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2012-04

安全策の危険性 - 2012.04.30 Mon

現在、幸朋カウンセリングルームHPの大幅リニューアルに向けての作業中である。
その中で、ブログから抜粋した記事集の内容にもあらためて目を通しているのだが、書いた当初と現在とで気づきの深さがかなり違うものもあり、順次加筆訂正している。

中には、加筆訂正しているうちにほとんど別の記事のようになってしまうものもあり、今回のブログではその一つを公開させていただくことにした。
元は『安全策の落とし穴』というタイトルだったが、『安全策の危険性』と変更する。

私の、臨床心理学というものに対する現時点での考えが濃厚に含まれているはずである。




もう何10年も前の作品だが、本宮ひろ志さんが三国志を題材にして描いた「天地を喰らう」という漫画があった。 読者からの受けはイマイチで、本宮さんのものにしては珍しく早々に打ち切りとなってしまった、いわば幻の作品である。

だが、その作品の中ですごく印象に残った場面があった。
龍女と交わったことで地上最強の肝っ玉を得た劉備が、義兄弟で豪傑の張飛と二人で旅をし、廃墟となった城で一夜を明かす場面である。

野盗や飢えた敗走兵が跋扈する危険な場所であるにもかかわらず、劉備は敢えてすべての城門を開け放って悠々と眠る。
やがて皇帝となるべき劉備の身を案ずる張飛の心配をよそに、劉備自身は、「門をすべて開け放っておけば、人はかえって恐れて入ってこれぬものよ」とこともなげに言い、いびきをかき始める。

現実的じゃないと言えばそれまでだが、一見合理的な方法からは逆に見えることのほうが的を射ていることは少なくない。
一理あると思った。

カウンセリング場面でも、そういった局面は多々ある。
たとえば、いわゆる境界性人格障害の人などの場合、それまでの家族・人間関係の悲惨さなどから、不安と人間不信が強い。
彼女たちにとって他者とは、どこまでも得体の知れない、不気味な存在である。
さらには、相手もまた自分のことをどう思っているかが気になって仕方ないために、こちらの言動の裏を深読みしすぎる傾向が極端に強いのである。

それゆえ、カウンセラーの人柄や本心を知りたいと思うあまり、その個人的な情報、たとえば年齢、家族構成、出身地など、場合によるとどちらがカウンセラーなのか分からないくらいに突っ込んだ質問を受けることもある。

私が知る限り、あらゆる臨床心理学・カウンセリングの教育場面で、こういったタイプのクライアントに対しては、絶対に個人情報は教えてはならないと教わる。
一つ教えれば切りがなくなるというのが、どうやらその理由らしい。
「転移感情(理想化などを伴った、クライアントからカウンセラーへの好意あるいは嫌悪)」を刺激しすぎる、という理由も聞かれる。

加えて、こういった質問をいかにかわすかという方法についても習う。
まずたいていは、「どうしてそのことが聞きたいと思ったのですか?」と、逆に質問で返す方法が一般的だ。

私は新米カウンセラーの頃、この教育に随分苦しめられた。
教員も諸先輩方も口を揃えてそう言うのだから、当然ながら、やはりそうした方がクライアントのためでもあるのだろうと思い、教えられたとおりにやる。
しかし、こういったやり方をしていると、相手が怒り出すか、でなければ支配と被支配の関係ばかりが強まってしまい、かえってどうしても深い信頼が築けないのである。

一方は自分の情報をあまさず話し、もう一方は自分の個人情報はもちろん考えや見立てすら言わないのだから、支配的関係にならざるを得ない。服を着た人と全裸の人が面と向かえば、服を着た人が精神的に圧倒的優位に立つのが当然である。
こうなると、臨床心理の授業でのあの指導は、もっとも有効な精神支配の方法を教えていたことにすらなる。

そもそも質問に対して質問で返すなど、どう考えても失礼な話だ。
カウンセリングの会話は普通の会話とは違うということを、強調しすぎるカウンセラーは少なくない。
だが、本来失礼なはずの態度が、カウンセラーだからといって許されるとは考えるべきでないし、逆にクライアントのことも、いかに失礼な態度であっても受容しなくてはならないと考えるべきではない。

先に述べたような、不安と猜疑心に満ちているいわゆる境界性人格障害の人ならずとも、あらゆるクライアントにとって、本音では目の前にいるカウンセラーがどういう人物なのか、信頼関係が成立するまでは値踏みを続けたいはずである。
だから、クライアントがカウンセラーの年齢を聞いてきたのに対し、「なぜそれが聞きたいと思ったのですか?」というのは、普通に考えれば愚問以外の何物でもない。
今から人生にかかわる相談をしようと思っている目の前のカウンセラーが、「どのくらいの人生経験を積んできているのか?」ということは、クライアントにとって死活問題である。それを年齢によって推し量ろうとしていることは、まず誰にでも分かることだ。
「年齢と能力は必ずしも一致しないですよ。」と言うことはあるが、それはきっちり年齢を答えた上でのことである。

そのあまりにも分かりきったことに対して、「なぜそれが聞きたいのか」と聞き返すのは、普通「そんなことは聞かないように」という厳しい禁止の意味しか持たない。
カウンセラーは表情一つ変えず、もしくはにこやかに、その厳しい禁止の言葉をクライアントに突きつけているわけだ。
何とも不気味で恐ろしげなやりとりである。

そもそもごく一般的に言って、不安を軽減する方法とは何か。
言うまでもなく、「不安など感じなくていいのですよ」と伝えることではない。
要するに、何かが見えなくて不安ならば、それを見せることである。

数年かかって、この単純な理屈にたどり着いた私は、はじめは恐る恐るであったが、質問さえ受ければ、自分の個人情報すら、そのほとんどを隠さず話すようにした。
(その代わり、いかに不安の強いクライアントであっても、それに見合うだけの自分の情報を隠すことは許さなかった。)
当然といえば当然の結果だが、それによって問題が起きたことはいまだに一度もない。

不安の高いクライアントからの、1日に何10本もの電話やメールにくたくたになっているカウンセラーの話を聞くことは少なくないが、私にはそのような経験は一度としてないのである。
「カウンセラーはいったい自分のことをどう思っているのか」という不安に駆られて、衝動的にカウンセラーにメールを送信する必要そのものがなくなるからだ。

さらには、カウンセラーは等身大の自分を見せているのだから、極端な理想化転移も生じにくい。
つまり、信頼関係は成立しながら、カウンセラーに対する依存がほとんど生じないか、もしくは早々に解消されるのである。
もちろん、重い境界性人格障害のクライアントのケースも含めてである。

私がクライアントの質問に答えられないときは、まず基本的に、どれほど考えてもその答えが分からないときだけで、そのような場合には、「ここまでは分かりますが、ここから先は分からない」とはっきり伝える。
カウンセラーのこうした態度によって、クライアントのカウンセラーに対する猜疑心のみならず、人間不信そのものもかなり速いスピードで軽減することが少なくない。
不動点がたった一点定まることで、方向感覚を取り戻していくということなのではないかと思う。

今にして、「特に不安の強いクライアントには、カウンセラーの個人情報は一切教えてはならない」といった教訓が、いかに論理性を欠いた幼い反応であるかが分かる。
要するに、クライアントの不安に圧倒され、恐れて、殻に閉じこもるが如き幼稚な反応をしてしまっているのである。
私は若いカウンセラーのスーパービジョンも行なっているが、バイジー(受けている人)がこの点をきちんと理解すると、途端に重心が落ちて腹の据わった感じになる。

あるカウンセラーのケースでは、いったん帰ったはずのクライアントが戻ってきて、「さっき先生のおっしゃったことの意味が分からなくて」と不安を訴えた。
ところがその担当カウンセラーはクレームを言いに来られたと勘違いし、「私はいないと言って」と受付の女性に頼んで声を潜めて隠れていたところ、その受付の女性が見事に腹の据わった対応でクライアントの不安を解消した。

それはあとで別の職員から聞いた話だったが、おそらく同じクライアントから電話がかかってきたときも、やはりそのカウンセラーは震えんばかりに「私はいないと言って」と繰り返していた。
そのときのカウンセラーの真っ青な表情と、ごく普通の健康な人が持つ能力の対比。
それを目の当たりにして、日本の臨床心理学教育に対する私の絶望感はますます深められた。

以上は、超一流の大学院で、臨床心理学の高等教育を受けたカウンセラーの話である。
臨床心理学の教育の過程では、カウンセラーの卵たちは、徹底してクライアントへの恐怖を植え付けられるという面が非常に強い。
だから多くの臨床心理士が、その資格を取ったにもかかわらず、あまりカウンセリングをしたがらず、できることなら教育職・研究職につきたいと考える。

教育・研究職につけば、当然ながらますますカウンセリングはできない。
だから、カウンセリング経験のほとんどない者が、カウンセリングの"高等"教育を施す立場に立つという奇妙な状況も、数限りなく出現している。
そして、そういった研究者ほど学生や院生に対して、平均して高圧的であるように思えてならない。
思うに、潜在的な恐怖と劣等感が反転しているのであろう。

プロフィールをごらんいただけばお分かりと思うが、ありていに言って、私や家内が研究職につく機会は人並み以上に恵まれていた。
にもかかわらず、あくまでも一カウンセラーであることに固執し続けたのは、こうした歪んだ体制に迎合することを強く拒絶した結果でもある。

一般的に見ても、昨今は他人に対してとにもかくにも個人情報を隠したがるが、これは当たり前に他人を信頼する感覚の薄れ、反対に恐怖心がとてつもなく強くなっていることの現われなのだろう。
ともあれ、この記事のタイトルを「安全策の危険性」としたのは、このことである。

まだしも恐れているだけなら可愛いげもあるが、先輩カウンセラーが若いカウンセラーにその恐怖を強要し、さらには「掟」を破った者に対し罵倒するなど、自らの恐怖心のたちの悪い合理化・正当化である。

すべての道が車道化したために「ご近所づきあい」は分断され、さらに子どもたちが家の周辺で集団遊びできなくなったために、「幼馴染」という、昔なら一生の付き合いになったはずの基礎的コミュニティは姿を消した。
そのため様々な性質の他人と接する機会がなくなり、現代人は「周りの人々が何を考えているのか分からない」という暗闇に放り込まれることとなった。

おそらくそれらは、精神疾患・人格障害の増加と重症化のもっとも大きな要因である。
そういった現代人と会いながら、多くのカウンセラーが、「周りの人々が何を考えているのか分からない」という状況を臨床場面で再現してしまっているという現実は、決して否定できないのである。

今回はカウンセリングのことで書いたが、「安全策の危険性」というテーマは、実は社会や家庭内でもさまざまな歪みを生じさせる原因となっている。



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Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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