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2010-05

敵を知る - 2010.05.29 Sat

たしか、伊達公子がウィンブルドンで準決勝に進み、当時女王の座に君臨していたシュティフィー・グラフと対戦していたときのことだ。
試合中盤、伊達が押しに押しまくっていた時間帯があった。

応援席では、例の「熱き男」松岡修造が声を嗄らさんばかりに声援を送っていたのだが、今伊達が押しているにもかかわらず、松岡は早くも「あとは根性だ!根性だけだ!」と叫んでいた。
この独りよがり(?)な声援が、伊達のいい集中を切ってしまうことになりはしないかと、ハラハラしながらテレビを見ていたものだ。

日本人の悪い癖だが、何でも自分が引き受けすぎてしまうところがある。
「根性、根性!」とただ叫ぶことにも、「結局は自分次第だ」という意味が含まれてしまっている。
実際、根性論者は「勝負とは、まず己れとの戦いだ」とも言う。

「根性だけあれば、あとは何とかなる」「死に物狂いでやっていれば、最後は神が味方してくれる」という根性論が現実的じゃないことは、歴史上の無数の例が示すとおりである。
予測と希望的観測が、ごちゃ混ぜになっていると言わざるを得ない。
そもそも、どれだけこちらが必死になったところで、敵だって必死なのだから。

いまさら……と思われるかもしれないが、まず敵を知ることはきわめて重要である。
古典的兵法書『孫子』にも、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」とある。
まず敵を知らないことには、戦いになるはずがない。



日本人においては、この「相手を知る」という側面が、概して非常に弱い。
うつ性格の人々において、このことはよりいっそう顕著だ。
おそらく、「何でも自分次第だ」と教えられてきたことについても、生来の生真面目さが働くからだろうと思う。

日本人の家庭・学校教育においては、「劣等感を植え付ける」ことで、上に対する従順さを強化する面が強いことはしばしば書いてきたとおりだが、この「何でも自分次第」というのも、それに連動するものではないかと思う。

うつのカウンセリングにおいては、たいてい劣等感をどう乗り越えるかがもっとも大きなポイントとなるのだが、自信というものは、いくら「自信を持たなきゃ」と力んだところで得られるものではない。
まず例外なく、「劣等感」すなわち自分を低く見すぎる傾向は「周りを高く評価しする傾向」と対になっており、大きく見えすぎている周りの人間が等身大に見えてこないことには、自信は生まれないのである。

長年、絶対的で大きく見えていた親が、実は不安が強いために支配的なだけだったことに気づかれる方も多く、その場合には、たいてい思いのほかショックよりも呆れてしまうような感覚が強いようだ。
そして、これまで騙されていたことにも気づき、ふつふつと怒りの感情が湧いてくるわけだが、ここまでくると、うつの病理はもう半分以上抜け出していることが多い。

また、それに伴って、職場などでの他人との関係も変わってくる。
本人にとって主要な場所で、間違ったことを信じ込まされている状態だと、その他の場所でも人を客観的に見ることができない。
しかし、その主要な場所で、本当はどういう目に合わされていたかが見えてくることによって、あらゆる場面での人に対する見方が変わってくる。
つまり、ある種の呪縛から解放されるのである。

繰り返すが、劣等感コンプレックスから解放されるためには、他者を見抜く目の鋭さがきわめて重要なのである。

うつの人は、敏感すぎたためにうつになったと考えてはいけない。
他者を見抜く鋭い目をもつという発想と、他者を見下す勇気が持てなかったためだと言うほうが、実情にはるかに近い。


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専門用語が苦手やなあ…… - 2010.05.16 Sun

専門用語が苦手なのである。

心理学者のメラニー・クラインのことを、「カルバン・クラインがね……」と言ってしまって同業者に笑われたり、クライアントにADHD(注意欠陥多動性障害)のことを説明するのに、終始「ADSLっていうのは……」と言い続け、あとで赤くなってしまったりと、そんなことがちょいちょいあるのだ。

先日、久しぶりに同業者と飲む機会があった。
非常に博学な方ながら、あまり専門用語を使われないところが好感が持てたのだが、それでも会話をするために(先方にすれば)最低限の専門用語は必要で、それでもあまりついていけなかった。
「最近流行りの専門用語については、クライアントの方から初めて聞くことも多いくらいで……」などと言い訳したのだが、まあそうしたことが恥ずかしいと感じたのも、10年くらい前までである。

私にとっては、たとえば医師と連携するときに紹介状でやり取りしたり、クライアントに症状の説明をしたり、ブログはじめいろいろな書き物で特定の心理学理論のことを取り上げたりする時に、ある程度専門用語の知識は必要なのだが、それが実質的に役立つと感じることはほとんどない。

かつての私にとっては、多くの理論が、人の心理を考え研究する上でのきっかけ・叩き台になったことは確かなのだが、今は自分の目で正確に見て自分で思索するほうが、はるかに早く確かな考えに達すると実感しているのである。
それどころか、習ったことが固定観念・先入観となり、大切なことに気づくのが数年遅れてしまった経験さえある。

とくに最近は、さまざまな精神疾患に関する概念をアルファベットで表記することが多いのだが、正直もうやめてくれと思う。
そういえば、オーバードーズ(多量服薬)のことをODというのも、最初に聞いたのはクライアントの方からだったし、アダルトチルドレンのことをACと言われたときには、本当に「公共広告機構?」と思った。

こうなると、臨床心理学の専門用語からは人の言葉という色合いがますます薄れ、より記号的となる。
ひいては心理学という学問自体いかにも機械的に感じられ、人間を理解するためにはまず無機的な感覚と態度が前提であるような、妙な印象が強くなってくる。

だが、そうした印象は、はっきり言って間違いである。
どの症状も、どの病理も、本来きわめて人間的・有機的な反応であり、異常な状況に対する正常な反応なのだ。

あの記号的な表現、いい加減やめてくれないかなあ……


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緊張! ファンサイト - 2010.05.09 Sun

前にご紹介したように、4月29日、ある知り合い同士のクライアントの方々お2人が、幸朋カウンセリングルームのファンサイトを立ち上げてくださった。

管理者の方々はじめ、クライアントのみなさんは、どなたもかなり恐る恐る書き込みをしておられるようだ。
正直、私も緊張して毎日何度も見てしまう。
といっても、「自分はあまり積極的に関わってはならない」という頭があって、内容はあまり詳しく読まないのだが。

それぞれ緊張するのも無理はない。
文字だけで書き手のタイプ・キャラクターを判断するのは、当然ながらまず不可能だし、さまざまな場面で、幾度となく傷ついた体験をしてきておられる方々ばかりなので、さらにここで傷つかれるようなことがあると、かなり厳しい状態になってしまうからだ。

それでも私がこの試みを重要だと思うのは、世間全般で見て、うつに陥るタイプの人々の多くがかなり稀な人々であり、人生の中でも、話の通じる人と出会う機会が非常に少ないからである。

どう希少なのかというと、本質的に彼らは、少しでも矛盾のある言動を、強いることも強いられることもできないという点でである。
矛盾に敏感であるということは、彼らが情緒的に繊細であるばかりでなく、論理的であることをも意味する。
もちろん彼らの大部分は、どこかでそのことを感じていることはあっても、ほぼ無自覚である。それどころか、少数派であることのために、ひどい劣等感にさいなまれてきているのが普通だ。

鋭い直観の持ち主も、きわめて多い。
自然、記憶というものにあまり頼らない性質でもあるために、概してポカミスをよくやる人が多いことは否めないが。(ちなみに、私のポカミスの多さも半端ではない。)

私の感じる限り、過食症の人の性格傾向がうつ性格にもっとも近いが、過食症の人の場合、過食という行動化によって部分的に感情を切り離している面もあり、社会適応の状況はある程度よいようである。

うつ性格の人のこうした内向的な能力の高さは、今日数多いカウンセラーという職業の人々の平均を、問題にならないほど高く上回っている。
つまり、うつ性格の人の内面がカウンセラーによって理解されないということは、頻繁に起きているということになる。

少なくとも幼稚園の頃から、私は「話が通じない」ということを、家族をはじめあらゆる場所で、嫌というほど繰り返し体験してきた。
もちろん、比較的通じる人もいるにはいたが、論理的な詰めの部分で、どうしてもある程度の妥協に甘んじねばならない。
必然的に、人との付き合いはどうしても浅く表面的になる。
本心で納得のいかない態度は、時として頑なに見えたであろうから、いじめに発展しかかることも少なくなかったが、大めし喰らいのお笑い芸人的キャラクターで、かろうじて凌いだものである。

「理屈ではそうかもしれないが、常識から言って……」というのが、おおむね周囲がとる最終的なスタンスだった。
ならば、なぜその「常識」を疑う立場に立とうとしないのか、それが私には理解できなかったのである。
単なる話の上で、「常識」が「論理」に優先されるのは一向にかまわないが、そのために正直者が馬鹿を見ることには、どうしても耐えられなかった。

カウンセラーという職業を目指して大学院に入ったとき、自分と同質の人とある程度出会えるのではないかと仄かに期待したが、出会ったのはたった1人の後輩(現在の家内)だけで、それなりに失望は深かった。

だが、その期待は思わぬ場所で叶えられた。
カウンセリングの面接室の中。
他ならぬその場所だったのである。

最初は偶然だと思った。
だがそれは違っていた。
私が小さい頃から周囲に対して感じ続けてきたことを、まるで私の代弁者であるかのように、クライアントの方々はそのまま言葉にする。

「私が彼らを理解した」と言うのは、おこがましい気さえする。
私にとっては、私の言葉を理解する人々との出会いだったのである。

私は、そのような人々がこの世に多く存在することを知り、希望を感じて、それをクライアントの方々にも伝えた。
伝えられたクライアントの多くは、一瞬明るい表情を見せるものの、すぐに寂しげな表情に戻る。
その寂しげな表情は、「どの道、私はそのような人たちと出会えない。期待すればもっと辛い」と語っていた。

私は、「自分だけ、ずるいのではないか」と、次第に強く思うようになった。

カウンセリングルームのクライアントがコミュニティを形成すること自体、業界においては、決して「常識的」なことではない。
だが、孤独感の強いクライアントの方々と連続で面談したとき、「今、あなたが座っているその椅子に、もしも出会えば一生の友となるかもしれない人が、ついさっきまで座っていたのだ」という思いにしばしば駆られるうちに、私は、私自身が貴重な出会いを妨げている壁のようにさえ感じることが多くなった。

「常識」は絶えずうつろう。
ましてや、近代カウンセリング自体、その歴史はたったの100年そこそこ、その常識というのも、さほど多くの経験知に裏付けられているわけではない。
こういった思いを抱えながら、頼りない常識に縛られるのはあまりに馬鹿げている。

だが、こちらが主導でそれをやるとなると、どうしても場に強すぎる中心ができてしまう。
学会の懇話会などで嫌というほど目にした、権威者とその取り巻きという、あのおぞましい構造が頭をよぎる。

それぞれのサル山で、少しでも自分の順位を上げようとするためのへつらい。
権威者がウケ狙いで言った言葉に対し、ちっとも面白くないのに絶妙のタイミングで一斉に笑う、あの雰囲気(「おもしろないやん」とよく小声で突っ込んだものだ)。

無節操にそれができればできるほど、覚えめでたく取り立てられ、臨床心理士であれば共著や共同発表を依頼されたりする。
そして、それが一切できない者は業界の隅っこでふてくされるか、威光を傘に着、自我肥大を起こした連中の我がもの顔に、ビクビクしていなければならない。
そうした構造が、間接的にカウンセリングにどういった影響を与えてしまうのか、それを省みる他のカウンセラーと、私は妻以外に一人として出会ったことがない。

私が臨床心理士をやめた、一つの大きな理由でもある。
興味がないばかりではなく、嫌悪感があまりに強すぎたのだ。

あれと同質の雰囲気だけは、何がどうあっても避けたい。
そもそも、そんなことになれば、多くのクライアントの方々は、もうその場にいないはずだ。
もともと、そうした場に「適応」できなかった「まともな」人たちなのだから。

とにかくそのためには、強すぎる中心があってはならない。
そうした中で、まったく同じことを頭に描いてくれたクライアントの方が、今回ファンサイトを、我々主導ではない形で立ち上げてくださったわけである。


反面、一般の読者が疎外感を覚える雰囲気になりはしないか、また、何かしら思想的に偏った集団であるかのような印象を与えることになりはしないか、ということは気になる。
また一方、クライアントの方々が、発言することを義務のように感じはしないだろうか、という可能性にも少し不安を覚える。

ともあれ、こればかりはやってみなくては分からない、というところだ。


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マスコミのジレンマ - 2010.05.07 Fri

前から触れたかった問題だが、今日のニュースで話題にできるものがあった。

Yahooニュースで、
「入れ歯ずれた患者撮影=准看護師、同僚に見せ笑う」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100507-00000068-jij-soci

という記事が出ていた(すぐに消えるかもしれない)。

ある病院の准看護師が、90代の女性患者の入れ歯がずれたところを携帯電話のカメラで撮影し、それを同僚に見せて笑っていた、というものである。
高齢者虐待防止法に抵触する疑いで、県が調査を進めているという。

まず、この准看護師の行動そのものについては、弁護すべきは一点もない。
まったくもって、職業人としても人としても、愚劣きわまりないと思うし、もし私がこの人の上司ならば、かなり厳しい態度を示すことは間違いない。
このスタッフが、たとえばその様子を「可愛い」と感じていたと主張してもだ。

利用者のだれかから、リークがあったのではないかと思う。
ただしかし、これが単発的な出来事だったとすれば、マスコミが取り上げるべき問題なのかどうかというと、かなりひっかかる。いや、「それは違うだろう」と言いたい。
もちろん、この病院で、利用者に対する虐待行為が日常的に繰り返されていたというならば、話は別なのだが。

やはり本来は、まずもって現場の上司が対処すべき問題ではないだろうか。
実態が明らかになる前に、こういうことをマスコミがやってしまうと、他のすべての病院を含む現場が、必要以上にピリピリしてしまうことになるだろう。
それも、真面目にやっている現場、生真面目な職員であればあるほど、緊張することになるのである。

学校教師からよく聞いたことだが、クラス全体をしかるとき、あまり問題のない真面目な生徒ばかりピリピリして、本当にこたえてほしい生徒はぼんやりしていて困るという、あれと同じである。

こうしたことが「大ごとになってしまう」と感じると、各現場では規則が増え、それに伴ってどうしても場が「硬く」なり、かえって利用者へのサービスは機械的で、「モノ扱い」となる傾向を潜在的に強める。
そうなると、こうした事件もかえって起きやすくなるのではないか。
で、起きればまた叩かれる、の悪循環だ。

少し心理学的にいうならば、抑圧された感情が荒々しいものとなり、攻撃性として漏れ出すことになるのである。
規則で縛られるということは、職員が機械的で冷たい扱いを受けているということなのであり、冷たい扱いを甘んじて受けるということは、これはもう、自分が誰か(利用者・部下)に冷たい扱いをするか、うつになるか、それとも敢然と拒絶するかの3通りしかなくなるのだ。

当然ながら、そのような中でも人間的であろうとするスタッフは、うつに陥りやすくなる。

現場が硬くなると、状況の全体を見ずに規則の細部にこだわるタイプ、いわゆる「うるさ型」の人間が巾をきかすことになったり、別の場合には、非難されることを恐れすぎる上司の「事なかれ主義」を助長し、見て見ぬふりが当たり前となって、結果、我がもの顔の中間ポジション、つまり「お局」のいじめが横行する傾向を強めたりもする。

マスコミが「スクープ」と称し、一般人の危機感をあおる傾向が根強く、その影響が一般人の認識を歪めてしまっている面があるのは、いまさら言うまでもないことだと思う。
インパクトを強めるために、ものごとの実態全体を伝えずに、非常に偏った伝え方をしている場合が少なくない(いや、きわめて多い)ことも、端々に見て取れる。
心あるマスコミ自身の側からも、そうした声が稀に出ていることは確かだが、いまだ何一つ形にはなっていない。

「ペンは剣よりも強し」とは、報道人のステイタスなのかもしれないが、物理的に人を傷つけないというだけで、ペンが、剣以上に非人道的かつ危険な武器になっていいわけではない。
ペンも剣も、使う人間次第なのである。
ましてや、攻撃的なカルト集団と同質の「洗脳」行為が、許されるはずもない。

だが、最大の社会的影響力を持つのがマスコミそれ自身であるために、その横暴を食い止めることは、きわめて難しいと言わねばならないだろう。
それでも、必ず「どげんかせんといかん」問題ではないだろうか。


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2つのブログの役割 - 2010.05.06 Thu

幸朋カウンセリングルームを開設すると同時に、このブログ『「うつ」-自分にうそがつけない人たち』を立ち上げ、昨年もう1つのブログ『幸朋 日々のつぶやき』(アメーバ)を立ち上げました。

2つ目のブログを立ち上げたのは、『自分にうそがつけない人たち』の方で常にガッツリとした重々しい内容を長文で書いていたので、逆にその濃度を下げたくないという思いから、日々にふと感じたことを少し軽いノリで書ける場所があったら……と考えたからでした。

しかし、私の性分なのか、何か少しでも内容のあることを書こうとすると、どうしても必死に「執筆」してしまうようです。
結果、どちらもあまり変わらない感じになってしまい、2つのブログを運営する必要があるのかないのか、正直すでに分からなくなっていたものでした。

で、もう少しすっきりと、それぞれの役割を整理することにしました。

具体的には、こちら『自分にうそがつけない人たち』の方では、長文であれ、短くて軽い内容のものであれ、これまでどおり私(我々夫婦)の考えていることを書いていく場とし、『日々のつぶやき』(タイトルも近々変更することになると思う)の方では、カウンセリングルームの運営システムの変更なり、HP更新のお知らせなり、イベントの開催予定なりの、業務的なお知らせの場としたいと思います。

今後とも、よろしくお願いいたします。


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拙著

2015年2月28日発売
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プロフィール

kohocounsel

Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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