通じての友人(といってもKさんの方はそちらの先生をしておられ、時々テレビ出演もされる)であったが、とにかくこちらの要望を的確にとらえるのが早く、話が早いことこの上ない。実は現在の自宅を探す際もお世話いただいていた。

カウンセリングルームの場所決定については面白いエピソードがある。

こちらがあらん限りの無茶な条件提示をしたのだが、Kさんが調べたところ、何百件を絞り込んでたった一軒だけ条件に合う物件が見つかった。で、いよいよ下見に行こうという段になって住所を確認すると、何と自宅から徒歩3分ほどの場所、コンビニよりも近かったのである。

何せ下町っぽいのに落ち着いた雰囲気が好きで住んだ場所、そこでカウンセリングルームを経営できるのは理想的かつ予想外だった。

Kさんのもってこられる物件は、いつもこちらの気持ちにフィットしてくる。まるで、相手の顔を見てから調理を始める職人気質の板前のようだ。

資金を貸してくださったMさんもそうだが、こういう生きたやりとりは、個人経営だからこそできるという面があるのだろう。われわれが今回相談室私設を思い立ったのも、まさにそういった点からである。

Kさんには内装でもお世話になり、安価で腕のいい業者を紹介してくださった。

次に、子どもの親同士のつながりからだが、家内の友人であるFさんはカーペットやカーテンを取り扱う会社を経営しておられて、家内がルーム立ち上げの話をしたところ、非常に積極的に室内装飾に関するお世話どりをしてくださったばかりでなく、よい品物がかなり安価に整うよう心をくだいてくださった。

おかげで、安普請とは思えぬ落ち着いた雰囲気の面接室にすることができた。

ルームの要である面接室の雰囲気が、こうした真心によって仕上がるというのは、面接室を訪れる方の大半が人間関係で傷ついた人たちであることを思うと、流れとして非常に嬉しい。

また、おなじく親同士のつながりだが、出版関係の仕事をしておられるNさんが、パンフレットをはじめ必要な印刷物に関するお世話どりを快く引き受けてくれ、デザイナーや印刷会社をご紹介くださった。

これを一から探すとなると、それはそれでかなりのエネルギーを必要としたはずだが、その分を完全に引き受けていただいた形である。

また、最後になってしまったが、PCのシステムは、これも家内の旧友であるフリーのシステムエンジニア(? HPデザインやグラフィックなども含め、PC関係はすべてにプロ級のため、何が本職なのかは分からない)Fさんが、思わぬアクシデントもあったため、ほぼ丸一日を費やしてすべて立ちあげてくださった。

といっても、実はこちらの不手際でまだネットには繋がっていないのだが、いやな顔一つせず、最後まですると言ってくださっている。

何かお礼がしたいと言うと、「ご飯でもおごってくれたら」とのこと。まったく恐縮の至りである。

仕事が始まってしまえば言うまでもなくこちらの領分だが、とにかく準備に関してはどれ一つとってもこちらは素人である。気がつけば、そのほとんどすべての領域について、どなたかのご好意、あるいは思い入れの恩恵をもらっている。

一応個人経営という形でカウンセリングルームをスタートさせるのだが、僭越をおそれず言えば、やはりわれわれがしようとしていることは単に個人的な欲求を満たす目的だけではなく、周囲からの要請の結晶でもあるのだなと思う。

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2015年2月28日発売
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プロフィール

kohocounsel

Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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