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2009-11

カウンセリングと博愛主義 - 2009.11.22 Sun

実はこの記事、昨年の5月28日にアップした記事である。

ごく最初のほうの記事だし、"はてな"の方からFC2に移転して、それまでの記事をまとめてどっとアップしたうちの一つでもあったので、読まれた方は少ないと思う。
そこで、ここのところの話題にかんがみ、ほんの少しだけ手を加えて、最新の日付に直して再度アップしておきたい。

例に洩れず、見ようによっては尖った内容だが、あくまでも私の正直な感覚であることは言うまでもない。




こういう仕事をしていると、困っている人は誰でも分け隔てなく受け入れるイメージというか、どこか博愛主義的なイメージを持たれやすい。
だから、例えば「お年寄りや子どもは、(当然)お好きなんでしょうね」といった質問をされることが少なくないのである。

しかし私の場合、正直言うと、子供だから、お年寄りだから好きだ、あるいは嫌いだといった感覚はまったくない。
もちろん、「近頃の若者というのはどうも……」と、中年世代にお決まりの感情を抱いたことも、一度としてない。

つまり、好きな子どももいれば苦手な子どももいるし、お年寄りに対しても若者に対しても、その点ではまったく同じだからである。

私としては、至極当然の感覚だと思っている。
それどころか、そもそも博愛主義者・献身主義者には、カウンセラーは勤まらないのではないか、とさえ思うのである。

なぜそう思うようになったのか、少し説明することにしよう。

人間はうつや不登校になれば、誰でもカウンセリングを受けに来るのかといえば、決してそういうわけではない。

少なくとも私が会っているクライアントの多くは、考え抜いて、自分でできる限りのことをやりつくし、自らは他者に迷惑をかけることはなく、それでいてさまざまな人間関係の中で不当な役割を引き受けさせられ、あげくに自信を喪失した(あるいは一度も持てなかった)人々である。

私は、こういった人々にいとおしさを覚えると同時に、深い尊敬の念をも抱く。
もちろん、年齢は関係ない。また、だからこそ、長年カウンセラーという職業を続けてこられただけでなく、もはややめることなど考えられもしないのだと言える。
彼らとの時間は、私にとって珠玉の時間であると言っても過言ではない。

もちろん私は社会人でもあるので、こういった方々が、現代社会においていかに希少なタイプの人々であるかは、よく理解しているつもりである。

はじめは、自分の元には、「たまたま」こういったすごい人たちがやってくるのかと、不思議に思っていた。
しかし、世間には少ないはずの、こういったタイプの方があまりにも多くやって来られるので、ここ5~6年、ようやく「たまたま」ではないのだと思わずにおれなくなった。

そして、次のようなことに気づいたのである。

たまたま職業を聞かれて「カウンセラーです」と答えたとき、まず一般的な人々の10人中7~8人が、表面的には関心を示しながら、やや硬い表情となり、少し身体を後ろに反らすしぐさをする。

もちろん私の力量は、「黙って座っただけですべて見抜く」といった達人の境地には程遠いのだが、やはりカウンセラーというだけで怖がられるものなんだなと感じていた。

そこで考えてみれば、クライアントの方々とは、そんなカウンセラーの前に、何一つ隠さないという前提の下に、怖がらずに座ることができた人たちなのである。

彼らは表面的には自信を喪失しているが、どこかで深い自信に裏付けられているからこそ、カウンセラーの前に座ることができる。

その自信とはつまり、いわば「おてんとう様に顔向けができる」自信である。
もちろん、たいていのクライアントの方は、自分でもその自信に気づいていない。
つまり、カウンセラーの前に座ることなど、取り立ててすごいことだとは思っていないのである。
(もちろん、カウンセリングを受けようとしない人が不正直という意味ではないが。)

彼らの多くは、意識していないことが多いが、本質的に自分の気持ちに嘘がつけず、筋の通らないことはどうやればいいのかすら分からない。

クライアントの多くがそのような方たちだからこそ、カウンセラーとしては肯定し支えることに意味が見出せるし、力強くもなれる。

しかし、カウンセリングだからといって、クライアントならば誰彼なしにその考えや生きざまを肯定し、受容できる、というわけにはいかない。
実に論理的な思考と澄んだ目を持っているのに、少数派であるがために、自分のことを「ダメ人間」と言う人がいる。
そんな考えは肯定できるはずがない。
また、「あなたはそう感じられるのですね」と、肯定の立場も否定の立場も取らないでいて、その実最も絶望的な突き放しをやれるはずもない。

また一方、比較的少数ではあるが、中には、無謀な理屈に対する無謀な容認を要求してくる人がいるのも、また事実なのだ。

自らの論理と感情に慎重にかんがみ、否定すべき点は隠さずに否定する。
でなければ、こちらの論理や姿勢が崩れ、たちまち状況の本質を見失ってしまう。
つまり、本来カウンセラーとは、相手の論理の是非を明確に切り分ける、きわめて厳格な目と態度が要求される立場なのである。

「博愛主義者にはカウンセラーは勤まらないのではないか」と私が思うのは、そういう理由である。
もちろん、人間の本性に対する肯定的な感覚が背景になければ、そもそもカウンセラーはできないので、広義ではきちんと否定することも博愛的と言えなくもないが、……。

ところで、日本の大学・大学院で教えられるカウンセリング技法の代表といえば、まず第一に、アメリカ人ロジャーズによって創始された「来談者中心療法」という技法である。

この、まるで大前提であるかのように、カウンセラーの卵たちに教え込まれる「来談者中心療法」は、私にとってはあまりに博愛主義的であるばかりでなく、論理的に決定的な矛盾が含まれると考えている。

その批判については、『ロジャーズ理論の問題点』を参照いただきたい。



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なぜ私がこのブログを書くのか - 2009.11.18 Wed


昨年の4月にカウンセリングルームを開業して以来、しょっちゅう身体のあちこちが痛い。
もちろんそういう年齢でもあるのだが、我ながら、かなりの緊張感の中でやっている証拠だと思う。

ただ、カウンセリングルームの運営のみならず、このブログで自分の書くこともまた、私自身を緊張させている面がある。

これまで続けて読んでくださっている方々には、あらためて言うまでもないことだが、私は自分の書いている内容の多くが、およそ「常識」と呼ばれるものとはかけ離れていることを、百も承知している(もちろん、論理的でないという意味ではない)。
また、内容ばかりでなく、カウンセラーという立場に立つ者が、自分の名を明かした上で自分の精神疾患の体験を書くこと自体、いわゆる「常識的」でないことも重々分かっている。

で、常識的でない行動を取ればどうなるか。
おおよそ常識でばかり物事を判断するタイプの人間の危機感をあおり、それは批判・攻撃という形で表現される。
前回の記事で書いた、このブログの内容を逆手に取ったような攻撃の例も、一つにはそうした文脈の中で起きることだと思う(許す理由にはならないが)。

私がブログを綴るのに緊張感を覚えているのは、どうしてもこういった逆風の生じることは最初から分かっており、それでも敢えて書き続けているからである。
やがて誰かから攻撃を受けると分かっていることをやるというのは、どうしても身体を身構えさせ、緊張させるものなのだ。

逆に、深い理解を示すコメントをいただいたときには、心から嬉しさがこみ上げる。



では私は、そのような緊張感と戦ってまで、なぜ名と立場を明かした上でこうしたブログを書くのか。
それは言うまでもなく、そうしなければならないという結論に達しているからだ。

そうしなければならないというのは、突き詰めれば自分のために他ならないが、もっと現実的に言うならば、あるごく少数の人たちのために、書かないわけにいかないのである。

そのごく少数の人たちとは、ある方が寄せてくださったコメントを引用させていただくならば、「世間の人の大多数が見えていないものを見て、心で感じて生きている人たち」であり、借り物の常識によってではなく、きちんと自分の頭で考えている人たちのことである。

たしかに、ここで書くことを、みんなに理解してもらいたいわけではないかと言えば、それは違う。できれば理解してもらいたい気持ちは山々ある。
だが、実際にそんなことはありえないし、何よりも私がこのブログにこめている目的意識は、すべての非を引き受けてしまいがちな、ものごとの認識や感覚に、生来歪みのない一握りの人たち、すなわち一部のうつ性格の人たちに、自らの存在の正当性を知ってもらいたいという点にあるのだ。

その目的のために最善の方法を選んだ結果が、このブログの内容と、その執筆における私のスタンスなのである。

私が「相談者」という職を選んだ理由・経緯は、「ご縁があって」といった生半な言葉では、到底表現しきれるものではないと自負している。
選択の余地のない内的要請に対し、乾坤一擲、それを真正面から受けとめる決心によって選んだ道である。

ただこのことは、カウンセラーという職業を選ぶ以上、私のみならず誰しもそこまでの決心は必要だと思う。
どれほど謙虚に見積もっても、覚悟のない者が選ぶべき職業では断じてない。
人の身の生き死にばかりでなく、心の生き死ににまで関わる職業なのだから。

ともあれ、覚悟を決めて選んだ以上、その目的のために最善を尽くすしかない。
だから、このブログを通じて私がやっていることは、多人数からの評価が目的なのではなく、何よりも私自身の決心に対するけじめであり、矜持でもあるのだ。



ずいぶんと重い内容になってしまったが、今回書いたことは、いずれかの時点ではっきりと言葉にしておかなくてはならないと、かねがね考えていたことである。



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クチコミサイトにて - 2009.11.15 Sun

思うところがあり、HPのほうのブログで書いた内容を、そっくりそのまま転載します。

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自然とHPのリンクが増えていることもあり、ものすごく久しぶりに、Googleで「幸朋カウンセリングルーム」というキーワードで検索してみた。
してみると、虫の知らせだったのか、クチコミ欄付きのとあるサイトで、えげつない書き込みがされてあった。

内容は、
「ほんとひどい。精神科に行くくらい重症じゃないとまともにとりあわない。ていうか自分が病んだままだから、自分より軽いと基本的に病んでないと判断。」

私がブログで自分のうつ体験を書いていたのを、取り上げているらしい。
うつの人たちの支えになればと書いたものを、逆手に取られた形だ。
もちろん、直ちに削除を要請した。

何ヶ月か前に、「そもそもうつ病なんていうのは、甘えにすぎない」と、とくとくと語る人物が来たので、「そういった内容は、カウンセリングの対象にはなりませんので……」と継続面接は断ったのだが、まずその人物以外には思い当たらない。
実は、断った直後にも別のサイトで、ほぼまったく同じ内容で書き込んでいた。
執念深いというか……。

今後もあまりひどいようだと、法的手段に訴えることも考えねばならないかもしれない。
こうした不当性には、断じて負けるわけにはいかない。

ある臨士会研修会でのこと - 2009.11.11 Wed

数年前、私が家内とともに出席した、とある東京での臨床心理士会の研修会でのことである。
会場は、ある大学の、円形階段式の大講義室だった。


我々は一番後ろの席に座っていたのだが、ある講師の講演が終わりに近づいた頃、家内が手を滑らせて、空のペットボトルを取り落としてしまった。
たまたま話の切れ目だったか、ペットボトルは「カランカランカラン……」と、見事に派手な音を発しながら、机の下の段々を転がり落ち、5列ほど前の席に座っていた出席者の足元に止まった。

半径7~8メートル内に座る出席者たちの視線が、非難の色を帯びて、こちらにサッと集まる。
(ここでまず1びっくり)


まず、足元にペットボトルの転がった出席者が、ことさらに(?)ゆっくりと拾い上げ(2びっくり目)、全身全霊で(?)迷惑そうな表情を表わしてこちらを睨みつつ、後ろの席の人にそれを渡した(3びっくり目)。
そしてその行動は4回ほど(つまり、私とその出席者の間の列の数だけ)、他の出席者たちによって、判で押したように繰り返され(4びっくり目、5びっくり目、……)、ようやくペットボトルは家内の元に戻ったのだった。

家内は「すみません」と礼を言ってそれを受け取ったが、通常ならば、もう少し申し訳なさそうな顔をつくろうなりして、謝意を示して受け取ったところだったろう。
しかし、家内も私も目の前の光景に唖然としすぎて、ぽかんと口を開けてしまったものである。



拾ってもらってこんなことを言うのも不謹慎と思われるかもしれないが、もし私が最初の人の立場だったら、当然かなり違った行動を取っていたはずだ。

落ちてきたのは空のペットボトル、つまり誰がどう見ても不用品、というよりもゴミである。
私ならば十中八九、これを今返してほしいとは思わないだろうと推測し、振り返って、落とし主に「気にしないで。預かっとくね」というニュアンスを目配せして、自分の机の上なり足元に置くだろう。



もちろん、世の中の人々すべてに、自分と同じ感覚を要求するつもりはない。
他人のちょっとしたミスに迷惑がるなど、世の常であることも、充分に理解している。
さらには、あれほど露骨に迷惑そうな表情をしたのは、たぶん「今恥ずかしい音を出したのは私じゃないよ」と周りにアピールしたかったんだろうなと、その気持ちも理解できる。

しかし……、しかしである。

私と家内が恥ずかしさも忘れて驚いたのは、彼らが全員、臨床心理士だという事実に対してであった。
他人の不可抗力的ミスを責め立てるその価値観が、我々のカウンセリングを行うときの感覚と、あまりにそぐわないのである。
彼らはいったい、どのようなカウンセリングを行なっているのだろう。


臨床心理士のすべてがそうだとは思わないし、思いたくもない。
東京の都心という地域性も関係しているのかもしれない。

今思い返しても、信じられないという思いの方が大きすぎて、かえってまったく恥ずかしさも腹立ちも覚えない。
ともあれ、強烈に印象に残ったエピソードである。



うーん……、みなさんはどう思われるだろうか……。



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今年も冬の始まり - 2009.11.04 Wed

今年も、敏感なうつの方々にとっては厳しい季節がやってきた。

3回にわたって自分の不眠体験について書いてきて、なんとか完結させようと思うのだが、その言葉がなかなか綴れない。
あれ?こういうことを前にも書いたなと思い、見てみると、きっちり昨年の11月だった(『冬の始まり 鬱々』)。

寒さへの温度変化の角度が深いこの時期には、精神面・行動面ともに、人間の活動量は低下する。
うつの人たちは「意欲が低下しないだろうか」という恐怖を持っているため、こうした人間の野生動物としての反応にショックを受けてしまい、よけいに抑うつを深めてしまうのである。

この時期には、食料の供給量が地球規模(北半球)で低下する一方で、体温の放出のために個々人の体力も奪われる。
だから、消耗を避けるために、脳が活動を低下させる指令を出す。
いうなれば、ちょうど給料日前の買い控えのようなものだ。
つまり、この時期の活動低下は悪いことなのではなく、非常に合理的な反応なのである。

この時期に無理にテンションを上げようとすると、それは往々にして攻撃性として出てしまうために、人間関係にも悪影響がでてしまうことが多い。
年末に犯罪が多いのも、こうしたことが影響しているのではないかと考える。

だから、できるだけ慌てないほうがいいのは言うまでもない。
当然ながら、内に籠もるべき時期には籠もることが必要であり、それでも必要上、活動的にならざるを得ない場合は、「自分は仕方なく活動しているのだ」と、自分に言い聞かせるくらいの方がいいだろう。


ところが、完全に冬が深まってしまうと、次にやってくるのは春なのだから、かえってだんだんテンションはあがってくる。
その為のきっかけとして人間の編みだしたものが、冬至の祭りや儀式、つまりクリスマスの元となった儀礼や、正月の儀礼である。

だから、クリスマスはまさに、日照時間がもっとも短い冬至の時期だし、日本の旧正月は、寒さの最も強まる時期なのである。
「もう春に向かっているぞ!何とか残りの冬を乗り切ろうぜ!」という儀礼なのだ。
まったく、うまいことできている。

また、日本の「冬」という言葉の語源は、「殖(増)ゆ」だそうだ。
「潜在的エネルギーの蓄えられる時期」という意味である。
つまり、エネルギーは外向するべきではないのだ。

とにかく、あわてないように、あわてないように。
クライアントの方々には、これを話しているところである。


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プロフィール

kohocounsel

Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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