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2017-09

臨床心理士会を自主退会 - 2012.05.20 Sun

もともとこの記事は、私が3年前に臨床心理士の資格を放棄した直後に『臨床心理士会退会』としてアップした記事であるが、カウンセリングルームHPのリニューアルにともなって、そちらの方でもアップした。

しかしすでに3年経っていることもあり、考えが発展したりより明確になった部分があり、手を加えているうちに大幅に中身が増えてしまった。
とくに第2節の「カウンセラー特有の歪み」以下は、大部分が今回書き足したものである。

そこで、『臨床心理士会を自主退会』という記事名で、再アップしておきたい。





私事ではあるが、非常に重要なことなので、この場をお借りして公表しておきたい。
私は2009年3月31日の日付で、臨床心理士資格認定協会に資格失効の願いを提出し、資格証明書を返却した。
つまり、同年4月1日をもって、私は臨床心理士ではなくなったのである。
もちろん、開業カウンセラーとしての活動は、ずっと変わることなく続けていく。

このことは、事前に、家内や身内の他には、一部説明の必要だったクライアントの方々とごく少数の親しい友人にしか公表しなかったが、私自身の胸の内では、少なくとも退会の2年前には確定していたことである。
さらに言えば、その心積もりは、はじめからカウンセリングルーム開業とセットになっていたと言ってよい。

出身大学院の教授や仲間、あるいはかつての職場の同僚でこの記事を読まれた方は、さぞかし驚かれることと思う。
非常に気の重い点だが、中には、エキセントリックな行動だと思う人も多いことだろう。
しかし、もちろん気がふれた訳でもなければ、理想に取り憑かれて無謀な行動に走ってしまったつもりもない。

言うまでもなく、臨床心理士という資格自体は、あって邪魔になるものではない。
それどころか、この資格を得るにはそれなりの年月や労力や費用、何よりも「カウンセラーになる」という明確な意志を必要とするだけに、少なくとも社会的に見る限り、やはり価値のある資格とされることは重々承知している。
実際に、私自身これまで多くの臨床機関での勤務を経験してきたが、臨床心理士という資格があったからこそ雇用してもらったのだし、臨床経験と実績を積むこともできたのである。

ただ、私にとってこの資格を継続して持ち続けるには、あまりにも抵抗が強すぎた。
退会を決意するにいたった理由については、単純に語れない部分が大きいので、少しずつブログなどで書いていくことになると思うが、現段階である程度は述べておかなくてはならないだろう。


退会の理由

さしあたっての理由は、理念よりもむしろ実状によるところが大きい。
臨床心理士の資格は、5年ごとに更新される。
で、更新までの間に、資格認定協会から指定されている研修会あるいは学会に、6~8回程度出席して所定のポイントを獲得、累積させなくてはならない。
つまり、研修会・学会には、平均して年間に1~2回出れば済むことではある。

しかし私の場合、この年間たった1~2回の研修会・学会出席を、まずはどうしても生理的に受けつけなくなってしまったのである。
では、研修会・学会のどういった点を生理的に受けつけなくなったのか。
正直、この内容がすらすらと言葉になりにくい。
おそらくは、その場における矛盾が単純ではなく、十重二十重に絡み合っているからだと思う。

矛盾の一例として、ブログでずっと述べ続けてきたように、ほとんどのカウンセラーは、クライアントをはなから劣等者・歪みのある者と決め付け、一方カウンセラー自身を優越者だと思い込んでいると言わざるを得ない。

人は、大人であるというだけで子どもよりも人格的に優れていると勘違いし、教師であるというだけで生徒よりも世の中のことが分かっていると勘違いする。
そして、カウンセラーであるというだけで、また悩みを抱えていないというだけで、悩める人よりも物事がよく分かっていると勘違いするものなのである。

しかし、症状の発症とは、ある意味人が生きたものである証と言ってもよい現象であり、一概に病者が異常・劣等と決めつけるわけにはいかない。
歪んだ場の中では、むしろ歪みのない者が発症せざるを得ないことが多々あるのである。

ある3歳の女の子は、「教師の指示が理解できない」という理由で自閉症を疑われ、われわれのもとに連れてこられたが、実際には非常に能力の高い子どもだった。
教師の、いくつか前の指示と最新の指示とがたびたび矛盾していたために、かえってどうすればいいのかが分からなかったのである。

クライアントの能力が、教師やカウンセラーよりも優れている可能性を含む視点は、少なくとも専門家である以上、常に意識していなくてはならないのはあまりに当然であるが、実情はあまりにかけ離れている。

あらゆる学会・研修会の発表において、この視点はまったく意識されておらず、フロアからこのことを訴えたとしても、まず90パーセントの確率でその意見は無視される。
発表者からも他の参加者からも、まるで不思議な生き物を見るような目を向けられ、きょとんとされた後、「さて、それでは……」と別の話題に移られるのがオチである。
ただし、それを業界内の有名人が言った場合だけは別だ。


カウンセラー特有の歪み

たとえば、こんなことがあった。
東京でのある研修会場でのこと、私と家内は、ある大学の大きな階段教室の後ろの方に座っていた。
例によって講演の内容に辟易していたこともあったのだが(学習障害者(LD)支援NPO代表である藤堂栄子さんの講演だけは素晴らしかった!)、臨床心理士の講演中、家内が手を滑らせ、空のペットボトルを取り落としてしまった。

そのペットボトルは、カランカランと気持ちがいいほど派手な音を立てて、出席者たちの足元を5~6段下へと転がった。
たしかに聴講の邪魔をしたのは申し訳なかったが、心理学者である私は「人間はミスをするもの」と知っていたし、何よりそこに並んでいるのは、日頃「受容」を謳い、しかも人間がミスをすることを、私同様に知っているはずのカウンセラーたちである。
だから私も家内も、虫がいいと言えばそれまでだが、それを拾った人は「ああ、気にしないで」というほどの目配せなりを送ってきてくれるものと、当然のように予想していたのである。

ところが結果はまったく違っていた。
まず周囲の出席者たちは、一斉に家内と私を、憎むような目でジロリと睨んだ。
そして、自分の足元に誰かが落としたペットボトルが転がってきていることに、明らかに気づいているはずの出席者が、数瞬の間を取った上で、ゆっくりと大きな動きでそれを拾い上げ、これ以上ない迷惑そうな顔で後ろを睨み、すぐ後ろの出席者へと手渡したのである。

内心「目配せ待ち」だった私は、その人物と目が合ったときに、拝むような格好で「ああ、すみません!」という態度と表情を見せたのだが、プイと前を向かれたに過ぎなかった。

するとそこから、さらに信じられないことが起こった。
そのすぐ後ろの出席者から私まで、つまり落ちた段の数だけのカウンセラーたちが、最初の人物とまったく同じ仕草を判で押したように繰り返しリレーし、そのつどこちらを睨みつけて、家内に空のペットボトルを届けたのである。

クライアントの方々の大部分は、何らかの意味での「失敗者」である。
たまたまその会場で「失敗者」となった家内に対する彼らの行動を見て、彼らが日常的に、「失敗者」であるクライアントの存在・ありようを心から尊重しているとは、とても思えなかった。
また、失敗をしでかした者が必要以上に傷つかないための気配りは、かなり初歩的な「社会性」であると私は認識しており、むしろうつになった人々の中には、こうした気配りの細やかな方が多い。

今目の前にいる、ごく初歩的な社会性をも欠いた人々が、日常的に、あの細やかな気配りを持つ人々にカウンセラーとして対面している状況を想像し、そこで何が起きてしまうかを考えると、あらためて心底ぞっとせざるを得なかった。

あの出来事は、その場に一石を投じずにおれなかった、家内の潜在意識がしたことであるのは間違いない。
我々にとって、それが暴き出したものは実に大きかった。

もちろん、すべてのカウンセラーがそうだと言うつもりはないが、大学に教員として勤めているカウンセラーの社会性の低さについて、他学科の教員の方々から不満として耳にすることは非常に多い。
そのようなイメージが浸透してしまっているのか、「臨床心理」と言うだけで、大学関係の人から眉をひそめられることも少なくないほどである。

ただ、カウンセラーの中で、初歩的な社会性を欠いていると思われる人々の、圧倒的な率の高さから考えると(社会性の低い人がカウンセラーになりたがる傾向がある可能性を差し引いたとしても)、彼らがすべてカウンセラーになる以前から社会性を欠いていたとは考えにくい。
だとすると、「臨床心理」という領域では、思わず知らず、社会性を損ねてしまうような何らかの歪んだ教育が、連綿となされていると捉えざるを得ない。

日本のカウンセラー界における来談者中心療法の弊害

カウンセラーの「自分を隠す」基本的態度における問題の根源をたどると、そもそも、患者を寝椅子に寝かし、その頭上に自分の姿を隠して精神分析を行なった、S.フロイトの初期の臨床スタイルがもたらすイメージに、大きな問題があると言うべきだろう。
しかしより現実的には、私が見る限り、カウンセリングのもっとも初歩とされるロジャーズの「来談者中心療法」の教育が、カウンセラー自身のカウンセリングイメージばかりか、基本的な人間関係のイメージまで大きく歪めてしまっている面が強い。
ブログ 『ロジャーズ理論の問題点-序説として』 参照

たとえば、日本の「来談者中心療法」の教育者たちの頭には「カウンセラーはカウンセリングにおいて、自分の考えを一切話してはならない」という、何ら有効な現実的根拠がないにもかかわらず、掟のごとく厳格にして奇妙なルールがある。
さらにそのルールは、「カウンセラーは社会のあらゆる場面において、(個人情報はもちろん考え方まで)自分のすべてを隠すべき存在である」という独善的理屈にまで拡大してしまっているのである。
これでは、一般社会において周囲がイライラさせられるのも当然だ。
他人の情報は無遠慮に収集し、自分のことは何も明かさないのだから。

日本の一般的カウンセリング教育においては、「カウンセリング、クライアントは恐ろしいもの→人間関係、人は恐ろしいもの」というイメージが間接的に刷り込まれ、さらにそれが受け継がれることによって強化されているのである。
したがって、できるだけカウンセリングをしたがらないカウンセラーも少なくない。
また、そういったカウンセラーはクライアントに対する恐怖心が強いため、単に不安が高いだけのクライアントに対してすら「人格障害」と判断してしまうような傾向が強い。

カウンセリングがしたくないのだから、当然ながら彼らの研究職・教員職に対する執着は強い。
だが、カウンセリングがしたくないのならば、もはやカウンセラーという職にとどまるべきでないのは言うまでもないことであり、ましてや後進を指導するなど、断じてあってはならないことである。

退会の少し前、ある研究者兼カウンセラーと、来談者中心療法教育の弊害について議論になったが、こちらがどれほど論理的にその説明をしても、相手は反論と呼べる説明が一切できないにもかかわらず(理屈にならない理屈さえ述べなかった)、「そんなことはない! そんなことはない!」と、ただただこちらの意見を否定し、やがては怒り出し、おしまいにはこちらを侮辱しているとさえ取れるような発言までする始末だった。
これは、マインドコントロールされている者の、もっとも稚拙で典型的な反応である。まともなカウンセリングのできようはずがない。

研修会におけるペットボトル事件の際、周囲のカウンセラーたちが示した怒りの反応は、おそらく、不測の事態をいきなり突きつけられ、ありのままの素の反応を引き出されるような状況、つまり自分を隠しておけない状況に対し、本能的に激しい拒絶反応を示した結果であろうと思われる。


挑戦的試み

しかし私のもっとも恐れることは、彼らからの攻撃以上に、私自身にもそのようなマインドコントロールの影響が残ってやしないかという点である。
そのためには、臨床心理学教育において叩き込まれた根拠の見えない常識を、一つ一つ破っては検証していく必要があるのだが、臨床心理士の組織に身を置き、その資格によって勤務している限り、それにはかなり限界がある。
そのこともまた、私が臨床心理士会を去らねばならない大きな理由だった。

ある時期私は、この「恐怖」の刷り込みを払拭するためもあって、あらゆる精神障害やパーソナリティ障害の人々に対しても、尋ねられれば迷いなく、自分の考えはもちろん、電話番号などを含む個人情報まですべて教えていた。
まだ大学に勤めていた頃のことだったが、臨床心理教育へのひそかな、しかし言うまでもなく、それなりに覚悟を必要とする挑戦だった。

そうした試みの結果、自己開示によってまず例外なくクライアントたちの疑心暗鬼は緩和され、かえってカウンセラーに対する侵入的行為(1日に何本ものメールや電話をするなど)は誘発されず、また何よりも、あらゆる主訴のクライアントにおいて、良好な経過をたどる確率が劇的に高くなることがはっきりとした。

反対に、さまざまな事例報告を聞いていても、自分を見せたがらないカウンセラーほどクライアントの不安を刺激するため、侵入的行為あるいはカウンセラーの目の前での自傷行為などを誘発しやすい。
自分だけは常に安全な場所に隠れていようとするカウンセラーの態度は、かえって自身がもっとも恐れている結果を招いてしまうのだ。

カウンセラーを目指した時点から、カウンセリングが、自分を安全な場所に置いておいてできるほどたやすい仕事であるとは、私には思えなかった。
しかし、個人情報まで隠さず話し、一見危険な場に身を置いているように見える私の方が、結果的にははるかに安全だったわけである。

自分を見せたがらないカウンセラーは、それでもまだ 「隠し方がまだまだ甘かったのだ」と言わんばかりに、さらに頑なに殻に閉じこもる道を選ぼうとする。
本人だけならばまだしも、若いカウンセラーたちがカウンセリング場面で自分の考えを話しただけで、良くて劣等生扱い、一部の指導者などはヒステリックに叱責する。
繰り返すが、これはごく一部のカウンセラーの話ではなくて、少なくとも過半数の臨床心理士の話なのである。

実は、大学院生時代にもこのような思い切った自己開示を試し、必修科目であるケース検討会でその試みの事例を発表したことがある。
それは私にとって、臨床心理学を教え学ぶ人々への本質的な問いだったが、大部分の教員・院生にケースの経過自体はスルーされ、私が思い切った自己開示をしたことに愕然、呆然とされ、結果として私は著しく評価を落とさねばならなかった。

1人の後輩などは、発表の後でわざわざ私の目の前までやってきて、私の顔をにらんだ後、プイと横を向いてどこかに去った。
その子どもじみた態度は、カウンセラーの立ち位置を、クライアントのいる高さまで引き下げた私の行為に対する怒りの表現だったのだろう。
逆に、その場の参加者で面食らうほど私を評価したのは、現在の私の家内ただ一人だけだった。

ちなみに、自画自賛ではないが、自分の個人的な話をした部分だけ伏せて発表すると、私のカウンセリングケースはまず例外なく絶賛された。
「こんなに重い人が、どうすればこんなにいい経過を見せるのか」と言い、首を傾げてくれるのである。
私にははっきりとその理由が分かっていたが、それを口に出せばたちまちどうなるかもはっきり分かっていたから、当然黙っていた。

ただ断っておくと、今でも私の基本的態度は変わらないものの、カウンセラーの個人情報を細かく知りたがるクライアントの場合、逆に自分の情報を小出しにしたがる傾向が強く(申込用紙に名前すら書かれない場合がある)、それではかえって対等な情報開示のバランスが保てないために、逆にそうした方には正直に理由を告げた上で、自分の個人情報は話さなくなった。
だから結果的には、自分の個人情報を話す必要は、もうほとんどなくなっている。
あるいは、ブログなどで個人的な体験をかなり書いてきて、人となりが自明となったことも、要因として大きいのかもしれない。


決心までの経緯

さまざまな研修会に出席した実感から言うと、カウンセラーのこうした自分を見せない傾向は、関東の方がより徹底していると思われ、同郷贔屓ではないが、ペットボトル事件がもし大阪の会場で起こったことなら、結果は少し違っていたかもしれない。

ともあれ、このような研修会場にいると、クライアントを見下げるどころか、主体的に自分自身を関わらせすらしない教育に一切疑問を覚えない参加者たちに対して、声を荒げたい激しい衝動に駆られる。
「心理療法とは、人と人の生きたかかわりを排除し、クライアントをお仕着せの「正常」という枠に無理やり押し込め、ロボット化させることなのか!」と。
私や私の家内は、こうした場面では、握り締めた拳と食いしばった歯を終始緩めることができない。
そして、畳みかけてくる絶望感にくたくたになり、研修会参加から少なくとも1~2週間は、崩れた体調が元に戻らないのが常だった。

そうした、いわゆる専門家同士のやり取りのひどさは、もはや「無意味」という言葉では表現しきれなかった。
明らかに「人としてやってはいけないこと」としか思えなかったのである。

それでも私は10年以上、文字通り歯を食いしばってこういった研究者としての生活を続けたが、とうとう抗えない強さで拒絶反応が出始めた。
資格放棄の4年ほど前から、どの研修会・学会に出席しようとしても、それを考えただけで激しい怒りや悲しみに襲われ、行けなくなってしまったのである。

九州である学会が催されることになった時、それでも私は参加を申し込んだ。
他の学会・研修会はどれも参加する気になれなかったのだが、以前から気分的に比較的参加しやすいと感じていた学会だった。
しかも、開催地は九州である。そこへ労力と金を使い、前日から泊り込みで行けば、さすがに出席しないわけにはいかないはずだ。
要するに、是が非でも出席するしかない状況に自分を追い込んだのである。
これでだめなら、もう次の考え方をするしかない。

朝ホテルで目を覚ましたが、案の定、限りなく気は重かった。
ため息ばかりつき、着替えの動作すら何度も中断しなければならなかったので、とりあえず遅刻することに決めた。
すでにプログラムが始まっているはずの時刻に、朝食も取らず、かろうじてホテルを出た。
学会会場の大学は、ホテルから目と鼻の先だ。

とりあえず、大学がある方向に歩いてみる。
大学が見えてきたところで立ち止まった。
目の前に、いよいよ主体的に選択せねばならないラインが、かなりリアルに見えた。

完全に感情を殺さぬ限り、もう一歩も進めなかった。
会場に身を置いている自分を想像するだけで、大の男のくせに泣きそうになる。
「殺すのか、殺さないのか」と、すでに答えは分かっていながらも自問してみる。
自分の全身全霊が、「行ってはならない。もう自分を殺してはならない」と大声で叫んでいる。

私は、「そやな、もう殺しちゃいかんよな」と答え、今度は反対の駅の方向に歩き始めた。
身体の表面の激しい緊張はスーッと解けたが、代わりに腹の奥から、ゆっくりと別の緊張が襲ってくる。
おそらく凄まじい表情をしているであろう自分にふと気づき、
「さあて、えらいこっちゃ……。臨床心理士やめろってことね」
と、わざとのんきに声を出した。

資格を放棄する腹は、この時にほぼ決まったと言ってよい。
それは、単に嫌だという感情からでなく、「これ以上このおぞましい集団的行為に、加担するわけにはいかない」という「決心」だった。

私はうつの経験者、「自分にうそがつけない人」の一人であると同時に、カウンセラーである。
だから、自分が何をすればうつになり、どうすればうつにならないかは、嫌というほど知っている。
しかし、断じて自分にうそをつかないということが、多くの場合周囲からどう見えるかということも、またそれがどれほど厳しいことであるかも熟知しているつもりだ。

この記事を読まれた方には、やはり理解してほしいが、また半面、理解されないことも覚悟している。
ともあれ、これが今の私にできる説明のすべてである。


おわりに

繰り返しになるが、ひとつ念を押しておきたい。

私が今回資格を放棄したのは、決して「臨床心理士」という社会的ステータスそのものを嫌ってのことではない。
カウンセラーである自分にとって、この資格は、過去に職まで辞して本気でカウンセラーになろうとし、そのために労力と費用と時間を惜しまず、最善を尽くしたことの証明であり、その意味では確かに誇りにも思っていたのである。

だから、たとえば資格更新の条件が、何個の研修会・学会に参加したか、また何回発表をしたかではなく、どれだけ臨床をやってきたかという査定の方法であれば、迷いなく更新手続きをしていたことは言うまでもない(驚くべきことに、臨床実績はいっさい査定の対象とはならない)。
なので、今後も「'元'臨床心理士」という肩書き(?)は出していくつもりである。

資格を放棄したタイミングは、実は5年という更新までの資格有効期限が切れる時期だった。
つまり、正直に告白するならば、その2年余り前に資格放棄を決意してからは、研修会や学会に一切出席しなかったため、いわば放っておいても資格は失効するはずだったのである。
しかし、真面目なカウンセラーを自認する私としては、やはり「やめさせられる」のは納得がいかないので、その直前に自主退会したというわけである。

また、一緒にカウンセリングルームを経営する私の妻も臨床心理士なのだが、彼女の場合は次の更新時期までまだしばらくある(2013年3月末)。
だから、彼女はすぐには臨床心理士をやめないが、それは彼女の考えが私と違っているからではない。
彼女もまた、現在、激しい抵抗感から研修や学会には一切参加していないので、やはり遠からず資格を失効するのは確定事項である。
彼女は、私が出会った中では、ここで書いているのとまったく同じ考えを持っている唯一の臨床心理士であることを、あらためて断っておきたい。

さらに付け加えておくと、時々、「カウンセラーになろうと思う」と我々のもとを訪ねてくる方がおられる。
資質については人によるが、一応カウンセラーになる筋道としては、私の場合、年齢など現実的条件が適合するかぎり、やはりできるだけ大学院に入り、まずは臨床心理士になることをお勧めしている。

私自身の態度とは矛盾するようだが、何といっても積むことのできる臨床経験の量と多様さ、それに論文を書く機会に恵まれる点で、大学院に籍を置いていたのといなかったのとでは、心がけ次第で身につくものの厚みがまったく違ってくるからだ。あくまでも心がけ次第だが。
それに、初期投資は大きいが、やはり経済力を安定させる上での近道でもある。

貯金が多ければ、一般的なカウンセラーの認定資格をとり、いきなり開業するというのも一つの手ではある。
しかし、やはり錐を揉むがごとく思考に没頭する経験によって、単に教えられたことを守るだけのあり方を、突き抜けていくだけの力を持つことも可能なのである。
自分の頭でものを考えられないカウンセラーの弊害は小さくない。

また、大学院生時代には、子どものプレイセラピーを多く担当させられるのだが、そこで学ぶことも極めて多い。
発達の問題や生来の性格について学ぶことはもちろん、大人になって精神疾患を発症する人たちがどのような成育史をたどるかについて、文字通り肌で感じ取る機会となる。

私の場合、カウンセラーという職について以来、他のすべての選択肢を捨てて(大学教員になるチャンスには、むしろ人より恵まれていた方だと思う)、とにもかくにも1ケースでも多くの臨床経験をもつことを心がけてきた上での開業だったので、「もうそろそろ臨床心理士はいいだろう」と自分を許した面もあったのである。

ただ、自分の頭でものを考えず、歪んだ教育をも鵜呑みにする大学院生が難なくこの世界に適応する一方で、人並み優れてカウンセラーの資質に恵まれた院生が、かえって臨床心理学教育に混乱し、「私は向いていないと思います」と言い残して、この世界を去ってしまうといったケースは少なくない。
実に悔しいところだ。



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● COMMENT ●

臨床心理士とは?

臨床心理士の免許更新制度について調べているとここにたどり着き拝読させていただきました。
臨床心理士について一つの想いを知ることができ、心の幅を少し大きくすることができました。
臨床心理士というのは、「心に病のあることを自覚し、助けが必要である程の思想に干渉することで、その人に生への道を与えることができる者」であると私は考えています。
現代のカウンセリングは間違っているとまでは言えなくとも決して最適な方法が採られているわけではないと思います。
人の心は千差万別であり、それぞれに異なった善と悪を持ち、さらに経験や時によって思想は変化する。
そんな中で必要なことは、カウンセリングの都度に一人一人のクライアントに向けたカウンセラーだからこそ導き出せる想いや考えなのではないでしょうか。
正直、話を聞いて同調するというだけであるなら臨床心理士でなくとも出来る人は多く存在するでしょう。
臨床心理士にしか出来ない、心理療法や臨床としての知識を習得したからこそ出来ることがないのであれば、臨床心理士である必要もないと思いました。

臨床心理士を目指す前に、このような記事を読めたことを幸運に思います。

通りすがりさんへ

はじめまして、管理者です。
コメントありがとうございます。

たった100年ほどの間に発展(?)してきたカウンセリングという方法論に対して、まるで掟のようにそれを守り、後進にも強要するというのは、やはりどう考えても臨床家の誠実な態度とはいえないですね。

大学院生や臨床心理士を目指そうとする人たちにとって、ご参考になれば幸いです。

今現在広島の大学でカウンセリングを受けているものです。その先生も今思えば、ロジャーズ理論を用いていた先生で、カウンセリングの前は、何も話さずにただ黙っているので、私は、一方的に話していました。
しかし、その先生と話す前には、「カウンセリング」ということなので、どうしても「悩み」を表現しなければいけないのかなと思ってしまって、いつも患者のふりをしていました。そのため、もう考えなくてもいい「悩み」に固執してしまって、忘れなくてはいけないことも思い出してしまいます。しかし、どこまでが「治った」といえる状況なのかわからず、ずっとカウンセリングを続けてしまい、自分で考えなければいけないことも、カウンセラーに考えてもらっていました。その先生を否定するつもりはなく、「カウンセラー」としては、人間的だと思っています。(個人のメールアドレスも教えてくれていますし、どうしようもない時に返信もしてくださいます)
関東のカウンセリングの現状がそのようになっていると聞き、正直おそろしく感じました。しかし、その傾向は和らいでいくと思っています。今後はより質的なことばが必要になってくると考えています。

8/13 コメントを下さった方へ

はじめまして。コメントありがとうございます。

きちんとやってらっしゃるカウンセラーの方もいるのですが、実感としてはむしろ弊害を引き起こしているカウンセラーの方が多いだろうと思います。
いろいろな職場で相当数のカウンセラーを見てきた実感として。

不用意なこと、失礼なことを言ってクライアントを怒らせてしまうカウンセラーは仲間の中でも評価が低いですが、実害はさほど大きくありません。

しかし延々とカウンセリングが続き、クライアントに依存を引き起こすタイプのカウンセラーは、やっかいなことに自他共に評価が高いですね。
もちろん、その実害は計り知れません。

恐ろしさをお分かりいただいたことはよかったのですが、こうした傾向が和らいでいくということにつきましては、今のところ楽観視できる要素はありません。

実際こうした傾向は強くなる一方です。残念ながら。

コメントのご返信どうもありがとうございます。
傾向は和らいでいくといいましたが、根拠はありませんでした。ありがとうございます。
今そのカウンセラーの方を自分の中でどう位置づけようか葛藤しています。今気が付けば、7年の歳月が経とうとしています。
私が本当に大切にしなければならなかった人をないがしろにしていました。ついこの間カウンセラーのところにいって、私は大丈夫でしょうかというといに、わかりませんと言われました。しかし、私の方も、治る努力を自分から放棄していたので、そのカウンセラーが全て悪いというわけではありません。

しかし、私のカウンセリングに関して、殆ど責任を恐らく感じていません。

先生は大学職員なので、安定した職もありますが、わたしは今職ありませんし、これからは自分できちんと自分の行動を考えます。

しかしながら、その先生に対して、どのように位置付けたらいいかわからないのです。

私の青春は帰ってきません。

しかし、このように書いてきましたが、私もそのカウンセラーに行ったりいかなかったりと、自分の都合のいいようにしかかんがえなかった部分もあります。

あなたのような先生は学会をやめて欲しくなかったです…

乱文長文失礼しました。

ブログ興味深く拝見しています。



励まされました!

はじめまして。
私は臨床心理士の指定大学院に2年間在籍後、退学したものです。

ネットサーフィンしていて、たまたま先生の記事を発見しました。

在学中、私が常々感じていたことが先生のブログに書かれており驚きとともに、とても励まされました。

少なくとも私の通った大学院は、学生が自発的・能動的に考えようとせず、一つの理論を絶対的に信仰するような風潮があるように思いました。
また、心理学の理論を学んだからか、他人をすぐに病人扱いしたり、変なプライドを持つ人があまりにも多いようにも感じます。

私の主観ですが、そもそも臨床心理士を目指す人は、パーソナリティの歪みが著しい人の割合が多いと思います。
将来カウンセラーになる人の集まりなのに(いや、だからこそ?)病んだ人の集まりのように感じます。
「こんな人が将来カウンセリングをするのか??!!」
とびっくりする人がたくさんでした。

日本の臨床心理学教育の歪みは大きいと思います。
社会の歪みがそのまま大学院にも反映されているのではないかと。
私は外国人の友達を多く持つので特にそのように感じます。

また、こうした社会学的・文化的な観点で同期の人たちに話してもほとんど相手にされないという状況でした。

私はカウンセリングの経験はありませんが、クライアント様を理解するためには臨床心理学の知識だけでは、あまりにも不完全だと思っています。
臨床心理学、精神医学の知識だけだと、安易に人を病人扱いしてしまいかねないように感じています。
むしろ、発達障害や人格障害といった言葉で「クライアント様を傷つけてしまうリスクが高まる」といった弊害の方が大きいのではないかと。

社会学的なこと、文化的なこと、歴史的なことから、「社会そのものの歪み」を考慮した上で、臨床心理学的な視点を持つ必要があると思います。

このような観点をほとんど持たず、ここ100年くらいで作られた、比較的新しい「臨床心理学」というモノサシだけで人を見立て・査定するのが大学院教育の現状なのではないかと思います。
それも宗教のように、ある一つの理論が絶対的であるかのような雰囲気の中で・・・
出る杭は打たれるという言葉がぴったりの雰囲気だと思います。


私は臨床心理士を信用していません。

自分の頭でものを考えようとしない、極めて受動的、非生産的な集団だと思っています。


先生のようなカウンセラーが日本にいることを嬉しく思います。
とても励まされました。

ありがとうございます。

臨床心理士の指定大学院に2年間通い退学した者さんへ

はじめまして。
コメントありがとうございます。

まさに同じ感覚でもって大学院生活を送られたことが、手に取るように分かります。

ただ私の場合、指定大学院のカリキュラムなど、まだまったく整っていなかった時代のことでしたので、今よりはるかに自由度が高く、それで卒業できたんじゃないかと思います。
今だったら卒業できなかった可能性が高いですね。

この記事の終わりに書きましたが、「臨床心理士」という、何かしらすごい知識や能力でも持ってそうな資格のネームバリューを求め、人を見下し支配せんがためにこの世界に入ってくる連中は、あっさりこの世界に適応します。

しかし、そもそもそんな連中が作っている世界ですから、本当の意味でセンシティブな人たちは、そのエグすぎる刺激にへとへとになります。
また、人を見下したがっている連中は、叩ける人間はとにかく叩こうとしますから、筋が通っているとかいないとかは関係なく、さまざまな分かりにくい方法で、センシティブな人を傷つけてきます。

そのような中では、本当に筋の通ったことを言うと、頭が悪いみたいな扱いになるんです。
決まって、馬鹿笑いみたいに笑い出すのがいるんですよね。
で、専門用語をふんだんに使って訳のわからないことを言うのが、一番尊敬されるんです。

退学した者さんが、大学院を退学せざるを得なかったことについては、すごく悔しい思い、嫌な思いをされたと思うのですが、ある意味人としては誇っていいことじゃないかと思います。

はじめまして。

「臨床心理士 傲慢」というキーワードで検索していて先生の記事にたどり着きました。

先生の記事を拝読しとても気持ちがラクになりました。

私は心理学とは畑違いの大学を卒業し、一般企業での社会人経験を経て主婦になりましたが、子育てを通して発達領域に関心をもち指定大学院を受けなおし、現在、臨床心理士取得見込の者です。

私は未熟な臨床経験・知識を補うために、さまざまな研修会へ足をはこんできました。
そこでいつも疑問に感じるのは、グループワークの意義です。
自己紹介したあとの、臨床心理士の方々の他分野・他資格の人達への値踏みは当たり前。

先日、出席した研修会で出会った臨床心理士の女性は、ロールプレイの振り返りで、私がクライエント役割で感じたことを口にしたところ、主観と固定概念でいっぱいの自説でたたみかけ、私の意見など微塵も耳を傾けようとせず、ご自身のセラピーに一点の曇りのない自信をもっているようでした。

そもそも、ロールプレイの振り返りとは、擬似体験を通してお互いに感じたことを振り返り、気づきに繋げる場ではないのでしょうか。

その女性は、私がクライエント役割によって感じ発した言葉を、私自身が自分の意見として発したと受け取り、更には「自分のセラピーを否定された」という偏った視点で理解したようでした。
終了時には凄い表情で一瞥し、去っていきました。

心理テスターとして勤めていたクリニックでも、Dr含め裏では患者さんへの見下しが酷い現場でした。

大学院も教授同士の人間関係が酷く、ゼミ間の派閥によって純粋に学びたい事も主張できず、教授の関係が院生にまで弊害を及ぼしていました。
私が想像していた「人の心に真摯に向き合う職業の人達」とは程遠いほど、視野の狭さを感じさせる人達の集まりでした。
もちろん、そうでない人もいました。でも本当に希少です。

この業界に入ってから、私はずっと自分を誤魔化して過ごしている気がしてなりません。

研修会からの帰りの新幹線では'自分がおかしいのだろうか…'と、とても空虚感に苛まれ言葉に出来ない感情に襲われます。
でも私の周囲には私と同じような疑問を感じている人がおらず、ただの愚痴と受け取られそうで、気持ちを話せる人がいませんでした。

先生の記事を拝読し、私の感じた感覚は決して間違いではなかったのだととても救われました。
今後、自分はどうしていきたいのか、周りに流されることなく考えていきたいと思います。

とりとめもなく、自分が抑えていた憤りを長々と書いてしまいました。申し訳ありません。

でも先生の記事に出会えて本当に良かったです。
お礼を伝えたくてコメントしてしまいました。
ありがとうございました。

流されることなく生きるさんへ

はじめまして。管理者です。
貴重なご感想、感謝いたします。

私は学会などのワークショップでは、身体論に興味があったので、おもにいろいろなボディワークに参加していましたが、やはり傷つかないワークはなかったですし、今となっては為になったワークもどれ一つとしてありませんでした。
傷つきという点でまだ一番ましだったのは、心理療法という色合いが一番少ない臨床動作法でしたね。

この記事を書くのは本当に苦労したのですが、どの点が一番やっかいだったかというと、臨床心理士の集まりにおける不条理さはあまりに十重二十重に重なり合い絡み合っていて、容易に言葉にならなかった点です。
ですから、クライアントを当たり前のように見下しているという点に絞って書いたのですが、実際にはもっとたくさんあります。

研修会などに参加すると、それが言葉になりきらない分よけいに深い部分が傷ついていたのだと思います。

そういった集まりで、本当にいい質問をされる方も時折拝見したのですが、その人たちは例外なくひどくビクビク・オドオドとしてらっしゃいましたね。
あの気持ちは、本当によくわかります。
私も一応果敢に挑戦はしていたのですが、あの場では、当たり前の話が当たり前に通用するとはとうてい思えないのです。

一つでもいいから、ちょっと難しい専門用語を中心に意見を言うと、みんな妙に納得してましたが。

自信を持たれるべきです。本当に。

初めまして。臨床心理士です。実は10年前から心理学に嫌気が差し、辞めたくて仕方がありません。でも今はこの資格でしか食べて行けないので仕方なくやっています。カウンセリング中はいいのです。嫌ではないのです。本が開けなくなりました。そして、どうも心理士の人達と膚があわないのです。それは最初からそうでした。だから心理士の集まりが嫌でした。私の地域では来談者を見下しているような感じはあまり感じないのですが、なぜか生理的に受け付けないのです。精神科医の先生たちの方とがあっていました。

何なのでしょうね。。。。

私は心理士に向いていないのだろうな、と前々から感じていましたが、疑問を抱いている方もおられることを知って、少し胸のもやもやが晴れました。それにしても関東の状況はすさまじいですね。ちょっとびっくりしました。

6/30にコメントをくださった方へ

はじめまして。コメントありがとうございます。

臨床心理士たちと会っていて自分の内に生じる、あの違和感というか拒絶感は、いったい何なんだろうといまだに考えさせられます。
みなに共通する弊害としては、カウンセリングの教育を受ける際にひどく怖がらされており、臨床心理って何だかとてつもなく巨大な何かだと思わされている点じゃないかという気がします。

何の抵抗もなくこの世界に適応できる人で、本当にカウンセラーに向いている人がいるとはとうてい思えないですよ。
普通の人の普通の感覚を失って、できる仕事ではないと思います。

ある心理士から、個人的な事情を引き合いにカウンセリングを投げれられました。
「生い立ちの問題で生じた歪みは紹介頂いたときから気にはなっていたそうですが、結論から言わせてもらえば割りきること」
だそうで、後任の紹介もありませんでした。倫理観ゼロとしか言いようがありません。

10/29にコメントをくださった方へ

書いておられる内容が、純粋に言語的な意味でうまく理解できません。
すみません。

とくにカウンセラーの「生い立ちの問題で生じた歪みは紹介頂いたときから気にはなっていたそうですが、」というのはどういう意味なのでしょうか?

生い立ちの問題は「私が私の親から受けたDVに関する点」を意味し。OCDと複合的に相関。
その「内容(事実)が紹介当時から気になっていた」のは担当CPのコメント・最後の捨てぜりふを指す。なぜそのようなことを当該CPが述べたのかについては、クライアントの私でさえわからず。
ただ責任ある対応が求められるCPが発言する内容ではないことは確か。
カウンセリングを投げるの意は当時の担当CPがある個人的で一方的な事情から突然
私のカウンセリングをOCDに対するCBTの内容まで(のみ)で実質中断させ
「私には個人的事情が出来たから中長期的な関わり(カウンセリング)"は出来ない」と言った無責任なあるまじき対応をある日突然とられたことを意味する。OCDと自らの生い立ちに関しては一切触れずに。公開が原則のオンライン上のため詳しい内容は小出しにしか明らかに出来ません。
このページで語られている内容の現実・問題提起と何かしら似る点があるかと思い、コメント致しました。特に深い意味はないと思って頂いて結構です。

お返事

個人的な事情まで書かせることになってしまい、恐縮です。
内容はほぼ理解できました。

一方的な中断というのは、やはり問題がありますね。
少なくともきちんと理由は伝えるべきです。
伝えられないのなら、中断する資格はないと思います。

お返事ありがとうございました。

プライバシー保護の観点から、具体的な理由ではなく"個人的事情"と記しました。スカイプ・カウンセリングで今後お話し出来ると幸いです。

了解です。
ではまたよかったらご連絡ください。

実は私は臨床心理士とはまったく関係のないアメリカ産のカウンセラー資格を持っている者で、(大学は日本の学部卒のみ)10数年個人開業し、今、岐路に立ちあらためて、臨床心理士か精神衛生保健士を取るかを考えている人間です。開業した当時、日本の臨床心理士はまったく考えておらず、アメリカに行きMFCCを取る事を考えていましたが、様々な状況で断念せざるを得ない状況です。臨床心理士資格を考えて色々サイトを探してるうちにここに辿り着きましたが、私がかつて日本の心理学会に感じていた疑問がそのままここに書かれていて驚きとやはりかという失望感と…そして同じ感覚をお持ちのカウンセラーもいるのだなという少しの安堵感も感じています。
私は発病した事こそ有りませんが、幼児期から青年期、間違いなく機能不全家族の中に育ち、家出をし、いつ発病するかわからない波瀾万丈な人生でした。(というか今も)
生後8ヶ月で母に棄てられ、継母に虐待され、兄に性的虐待され、成人してやっと再会した実母にさえ性的虐待を受けました。(さらに残念ながらその機能不全家族はほぼ全員が医師の家庭であり性的虐待をした兄は介護病院やグループホームをしているという不条理)そんな苦しみを支えてくれたのは日本に来ていたアメリカ人のカウンセラー、セラピストでした。
彼らのほとんどが私のように不条理な生い立ちと必死に闘って来た人々であり、共に闘う同志としてのカウンセリング、セラピーセッションの場だったと思います。
日本はやはり間違った平和を今、創っていると思います。かつてのWindowsの様にどんなに洒落たグラフィカル ユーザー インターフェイスを作ろうと所詮は裏にいるDOSが邪魔をして満足に言う事を聞かないPCマシーンの様にいくら海外産の心理学を持ってきても最終的には封建主義のカスのような心理状態が地縛霊の如く行く手を阻む、そんな国に成り下がっている気がします。ドイツの何処かに公害の故に生物がまったくいない湖があるそうです。不気味な事にその湖は物凄く青く綺麗なんだそうです。日本って今、そういう状況に向かっていってる気がします。一番、苦しみを支えてあげる筈の場にサタンがいる。正直、背筋が寒くなっています。 「鬱とは嘘がつけない」至極納得しますし、共感出来る気がしました。もし、生意気書いたとしたらごめんなさい。

変わり者さんへ

はじめまして。
お返事が遅くなりましたが、コメントありがとうございます。

日本におけるカウンセリングの弊害もさることながら、ソーシャルワーカーやPSW、さらには管理栄養士の栄養指導などにおいても、おしなべてその教育において来談者中心療法を学ばされます。
かの技法の問題点は嫌というほど痛感してきましたが、その害は近接領域にまで浸透していってるらしく、恐ろしさを禁じえないですね。

現在の世の中の風潮と同じく、あるいはそれ以上に、カウンセラーの世界はまともな人ほど適応しづらい世界になってるんじゃないでしょうか。
まさしくまともな人が変わり者みたいになっちゃってますね。

感想と、その周辺です

以上の記事のみを数分前に拝読?し、読み終わった勢いでコメントさせていただいております。(前後背景は、完全に未把握)

カウンセリング関連を独学しているものです。(道楽)
途中失礼(混乱)があるやもとは思いますが、感想的コメントさせていただきます。

《感想始まり》
臨床心理士・・・ド素人からすると、『肩書き』を聞いただけで恐れおののいてしまいます。信頼感と疑念が同時に沸き起こります。
(失礼すぎか・・・)

というのも、いろんな事を知っているんだろうから、最初から降伏宣言した方が身の為だなって。お任せした方が正解だなって。でも、一方で、”ステレオタイプ”に処理されてしまうのも、なんだか癪だなって。そんな思いです。

そんな感覚から、私も出来るだけ資格を持たない様にしています。
(ウソです、本当は基準に満たない証明が怖い・・・)

カウンセラーへの信頼感って、権威主義的な方にとっては、効果抜群なのでしょうけれど、そうでもない人(その言葉自体知らない方)にとっては何の役にも立たないんじゃないかなって。
ざっくりと言うと、権威も大事ですが、同じ様に大切な物っていうのは、もはや生理的な反応っていう類のひどく曖昧な物でもあるんじゃないかって感じています。それの両方持っていれば、”鬼に金棒”では無くて、むしろ場に於いては無い方が良いっていうか。

相手が百戦錬磨の兵でも、隣のおばちゃんでも、一発でバチッとはまる時は、はまるし、そうじゃない時は、いくら時間とお金があっても足りないという感覚です。要するに、”ベストマッチング”とかの類です。
《感想終り》

いや~、優秀な学生さんが、志半ばで辞退するっていう現象は、本当に残念無念っていうか、もちろん、基準を満たすのと、そうでないのでは社会的な信用っていうのは雲泥の差なのでしょうけれど、対象がグレーゾーンならば、共に歩む方もグレーゾーンの方がベストな場合もあると思うんですけどね・・・もう少し、関連団体も、実際の現場でも、多様なケースを扱うんだから、もっと柔軟な対応が出来たら良いのになって思うのです。

(おっと、何だか若干不穏な気配になって来ましたので、この辺でドロンします)

ブログ、超面白いです。時々、また遊びに来ます。

初めまして。指定大学院M2に在学中の者です。心理の立場から子育て支援をしたくて、学部よりも深く臨床心理学を学ぼうと進学しましたが、資格取得を諦めた身です。理由は、今いる心理臨床家と同類の人間だと思われたくないということと、その世界の中でやっていける自信がないからです。

文中にある、臨床家の「値踏み」というのが、私が今まで感じていた感覚にとてもぴったり来ました。進学してからこの「値踏みされる」雰囲気を知り、臨床の世界がとても怖くなると同時に大きな疑問を覚えました。結局今でも自分が値踏みされることへの怖さが拭えず、SVやカンファを受けることにも抵抗を覚え、まともにケースが出来ていません(一応持ってはいますが、M2のこの時期なのに回数はほとんどやっていません)。
学部時代は、臨床家になるならあらゆる人とちゃんと話が出来ないとだめだと思い、関連機関でアルバイトやボランティアをして、自分なりに努力をしてきたつもりでした。そこでは臨床の知識や理論をむりやり当てはめることは失礼に値すると思い、その人の価値観や言葉を肯定し尊重するよう心がけてきました。
しかし、進学して実際にカンファに出て、よく知りもしないクライエントさんの言動に対して病理的な意味を見出そうとしたり意見しようとする空気に、何だかゾッとしてしまいました。何て悪趣味なことをしているんだと思ってしまい、「臨床家になるために必要だから」と頭で言い聞かせても、心が納得しませんでした。陰で自分も何か見立てられて病理を見いだされてるんじゃないかという思いが拭えず、それが不安すぎて発症するんじゃないかと思った時期もありました。笑

院の先輩方はとてもよくしてくれますが、やはり話していてどこか打ち解けづらいです。何だか小馬鹿にされているような感じもたまに覚えます。決して肯定されているようには感じません。どこか安心出来ないのです。こんな風ではクライエントさんも安心出来ないのでは?と思ってしまいます。また、堂々と意見を述べたり自己開示することが必要以上に驚かれるような風潮もあり、そうした点でも居心地の悪さを覚えます。もともとあっけらかんとしててきぱきした性格なのでなおさらです。
私の同期たちも、人当たりが良くて常識的で真面目な人ほど「怖い」「退学したい」と言い出し、進路変更をしています。一方、社会性という点では「ありえない!」と思ってしまうちょっとずれた人たちほど、難なく適応して実習やケースをこなしています。正直、毎日疑問符が絶えません。

こんな理由で資格を諦めるのは正直とても悔しいですし、学費を出してくれた親にも申し訳ないです。実際、親に臨床心理士をやめると言った時も、道半ばにして諦めることに対してなかなか理解してもらえませんでした。あの独特の異様な感じは表現し難く、そのために親から根性なしのように言われることもありました。私自身も、M1の間は「私がおかしいのか」と悩み続け、鬱っぽくなっていました。
M2になった今、臨床教育は教育ではなく洗脳だ、と思うようになりました。専攻全体に、どことなく新興宗教のような胡散臭さを感じずにはいられません。まともな人はそこで精神的にやられる気がします。上手く言えないけど何かが怖い、という言語化出来ない得体の知れなさに、無意識レベルで反応してしまうように思います。(お陰様で院に入ってから身体化が激しいです。笑)
臨床心理学の学問と職務内容は好きなので、今は資格を取らなくても働ける心理職を目指しています。そこでもダメなら心理の道は完全に諦めようと思います。

長々と思いの丈を綴ってしまいすみません。ずっと抱えていた疑問がこのエントリで少し解消されたような気がしました。また読ませていただきます。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

指定大学院M2さんへ

コメントありがとうございます。

臨床心理の世界で私自身が感じていたのと、かなり一致した感覚を持たれた方ではないかと一読して思いました。
家族の理解についてもまったく共感します。

臨床心理士だけでなく、産業カウンセラーやキャリアカウンセラーの領域でも同じような感じを持たれる方がカウンセリングに来られますが、どの方もカウンセラー特有の得体の知れなさに「やられて」おられますね。
それらの領域の講師はたいてい臨床心理士なので、当然なのかもしれませんが。

臨床心理士の資格を放棄して早くも6年たちますが、放棄した当初の2~3年はまだその「やられた」状態から充分に立ち直っていなかったのではないかと、今にして思います。
ですがここ数年、あることをかなりはっきりと認識するようになりました。
というのは、「いつまでたっても何を考えているのか分からない人は、何も考えていなかったのだ」ということです。

彼らは自分の頭ではほとんど何も考えず本能的に、ただただ自分を大きく見せるための様式に拘泥し、得体が知れなければ知れないほど優秀なカウンセラーであるかのような妄念に同化してしまっているのだと考えています。

カウンセラーに対する「値踏み」については、そのカウンセラーの実質的な実力に対する値踏みであれば問題ないと思いますが、カウンセラーの集団において自分のほうが上に立てるかどうかの値踏みであることが問題だと思いますね。

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2015-07-25 コメントをいただいた"n"さんへ

コメントありがとうございます。
また、拙著をご購入およびレビューも書いていただき、心より感謝いたします。

コメントにてご質問をいただいたのですが、そのコメントが非公開設定となっております。
非常に貴重なご意見ですし、お答えさせていただくにしても元のコメントが分かった方が読者の方々とシェアできますので、できることなら公開させていただいた上でお返事させていただきたいのですが、いかがでしょうか。

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非公開でコメントとご質問をいただきましたが、公開をご了承くださいましたので、以下、まず"n"さんからのコメントを掲載してからリコメントさせていただきます。

"n"さんからのコメント
「こんにちは

現在、大学生です。通っている大学の学生相談室でカウンセリングを受けております。
正直なところ、カウンセラーの方たちに自分の事を全否定されたり、不安にさせられる事がとても多いです。

初めてであったカウンセラーの方が「あなたより私のほうが上よ!」というような威圧的・高圧的な事をおっしゃったり、カウンセリングの途中で突然、笑い出したり、鼻で笑ってきたりして恐怖を感じました。
そこで「もうこのカウンセラーさんは嫌だ」と思い、違うカウンセラーさんに変更していただきましたが、その方もご機嫌がコロコロ変わり、私の気のせいだと思いますが独特な威圧感を出されて、毎回カウンセリングをうけるたびに恐くなっています。

そんなときに先生の本を読んだり、ブログを拝見させていただいて、安心できました。
いつも大学内でその臨床心理士さんたちとすれ違うたびに、鼻で笑われたり、じっと見られていて、ビクビクしています…時にはわざとなのか、体と体がすれすれで歩いていかれます…とにかく不気味なのです。ひどいときは、吐き気がしてしまいます。

これは自分で気にしないようにするしかないですよね…
そして、図々しくも先生にお尋ねしたいのですが、臨床心理士さんは、守秘義務をどこまで守っていらっしゃるのでしょうか。「このカウンセラーの人たちに、プライベートなことを言うんじゃなかった」と後悔&恐怖を感じております。

連日お暑い中、すみません。」

------------------------------------------

その方たちの行動を見ていると、動物生態学的な言い方をすれば、どれも「示威行動」に類するものばかりという感じですね。示威行動とは、自分の立場の優位性や強さを誇示するための行動ですが、まさにそれではないかと。
最近「マウンティング女子」という言葉が流行っていますが、一度調べてみてください。お役に立つかもしれません。

この記事でも書きましたが、少なくない数のカウンセラー(半数以上かもしれません)が、自分はカウンセラーであるというだけで、それ以外に根拠は何もないにもかかわらずクライアントを下位の者として見ます。
そして、そのことを常に確かめるためにしょっちゅうこういった示威行動をとる人がいるんですね。

ましてや、カウンセラーの交代を願い出られたとのことですから、願い出られた方のカウンセラーは傷ついたプライドを補償するため、nさんを悪者にしなくては収まりがつかず、よけいにエスカレートしている可能性が高いようです。
さらに、前の担当者と新しい担当者とが心理的に同盟関係にあるならば、新しい担当者も加担してしまっているのかもしれません。

臨床心理士というのは同時に心理学者でもあるわけですから、「私は一般の人が知らない深層心理の秘密を知っているのよ」という「いかにも」的な雰囲気を身にまといたがります。
だから、示威行動のやり方も分かりやすく高圧的というよりも、何か得体のしれない不気味なやり方であることが多いですね。自分を際限なく大きく見せるという。
それは、同業の私から見ても非常に気持ちの悪いものでした。

多くのカウンセラーを見てきた印象から言いますと、そういった雰囲気をまといたがるカウンセラーほど、何も深く考えていませんし理論体系も薄っぺらこの上ないものです。


さて、ご質問の「守秘義務」の件ですが、同業者や同僚の間ではまず秘密は守られないのが普通です。
この点については、カウンセラーもカウンセリングケースについて悩みますし、他のカウンセラーとその内容について話す中で何かを学んだり、話すうちに大切なことに気づくこともありますので、むしろ非常に必要なものです。連携という意味でも。

他の守秘に関しては、これはカウンセラーによって態度に違いがあるので何とも言えません。
ひどい場合には、たまたま知り合い同士のクライアントを担当した場合、一方の面接内容をもう一方に話してしまい、関係をこじらせてしまうことなどもありますが、そこまでひどいカウンセラーはそう多くはないと思います。
ですが、存在するのは事実です。

nさんの場合がどういう状況なのか、あるいは思い過ごしにすぎないのか、正確に判断するには情報が少なすぎます。
しかし、きちんとしたカウンセリングが行なわれていて、クライアントの劣等感や不安が強くなっていくということはほとんどありませんので、学相に通うのをやめるという選択肢は持っておくべきです。
というより、すでにやめた方がいいタイミングかもしれませんね。

ひょっとすると、カウンセラーの交代を願い出た時点で、境界性パーソナリティー障害と見立てられている可能性も否めません。

ともあれ、受けないほうがましなカウンセリングというのは少なからずあります。

お返事ありがとうございます。

こんにちは

リコメントしてくださり、ありがとうございます。
そろそろ学相に通うのをやめようと思います。。。

二人のカウンセラーさんについて、先生に詳しくお伝えいたします。

現在お世話になっているカウンセラーさんは、前のカウンセラーさんと私を会わせないように時間や曜日を調節して、面談してくださいます。ちなみに現在お世話になっているカウンセラーさんには「なぜ私に変えたの?何か理由はあったのか?」と聞かれて、前のカウンセラーさんに言われた嫌な事や出来事をお話しました。そのところ、驚かれて、「よく我慢していましたね…」とおっしゃっていました。

次に、前のカウンセラーの方については、「カウンセラーさんを変えて頂きたい」というのを学相の別のカウンセラーさんにお願いして、現在お世話にお世話になっているカウンセラーの方に変えていただきました。お話する機会は全くありません。見かけは、おしゃべり好きな方です。。

守秘義務について教えてくださり、ありがとうございます。
学相の規則としては「個人情報やここで話されたことは一切、外部にはもれません」となっている。と二人のカウンセラーさんに言われていて、決まりとして、学相の紙にも書かれていました。

でも、現実は先生のおっしゃるのが本当なのですね…本当にプライベートな事を相談してしまったので、守秘義務を守られないのは、ショックというか不安になっています。

先生、私はこのことが非常に不安です……何度も申し訳ありません。

カウンセラーとはなんなのか

こんばんは、ある流れでこの記事を見つけ拝見させていただきました。

今日はたまたま臨床心理士さんとお話しする機会がありました。
そのやり取りの中で私は、
自分もいずれカウンセラーになるかもしれないと言う話をしました。
私としても肩書きがあればと言う考えはありますが、資格はあくまでも証明と肩書き。

要は何を学び経験してきたか、何をどこまで伝えられるのか。
だと考えています。

ですがその方は臨床心理士以外はなにも役に立たないと話していました。
私は、臨床心理士を持ってるかはわかりませんが、その肩書きを一切発言する事なく人を癒し解放し、クライアントの本当に望む方向へと導いている方を知っています。それこそ神かと言うくらいに。

なのですごく疑問に思いました。


「臨床心理士以外役に立たない」
これは職を得るにはと言った発言なのか?
それ以外の資格で学んだ事は人の心をサポートするのに役に立たないと言う発言なのか。

私は尊重、気づき、無批判を大切にと、

そう教えられましたが、その方は批判的で頑ななプライドや観念を感じました。



一度だけ精神科を、受診した事があります。年配の医師でした。
その時私は高校生でしたが、37度5分以上の体温がいつもあり、体調もすぐれないと言う状態でした。
その医師は「そんな事がもある」で一応安定剤を出す、との事でした。
私は家庭環境がよくなく、本当に辛い日々を送っていました。この事を誰かに聞いてほしかった。わかってほしかったのです。
ただでさえ自分さえも信じられず、他人など到底しんじられなかった私はこの時「精神科医も信用できない」でした。
今は違います。人は本当に十人十色ですね。


長くなりましたが、
私もいつかカウンセラーになるかもしれません。
かもしれないと言うのは、甘いと言われるかもしれませんが、まだこの先自分がどうなりたいのかはっきりわかっていないからです。
ですが少しずつ明確になってきています。
まだまだ私も批判的で、こうするべきだこうあるべきだと言う観念もありますが、
先生の記事を見て、やはり私はまだまだひよっこだと感じたのと同時に、
自分に可能性も感じました。
私がカウンセラーになるのなら、
先月のように相手を尊重し、あくまでも人の心をサポートできるカウンセラーになります。

本当にありがとうございました。

jenさんへ

>「臨床心理士以外役に立たない」

どういう意味の言葉なのでしょうね。私には分かりません。

臨床心理士であった頃よく耳にした言葉がありました。
「カウンセリングは人生相談などとは違うのだ」
という言葉です。それと同じニュアンスの言葉なのでしょうか。

でも、この言葉自体も私には意味がよく分かっていません。
カウンセリングとは人生相談以外の何なのか。。。

まあ突き詰めると社会的認知度とかそういった違いのことを言ってるのだと思いますが、結局のところ自分の頭でものを考えられない人にカウンセリングも人生相談もできるはずがないので、こういった類の言葉にはとらわれないようにしています。

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24日にコメントくださった「さ●●●●う」さんへ

決して批判するつもりではありませんが、公開コメントでないことが非常に残念です。

確かに臨床心理士の現状についての辛辣ともいえる内容ですが、真摯にこの仕事に取り組もうとする心理士の中には、「さ●●●●う」さんとまったく同じ思いの人たちは少なからずいます。
ここのコメント欄をご覧になれば分かるように。

同じ思いの人がいればいるほど、何とかしなくてはという気持ちや勇気は湧きますからね。

でも、いちいちうなずくことばかりでした。
私は資格を返上する時に、ますますひどくなっていくだろうなと予感していましたが、やはりそれは当たっていたようです。

うちのカウンセリングルームにSVなどに来られる心理士の方々の話を聞いていてもそう思います。

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非公開コメントへのお返事

なるほど、公開できない理由がよく分かりました。
プレッシャーを与えたようで失礼しました。

思えば心ある心理士・研究者が片隅に追いやられる風潮は、かなり昔からあったように思います。
「なぜこの有能な先生が」と思われるような方は、私の知る限り皆冷遇されていましたし、有能でかつ評価もされていた先生は若くして病を得て亡くなってしまいましたね。

私が臨士会を去ったのは、これ以上心を殺されてたまるかという思いがあったからですが、そのままだと本当に死んでしまったんじゃないかというイメージすらあります。

こんばんは

10年前、社内いじめで鬱になり、生まれて初めて臨床心理士の方のカウンセリングを受けました。とてもスキルの高い優秀な方で、意味不明に毎日何時間も涙が出る症状を、ほんの二言三言でピタッと止めて下さるなど、素晴らしい経験をさせて頂きました。
その前後、臨床心理士ではない簡単な資格保持者や、ただの学校の先生のカウンセリングも受けましたが、残念ながら心を打たない内容ばかりでした。
酷い経験をした人間は多少認識がずれてたり、上手く生きられなかったり、幸せな人から見るとなんだか「馬鹿らしい」と感じてしまうのはあると思います。
その為故の、あまりのぞんざいな対応に憤慨しつつも、ぐっと我慢した事が何度もあります。
そんなこんなで、10年くらい、「カウンセリングを受けるなら臨床心理士じゃなきゃ」「臨床心理士は皆優秀だ」と思い込んでいました。
でも、最近、他の有資格者のカウンセリングを受ける機会があり、あれ?となってしまったわけです。
私が書くまでもなく、ここに皆さんが書かれているようなことが多々あり、気持ちに大きな亀裂が入って深く落ち込んでしまいました。

一体、スキルのある人とない人、人格が出来ている人出来ていない人、の差がここまで出てしまうのはどういう事でしょう。
私は専門職ですが、新人の頃はもとより、中堅になっても仲間や先輩からみっちり仕事をレビューしてもらいます。ベテランもベテラン同士できっちり確認しあっています。
ペーパーテストで100点取ったからといってそれだけでは全く仕事になりません。
特に若い臨床心理士はどう学んでいるのでしょうか?
まるで密室でクライエントと2人きりで、「誰も見ていないし上司に怒られることもないから」と失礼な態度をとったりわざと遠回りするタクシー運転手状態なのでしょうか。
クライエントからのフィードバックや上司や先輩からのフォローはなしで、座学による研鑽のみなのでしょうか。

とおりすがりさんへ

最初にすぐれた臨床心理士に出会われたのは、すごく幸運でしたね。
そういう心理士が確かにいることもまた事実です。

しかし全体的な流れを見ていると、そういう人よりも、若いカウンセラーにコンプレックスを植えつけてしまうようなタイプのカウンセラーのほうが指導的立場に着くことが多いように思えます。

彼らの研究職に就くための執念というか媚びへつらいは、たまに目を覆いたくなるほどのものですし、またおだてられる方もそれに乗っかる人がほとんどですから。

臨床心理士が人気の職業になってしまったことも、その原因として大きいでしょうね。
人気のあるものに我先にと群がる人々は、大抵すさまじい我欲の持ち主ですから。

逆に本当にすぐれたカウンセラーには、自分自身悩みの深かった人が多いと思います。

メッセージありがとうございます

>逆に本当にすぐれたカウンセラーには、自分自身悩みの深かった人が多い

なるほど。
カウンセラーに関わらず、いろんな職業、というか人間そのものにも通じることですね。
常々「なんで苦労した自分がこんなに冷遇され、運が良かっただけの幸福な人間が偉ぶってて世間がそれを認めているんだろう」なんて考えていましたが、お言葉を頂けて、また、他の方の体験談や他の記事を読ませていただいて、「同じ思いの人は確かに存在する」と元気を頂きました。
自分の存在価値というか、苦労した経験をまたしばらくは肯定できそうです。
変な書き方で恐縮ですが、上述の優れたプロ意識の塊の心理士さん、ここで経験談を読ませていただいた方々、kohocounsel様、本当に本当に感謝致します。

先生の思いについて

こんにちは。現在歴14年目の臨床心理士です。
自分は心理職として某公的機関に13年ほど勤め、その間は全く臨床心理士の資格は不必要な業務についていました。
一方でいつか開業をと思い、臨床心理士の資格を持ち続け、ようやく開業に至りました。
全国規模の学会はポイントのためだけにお金を払っていて行かない状態ですが(周りでもそういう方は多いです)、近隣の学会や研修には参加するものの、「こういうものだろう。臨士会もビジネスだし」と割りきって居ました。

一方で、他の方のコメントにあるように、普段会う方の中に「ダイエット関連のアドバイザーをしていて、【カウンセリングもしています】」と言われたり、某Mヘルス協会のカウンセラー資格を取ってそれを仕事にするんだとの話しを聞くと、第一種指定大学院に入るために費やした労力と学費のことを考えると「そんな独学や数回研修を受けただけで安易にカウンセラーを名乗って欲しくない」という思いもあります。昔は正直に「臨床心理士以外のカウンセラーは専門家ではない」と言っていました。

で、現在ですが、某地方の臨士会某運営委員をするようになり、先生のおっしゃるような威圧的な臨床心理士が居ることも身近に感じることがあります。性格的に偏っている難ありの方も多くおられます。テストにパスする「頭の良さ」と性格も含めた「人のあり方」は相関がないように感じています。

前置きが長くなりましたが、【心】は誰しも持っていて身近なものなので、誰でもちょっと学べば扱えるような印象も、世間一般ではあるように感じています。医者と同じく、やっぱり同じ手術をしてもらうならば、専門的な学問を修めた有資格者に見てもらいたいというのが本音です。例え性格が腐っていたとしても。

先生ほどの経験と実績を積んだ方であれば、臨床心理士の有無はあまり大きな問題ではないかもしれません。でもこれからの方には心理の道を簡単に感じることはないようにしてもらいたいのです。

個人的には先生のこのブログを読んで、非常に共感をしました(自分もはじき出されることが多かったので)。是非頑張ってもらいたいと思っています。一方で臨床心理士だけが全てだとは思わないのですが、現狀の専門家集団としての存在価値は認めてもらえたらと思います。特に公認心理師が医者の指導の文言がなくならない限り、医療に隷属するのは確定ですから(T_T)

とある地方の臨床心理士さんへ

リコメント遅くなりました。すみません。


なかなか難しいところではありますね。

>そんな独学や数回研修を受けただけで安易にカウンセラーを名乗って欲しくない

この思い、正直言いますと私も、少なくとも大学院に在籍していた頃には持っていましたね。その時点では、周囲の雰囲気に引っ張られ、もっと当たり前に資格というものに高い価値を感じていたからでしょう。

ただその後、臨床心理士がクライアントとして来談されたり、私自身が資格を放棄したことを承知の上で、臨床心理士をはじめもっと簡単な資格のカウンセラー、あるいはPSWの資格で実質的にカウンセリングに関わっておられる方々のスーパーヴィジョンを依頼されることが、少なからずありました。そうした中で、いつしかこうした考えはたいして大きな意味を持たなくなりました。
とくに臨床心理士の場合、彼らが私にSVを依頼した理由の大部分が、私が臨床心理士という資格を放棄したからという点にあったことは、何とも皮肉なものです。
言うまでもなく彼らは、”臨床心理士になるための”臨床心理学教育に、少なからず疑問を覚えていたのです。

実際、私がブログや著書で書いていることにしても、そのほとんどは大学院で学んだことではなく、私自身のカウンセリングでの経験をもとに、ユングの姿勢、それに霊長類の生態学や発達学から得た知見から、自分の頭で考えた結果構築された論理です。
正直言いますと、大学院で習ったことのほとんどは、実際のカウンセリングに役立たなかったばかりか、ごく単純な気づきを得ることすら妨げるものでした。
「カウンセリングでは、こうしてはならない」「カウンセリングでは、こうしなければならない」という根拠不明の教示が、異様なまでに自由な思考を妨げていたわけです。

そうした教育の結果、彼らの多くはカウンセリングやクライアントに対して、恐怖すら覚えるようになっています。実際、あまりカウンセリングをしたがらない臨床心理士の多さには驚かされます。

臨床心理士の、他の簡単な有資格者との違いは、「覚悟」というべき点にあります。
時間や費用を惜しまず、その後の生涯をカウンセラーとして生きていくことを、明確な意思によって選択している。だから重みがあります。
しかし一方、簡単に得られる資格を持っている人たちは、自由にものを考えることができます。つまり、根拠不明な考え方に対して、「それはどうしたわけですか?」と普通に質問できる自由さ・軽やかさを持っています。
必然的に、彼らのカウンセリングは合理的で、何ものにも縛られていないことが比較的多い。

これらに対して、私にははっきりとした優劣をつけることはできません。

しかしたしかに言えることは、持つ資格の社会的価値によって、カウンセラーとしての技量を図ることはできないということですね。

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流れを変えてゆけたらと

偶然たどり着きました。学会での様子の描写には正直驚きました。

私が大学院にいるときも、一部の院生はその宗教じみた雰囲気を揶揄して「入院生活」と言っていましたし、現場に出る実習を「リハビリ」と呼んでいました。
大学院側からは「アルバイトをする時間があったら勉強しろ」と言われてましたが、大学院の学費も実習の交通費も専門書もどれも出費がかさむのに「なんと非現実的なことを言うのか」と授業の後、終電までアルバイトをしていました。最初は金銭的な理由と、大学院以外のコミュニティに参加しておきたくて始めたアルバイトでした。周りの院生が、病院の受付など臨床現場に近いところを選ぶなか、居酒屋で2年働きました。大学院に入って数ヶ月もしないうちに、アルバイトで「普通の大学生」と何気ない会話を毎日できることが自分の精神衛生をいかに維持してくれているかを実感するようになったのを覚えています。

ですが、私の周りには、もっと人格的にも尊敬できる臨床心理士がたくさんいます。中には、「この方のクライエントには絶対なりたくない」と思わせる方もおられますが。

「失敗」のエピソードで思い出しましたが、研修会で講師が寝不足で寝坊されたことがありました。そのとき集まっておられた30名ほどの臨床心理士の方々は1時間半待ちぼうけ状態でした。研修後、アンケートを回収して講師に渡す役目を担わせていただきました。感謝の言葉こそ書かれていましたが、遅刻に対して言及された方はただ一人としておらず講師の先生が「一生の恥、汚点と思ったのに、感想を読ませていただいてあたたかい言葉ばかりで胸がいっぱいになりました」と仰っていました。そんなことも起こりますよ。

私自身、クライエントに対していつも対等で!と心がけてはいますが、いつも反対に教えられてばかりで頭が上がりません。
特に印象に残っているのは重度の自閉のお子さんと関わったときに、ちょっとした部屋の配置の変化に落ち着かなくなっている姿を目にして、「あんなに繊細にものごとを感じとって、それに気づいて落ち着かないことを伝えられるってすごい」と思ったことです。自分がいかに鈍感かを思い知らされました。

「臨床心理士」も様々です。臨床心理士だから、ではなく、カウンセラーひとりひとりを見てもらうしかない現状が残念でなりませんがこれからはもっとおおらかな臨床心理士が増えていくようにしてゆきたいと思っています。

もうすぐ1回目の更新を迎えます さんへ

はじめまして。コメントありがとうございます。

そうですね。私自身文中でも書いたように、もちろんすべての臨床心理士が人格的に問題があると思っているわけではありません。
現に今現在も公私で付き合いのある臨床心理士はおりますし、何となれば、空のペットボトルをリレーして返してきた人たちですら、個人個人で見れば意外といい人たちかもしれないとすら思っているのです。

ただ、問題は臨床心理士個々人の人格というよりも、それらを飲み込んで全体を同化・均質化させ、一つの方向に押し流してしまう臨士会の雰囲気、つまり集団心理を私は恐れ、距離をとらざるを得なかったのです。
その中に身を置きながら流されないほど、私は強くありませんから。
「宗教じみた」とおっしゃるのですが、たしかにあまりたちの良くない宗教に似ている面はあると思います。
深層心理学理論よりも、とくにカウンセリングの技法論のほうは、理論というよりもほとんど戒律といったほうがいいんじゃないかとさえ思うことがあります。

カウンセラーは同時に研究者でなければなりません。
自分の頭で考えることを放棄したカウンセラーは、もはやカウンセラーたりえないと私は考えます。

また講師の遅刻のエピソードですが、これは私のペットボトルのエピソードと同一線上で比較することはできませんね。
皆に迷惑をかけたのが講師ではなく、名もない一カウンセラーであったならば、正反対の意味を持つ事象だといえるのですが。
つまり、名もないカウンセラーのちょっとした失敗を責め立てる態度と、立場のある人の失敗ならば、それがどれほど大きな失敗でも擁護する態度は、なんら矛盾しないのです。

院生時代、あるM1の後輩がケースカンファレンスにおいて、クライアントが早く来たからカウンセリングを早く始めたと言ったのに対し、ある先輩が激しく非難しましたが、その後別の2人もまったく同じ意見を、ほとんど言葉すら変えずに繰り返しました。
つまり開始時間は何があっても変えるべきではないと。
お分かりと思いますが、普通カンファレンスで意見を言うならば、まず別の意見あるいは違った角度から意見を言うべきですので、これは明らかに異常事態でした。

たまりかねた私は、「確かに僕もそう教えられた。しかし、実際には何が問題なの?」と聞き返したのですが、ただフルボッコしていた連中の顔色が変わり機嫌が悪くなっただけで、答えなど返ってきません。
クライアントが自閉症や重度のアスペルガーならば、たしかに時間を厳守したほうがいいことは少なくありません。しかしそうでなければ、実際には何ら問題のないことがほとんどです。
まさにただ教えられたことを疑いもなく守り続ける人々の、悪い一面ですね。

さもありなん

心中お察しいたします。正気でない多勢に正気な人がまじると、正気が正気とみなされなくなるのが世の常です。

多くの心理士やカウンセラーは学者ではありませんし、まして情報リテラシーを持っている(ふつうの)人にはめったにお目にかかったことがありません。

前から思っていましたが、その辺のおじちゃんおばちゃんがカウンセラーやってるような現状はいかがなものかと思います。

私もポイントゲット(生計維持)のために不承不承研修会に参加してきましたが、参加するたびに不愉快な気分になり、心理などやってたら自分に明日はないなとひしひしと感じました。

これを言ってはおしまいですが、臨床心理学をまともにやれる(信じられる)人は頭が悪いと思います。ふつうの頭を持っていいたら、どれだけ自分たちが学んでいることがおかしげなことなのかすぐに気づくはずです。

耐え切れないので、近々心理職を離れようと、システム保守および事務関連の部署に配置換えを願い出ています。

人の妄信的な部分を凝縮した最終形態が心理職とは、何とも因果なものです。

いやいやいやいや、さもありなん、さもありなんです。
こちらこそ。
>人の妄信的な部分を凝縮した最終形態が心理職とは、何とも因果なものです。
慧眼に感服します。

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これだ!と思いました(再掲)

先ほどコメントしたのですが、2009年の記事にしてしまっていたので、こちらにもう一度同じものを掲載させていただきます…😓

まさにこれだ!と思いました。私は臨床心理学科に通う3年女です。
私は昔から人の人生を同じ方向を向いて歩む支援がしたいと思っていて、たぶん周りの友達生徒よりも早くから問題意識をもって学んでいるのでは、いや学ばなくては!と思っています。
ですが学ぶうちに先生のように、臨床心理士試験で実践の力がはかられないこと、ひたすら傾聴するだけの技法が蔓延してること、臨床心理士として必要な、人を一人の人間としてみる温かさが感じられないこと(周りの臨床心理士を目指してる人にほとんど当てはまります)、その他いろいろな点で疑問に思うことが多くなりました。
また進路を考えなければいけない時期でもあるので、仕事としてどうかと考えても、投資した費用や時間や労力に比べて収入が低かったり、自分が本当にしたい仕事像と一致しない点を考えるととてもモチベーションの維持が大変です(汗)。
私は実務経験もなければぺーぺーであるのでなんの根拠もない話ではありますが、ただの資格だけの臨床心理士よりかはそこら辺の実践を重要としている「one counselor」とかの提案型カウンセラーさんと面談したほうがよっぽどいいのではと思います。私自身も人生で救ってくれたと感じた人は特別な資格は持ってない人でした。私がそうとは限らないですが、本当に人と向き合える人は臨床心理士には適していないのではとさえ思ってしまいます。できれば新風を巻き起こしてやりたいくらいですが、若造の私にはなんの力もありませんね(笑)。
ですが臨床心理士が今一番有用なのも事実と言われているので、その必要性を痛感しています。
ここで3つ質問なんですが、一度資格はとっておくべきですか?また、公認心理師はとる予定はありますか?そして提案型カウンセリング(提案されたくない人には傾聴の選択もある)について問題点や賛同点など思うことはありますか?
ここまで書いておきながら、本当は私はただ院にいく動機づけをしたいだけかもしれませんし、疑問を共有し晴らしたかっただけかもしれません。夢を叶えるのは厳しい、最近常日頃感じます。(笑)
そして先生の行動は私の目にはカッコいい大人として輝いてみえました。勇気を、力を、与えてくださりました。先生のような人たちが人の心に火をつけてくれる。私もそんな人になるぞーー!!

はじめまして。実にイキのいいコメントをありがとうございます。

本文でも書いたことですが、臨床心理を本当にきちんと考えようとし、社会性もきちんと備わったタイプの人で、臨床心理士のあり方やその教育に悩まない人を見たことがないですね。

そういった人はまず同僚や同級生の社会性のなさに驚きますが、逆に自分のほうが浮いてしまってる感覚に陥ります。

社会性なんかにこだわっている自分のほうが泥臭いというか、何かおしゃれじゃない存在のように思えたり、専門用語を織り交ぜつつ周囲をハッとさせる発言のできない自分が、劣っているように感じられたりですね。
ああいうのって、ほんとはただの突飛な発言にすぎない妄言みたいなものなんですが。

それでいて、弱者には極端に冷酷な人が多いです。
いやいや、カウンセラーってどういう仕事なの?と思った回数は無数です。


さて、ご質問ですが、資格を取るメリットはずばり多様な臨床経験ができる点につきますね。
「臨床心理士が今一番有用なのも事実」というのは根拠が見えませんが、おそらくおっしゃるように費用と労力の多大さ、また多様な経験からか、一般の認定資格者に比べてどこか重厚な雰囲気があるのは認めざるを得ません。
カウンセラーという職業に対する、意識の重さの問題ですかね。

資格を取るべきかどうかは、‘若造’さんがこうしたメリットにどのくらい重きを置かれるかどうか次第です。

公認心理士の資格ですが、まだ決めかねています。
裁判に関する判定や意見書の作成など、資格がないと不便な面もあり、更新もないようなので魅力的なんですが、あの無意味な勉強をまたしなくちゃいけないのかと思うと、抑うつが強くなっちゃいますね。

あと、提案型のカウンセリング、あるいは「one counselor」というのは初耳なんですが、単に内省を促すだけでない助言重視のカウンセリングということですかね?

それらを知らないので何とも言えませんが、私の場合、助言が必要とみれば助言をし、内省促進が必要とみればそのようにしています。
大きく意識せずとも、流れによっては行動療法をやっていることもありますね。

発達障害や多動の人に内省を促しても、それができない劣等感が強くなったり、ただカウンセリングが続かないだけに終わったりします。
流れによって、またタイプによってカウンセラーがするべきことは変化しますが、本人や周囲の人々、それに状況に対する分析だけは常に大切だなと思います。

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鍵コメをくださった方々へ

この記事のコメントを鍵コメでくださる方がけっこうおられるのですが、非公開のためお返事することもできずにいます。
もちろん内容はしっかり読ませていただいております。
ありがとうございます。

また、この記事をアップしたことに感謝の気持ちを伝えてくださる方もおられますので、こちらこそ感謝しておりますとのみ、お伝えします。

カウンセラーの言動に違和感を覚え、
それを塗り替えるために心理学の世界に乗り込もうと息巻いていましたが...
「十重二十重」とあるあたり、人間が苦手とする情報の錯綜と戦う事は
避けられそうにないのですね。(混乱や原因不明の違和感の原因も情報の錯綜と考えて)
...まるで戦時中に反戦活動をしているような、或は拷問されている気分です。
ただただ恐いです。理由を明示できない事を「理由もない」と定義されることも、
理不尽なことなんてあって当然だと適応する(投降して洗脳される)事も。
助けなんて呼べない。周りの人々は残らず洗脳されている。
迂闊にため息をつく事も、嘆くことも許されない。
...まるで狂気を反芻するようなコメントになってしまいましたが、
この記事のお陰でもう少し現状を疑う意志を保てそうです。

...情報の錯綜からは、逃げるしかない。
いっそ、化学物質のようにコンピュータで計算できればいいのに。

7/11にコメントをくださった方へ

二人称がないと不便なので、勝手ながらAさんと呼ばせてください。

まともな感覚を持ちつつ臨床心理士の世界に入った経験のない人からすれば、Aさんのおっしゃることは、まるで何を言っているのかさっぱり分からないのではないかと思います。失礼ながら。

しかし、私が臨床心理士をやめるまでの間に持っていた感覚は、まさにAさんが表現されたものそのものと言っていいほどです。
ただ、ほんの少し違う点があるとすれば、私の場合は怖かったというよりも、ただただ腹立たしかったという点でしょうか。
おぞましいと感じていたと言ってもいいでしょう。

私が恐怖よりも怒りを覚えていた(覚えることができた)のは、おそらくそれまでの社会経験から、もっとまともな人間らしい世界を知っていたからではないかと思います。

情報の錯綜、、、仰りたいことは感覚的に非常によく分かります。
誰かが何ら根拠のない名言のような言葉を雰囲気たっぷりに断言すれば、周囲の大部分もまたそれに「さもありなん」といった態で頷き応える。

その集団心理的現象に同化できない冷静な人ほど、激しく惑乱させられ、自信を失います。
また、その様子を見て取った周囲は、自らの不安を他者への侮蔑とすり替え、冷たい視線を向けてきます。

私はこれまでの人生の中で、あれほど集団で無意識に飲み込まれた人々を見たことがありません。

決して負けないでください。
私も負けません。


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大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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