私は、昔話の『こぶとり爺さん』という話が大好きである。
ユング派系の心理学者(ユング派分析家の資格を持っていない人を含めて)は、人の人生や、睡眠時の夢において生じてくる、さまざまな出来事・事物を象徴的にとらえる感覚を養うなどの目的で、よくおとぎ話を心理学的に分析する。
一人の人間が書いた物語や、一言一句違わずに伝承される神話に比べ、おとぎ話は無数の語り手の自由な裁量によって変化させられつつ、数百年、あるいは数千年にわたって語り伝えられた歴史を持つものばかりである。
だから、時代を越えた普遍的な人間心理を運ぶ、理想的なパッケージのようなものでもあるわけだ。
当然、私も昔話を分析する機会が多かったのだが、私の場合、この『こぶとり爺さん』に完全にはまってしまった。
分析していけばいくほど、この物語は、うつの人がそれを乗り越えていくプロセス、というよりも、おこがましいようだが、私自身がたどったプロセスともかぶってくるのである。
右の頬に大きなこぶのある爺さんが、その醜い姿を恥じ、人目につかない山中の一軒家に妻と隠れ住むが、ある日、焚き木をとりに山に入ったところ、雨が降ってきてしまう。
仕方なく木のうろ(空洞)で雨宿りするが、あたりはにわかに暗くなり、なぜか夜になってしまう。
心細さに身を縮ませていたところ、なにやら楽しげな歌や手拍子が、木のすぐ横手から聞こえてくる。
そろりと外を覗いてみると、なんと一つ目の大入道や目無し・口無しなど、異形の鬼ども(今でいう妖怪たち)が輪になって、酒盛りを始めているではないか。
はじめは恐ろしさのあまり気を失わんばかりだったが、さて怖さに慣れてくると、鬼どもの手拍子や歌のあまりの調子よさに、爺さん、踊りだしたくてうずうずしてくる。
“そんなことをすれば食われてしまう……、いや……しかし踊りたい。”
理性と衝動は葛藤するが、爺さん、とうとう我慢できなくなって、
「もう食われたってかまうものか!」
と、鬼どもの輪の真ん中に飛び出して舞い踊る。
伸び上がったり屈んだり、そこいら中をくるくる駆け回る爺さんの舞いっぷりの、見事なこと見事なこと。
はじめは鬼どものほうがびっくりするが、しまいには全員がやんやの大喝采。
やがて鬼どもの頭領が、
「また何とも見事な舞だわい! この次の酒盛りにも必ず来るように、お前が大事そうに顔にくっつけとるそのこぶを、このわしが預かっといてやるわい。」
と、爺さんの頬にぶら下がっていたこぶを、ひねり取ってしまった。
こぶを引きちぎられたと思ったが、痛みもなければ、あと形すら残ってはいない。
爺さんは大喜びした。
この爺さんの家の隣には、同じように左の頬にこぶのある爺さんが、やはり人里から隠れ住んでいたが、この話を聞いた隣の爺さん、「わしもこぶを取ってもらおう」と、ひとり山に入っていった。
はじめの爺さんが言ってた木のうろを見つけ、中に隠れていると、果たして辺りはたちまち闇に包まれ、鬼どもの歌と手拍子が聞こえてきた。
「今だ」とばかりに、輪の中に飛び出した隣の爺さん、踊り始めたものの、形ばかり真似たものだから、ギックシャックしゃっちょこばってばかりで、不格好この上ない。
イライラし出した鬼の頭領は、
「この前はあんなにうまかったのに、今度の舞のひどさはいったい何だ!
預かったこぶは返してやるから、もう二度と来るな!」
と、持ってたこぶを顔に投げつけた。こぶは隣の爺さんの右の頬にくっつき、爺さんのこぶは二つになってしまった。
長くなったが、こういう物語である。
この物語の最大のクライマックスは、普通に考えるならば、主人公の爺さんが鬼どもの目の前で舞い踊るところ、ということになるであろうが、私にとっては違っていた。
爺さんが「もう、鬼に食われたってかまうものか!」と、自らの心に従う決心、覚悟を定めたその瞬間なのである。
それは同時に、命がけで常識の壁をぶち抜いた瞬間でもあった。このブログでも、「うつを乗り越えるためには、勇気をもって、周囲の言葉に耳を貸さなくなる必要がある」と述べた。
それは、こういうことなのである。
周囲の常識よりも、自分の衝動や感覚の方により大切な意味があると信じること。
いや、この爺さんの場合、信じる信じないといったことすら無関係だった。
たとえ結果がどうなろうとも、自分の深い欲求に従わずにおれなかったのだ。
予想はしていたが、案の定、長くなりそうだ。
続きは次回ということにしたい。
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テーマ:うつ病(鬱病)、メンタルヘルス - ジャンル:心と身体