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2011-12

現代人の病理と妖怪 - 2011.12.12 Mon

以下の文章は、2007年に『子どもの文化』という雑誌に投稿したエッセイである。

もう2ヶ月以上もブログを更新しておらず、ネタに困ってというわけでもないが、私自身にとって愛着の尽きない文章ではあるし、すでにこのエッセイをアップしている当カウンセリングルームのHPから、転載することにした。

なぜこの文章を、今わざわざ転載したくなったのかというと、最近甲野善紀先生のツイッターで紹介されていた、近代日本史家の渡辺京二氏の著書、『未踏の野を過ぎて』に刺激されてのことである。
実は、この本は読み始めたばかりなのだが、冒頭から膝を打ちたくなることばかりが書かれていて、その気持ちを解放したくてたまらず、こういう形で表すことにした。

ぜひそちらのほうもお勧めしたい。
カウンセラーといっても、実情としては、ほとんど世間の風潮の矛盾・歪みと戦っている私としては、迷ったときにそこに帰って来たいと思う、そうした内容の著書である。




現代人の病理と妖怪 (雑誌 『子どもの文化』 2007 年10 月号掲載文を加筆訂正)

ここ数年来 “妖怪ブーム”といわれ、『妖怪大戦争』や『ゲゲゲの鬼太郎』といった、妖怪を題材にした昔ながらの映画やテレビの作品がリメイクされています。
しかし、今さらあらためて“妖怪ブーム”と言われてもあまりピンとこないほど、妖怪の話は、絶えず説話や映画や漫画、それに都市伝説という形で表現され続けてきました。

何ゆえ“妖怪”は、かくも人の心をとらえつづけるのか、また、現代人のいかなる心性が、今、妖怪ブームを引き起こしているのか、それを心理学の立場から考えてみよう、というのがこの小論の目的です。

それにしても、そもそも“妖怪”とは何なのでしょうか。
私は、その文化人類学・民俗学的分類については専門家ではなく、また紙数も限られておりますので、くわしく述べることは差し控えたいと思います。
代わりに、「妖怪学」の素人であることにむしろ開き直って、私の身近な人々の見方も含め、ごく主観的な立場から、一般的な印象の範囲で、“妖怪”とは何かについて考えてみたいと思います。
というのは、心理学という立場からすれば、しばしばそのほうが有用な手段となることがあるからです。


妖怪とそうでないものの境目

私が勤務している大学で、一度妖怪について授業をおこなった時、スタジオジブリ作品のキャラクター「となりのトトロ」は妖怪だと思うか、と学生に質問してみました。
すると、約50 人ほどの受講生のうち、トトロは妖怪だと思うと手をあげた人はわずか6、7 名で、さらにその半分ほどが、首をかしげながらおずおずと手をあげていました。
きちんとした調査ではありませんが、ためしに「砂かけばばあは妖怪だと思いますか?」と聞いてみると、全員が手をあげたので、「トトロは妖怪とはいえない」と考えた学生が多かったのは確かなようです。

一方、別の場面で「映画『呪怨』の亡霊は妖怪か」と、学生・社会人あわせて約10 人ほどに聞いてみたところ、「妖怪じゃない」とほとんどの人が答えました。
逆に「妖怪だ」と答えた2~3 人は、例外なく、「幽霊も広い意味では妖怪に入ると思う」といった条件つきでした。
一般的な印象としては、“妖怪”の範囲ってそれほど広くはないんだな、と、私は感じました。
かく言う私自身もまた、トトロも亡霊も、ある特殊な分類をすれば妖怪と言えるが、少なくとも「妖怪っぽくない」という印象をもっています。

では、このあたりのことを踏まえると、さまざまなこの世ならぬ存在のうち、どういった特徴をもつものが、ごく一般的には妖怪だと思われていると言えるのでしょう。

私が考える「妖怪か妖怪じゃないか」を決定する要因として、まず最初にあげたいのは、亡霊と妖怪の違いに関するものです。結論から言うと、妖怪の「自然性」と「非人間性」とでもいえるでしょうか。
亡霊とは、言うまでもなく死んだ人間の霊魂、すなわち、極言すれば、ただ死んで肉体を失ったというプロセスを経ただけの、人間そのものです。
だから、そのイメージはしばしば、人間として生きていた頃のネガティブな感情、すなわち恨みや無念と直接に結びついています。

それに対して、妖怪のイメージは、人間に似た部分はありつつも、むしろ動物的であったり、人の意志ならぬ自然の作用としての性格が、強い場合が多いようです。
もちろん、人間の霊魂や想念が介在している妖怪もありますが、それらにしても、動物や器物にとり憑いてそれらと融合していたり、さらには「歳を経る」という要素が加わるなどして、すでに人間性は失われています。

実際、妖怪という存在は、しばしばアニミズム信仰と関連づけて説明されます。
アニミズムとは、動植物を含むすべてのもの、とくに自然界にあるものに精霊(アニマ)が宿っていると考える原始的な信仰形態です。
しかし、心理学の立場から言うと、アニミズムとは、単に昔の人々の信仰形態を意味するだけではなく、現代人を含む、すべての人間が普遍的にもっている心理的傾向、つまり元型的* な傾向です。
たとえば、昔の信仰形態など知らない、小さな子どものごっこ遊びにおいて、動植物や器物は、しばしば名づけられたり、おしゃべりしたり、遊んだりする存在となります。

ただ、この要因については、より学術的な検討が必要で、私の主観まかせにお話しするわけにはいかない問題なので、これ以上は触れないでおきましょう。
*元型的……ユング心理学の用語

次にあげたい妖怪の決定要因は、まさに「妖怪」という文字に関係しています。
つまり、「妖しいか、妖しくないか」という点です。
これは、主に「トトロは妖怪に入らない」という一般的印象と関係があります。

「妖(怪)しい」という言葉は、「不気味、あるいは得体の知れない様子」という意味を含んでおり、まずふつうはポジティブな意味では用いられません。
「となりのトトロ」は、たしかに会おうと思っても会えるとは限らない、ある種の不安定さはもっているものの、人間に対して害を及ぼさないばかりか、好意的な人間が困ったときには必ず助けてくれるという、きわめて安定したイメージを帯びています。
自然そのものの、人間から見てポジティブな側面だけを象徴している存在なのです。
つまり、トトロが何ものなのかはっきり言えないとしても、感情の面からいうと「得体が知れない」という表現は当てはまらない、明るさと確かさがあるのです。

たとえば、妖怪の代表ともいえる河童は、一人で歩いているときに、いきなり道に飛び出てきて「相撲をとろう」と言ったりします。
また、砂かけ婆は、森などの木の上から道行く人に、ただ砂をかけるだけです。
つまり、単純に恐ろしいと言うより、わけが分からない不気味さのほうが前面に出ています。
このように、「得体が知れない」といった感覚が、いかにも「妖怪っぽい」性格の一つであるように思うのです。

日本の昔話に、「こぶとり爺」というのがあります。
この話が最初に文献で確認される時代は古く、鎌倉時代初頭に編纂された『宇治拾遺物語』に、すでに、現在伝えられている「こぶとり爺」とほぼまったく変わらない内容で、「鬼に瘤取らるる事」という話が収められています。

ご存知のように、この話には大勢の鬼が登場しますが、この時代に “鬼”という場合、牛の角をはやし虎皮のふんどしをはいた青鬼・赤鬼といった、現在の鬼のイメージではありません。
むしろ、百鬼夜行図に見られるような、この世ならぬ異形のものの総称と考えるべきです。
実際『宇治拾遺物語』では、鬼たちを「一つ目、口なしなど、口では言いようのないような姿の、異形の者ども」と表現しています。
つまり、こぶとり爺は、いわゆる妖怪たちの輪の中で踊ったのです。

この話に登場する妖怪たちは、人間から見て、まさにとらえどころがないと言ってよい役割を果たします。
というのは、初めの爺はみごとに舞えたおかげで、悩みの種であったこぶを取ってもらえますが、となりの爺は、ただ踊りが気に入られなかったために、逆にもう一つこぶをくっつけられてしまいます。
しかも、妖怪たちには、恩寵や災厄を与えた意識も感情もありません。
この、恩寵をもたらすこともあれば、災いをもたらすこともあるというイメージの不安定さにおいて、これらは妖怪の特徴を非常によく表していると言えます。

以前、全国の小学生の間で口々に伝わり、社会現象まで引き起こした「口裂け女」もまた、「わたし、きれい?」という問いに対する答えいかんで、殺されてしまう場合もあれば、逃げられることもあるといわれる点で、妖怪独特のこうした性格をもっていると言えるでしょう。

私がこの小論で主に取りあげたいのは、この妖怪の二番目の特徴、つまり、「妖(怪)しさ」と、現代の日本人の心理的傾向との関係です。
では、まずそれに先立って、私が感じている現代の日本人に特徴的な心の傾向について、おおまかに述べることにしましょう。


現代人の不安の中味

私のように、カウンセラーと呼ばれる職業の人々は、とくにここ15 年ほどの間に急増しました。
それについては、さまざまな要因をあげることが可能ですが、私にとっては、1995年の前半、わずか2 ヶ月あまりの間に起きた2 つの悲惨なできごとが、臨床心理学が注目を浴びるきっかけとして、とくに印象的でした。
すなわち、阪神淡路大震災と、オウム真理教の地下鉄サリン事件です。

これらのできごとによって、日本人にとっては、いつの間にか、遠くの場所か架空の世界でしか起こりえないと感じるようになっていた、自然現象の猛威・偶発性と、集団による狂気・凶暴性を目の当たりにしました。
同時に、「死」というものが、かくも身近なものであることを、すべての日本人が、あらためて認識させられました。
そして、人々の外部と内部、両方の側からもたらされた「生」の不安定感は、一気に大きな社会不安を形成しました。

ただ、それほどまでに大きな意味をもつ事件ではありましたが、それが今日にいたる社会不安の根本原因であったかといえば、大局的に見れば、やはりそれを引き出す一つのきっかけに過ぎなかったように思えます。
では、現代人の不安の背後には、根本的にどのような心理的事情があるのでしょうか。
それには、著しく増加したカウンセラーという職業人が、社会から何を期待されているかを考えれば、何らかのヒントとなるはずです。

人々がカウンセラーのもとを訪れるのは、言うまでもなく、心の病や人間関係を中心とする悩みの解消を目的としています。
では、実際それはどのような形でなされるか。端的に言えば、自らの内面をさらけ出す形をとります。
つまり、家族すら理解していないような本当の自分について語り、他の誰かにきちんと知ってもらうプロセスの中で、自分を取り戻そうとするわけです。

自分とは何ものなのか、これこれが自分である。そのような意識のことを自己同一性(セルフ・アイデンティティー)といい、それが安定しているかいないかは、さまざまな神経症の病理と深くかかわっています。
実は、このアイデンティティーがしっかりと確立されるためには、自分以外の人たちから自分がどうとらえられているか、どう思われているのか、それが分かっていることが極めて重要な条件となります。
ですから、カウンセラーが来談者の本質的なありようを正確にとらえ、それをきちんと肯定して伝えることは、多くの場合、その人がアイデンティティーを(再)確立していく上で、少なからざる影響を与えます。

一方、今という時代の一つの特徴は、過去のあらゆる時代と比較しても、他者との親密なかかわりが、極端に少なくなったということがあげられます。
その原因は、一家族の人数が平均的に減少したことに加えて、とくに都市部における「小さな地域社会」の崩壊、つまり、以前ほどご近所づきあいが行なわれなくなったことが大きいと、私は考えています。

40~50 年前だと、ご近所づきあいは、しばしば何代にもわたる長いつきあいでした。
たとえば、ある近所の子どもを見ても、あそこのお父さんは小さい頃からこういう性格で、お爺さんお婆さんはこういう人だった。あの子はお爺さんに仕草までそっくりだ、といったぐあいに、お互いに背景までが自明で隠しようのない世界でした。
つまり、家族とまったくの他人との間に、半家族とでも言うべきご近所の人たちがいた、それが小さな地域社会だったのです。
よちよち歩きの子が、親も知らない間に近所の家でご飯をすませていた、などというのも珍しい話ではありませんでした。
そのような世界だと、たとえ親が極端にわからず屋であったとしても、近所の誰かは自分のことを理解し、同情してくれている、という場合も多かったことでしょう。

以前、大阪のとある町で道に迷ったとき、地理的な偶然から、その土地の住人以外はまず通らないような構造になっている、住宅地の一画に入り込みました。
そこではまず、公園でもない道路上で遊んでいる子どもたちが目につきました。
それに、エプロンをしたまま玄関口で話し込む奥さんたちも、あちこちにいました。
彼らの表情はすごくリラックスしていて、玄関が開けはなたれたままの家も多く、昭和四十年代くらいまではいたる所で見られた、懐かしい情景を思い起こさせました。

しかし、子どもたちもお母さんたちも、ただ歩いているだけの私の姿を見るや、ほんの一瞬ですが、一様に緊張した表情を見せました。
さらには、怪訝そうにこちらを見るお爺さんや、私の真正面に仁王立ちとなり、目と口をまん丸にして、びっくりしたように私の顔を見上げる小さな女の子までいました。
ああ、私は侵入者なんだな、と、自覚せずにはおれませんでした。

そう気づいたとき、その一画全体は、まるで一つの大きな家のように感じられました。
ご近所同士でかかわっているときの彼らのリラックスと、私を見たときの緊張とのギャップは、私に現代人の不安の構造を垣間見せました。
人は、何を考えているのか読めない人間が、苦手なのです。

最近、とくに集合住宅の住人で、「隣人の出す音が気になる」という相談が増えています。
同じ壁越しに聞こえてくる生活音でも、家族の出す音であれば、(もちろん、家族関係にもよりますが)さほど気にはなりません。
また、同じ他人の出す音でも、たとえば、親しく付きあっている隣人の風呂場から聞こえてくる子どもの笑い声は、かえって心を和ませるでしょう。
それは、相手がどのような人なのかよく知っているばかりでなく、お互いに好意的だということが分かっているからです。

隣人の生活音が気になるという反応の背景には、壁一枚向こうの他人の生活領域が「異界」と化している心理的事実が隠されています。
つまり、周りに住む人々はすべて、何を考えているのかまったく分からないよそ者(ストレンジャー)であり、自分もまた彼らから見て、よそ者の一人なのです。
つまり、現代人の不安のもっもと大きな要因は、周囲の人々が何を考えいるのか、また自分がどう思われているのかも分からない、という点にあると考えられます。

いったい何が小さな地域社会を壊し、現代をこういう世界にしたのか、多くの要因が考えられますが、ここでは二点あげたいと思います。
まず第一に、膨大な自動車の交通量です。
私は大阪の下町、浪速区日本橋で生まれ育ったのですが、子どもの頃、家の前の道路がアスファルトで舗装されたときに、大切な何かが音を立てて崩れ去るのを、はっきりと感じました。
それは、他人の自動車が自分たちの生活空間に入り込むことを意味しており、その瞬間に、そこはもはや「自分たちだけの土地」ではなくなったのです。

そしてその結果、ご近所全体に広がっていた日常生活の空間の境界線は、各家の内側にまで縮められてしまいました。
言いかえるならば、よそ者が常に入り込んでくることで、小地域社会のつながりはズタズタに分断されたばかりでなく、子どもたちは怖くて外で遊べなくなりました。
また、とくに私などは内向性の強い子だったので、外遊びといっても、泥団子づくりのような静かな遊びばかりやっていましたが、そういった自分の中に籠もれる遊びは、家でしかできなくなりました。
サッカーやキャッチボールなど、どちらかといえば外向的な遊びしかできなくなったのです。
やがて、近所の道路で遊ぶ子どもたちの姿は消え去り、子ども同士のつながりが薄くなったせいでしょうか、近くの神社の祭りが盛り上がらなくなり、形ばかりとなってしまいました。

第二にあげられるのは、企業が何の疑問ももたずに続けている「転勤」という制度です。
家庭崩壊の背後に、父親の転勤にともなう引っ越しがからんでいるケースはきわめて多く、たとえば、小学校時に幼馴染みと引き離された体験が、思春期以降の引きこもりの原因になっているなど、例をあげればきりがありません。
住む土地とは、慣れ親しんだ人間関係を含む、心理的な意味での生活基盤そのものであり、転勤によっていつそれを突然に奪われるか分からないという不安は、どれほどの深い病理を形成するかはかり知れません。


現代人の内なる妖怪

前々節であげた、妖怪の「妖しさ」という特徴は、妖怪が何らかの不可思議さ・不可解さを象徴する存在であることを物語っています。
昔の人々にとっての不可解の対象は、主に、時として奇妙な動きを見せ、またある時には凶暴な力をふるう自然現象でした。
人々は、心の内側から妖怪という存在を生み出すことでそれらを説明し、不安を少しでも軽減するばかりでなく、自然の中に、共感し愛すべき側面をも見出そうとしたのです。

今日、自然科学の発展により、大部分の自然現象は、文学的想像力の助けをかりることなく説明されますが、では、それによって人々の不安が小さくなったかといえば、まったくそうは言えません。
新たに「隣人」という不可解なる生き物が、周囲を取り囲むことになったばかりでなく、人間関係の遮断にともなって、自分が何ものであるかすら分からなくなってしまったからです。
大学生の相談申込書に、「自分のことが知りたい」と書かれてあるケースの、いかに多いことでしょうか。

現在の「妖怪ブーム」とは、自らの内なる不安定さと、文明社会の機械化と管理化によって、加速度的に進んでいく人間性蹂躙の流れに対する恐怖が、一つの形をなしたものではないかと思われます。

ただ、ここで一つ断っておきたいのは、人間関係の遮断にともなって生じた現代人の不安について、私がただただ悲観的な見方ばかりしているわけではない、ということです。
もちろん、そのことが喜ばしいという意味でも、いつまでもそのままでよいという意味でもありません。
ただ、人間という存在が、あくまでも精神性の深まり・広がりを希求するものであるとすれば、現代人がかかえる不安は、どうしても避けて通れないプロセス、ある種の必然でもあると感じるのです。

述べてきたように、小地域社会の崩壊が、現代人の不安の要因となったことは確かですが、一方、それらが人々の精神的安定を支えうるものとして、すでに限界に達していた可能性も高いように思います。
というのは、それらが不合理な因習を生み出し、個々人の個性を抑圧し、その発芽と発展を妨げていたことも否定できないからです。
言いかえるならば、小地域社会とは、「真に自分として生きる」という、ややこしい難事業から遠ざけてくれるエデンの園であったという点において、価値があったともいえるのです。

カウンセリングという仕事を続けていると、学歴や利益の優先というテーゼに適応している大多数の人たちよりもむしろ、そこから脱落せざるをえなかったクライアントの方々の中に、真に自分として生きようとする、人類の新たな方向性の萌芽を見出します。
また、「妖怪ブームは、内なる不安や恐れのあらわれだ」と言いましたが、それと同時に、内なる不安や恐怖を見据え、乗り越えていこうとする人々の動きの一つに他ならないと、私は思うのです。

<了>


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Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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