topimage

2009-08

「微妙な家族」との関係 - 2009.08.17 Mon


直接的には職場や学校での人間関係が原因でうつになった人でも、まずほとんどの場合、家族関係に深刻な問題が隠されている。

つまり、家族から否定され続けた経験によって、もともと根深く劣等感が植えつけられており、それが社会での人間関係の問題によって刺激され、悪循環が起こって、自己評価がさらに激しく低下したのである。
だから、うつの人のカウンセリングを行なう場合には、より問題の根本にある家族関係、特に親との関係について掘り下げることは不可欠だ。



うつになった人の親との関係を分析していくと、もちろん例外は少なからずあるが、一方の親が非常に理不尽かつ横暴で、もう一方の親は、「一見」比較的ましに見えるというパターンが多い。
大まかに言うと、都市部ではない旧体質の強い地域ではよりパターン的で、父親の横暴さが際立っているのに対して、母親は世間体を気にして子どもに我慢をさせる、というケースが比較的多くなるように思う。
これが都市部や新興住宅地でだと、状況はもっと非パターン的・ランダムになるようだ。

親子関係の分析においては、誰が見てもひどい親の性格を把握することも当然重要だが、意外と、比較的ましに見えるほうの親の言動のパターンの分析が、さらにもっと重要であることが少なくない。


ご存知の方も多いと思うが、「サブリミナル効果」に関する有名な実験がある。
アメリカでのことだが、ボランティアの観客にある映画を見せ、数分に一度、一コマだけ、つまり人間には知覚できない時間で「コカコーラを飲め」というメッセージの字幕を挿入したところ、売店でのコカコーラの売り上げが倍増したという実験だ。

実のところ、近年になって、実験自体捏造された可能性の強いことがわかり、以来この実験は真面目には取り上げられなくなった。
ただ、それがまるで嘘だったとしても、考え方に興味深い示唆が含まれているとは言える。
つまり、人間にとっては、予測できない、あるいは認識しがたい出来事の方が、より深い影響力を持ってしまうという点である。

これを、先に挙げた親子関係に当てはめてみると、どういうことになるか……。

日常的に理不尽な暴力を振るう、あるいは働きもしないで文句ばかり言うなど、誰がどう見てもひどい親は、やられる者から見てもやはりひどいために、自我はバリアを張ることができる。
つまり、その親に対しては、比較的早い段階で「人としてだめな奴」だと見切ることができるのである。
だから、ある程度ひどい仕打ちを受けても、「自分にも問題がある」とはならず、直接、自己評価の低下にはつながりにくい。

しかし一方、比較的ましな方の親に対しては、何をされたのか複雑すぎて分かりにくいために、容易にはこのバリアが張れないのである。

例えば、理不尽なことを子どもに押し付け、言うことを聞かなければたちまち罵り、殴ったり蹴ったりする父親がいたとする。
それに対して、母親が「あんたが逆らうから叩かれるんや。逆らうあんたも悪い」と言うとする。
この場合、父親に対する子どもの怒りや恐怖はある程度単純なのに対して、母親の言葉は子どもをひどく混乱させることになる。
そもそも理不尽なことを言われるから拒絶し、暴力を受けたのに、いつの間にか、被害者であるはずの自分が悪者になっているのである。
家族コンプレックスは、こうした混乱の複合によって形成されている面が大きい。

こうした母親は、彼女自体暴力を振るわないし、時には優しいことも言ったりする。
それだけにこの母親は、子どもにとって頼みの綱とも言うべき存在なのだが、その母親が、一見筋が通っているように見えなくもない理屈で、子どものほうを否定してきたのである。
子どもは訳が分からず、納得のいかないまま自分を否定し、こうしたことが常態化すると、やがて自らの存在そのものを消し去りたいとまで思うようになってしまう。

この母親がこのような行動を取ってしまったのは、無茶苦茶な人物である父親の方をあからさまに否定することは、かえって事態を紛糾させてしまうからであろう。
言い換えると、聞き分けのよい子どもに我慢させる方が、都合がよかったのである。

もちろん、混乱させるパターンはさまざまだし、それぞれの役割を誰が演じているかも、必ずしも両親がらみとは限らず、さまざまだ。
確かに、どちらかの親が、子どもに対して、常に論理的に矛盾のない立場に立っている場合も、稀ではあるが存在する。

何をやるにも「面倒くさいなあ」と思っている人が、「あんたは面倒くさがりやなあ」と周囲から指摘されても、さほど厄介な劣等感を持つに至ることはない。
なぜなら、その指摘は客観的に見ても主観的に見ても正しいからだ。
しかし、例えば、一生懸命周りのことを考えつつ、常に最善を尽くそうと心がけている人が、「あんたは自分のことしか考えてない」と言われる時、根深い混乱と劣等感が生じるのである。

うつになる人の多くは、生来内省的で聞き分けがよく、責任感が強い。
それだけに、非を引き受けてしまいやすいのである。
「くよくよ考えてしまう」と感じているのも、それは本来内省の強さから来ているのだ。
だが、内省性も聞き分けのよさも責任感の強さも、これを捨てようと考えてはならない。
誰がどう言おうが、それはやはり得がたい生来の長所であり、また捨てようと考えても断じて捨てられないものだからである。

大切なことは、自分が劣等感を負うことになった元の人物の矛盾を、傲慢・不遜・冷徹になることを恐れずに、正確に見抜いていくことである。
突き詰めていくと、傲慢・不遜・冷徹になってしまう恐怖を乗り越えることが、もっとも大きな難所であるようだ。




少しでも多くの方に読んでいただけたらと、ブログランキングに参加しています。
↓押していただけるとありがたいです。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ病(鬱病)へ

この1ヶ月のこと - 2009.08.14 Fri

記事を更新できなかったこの1ヶ月あまり、「厳格さ」というものについて意識させられることが非常に多かった。

どうしたわけか、この1ヶ月、うつや摂食障害の人の家族との面談で、不条理や論理の歪みをいつも以上に多く見てきたのだが、「厳格さ」を必要とする場面ばかりだったのである。

カウンセリングという仕事をしていると、ユングが「シンクロニシティ」という発想を持たざるを得なかったことが、しばしば感じられる。
たとえば、相談の内容や症状・テーマなどが、一時に重なることが非常に多いのである。

一例をあげると、同じ日に「胃の調子が悪い」「父が胃癌になりまして……」「昔、私は大変胃が弱くて」などと、今日は胃の話ばかりだったなと思わせられるようなことも、決して珍しいことではない。
しかもそのような日は、自分自身も朝から「胃がおかしいな」と感じていたりするのである。

その文脈でいうならば、この1ヶ月は、「当たり前であるはずの理屈がまったく通用しない家族」という構造・モチーフが、かなりはっきりと布置していた。


当然のことだが、カウンセラーとしての私は、常に細心の注意を持って言葉を選択し、クライアントにそれを語る。
だから私は、面接室での私自身の言葉に対して、明確な責任の意識を持っている。
だが、カオスのごとき論理性の彼らにあっては、言っていないことが言ったことになっていたり、明言したはずのことが「そんな言い方ではなかった」ということになったりする。

それはもちろん、彼ら自身の言葉についても同じだ。
論理や事実のすり替えが、とにかく多発するのである。
だから、しばしば会話そのものが成立しない苛立ちを覚えさせられる。

虚しい議論からくる疲労感に、つい負けてしまいそうになる自分を、まさに奮い立たせ続けた1ヶ月だった。
「うんうん」と頷いてしまったほうがいっそ楽になれるのだが、不当な被害に合っているクライアントを守らねばならないから、踏ん張らないわけにいかない。

「負けを認めたら終わりだ」とか、「とにかく勝たねばならない」という意識は、まったくない。
相手が論理的に筋の通ったことを言ってくれれば、また私の方にに非があると正確に指摘してくれれば、いつだって、何の迷いもなく私はそれを認めるのだが、とにもかくにも無茶を押し通そうとする相手については、聳え立つ山のごとくにならざるを得ないのだ。


幼い頃から親と意見が食い違い、言い合ったときのことも蘇る。

そのような時、親はたいてい多数決を頼みにし、「親不孝」という言葉で罪悪感と恐怖を刺激し、ついには「屁理屈」という言葉で私の言い分を封じ込めた。
そして、そういった経験の数だけ、私の劣等感と対人恐怖は強められた。
その流れは、私が三十路にさしかかり、ある一大事に関する、家族親戚のほとんどを敵に回した戦いに完全勝利するまで、断ち切られることはなかった。

丸1年に及ぶ議論の末、勝敗を決したのは、生真面目でおとなしく、結婚以来母の尻に敷かれ続けてきた父の「こいつの言葉には、矛盾がない。」という静かな一言だった。
それを認めることのできる父が存在したこと……、多くのうつの方々と接する中で、私はやはり非常に幸運だったのではないかと感じる。
私のカウンセリングのイメージには、部外者ながら、あのときの父のような役割をカウンセラーとして果たすことはできないだろうか、という面が確かにある。

ともあれ、それ以前の古い記憶が、矛盾だらけのクライアントの家族と相対するときに蘇り、罪悪感を刺激されて、気を萎えさせようとするのである。



この間、私の頭の中では、真言密教におけるきわめて重要な仏尊、「不動明王」のイメージが踏ん張り続けた。
はじめから意識していたのではない。
気がつけば、火焔に包まれ、剣を真っ直ぐに立て、忿怒の形相であらゆる方向に睨みをきかせている不動明王の像が浮かんでいたのである。

弘法大師空海が、この世の全体と調和、完全性を体現する大日如来の化身としての座に、何ゆえ不動明王を据えたのか、少し感覚的に分かるような気がした。
大日如来が描く大円満の日輪は、人のあらゆる邪(よこしま)な思いを断じて許さず排除する、不動明王の一大決心によって裏打ちされているのである。



『古事記』の解釈をすると宣言していたのだが、それとこれは無関係ではない。
というのは、アマテラスの完全性を完成させたのは、一見わがままの塊に見える、天衣無縫の男神スサノオである。

父神イザナギは、この地上を拓いた存在ではあるが、罪なき子ヒノカグツチを斬殺したり、理(ことわり)に背いて黄泉に降ったり、妻イザナミに蘇ってほしいと自ら望んだにもかかわらず彼女を黄泉に閉じ込めたり、あまりに矛盾だらけの存在であった。
そういった矛盾に対し、最初に反乱を起こしたのは、アマテラスではなくスサノオだったのである。
スサノオは、天衣無縫であるがゆえに性質に歪みがなく、そのため思いのままに取る行動が、そのまま矛盾を正していくこととなる。

不動明王の本性は、剣と索(さく:邪気をとらえる縄)と火焔によって表現されるが、不動明王とスサノオは、剣という属性において共通している。
皇統に伝えられる三種の神器のうち八尺の勾玉(やさかのまがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)は、アマテラス再臨の呪術のときに献上されているが、残る草薙の剣(くさなぎのつるぎ)は、スサノオが退治した八股の大蛇(やまたのおろち)の尻尾より取り出し、アマテラスに献上したものなのである。

ついでに言うと、大日如来とアマテラスの共通属性は、言うまでもなく日輪である。


『古事記』解釈の続きは次の機会に譲るとして、ともかく今回はブログを更新できなかった間の心情について報告しておきたかった。




少しでも多くの方に読んでいただけたらと、ブログランキングに参加しています。
↓押していただけるとありがたいです。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ病(鬱病)へ

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

拙著

2015年2月28日発売
アマゾン限定商品

プロフィール

Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

ブログポリシー
当ブログの記事内容の著作権は、幸朋カウンセリングルーム代表松波にあります。
本サイトの内容を権利者に無断で複製・改変することは、固く禁止いたします。

関連ページ

最近のコメント

最近のトラックバック

最新記事

ブログ内検索

リンク

このブログをリンクに追加する

カテゴリ

月別アーカイブ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

RSSフィード