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2012-03

『人間関係講座』開講決定のお知らせ - 2012.03.31 Sat

当ルーム主催『人間関係講座』を開講することになりました。
第一回目は6月29日(金)の夜7時から
場所はルームからほど近い、大阪市西区民センター第 3 会議室です。入場料2000円
<申込者多数のため、会場を第4会議室に変更しました。>
講師は私松波がつとめます。

一応1時間半くらいを予定していますが、質問の時間を設けるので、その流れ次第で多少延長するかもしれません。
終わりは少し遅い時間になるので、もちろん途中出席・退席は自由です。

なお、定員が60名ほどですので、事前申し込みが必要です。
お申し込みは、専用フォームからお願いいたします。


講座の内容について(本日のツイッターから)

ここ15年から20年来、うつ・パニック障害をはじめとする精神疾患を抱える人の数は、確実に急増している。
以前から仮説は立てていたのだが、カウンセリングルームを開業して以来、さまざまな立場・性格のクライアントと会う中で、「ご近所づきあい」をはじめとするコミュニティの崩壊がそのもっとも大きな原因だと、確信するようになった。

ご近所づきあい・親戚づきあいといったコミュニティの崩壊は、地域差はあるにせよ、おそらくここ40年ほどの間に起きたことである。
カウンセラーという立場だけに、危機感はいっそう大きいのだが、最近さまざまなサルの生態学に関する本を読んだのだが、ますます空寒い気分になった。

人間はサルであった時代から、100万年単位の時間をかけて、「社会性」を構築、発達させてきた。
それが、その歴史から見ればほんの一瞬に過ぎないたったの数10年で、根底から崩壊してしまったというのは、人が宇宙に飛び出し、原子力を使い始めた以上に、インパクトのある出来事と言えるのではないかと思うほどである。

カウンセリングルームで会う、うつやパニック障害の方々の奥底にある問題は、「社会性」の欠落が引き起こす「孤独感」や「人間不信」である。
これは、ただただ本人の社会性が欠落している、という意味ではない。
周りの人々もほとんどすべてがそうなのであり、クライアントはむしろその被害者という立場であることが少なくない。

かく言う私においてすら、きちんと社会性の感覚が保持できていて、孤独や人間不信から自由であるのかと言うと、それははなはだ心許ない。
いや、むしろ私も現代人の一人として、そうした虚無感を抱えているからこそ、クライアントの恐怖や不安が理解できるのだとも言える。

今回開講する『人間関係講座』では、我々がクライアントとともにもがきつつ、達することのできた人間に対する見方、あるいは諦めねばならなかったことを、例を踏まえて、惜しみなく出していくつもりである。

もちろん、クライアントの事例をそのまま出すわけにはいかないので、さまざまな職場や学校における問題、家族・友人関係上の問題からエッセンスだけを取り出し、典型例を創作して、例示するつもりだ。
だから、しばらくは小説家にならざるを得ない。
途方もないことに思えるのだが、やはりどう考えてもこのやり方が一番分かりやすいと思うからである。

実は、ぼんやりとしたイメージはあるものの、まだ具体的にはちっとも浮かんでいない。
乞うご期待というところです。

→大阪市西区民センターのGoogleマップはこちら

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違う性格の者同士がうまくやる - 2012.03.27 Tue

本日のツイッターより

ある企業研修の一環としてカウンセリングを受ていた人たちが、感想文を送ってきてくださった。共通して、「自分はこのままでいいんだ。他人も変わらなくていいんだ。違う性格の人間が、お互いうまくやっていくやり方があるんだと知った。」と書かれてあったことに感激。それがコミュニティ!

私が昔の地域社会(ご近所づきあい)のことなどについて書くと、昔の人間関係は楽で楽しいものだったと想像する人がいると思う。けど、実際にはしんどい部分もたくさんある。むしろそのしんどい部分があるから、性格の違う者同士がうまくやっていく方法を身につけることができた。

他人と関わることにあまり興味の強くない内向型の人は、昨今では異常扱いされる傾向がある。これは、集団を牛耳る強い外向型の人間が、自分の価値観でしか人を見れなくなったためであろう。

昔のコミュニティは、半ば自発的、半ば強制的に参加せざるを得ないものであり、1~2歳の頃から、まったく性格の違う人と接する機会をたくさん与えてくれた。性格の違う人を受け容れる能力は、社会性の重要な要素だ。

ということは、外向的な性格だからといって、必ずしも社会性は高くないのである。昨今の人間集団においては、単に彼らが支配的な立場に立っただけに過ぎない。

企業内部において、それまでずっと事務方だった内向型の人が、営業(外交)の部署などに転属させられてうつになるケースが後を絶たない。逆に、内勤に移された人が屈辱のあまり(屈辱というのもどうかと思うが)うつになるケースもある。

「適材適所」というのは、すでに死語なのではないかと疑う。


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生きた共同体を夢見る - 2012.03.22 Thu

今回もツイッターの連作を記事としてアップすることにする。
やはりツイッターはリアルタイムの気持ちを表現しやすく、当分この形になりそうだ。



サルの生態学者、山極寿一『暴力はどこからきたか』(NHKブックス)ようやく読了。カウンセラー・臨床心理学者にはぜひお薦めしたい本。

人類は100万年単位の時間をかけて、群れを作り、その中で社会性を発展させてきた。それがほんのここ数10年の日本では、おびただしい自動車の交通量とアスファルト舗装によって、子どもの集団遊びができなくなり、ひいては生きた共同体そのものが見る影もなく崩壊させられた。

子どもの集団遊びは、それがそのまま幼馴染みの集団となり、やがてはそれが親同士の関係とも絡み合って地域を支える基盤となる。

子どもの集団遊びといっても、それは必ずしも楽しいばかりのものではなかった。時として諍いが起こったり、一時的な仲間はずれのようなことも起こっていた。しかし生きた集団においては、やがてそうした争いごとは「仲介者」と何らかの「仲直り行為」によって修復された。

今の10代の子ども達には想像しずらいものがあるかもしれないが、諍いと仲直り行為によって、集団の結束はより強固なものとなって行ったのである。

地域社会の復興は、たとえば自治体が旗を振ってできるものではあるまい。自然発生的な形で、子どもの集団遊びが発生する環境を、再び作らねばならないのだと思う。

今の小学生達が仲間と一緒に走り回ろうとすると、サッカークラブや野球クラブに所属し、毎回親に送り迎えしてもらって、怒鳴られながら厳しい練習に耐えなければならない。いうまでもなく、それは自然発生的な遊びの集団とはまったく異質なものである。

自らの欲求と意志によって集まり、遊びつくして感情を満たすという目的が中心にあり、なおかつ(よほど大きなことがない限り)大人が一切関与しないという条件があってはじめて、それは子ども達が社会性や身体の動きを育む場になる。

これは懐古主義から言うのでないことはいうまでもない。しかし、こればかりは必ず元に戻さなければならないはずだ。「時代を戻すことはできない」などと嘯いてはいられないことである。

町を、子ども達が集団遊びできる環境に戻すためには、捨てなければならない便利さはたくさんあると思う。しかし、その便利さよりも子どもの社会性を育むことのほうが大切であることを、大人たちがどの時点で気づくことができるか、これが問題だ。

故郷とは、単なる物理的場所のことではない。兎追いしかの山も、小鮒釣りしかの川も、人と人の生きたつながりという基盤を含む「故郷」という総体の「象徴」なのである。

ことさらに触れなかったが、学校そのものは決して子ども達の共同体意識、社会性を育まない。なぜなら、そこは大人たちが子ども達に対して、何ものかを押し付け管理する場に過ぎないからだ。

ただし、学校の友達と放課後、自由に集団遊びできる条件が整っているならば、学校は貴重な出会いの場ということになるだろう。また、それぞれの自由意志によって育まれた絆は、学校という場へもフィードバックされるだろう。

折に触れて政治家から「教育改革」という言葉が発せられるが、私は一度としてその言葉に期待を寄せたことはない。本当に教育改革を目指すならば、放課後の子ども達がすごす環境という次元から、解体・再構築する必要があるからだ。そのことに気づいている政治家を、私は見たことがない。

よしんば気づいていたとしても、それを実行するのは、裸足でヒマラヤに登頂するがごとき困難さを伴うだろう。そのことが、私をこの上なく憂鬱にさせる。


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サルと人間-ツイッターより - 2012.03.15 Thu

一昨日と今日のツイートが、思わず力作になった。
これはちょっと残しておきたいと思ったので、そのままこちらに転載しておこうと思う。
上から下にお読みください。


本日のツイート


サルの生態学の本によれば、ニホンザルの群れでは、順位が直線的に序列化していて、例えば一つのえさを2匹のサルが目の前にしたとき、例外なく順位が上のほうがそのえさを取る。

また、順位を誇示する行動がよく見られ、上位のサルが下位のサルをちょこちょこいじめるのだが、いじめられたほうは、その直後に、自分のより下位のサルをいじめるのだそうだ。クライアントの方々からよく聞く、多くの企業内部の上下関係そのものである。

ところが、それがチンパンジーやゴリラ、つまり類人猿になると、そうした単純な行動様式ではなくなる。チンパンジーでだと、一応序列はあるものの、そうした葛藤状況つまり喧嘩が生じることは仲良くなるための一つのチャンスですらある。

上位のものが下位のものに対し、自分からご機嫌を取りにいったり、下位のものが攻撃を加えることもありつつ、仲直り行動をすごく丁寧にするのだそうだ。

このことを読んでいて、正直空恐ろしくなった。企業のみならず学校でも、スクールカーストなる序列の明確化という現象が起きているが、それはつまり、日本人の社会性のレベルが、類人猿の段階をも通り越して、ニホンザルの段階にまで退行してしまっていることになるからだ。

ニホンザルの群れでは、基本的に後から群れに参入したものが最下位の序列に加えられるということだから、それはある意味儀礼的お約束と言ってもよく、人間社会のほうがより一層たちが悪いようにも思えるから、下手をすると文字通りサル以下ということになる。

昭和中期頃までのドラマなどを見ると、いわば凡庸な人々が、複雑かつ高度な人間関係を描き出していて、その行動様式の多くは、今日ではほとんど見られなくなったものが多い。つまり、かつては明らかにやれていたのである。

日本人はなぜそれができなくなったのか。私にとって理由はほぼほぼはっきりしている。他人や親戚といった、核家族以外の人々と接し交渉する機会が、地域社会の崩壊に伴って激減してしまったためであろう。

例えば児童虐待の背後にも、こうした、人間関係を単純な序列でしか捉えられなくなってしまったという状況の他に、「子育ては親がするもの」という誤った観念・環境のために、子育ての負担が大きくなったという事情がある。(子育ては本来、地域や親類全体で行うものである。)

ということは、これからの日本人が目指さなければならない方向は、ある程度はっきりしていると言える。自然と他人と接する機会が増える方向に導くことだ。ただしそれは、「他人とたくさん接しましょう」という呼びかけでは断じてない。

努力を促す呼びかけは、常に虚しいからである。それどころか、最小限の労力で最大限の効果・利益を得ようとすることは、生命体が本来備えている一種の叡智ですらあるのだから。

例えばその方法として、考えることはある。荒唐無稽な話なので、めったに公の場所では言わないことだが、まあ1回だまされたと思って、人間の居住地の地面から、アスファルトをはがし、土の地面を回復させてみろと言いたいのである。

つまり、家の前で子どもが遊べるようにするべきなのである。

忘れてしまっている大人は多いが、アスファルトと土の地面では、遊びやすさが断然違う。土の地面という上質な共有物を通じて、はぐくまれる他人との絆は強い。ブログでは何度かそのことを書いた。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-47.html

「昔はよかった」とどれほど言ってみても、確かに時代そのものは逆行しない。しかし、どうしても戻らなければならない部分があるのであれば、やはり戻すしか道はないはずだ。私には、それが絶対に不可能なことだとは思えない。

日本人の、複雑で高度で粋な人間関係のありようを知りたいと思われるならば、ぜひ池波正太郎の『鬼平犯科帳』をお勧めしたい。



一昨日のツイート


最近、サルの生態についての本を読んでいる。心理学者は、まずもって動物行動学、動物生態学をきっちり勉強しておく必要性を、あらためて感じる。実験心理学の一領域ではマウスやラットを使っての実験を行うが、人間を含む動物の集団行動、社会的行動については、心理学者の知見は明らかに弱い。

チンパンジーやゴリラといった類人猿は、遺伝学的には当然人間に近いが、どのくらい近いのかというと、他のサルと類人猿の距離よりもはるかに近い。だからチンパンジーやゴリラは、ヒト科に属するのである。

そもそも人間の行動様式の基本的な部分は、サルであった頃の樹上生活によって育まれたものであるという。

先ほど見ていたビデオで、ムツゴロウさんの一番好きな動物は「若い頃の妻」だという話が出ていたが、あの人を見ていると、「ああ、この人の目には、人間もあくまで動物として映っているんだろうな」と思うことがある。

宇宙ステーションを作り、原発を開発し、それを破綻させて放射性物質をばら撒いたのも、他人をうつになるまで叱責して追い込むのも、動物の行動として見る視点は必要であるに違いない。

単に非難するばかりではなく、その動物行動学、生態学的根拠、つまりそれらの行動の、本人の意図せざる理由を考えなくてはならないと思うのだ。

東日本大震災1周年の昨日、原発反対集会が開かれた。もちろんこれはこれで大切なことだが、「よくないことはやめよう」という訴えは、その対象の反感を刺激するために、しばしば虚しく終わってしまう。

「ずるいことはするな」といくら訴えても、ずるい者はどこまで行ってもずるく、それはおそらく生涯変わらない。しかしそのずるさにも、動物の行動としては一定の根拠があるのである。その根拠を知り、「人間が比較的ずるい行動を起こしにくい」性質の社会を形成していくことを考えねば。

※参考文献 山極寿一(日本霊長類学会会長)『暴力はどこからきたか』NHKブックス

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プロフィール

Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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