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2011-09

マニュアルについて - 2011.09.15 Thu

おそらく10年以上前から、薄々は感じていたことなのだが、企業、学校はもちろん、病院、福祉施設などさまざまな組織において、間違いなく徐々に体質が悪化してきている。

これだけ多くの場所でそれが起きているとなると、たぶん日本のありとあらゆる領域の組織で、同じことが起きていると考えるのが妥当だと思う。
とくにここ3年ほどは、もはや「徐々に」という表現が当てはまらないほどその傾向は加速しており、明らかに前年の同時期よりも悪化していることが、毎年ありありと感じられる。

どうしてそのように感じられるのかというと、個人的な背景や心理状態に、本来とくに問題のなかった人々が、出社不能になったり不登校になったりして、カウンセリングを受けに来られることがますます増加しているからである。
個人的に問題がないどころか、むしろ、もともとコミュニケーションが上手く、広い範囲の人間関係や仕事の流れを見通すことができる能力の高い人が、そのような事態に陥っていることすら少なくない。

たとえば、どこの部署に行っても確実にレベルの高い仕事を遂行し、周りともすこぶる上手くやれていた人が、その能力を上に買われてしまったばっかりに、業績の上がらない部署や人間関係が上手くいっていない部署に、権限も与えられずに転属させられ、異常な負荷がかかって会社に行けなくなるというケースが少なからずある。
もちろん、本来能力がいかに高くとも、ひとたびうつで休職ということになると、復職後の会社からの扱いはおおむね冷たく、まず重要な仕事に関わることはなくなり、その虚しさもあって再び休職に追い込まれることが圧倒的に多い。
こうした図式にそっくり当てはまるケースの割合が、年々確実に上がってきているのである。


こういうタイプの方々の話を聞くと、仕事のマニュアル化の弊害が話題に上ることが少なくない。
実際、能力の高い人がうつになってしまう傾向は、昨今あらゆる職場での仕事がマニュアル化される傾向が強くなってきていることと、まったく軌を一にしているように見える。

マニュアルというのは、「誰がやっても同じレベルの仕事ができる」という目的から見る限り、一見非常に合理的に見える。
だが現実には、誰がやっても同じレベルの仕事というのは幻想だし、さらにそのマイナス面も小さくない。
その弊害の中でも、「目的に至る方法を選べなくなる」点が最も大きいのではないかと思う。

本来仕事とは、ある目的を達成することだ。
とくに大きなマイナスさえ引き起こさなければ、どんな方法であっても目的さえ達成すれば、その仕事は一応成功したことになる。
だが、一般にマニュアルとは、ある仕事の目的に関して書かれたものではなく、「方法」について書かれたものなのだ。

ということは、ちょっとした状況の違いによっては、別の方法のほうがいいと分かっていても、マニュアルというものがあるために、わざわざ遠回りの工程をたどらないと上役から叱責を受けることになる。
実際、そういったひどい叱責を上司から受け、やりきれない感情を抑え込んだことがきっかけで、うつに陥った人も少なくない。
また逆に、マニュアルどおりにやったことであれば、たとえ目的が達成できていなくとも、「私は教えられたマニュアル通りにやっただけです。」という言い訳が成立してしまい、理屈で言えば誰もそれを責めることができない。

かくして、目的を達成できた者が叱責を受け、できなかった者が何の咎めも受けないといった奇妙な現象も、当たり前に生じる。
また別の場合には、マニュアルに従ってやったにもかかわらず、目的が達成できなかったために叱責を受けるが、かといってマニュアルを無視したらしたで、これも叱責を受け、「じゃあどうすればいいんですか」と上司に聞くと、「それは自分で考えろ」と言われる、という話もある。

海外在住の長かった友人曰く、「日本人は拡大解釈をする」とのことだ。
たとえば、喫煙や肥満に対する厳しい姿勢はアメリカ発のようだが、当のアメリカで喫煙者や肥満の人は多いらしい。
彼らの反対運動の対象とは、たとえば喫煙しないとじっとしていられないほどイライラするような、極端な喫煙依存者、あるいは度を越えた肥満者なんだそうだ。
つまり、日本のように狂気じみた、徹底した感覚ではないというのだ。

マニュアルというものについても、ほぼ同じことが言える。
日本人の場合、マニュアルという形でひとたび成文化されてしまうと、これでもかと言わんばかりに徹底して遵守しようとするのである。
日本人は、確かに組織の外に向けては、明言を避け、曖昧さを残しておきたがる傾向があるが、逆に内に向けては、強迫的なまでに決まりごとを守ろう(守らせよう)とする傾向があるのだ。
今回の原発事故に関する東電の態度にしても、法よりも、内部のマニュアルや関係組織との力関係を優先する傾向が、ますます露わになってきつつある。

必ずしも「マニュアル」そのものが悪いとはいえないが、極端にそれを遵守しようとする日本人の姿勢には問題がある。
かといって、その姿勢の背後には長い文化的歴史があるため、(たぶん100年やそこらでは)おいそれと修正されるものではない。
ということはつまり、結局は日本人と「マニュアル」とは、相性が悪いと考えるべきだと思う。



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近況 - 2011.09.09 Fri

先月ツイッターを始めて以来、日々気づいたり思ったことについてはそちらのほうで随時吐き出してしまうため、気がつけばブログのほうは1ヵ月半ぶりの更新である。

この間、カウンセリングルームの方にはこれと言って大きな変化はなかったが、個人的にはかなり大きな変化が進行中である。
自分の「中で」何かが変わろうとしてるというよりも、自分を含んで取り巻く世界の構造・機構が、深層で成長の節目をひとつ乗り越えようとしていて、その全体の微妙な動き中で自分もまた変わろう(あるいは変えられよう)としている、という感覚である。

そのような端境期にある状態なので、うまく表現できない点は多々あるが、この段階を、うまく言葉にならなければならないままに言葉にしておくことも必要だと考え、覚書の意味も込めて記しておきたい。
また例によって、荒唐無稽とも見える話が入り込むかもしれない。

実は、先月からある習い事を始めた。
それは、私としては、ある意味もう何10年も前からの念願であったといってもいい。
その習い事というのは、古流居合術である。
ただ、念願だったというのは、どうしても居合術がやりたかったという意味ではなくて、理にかなった身体の使い方、有機的でトータリティのある身体のありようを自分自身が有する必要性を、かなり以前から感じていたということだ。

では、なぜこの歳までそれができなかったのかというと、単にいい出会いがなかったという面もあるが、その課題が私にとってあまりにも重要で、聖域と言うと構えすぎだが、少なくともうかつには近寄れない領域だと感じていた面が大きい。

これまで私は、「人間(というより私)本来のありようとは何なのか」という問いを常にどこかに掲げつつ、深層心理学も含めて、いくつかの領域に答えを求めてきたのだが、残念ながら、また失礼ながら必ずしもよい師には出会えないでいた。
だから、書物でのみ出会える師たちとの対話を繰り返し、あとはまったく独自の考えでのみ答えに辿り着こうと努めてこざるをえなかった。
ほぼ自力しか頼るものがなかったということは、それはそれで貴重な内的体験の集積を得ることにつながったのではあるが、折に触れて、独りで導き出す答えの限界というものを感じずにはおれなかったものである。

傲慢に聞こえるかもしれないが、あまりよい師と出会えないということは、いつしか私にとってひとつの恐怖心を形成していた。
問いに対する答えを、いつの場合でも、その時点でなしうる最大の真剣さで求めてきたつもりではあっただけに、求めていた答え(ヒントでもよかった)がそこに存在しなかったことを知ったときのショックたるや、筆舌に尽くしがたいものがあったのである。
だから、誰かに教えを請うこと自体、身がすくんでしまうのだ。

ところで私は、卒業論文(宗教学)と修士論文(臨床心理学)の双方において、「舞踊」というものを中心に人間について考えてきた。
「舞い踊るということは、人が生きる意味の、最も直接的な表現なのではないか。
そもそも、人が生きながらにして生きるというのは、意のままに舞い踊るということなのではないか。」
という直観に基づく考えから発したテーマであった。
私にとっては、「頭で考える」ということすら、本来きわめて身体的なことであるように感じているのである。

「理にかなった身体」というのは、私にとってかけがえのない、存在の最もベースの部分にあるべきもののイメージである。
つまり、ことこの領域に関してだけは、失敗・挫折が許されないのだ。
これが、私がこの領域に容易に近づけなかった理由である。



実を言うと、まだ京都で仕事をしていた10年ほど前、意を決して近所の合気道道場の門を叩いたことがある。
前日に電話で連絡を取り、「じゃあ一度見学に来てください」と言うので行ってみたのだが、師範が小学生クラスの出席をとる姿を見て、そのあまりにも高圧的な態度と冷淡な表情に恐れをなし、挨拶もせず逃げるように道場を飛び出してしまった。

そのときはただただ敗北感や恥ずかしさばかり覚えたが、少し時間がたつにつれて、自分の感じた拒絶感がはっきりとしてきた。
そもそも中年の私に対して、なぜ小学生クラスの時間に見学にくるよう言ったのか理解に苦しむし、時間前に私がそこに座っていることは間違いなく視界に入っているはずなのに、一瞥だにしないということについても、ほとんど反射的に拒絶感を覚えたのだ。
私にとっては、身体を大切にするということと、人を大切にするということは、同義でなくてはならなかったのである。
以来、「やっぱり縁がないのだろうか」という思いから、ますます武術というものに対するハードルが上がってしまっていたのである。

それでも、「理にかなった身体」という、深い義務感のような情念を伴った考えは、絶えず私の心のどこかで燻っており、地元大阪に居を移してからも、ふと思いついては合気道をはじめとする体術の道場について調べていた(これも直観としか言いようがないのだが、私にとっては踊りよりもやはり体術なのである)。
だが、3年前に開業してからは、以前よりも仕事が忙しくなったため、ますます行動範囲が限られ、もうかなり近場でないと、習いに行くことは不可能となってしまった。



こうした燻った思いもあって、武術家甲野善紀という人物には、以前から強く惹かれ、その著書やDVDのいくつかを繰り返し読んだり見たりしていた。
先生は、身体の動きとありようについての探求者という立場をとりつつ、人・社会・自然に対して、常に矛盾なく澄んだ目を向けておられると同時に、看破・感得・発想したものを、優れた比喩と言語能力をもって表現される人物である。
たとえば著書『表の体育 裏の体育』などには、不登校の子ども達と接することの多いカウンセラーとしても、ずいぶん啓発されたものである。

また、先生の出演されるテレビ番組などを見ていると、その体捌きのキレのよさ(もちろん素人目に過ぎないが)や術理解説もさることながら、たとえば実演で相手役を務める人に対するちょっとした礼儀というか、心ばえにも感服させられる。

いわゆる現代の名人・達人といわれる何人かの武術家の実演DVDを見たが、相手役の人に対する彼らの態度は、「なかなかきついな」と思わされることが少なくない。
つまり、技をかけられる役の相手に対して、その場で痛い思いをさせても、無様な格好を取らせても、ほとんど意に介さない様子で説明を続けるのが比較的普通のようだが、その中にあって甲野先生の態度は新鮮に映った。

自分が相手に技をかける前に、
「こう行ってしまうと、こう返される。またこう行っても、こう弾かれてしまう」などと、
まず失敗した場合を、幾度も幾度も繰り返して見せる。
つまりその場合は、先生自身がやられ役になるわけだが、それを散々やった後で、スパッと技をかけるのである。
技をかけた後もまた、相手役の人に、たまにちらりと「ごめんね」的なアイコンタクトを取ったり、痛みを与えた場合には、小さくちょんと手刀を切って詫びたりされることもある。

もちろん、解説の流れ上の必要性から、失敗した場合を繰り返し例示しておられるということだとは思うが、その流れが自然と「相手方の心の内において、無意識の敵意を育てない」やり方になっているのである。
いくら武術家の弟子でも、人前で当たり前のように痛めつけられたり、無様な格好を取らされるのは、どこかで屈辱を覚えないわけがないのだ。
それを見させられるほうもまた、変な緊張を覚えて硬くなる。

「これは、人気が出るはずだ」と思った。
素人が口幅ったいようだが、実際に敵と相対したときの術の部分だけを切り売りするのが目的ではなく、存在のレベルで本当に武術家として生きていると、こうした感じになるのではないかと想像させられる。
(もちろん、他にも非常に爽やかな実演をされる武術家は、たくさんおられることを断っておく。)

武術に限らず、無意識のうちに蓄えられた敵意は、多くの場合、直接それを育てた相手には向けられず、お門違いに目下へ目下へと順送りに向けられ、それが体育会系であれば、いわゆる「シゴキ」の温床にもなる。
私が10年前に見た、例の師範の不必要に冷徹な態度も、そうした連鎖の末に成ったものだったのかもしれない。
また、文科省、教育委員会が教師たちを締め上げれば締め上げるほど、生徒たちの心は荒み、生徒の情操教育を意識する教師たちは肩身の狭い思いをせねばならなくなる。



このように、日本の武術というものに少なからず憧憬を覚えながら、手を出すことすらままならなかった私だが、今年の7月にちょっとした転機がやってきた。
これまでネット上で、いろいろな武術に関する検索語で道場を検索していたのだが、近場では見つからず、ふと「そう言えば『居合』では探したことがなかったな」と気づき、検索したところ、何と自宅から歩いて10分のところにその稽古場を見つけてしまったのである。
石田泰史師範が立ち上げられた、『遊武会』という団体だった。
稽古風景を写した写真を見ると、どなたも実に温和な顔で稽古に集中しておられる。
さらには、見れば何と、甲野先生が大阪で稽古会をされるときの、幹事までされているようなのである。

私の中で起こった第一声は、
「うわぁ、見つかっちゃったよぉ。もう逃げらんねぇな、これは。」
であった。

ここまでお膳立てがそろって、それでもやらなければ、もう「理にかなった身体」という願いは放棄したも同然である。
これはやるしかない。やるしかないのだが、身体がスイスイ動く若い間は縁がなくて、この歳になってやっとお許しが出たわけである。
しかも、これまでまったくもって体育会系とは無縁の私だ。
でも、それもまた良しか、と。

稽古日は週1回、平日の夜である。
本来仕事のある時間帯なので、家内に許可をもらって、早速師範に入会願いのメールを送り、8月から通わせていただくことになった。


実を言うと、これまで私は甲野先生の発言や動きを、絶えずフォローし続けていたわけではない。
いつもどこかでは気にしつつ、うかつに近寄れない領域の方なので、「付かず離れず」フォローしてきたという感じである。
しかし、古流居合術の教室に通うことが決まってから状況は一変し、にわかに先生の著書やDVDを再見し始めて、「やっぱり、本当にまっすぐに物事を見られる方だなあ」と再認識した。
また、まったく偶然なのだが、同じ時期にツイッターを開始したので、先生のツイッターを真っ先にフォローし、さらに『夜間飛行』からメルマガの配信を始められたと知ったので、それも購読することにした。

で、初めてメルマガを拝見したところ、終わりのほうに「先生への質問を受け付けています」とあるではないか。
おおお、一個人としてもカウンセラーとしても、是非お尋ねしてみたいことは確実にあるぞ。が、はて、何が聞きたかったっけ?と自問したところ、答えはすぐに返ってきた。

これまでも、私にとって先生の術理解説は、そっくり人間関係の技術に見えていた。
というよりも、これを人間関係に当てはめるならば、どういう状況・どういう技術ということになるのか、という見方をしてきたのだ。
また実際、カウンセリングをしているときに、何とはなく先生の解説される術理をイメージしてやりとりし、結果的に有効に働くことがあったのである。
そこで、昨今低下が著しい日本人のコミュニケーションスキルについて、武術の立場からどのように考えられるかを質問させていただいた。

しかし、字数制限があるためあまり詳しくは質問できず、質問させてはいただいたが、送った直後から、
「漠然としすぎてて、先生を困らせるんじゃないかな。万に一つ、質問を読む前に俺のツイッターを読んでくださっていたら、もっと真意は伝わるのになぁ。」
「けど、質問はたくさん来るだろうし、編集者にスルーされる可能性が大きいから、まあ気にせずにおくか。」
などとぼんやり考えていた。

で、数日たったある日、数10年ぶりに中学時代の同級生と酒を飲んで帰宅し、何気なく先生のツイッターを読んでみたら、
(私のリツイートから)「ある人物のツイートにふと興味を持ち、20~30のツイートをざっと読んだ直後、その同じ人物からの質問メールが編集者を通して届いた。非常に驚いた。近々メルマガにて返答します。」
という意味のことが書かれてあるではないか。

ななななな、何ということ!!
ゾワッ!!ときた。

それから1~2日は、変なテンションになってしまったことは言うまでもない。
フォローしてくださっている方達から、「すごいですね。」「通じましたね。」といったリプライをいただいたが、そう言われてみるとまた、テンションの上がっていることが何とはなく恥ずかしく、チャチャッとお返事して、今日までそのことにはまったく触れずにいる。

質問に対する答えは、今月半ばにいただけるとのことだが、何とまたすごいタイミングであることよ。答えをいただいたすぐ後の25日、先生の大阪での稽古会が、もちろん石田師範主催で行われるのである。
今は、お顔を拝見するその機会を、少しでも意義のあるものにしたいと考えているところである。
正直ドッキドキですけど!



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Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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