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2009-05

安全策の落とし穴 - 2009.05.15 Fri

もう何10年も前の作品だが、本宮ひろ志さんが三国志を題材にして描いた「天地を喰らう」という漫画があった。
読者からの受けはイマイチで、本宮さんのものにしては珍しく早々に打ち切りとなってしまった、いわば幻の作品である。
だが、その作品の中ですごく印象に残った場面があった。

小さな記憶違いがあるかもしれないので、その点はお許しいただきたいが、龍女と交わったことで地上最強の肝っ玉を得た劉備が、義兄弟で豪傑の張飛と二人で旅をし、廃墟となった城で一夜を明かす場面である。

野盗や飢えた敗走兵が跋扈する危険な場所であるにもかかわらず、劉備は敢えてすべての城門を開け放って堂々と眠る。
やがて皇帝となるべき劉備の身を案ずる張飛の心配をよそに、劉備自身は、「門をすべて開け放っておけば、人はかえって恐れて入ってこれぬものよ」とこともなげに言い、いびきをかき始める。

現実的じゃないと言えばそれまでだが、一見合理的な方法からは逆に見えることのほうが的を射ていることは、決して少なくない。
一理あると思った。

カウンセリング場面でも、そういった局面は多々ある。
たとえば、いわゆる境界性人格障害の人などの場合、それまでの家族・人間関係の悲惨さなどから、不安と人間不信が強い。
彼女たちにとって他者とは、どこまでも得体の知れない、不気味な存在である。
さらには、相手もまた自分のことをどう思っているかが気になって仕方ないために、こちらの言動の裏を深読みしすぎる傾向が極端に強いのである。

それゆえ、カウンセラーの人柄や本心を知りたいと思うあまり、その個人的な情報、たとえば年齢、家族構成、出身地など、場合によるとどちらがカウンセラーなのか分からないくらいに突っ込んだ質問を受けることもある。

私が知る限り、あらゆる臨床心理学・カウンセリングの教育場面で、こういったタイプのクライアントに対しては、絶対に個人情報は教えてはならないと教わる。
一つ教えれば切りがなくなるというのが、どうやらその理由らしい。
「転移感情(理想化などを伴った、クライアントからカウンセラーへの思い入れ・好意)」を刺激しすぎる、という理由も言われる。

加えて、こういった質問をいかにかわすかという方法についても習う。
まずたいていは、「どうしてそのことが聞きたいと思ったのですか?」と、逆に質問で返す方法が一般的だ。

私は新米カウンセラーの頃、この教育には実に苦しまされた。
教員も諸先輩方も口を揃えてそう言うのだから、当然ながら、やはりそうした方がクライアントのためでもあるのだろうと思い、教えられたとおりにやる。
しかし、こういったやり方をしていると、支配と被支配の関係ばかりが固まってしまい、かえってどうしても深い信頼関係が築けないのである。
ましてや、質問に対して質問で返すなど、どう考えても失礼だと感じ、こちらのほうがやりきれない感情にとらわれてしまう。

先に述べたように、いわゆる境界性人格障害の人の心は不安と猜疑心に満ちているが、彼女らに限らず、あらゆるクライアントは目の前にいるカウンセラーがどういう人物なのか、信頼関係が成立するまでは値踏みを続けるのが当たり前だ。

で、ごく一般的に言って、不安を軽減する方法とは何か。
それは、「不安など感じなくていいのですよ」と伝えることでないことは、言うまでもない。
要するに、何かが見えなくて不安ならば、それを見せることである。

数年かかって、この単純な理屈にたどり着いた私は、はじめは恐る恐るではあったが、あらゆるクライアントに、自分の個人的な情報や考えをほとんど隠さず話すようになった。
今となってはあまりに当然のことだが、それによって問題が起きたことは、いまだに一度もない。
また、不安の高いクライアントからの、1日に何10本もの電話やメールにくたくたになっているカウンセラーの話を聞くことは少なくないが、私にはそのような経験もない。
さらには、カウンセラーは等身大の自分を見せてしまうのだから、極端な理想化も生じにくい。

もちろん、重い境界性人格障害のクライアントのケースも含めてである。

私がクライアントの質問に答えられないときは、まず例外なく、どれほど考えてもその答えが分からないときだし、そのような場合には、「ここまでは分かりますが、ここから先は分からない」とはっきり伝える。
カウンセラーのこうした態度によって、クライアントのカウンセラーに対する猜疑心のみならず、人間不信そのものも、かなり速いスピードで軽減することが圧倒的に多い。
つまり、どれほど強い不安を持っているクライアントでも、不安に駆られて、衝動的にカウンセラーにメールを送信する必要そのものがなくなるのである。

今になって、「特に不安の強いクライアントには、カウンセラーの個人情報は教えてはならない」といった教訓は、かなり論理性を欠いた幼い反応であることが分かる。
要するに、クライアントの不安に圧倒され、恐れて、殻に閉じこもるが如き反応をしてしまっているのである。
この記事のタイトルを「安全策の落とし穴」としたのは、このことである。

ましてや、恐れているだけなら可愛いげもあるが、上の立場のカウンセラーが若いカウンセラーにそれを強要し、さらにはその「掟」を破った者に対し罵倒するなど、自らの恐怖心のたちの悪い合理化・正当化である。言語道断と言わざるを得ない。


すべての道が車道化したために「ご近所づきあい」の機会が減り、それによって現代人は「周りの人々が何を考えているのか分からない」という暗闇に放り込まれることとなった。
当然ながら、それは精神疾患増加の大きな一因である。
そういった人々と会いながら、多くのカウンセラーが、その状況を最悪の形で再現しているという事実。
そういう場面に多少なりとかかわりのある人々は、必ずやこのことは知っておかなくてはならない。


今回はカウンセリングのことで書いたが、「安全策の落とし穴」というテーマは、実は社会や家庭内でもさまざまな歪みを生じさせる原因となっている。
今後しばらくは、視点を変えつつ、このことについて書いていくことになろうかと思う。




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うつを病む人の家族のあり方について - 2009.05.15 Fri

メールや鍵コメで、ときどきうつの人を家族に持つ方々から、どのように接すればよいのか、どのような心構えが必要なのか、といった趣旨の質問が寄せられることがある。
最近もそういったコメントがあったので、返答に代えて少し触れておくことにしたい。

まず断っておきたいのは、このブログの第一の目的は、うつの原因・病理について、まずうつの人自身に知っていただくことにある。
しかし、言うまでもなく、うつではない人々にも、うつという病の本質を知っていただく目的も含んでいる。
なので、うつの人の家族がどのような心構えを必要とするかについての私の考えは、このブログを読み込んでいただけば、ある程度はご理解いただけるはずであるということを、まずもってお断りしておきたい。



以前の記事(2008/8/19)で、私は次のように述べた。
「うつの人々にとって必要なのは、いたわりでも哀れみでもない。
真の理解である。
それも、彼ら自身に対する理解だけではなく、彼らの生真面目さを逆手にとって不当に貶めた、家族をはじめとする周囲の人々、あるいは場の、歪み・病理に対する理解も含めてである。」

家族の心構えとして一般的に言えることは、詰まるところこのことだけしかないのではないかと思う。
私が敢えて「いたわりでも哀れみでもない」と述べたのは、実際のところ、「理解」と「哀れみ」の区別の行われていないことが、あまりに多いことを思ってである。

うつの人の家族と面接する機会は少なくないが、その際に我々がしていることは、少しでもうつの人に対する理解が進むための、解説のようなものがほとんどだと言ってよい。
これは当然のことで、なぜその人がうつになってしまったのかは、多くの場合、その人自身にも分からないことだからである。

またさらに、周囲の歪みについても理解するべきだと付け足さねばならなかったのは、うつの人よりも、その周囲のほうに同調したくなる気分が、しばしばうつの人に対する理解を妨げるからである。

たとえば、うつになった人が、会社の上司がとった態度の矛盾について、家族に話したとする。
そのとき聞いた方が、「きっとその上司も、悪気があってそんな風にやったんじゃないのよ」と答えたとしたらどうだろう。
矛盾を訴えた方は、悪気のない人を非難していることになる。
結局のところ、うつになった人のとらえ方に問題があるのだと、間接的に言っていることになってしまうのである。

これは、厳しいようだが、慰めに似た非難であると言わざるを得ない。
うつの人に対する理解とは、その人が置かれた状況の矛盾に対する理解なくして、完成することはないのである。

「中立的」という言葉は、実は恐ろしい言葉だと思う。
その文字を見ると、中間に立つ、つまりどちらも悪くはないとする立場を意味しているかのように見えてしまうからである。
ごく客観的な立場を意味しているように見えながら、多くの場合、真実すら覆い隠してしまう言葉である。

誰も悪くないのなら、どうしてその人はうつにならなければいけなかったのか……。

本来の「中立的立場」とは、不正を行った選手に対しては、それなりのペナルティーを科し、試合が公正に進むよう努めるレフェリーのようなものでなければならないはずだ。
もちろんそのためには、ただただ長時間話を聞くことよりも、前後の状況について正確に聞くことのほうが重要となってくる。



一般論としては、以上のようなことになろうかと思う。

ただ、「うつ」自体は人格障害・摂食障害・精神病・不安神経症・双極性障害など、ほとんどあらゆる精神疾患に伴うと言ってよいほどのものであり、私がこのブログで主に対象としている単極性のうつだけとは限らない。
また、原因も、家族病理のほうが重いのか、職場でのことのほうが重いのか、それもまちまちである。
ゆえに、細かいところを個々別々に聞かずして、詳しい判断をするわけにはいかない。
この点は、ご理解いただきたいと思う。




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未知のゾーン ― うつの人が生き抜く方法論 - 2009.05.12 Tue

先月の9日以来、1ヶ月あまりブログを更新できなかった。
更新しなかった期間の記録更新である。

この前の記事「発見」で書いたが、持っているだけで社会に自動的に認められる資格を手放してみて、はじめて自分の等身大の力量の程をひしひしと感じている。
あの記事は、資格放棄からわずか1週間あまりで書いたものだが、1ヶ月たった今、自分の非力さがますますくっきりと、さらに重みを増して襲ってきている最中なのである。

同時に、すでに自分の中にあった、カウンセリングや心理学や社会病理に関する、定式化されていたはずのいくつかの考えまでが、本当にそれでよかったのかと不安になってくる。
このブログで言葉を発するのがためらわれたのも、主にそれが原因だったと言ってよいのだが、思えばそれは半年ほど前から始まっていたように思う。

人は、たとえば目の前にいる相手より収入が多いというだけで、自分のほうが世の中のことをよく理解していると勘違いし、社会が認める資格を持っているだけで、持っていない人よりも見識が深いと勘違いするものである。
大人だというだけで子どもより状況が分かっていると勘違いするのも、カウンセラーであるというだけで、クライアントよりも人格的に優れていると勘違いするのも、うつではないというだけで、うつの人を見下すのも同じ理屈である。

そういう人間の一般的性質のことは知っていた。
知ってはいたが、それでも私自身、少なからず「資格」というものの魔術にはまってしまっていたらしい。

まったく、自分のありのままの力を知るという単純なことだけでも、単なる「考え方の切り替え」というものが役に立つことはほとんどなく、実際の行動がどれほど大事であるかを改めて知る思いだ。
ただで手に入るものなどない、ということなのかも知れない。
もちろん、闇雲で無節操な行動を勧めるつもりはないが。

自分の思考がいまだ至らないと感じた点について、一例をあげるならば……、
うつの人々が、家庭や学校・職場の中でどれほど不当な扱いや評価を蒙っているかについては、これまでさまざまな角度から述べてきたとおりであるには違いない。
しかし、では実直で正当な生き方しかできないうつ性格の人々が、そういった理不尽な圧力を加えられたときに取りうる対応の方法はどうなのか、という点である。



現在の私がうつの人と会った場合、まずはその人の家族をはじめ、周囲の人々を批判的に見ることによって、場が内包する矛盾や、本人が気づかなかったその人の正当性をつまびらかにするよう努めることになる。
そして、その人が自分の置かれている状況を詳細に俯瞰できるようになると、約半数の人はかなり早い段階で自信を回復し始める。

とくに、すでに「自分は間違ってなどいないのではないか」という気持ちをかなり明確に持っていた人など、たった1回の面接で見違えるほど生気を取り戻す人も多く、もちろん、そのまま終結というケースも少なくない。
ちなみに、こういった心理的変化は皮膚によく現れるようであり、まず例外なく色つやが別人のようになる。
また面白い例では、髪の奇妙な寝癖までが、見る見る落ち着いてしまう人もいる。
ともあれ、そういった場合、自分の正当性を「確認しに来た」というニュアンスが、そもそも強いのである。

しかし、残りの半数の人たちはそうはいかない。
理由はいくつかあるが、概して、不当な人格否定・圧力を受けてきた歴史があまりに長かったり、また圧力を加えてきた側の理屈があまりに不合理で訳が分からないために、かえって容易には自分の正当性を認知できないのである。

人間関係、とくに家族関係の中で展開されるカオスというのは、実に恐ろしい。
まったく筋の通らないことなのに、自分が多数派であることを頼みにしてさも自信ありげに言われてしまうと、言われた方は、何が何だか訳が分からなくなってしまう。
しかも皮肉なことに、言われた側が、ものごとの理非曲直がよく見える人であった場合、訳の分からなくなる度合いはいっそう強いのである。

考えてみればそれは当然の話で、「自分ならば、そこまで自信たっぷりに言うからには、それなりの根拠がある場合に限る」という見方で、相手のことも見てしまうからである。
うつ性格の人は、世に「何の根拠もない自信」というものが数限りなく存在することを、はっきりと意識しておかなければならない。
もちろん、それは深いところにある空虚感を打ち消そうとするための、偽物の自信・威嚇のための道具ではあるが。

集団の中で、具体的に自分がどのような目に遭ってきたのか、漠然としか想起できないうつの人は多い。
とくに親との関係においてである。

経験的に見る限り、それがよく思い出せないのは、あまりにも苦痛を伴う体験だったからというよりも、相手の態度や言い分があまりに訳の分からないものであったために、うまく記憶が整理できていない為である場合が圧倒的に多い。


しかし、こういった人々が自分の正当性を認知できないのには、別の理由もあるのではないかと、ここのところしきりに思うのである。
その理由とは、「自分の正当性などに気づいても、なす術がないのだから仕方がない」という理由である。

確かに、自分の正当性・相手の不当性に気づいても、その後どうしようもないのでは、気づかないほうがましだと言える。
言わば、下手に気づいてしまうことによって、「私がすべて悪いのです」という思考の逃げ場までも失ってしまうからだ。
実際、「全部私が悪いのです。私さえ周りの思い通りにやれれば、何も問題はないのです」という考えは、人を責めると胸の痛むうつ性格の人にとって、しばしば逃げ場のようなものとなっている。


不当な圧力や攻撃や否定を受けたときでも、最終的にその場をやり過ごす、あるいは制することのできるような方法……
たとえば、相手からの攻撃を起点としつつその体を崩し、なおかつ技にかかったものを笑わせてしまうような、合気柔術のような方法論が、人間関係においてもありはしないのだろうか。

これまでのところ、一切ぶれることなく、極限まで正確に自他のありようを見切れば、おのずと先のことも見えるはずだと考えていたのだが……
このような方法論は、やはり私の妄想なのだろうか。
ただいずれにせよ、今の私にとっては未知のゾーンであり、何らかの試行錯誤はせねばなるまいと思う。


追記

以前の記事について、二人の方が縄文人と弥生人のことについてコメントを下さり、それについていずれ詳しく述べると言ったのだが、その約束がなかなか果たせない。
理由は、詳しく考えれば考えるほどこの問題は根が深く複雑であるということと、時代が古すぎて実態を知るのが難しいということである。
だが、このことを考えずして、日本人の心理を読み解くのはほとんど不可能ではないかとすら思うほどのテーマなので、じっくり時間をいただきたいと思う。
nulikabeさんとあなすたしあさん、どうかご容赦くださいませ。

追記2

何も考えず当初のままほったらかしにしていたのだが、ブログの副題「カウンセリング三昧の日々、徒然」が実状に合わないと気づいた。
「徒然」どころか、はっきり言ってどの記事も目一杯ガッツリだからである。
そこで、副題を「カウンセリング三昧の日々に思うこと」に変えさせていただきます。





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プロフィール

Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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