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2010-06

戯言です - 2010.06.21 Mon

昔、大学で所属していたクラブで、後輩の指導上、相手の緊張をほぐすためいろいろと工夫を凝らしていた頃、こんな空想にふけっていたことがある(正直、あまり活かすことはできなかったのだが)。



ある若い書道家の卵が(私が属していたのは書道部ではない)紙に向かい、懸命に文字を書いている。
何枚も何枚も書くのだが、いくら書いてもどこかがうまくいかず、彼はイライラする。

不意に、彼の師匠が、うしろからぽんと肩を叩く。
彼は、自分の肩に異様に力が入っており、自分のイメージする形を描き出すことにこだわりすぎていたことに気づく。

彼は何度か肩を上下にゆすり、肩から力を抜いて書いてみる。
筆の運びにゆとりが生まれ、かえって自分のイメージ以上に優美な文字が生まれてくるのを感じる。

しばらくたち、彼は再び壁にぶち当たっている。
やはり何度書いても、思うように筆が運べない。
「また肩に力が入ってしまってるんじゃないか」と、彼は何度もチェックしてみる。

確かに力が入っている。
しかし今度は、何度力を抜こうと肩をゆすってみても、思うように力が抜けてくれない。
「力よ抜けろ」と念じつつ、彼は書き続ける。

と、彼の師匠が、またしても不意に後ろから肩をぽんと叩いた。
彼ははっとする。
力を込めようとする肩から無理に力を抜こうとすることが、かえって「自分」を歪めていたのだ。



肩に力が入るのはかまわない。
腹を立てることも、恨めしい相手を恨むこともかまわない、と私は思う。
「人を恨んではいけない」と思い、かえってそれがとらわれになっていた人が、「恨んでもいいんだ」と気づいたその日から、相手に対する興味そのものが消えたという話は、決して珍しくない。
いまさら言うまでもないが、人の心の綾、心の妙には果てしがない。


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あるコメントへの返答 - 2010.06.05 Sat

前の記事「敵を知る」へのある方のコメントに返答を書いたのだが、非常に深く考えられた上でのコメントだったので長くなってしまい、コメント欄には入りきらなかった。
そこで、やむなく記事としてアップさせていただくことにした。

ただ、私の幼い頃の思考の描写に関して、少し不気味な内容を含んでいる。
読まれる方はご注意いただきたい。

なお、6/7にブルーの文字の部分を追加し、代わりに意味のない例えの部分を削除した。
本題とほとんど関係ない内容だったのではしょっていたのだが、「いや、意外と大切なことかもしれない」と思ったので書き加えたものである。




○○さまへ

魂から搾りだすような言葉をいただき、じっくり読ませていただきました。
ありがとうございます。
間違いなく長くなりそうですが、心してお返事させていただきます。

まず最初に申し上げておきますと、果たして私が○○さんよりも深い次元で自分や世界を見、考えているかどうかは、定かではありません。
ただ、私がこの記事をどういう意図で、またどのような経験に基づいて書いたのかについては、誰よりも私が正確に認識していますので、さしあたってはその説明という立場でお答えしていきたいと思います。



お分かりのことと思いますが、「他者を見下す勇気」と私が言うのは、本質的には、可能な限り厳密に、自分と他者双方ともに、偏ることなく等身大で見る覚悟のことです。
しかし、現実にうつ性格の方と多く会う中で、また過去の自分自身を振り返ってみて、次のようなことが分かります。

うつ性格の方が、自他それぞれを等身大で見ようとするときに、どのプロセスでブレーキがかかってしまうかというと、相手の矛盾や観点の欠落といった問題点に、ある程度気づいてしまった場合にほぼ限られています。
つまり、「そこは見下さないと……」というシチュエーションにおいてです。

「まず相手を見下して、しかる後に自信を回復するのか、それともまず自信を回復して、しかる後に相手を見下すことが可能になるのか」という議論には、少なくともこの記事書いた意図からすると、本質的に意味はありません。
「自信がないから人を見下せないのか、見下せないから自信がないのか」という議論もまた、同じ理由で有効な意味を含んでいないことになります。

なぜなら、それらは同じことを、別の側面から言っているに過ぎないからです。
つまり、どちらかが先でどちらかが後になるということは、原理的に成り立たないのです。

ただ、「相手を見下す」という側面の方でブレーキがかかる以上、意識の焦点はそちらの面に置いておくべきだ、と言いたいわけです。


なお、目の前に見えている相手の矛盾を認められない理由として、
>周囲(うつ性格ではない人々)が持っている分かりやすい価値観(学歴・社会的地位の高さ・一般的評価など)に対する執着が、かなり強い場合です。

と、先のリコメントで書いたのですが、こうした執着の強さが、相手を見切る上での弱さになる理由については、○○さんに多くの説明はいらないと思います。

学歴・社会的地位の高さなど「分かりやすい価値観」は、本来、人としての価値付けとは全く無関係であるにもかかわらず、ほとんどすべての場合において、かなり同一視されているのが実情です。
言うまでもなくこれは、いかに多数派の意見であったとしても、完全な矛盾です。

うつ性格の一面があるのに、反面、何らかの理由でこうした執着が根強い方は、相手の矛盾を矛盾として見る、つまり否定することはできません。
そうした執着がある分、自分も同じ矛盾の中に身を置いてしまっているために、相手に文句が言える筋合いがないのです。

うつ性格と真逆の人にとっては、自分の矛盾を棚に上げて相手を批判することなど造作もありませんが、うつ性格を持っている人にはこれができません。
結果、引き裂かれるしかなくなります。


もう一つ、「自信」の質についてですが、桜木花道の持つ自信について、
>私は本来自信とはこういうものではないか、と思いました。根拠など必要ないのではないか。

とおっしゃること、私も部分的に同感です(”スラダン”はたぶん30回くらい読みました)。

「私はこういうことができる。あんなこともできる。」という自信は、より「できる」人に対しては劣等感を感じざるを得ませんから、はなはだ不安定です。
一方、「私には、こういうことしかできませんよ。あんなこともそんなこともできません。……で、何か問題あります?」
こういう自信は、不動で無敵という感じがしますね。

すべての人にも当てはまりますが、とくにうつ性格の方は、ここを目指すべきだと思います。

ただ、花道の場合は、「あんなこともこんなことも、私はできませんよ」と思っていないので、これとは少しニュアンスが違うように見えます。
花道の場合は、「勝負においてまず負けたことがない」という経験と本能によって、自分の身体能力の高さ・勝負強さ・集中力の高さを、「知っている」、という感じです。

このように見ると、これは意外と、不動で無敵な自信と同質であることが見えてきます。
自分に何がどの程度できて、何がどの程度できないのか、また、それが他人と比べてどのくらいの場所にいるのか、「正確に認識している」という点においてです。

つまり、安定した自信をもっとも強く裏付けるのは、自他に対する「正確な認識」だということが私の最大の主張であり、正確な認識そのものを拒絶する態度に対しては、それを支持することはできないのです。
その態度はつまり、「自信を持ちたい」と言いながら、とどのつまり態度では「自信を持ちたくない」と表現してしまっていることになるからです。


>自分の中に価値を見出すこととは、桜木にとってそれがバスケットだったように、自分を表現できるもの、自分の本来の力を惜しみなく出せるもののことです。それと出会えた時に初めて、自分の価値を、「生」への実感が見えてくるのではないかと思うのです。

こうおっしゃるのは、それが「人よりできるかできないか」ではなく、「力を惜しみなく出せる」かどうかが問題という意味だと思います。

ちなみに私の場合、30を過ぎてからカウンセラーになったわけですが、「カウンセラーになる」ということが、周りから価値あることとして認められていたわけではありません。
家族や周囲はもちろん、世の中全体がまだまだそうでした。
たまたま知り合ったおばちゃんに職業を聞かれ、「カウンセラー」と答えると、「若いのにいつまでもフラフラしとったらあかんで」と言われた、そんな時代でした。

転職以前、私は周りが価値を認める立場にいたのですが、いかんともしがたい不全感にさいなまれていました。
対人恐怖の症状も、どんどん強くなっていました。
さらに言えば、カウンセラーになりたいと思ったわけでもありません。
どう考えてもしんどいに決まっていますから。

ただ、他人からかなり踏み込んだ相談を受け、1対1で真正面からその人と向き合うその時だけ、一時的に対人恐怖と不全感が消失していたのです。
つまり、私がカウンセラーという職業を選んだのは、ほとんど消去法の結果に過ぎないのです。
しかし、自分がこの職業を選ばざるを得ないと気づき、「それを認める」瞬間は、泣きたいほどの気持ちになりました。

>これから解放された時が、先生の言っておられる主体的敗北なのだろうかと考えています。

まさにそういうこと!と言いたいのですが、細かく言うと少し違います。
覚悟を決めて敗北し、自らの心に付き従い、解放が訪れるのはその少し後です。

私の場合、いったん覚悟を決めてしまった後、すでに迷いはありませんでした。
潜在的な不安は強かったので、不眠症との長い戦いはありましたが、「不眠で死ぬなら死ねばいい」と本気で考えていました。
私が何としてでも避けたかったのは、「死んだように生きる」ことだけだったのです。



ここで話は終わってもいいと思うのですが、もう少し突っ込んで書きますね。
ほとんどの人が理解できない、不気味な内容になるかもしれません。
読まれる方はご注意ください。

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Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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