前回からの続き
さて、昔話『こぶとり爺さん』は、どういった点でうつ克服のプロセスに似ているのか。
なるべく学術的な言葉や解釈は避け、うつという症状の実情に引き寄せつつ、物語を見ていきたいと思う。
まず爺さんは、こぶがあったからにせよ、自らの姿を醜いと思い込み、できるだけ人目を避ける生活をしている。
もうこれだけでも、周囲の圧力から「自分はおかしい」と思い込まされ、強い劣等感にとらわれているうつの人の実情を、比喩的に思わせるものがある。
しかし、さらに話を分かりやすくするために、あえて、ちょっと無茶な仮定をしてみよう。
「もしも、爺さんには、本当はこぶなどなかったとしたら……」という仮定である。
だとすれば、それはもう完全に、認知に歪みがあると言わざるを得ない。
醜形恐怖という症状がある。
自分の身体の一部が、異常な形をしていると思い込む症状だ。
たとえば、「目と目の間、鼻筋のところが凹んでいるので、恥ずかしくて人前に出られない」といった訴えだったりするのだが、実際に会ってみると、まず容貌に異常なところは見受けられない。
ただ、本人の指摘する部分をよく見ると、言われてみれば、確かに少しはそうなのかもしれないが……といった程度の特徴はある。
つまり、特に鼻の高い人が、「私の鼻は低い」と訴えることは、まずないといってよい。
先ほどの仮定は、「もしも爺さんが、醜形恐怖だったとしたら……」と言い換えることができるわけだが、だとすれば、爺さんの頬は、左よりも右の方が少しふっくらしているといった、個性の範囲におさまる程度の特徴はあったと言えるだろう。
うつの人の劣等感の多くは、「自分は理屈っぽすぎる」「精神的に弱い」あるいは「頑固だ」といった、目には見えない性格にまつわるものなので、もともと主観に左右されやすい。
だから、醜形恐怖ほど妄想的でないのは確かだが、もともと短所ではない自分の個性を、短所だと思い込んでいる(思い込まされている)点で、やはり広い意味での自己認知の歪みがおきているには違いない。
ところで、この物語では、二種類の狂気が表現されている。
一つは、今あげた極端すぎる劣等感、自己評価の歪みという、一種の潜在的な狂気である。
そしてもう一つは、恐ろしい鬼(妖怪)どもの輪の中に飛び出して、我を忘れて乱舞する、「陶酔」という名の狂気である。
「狂う」という言葉は、何かが壊れたり、ずれたり、歪んだり、とにかく本来の正常な状態ではなくなってしまうことだ。
『こぶとり爺さん』の最初の状態、極端な劣等感・認知の歪みは、これに相当する。
一方、「くるう」という言葉を語源的にみると、かならずしも異常性とは関係はなく、人間がくるくると回ったときにおきる、酩酊感や陶酔感からきているようなのである。
こちらのほうは、まさに鬼の輪の中で踊り狂っている爺さんの狂気そのものだ。
ちなみに、近年流行したトランスと呼ばれる音楽は、ある種の陶酔感を引き起こすが、それは、純粋な意味での陶酔ではない。
音質的には平板かつ機械的でありながらド派手なシンセサイザーの音を、あえて等間隔・小刻みなリズムで脳に叩きつけてくるような、あの音楽である。
確かに陶酔に近いことは近いのだが、方法論としては、むしろ感覚を麻痺させることを目的とした手法の音楽だといえる。
反対に、たとえば一部の民族儀礼や民族音楽のもたらす陶酔は、この上ない高揚感・万能感をともないつつも、むしろ感覚や意識は極限まで明晰となった状態であることが多いと言われる。
「トランス」という音楽と、このタイプの民族儀礼・音楽の違いは、前者が現実逃避的であるのに対して、後者は、「やるべきことをやっている」という自覚と、「やりたいことを存分にやっている」という感情が、同時に存在する状態にある点なのだ。
このような心の状態を、自己一致という。
主人公の爺さんの踊りは、決して、破れかぶれの現実逃避からやったことではない。
「鬼に食われてもかまわない」と、これから起こるかもしれない最悪の状態をもすべて受け止め、覚悟を定めた上での行動である。
言いかえるなら、爺さんが最後に選んだ態度とは、
「たとえどうなろうと、自分にうそをつくのは、もうやめだ」ということなのであり、それはとりもなおさず、この上もなく理想的な自己一致の状態だったのである。
このブログのタイトルは、「うつ−自分にうそがつけない人たち」である。
しかし、「うつ」をもっと正確に言うならば、
「本来は自分にうそがつけないのに、周りの圧力から、つかざるをえない状態にあった人たち」であり、そのために身体が緊急停止してしまった人たちなのである。
性格的に「自分にうそがつけない」ことと、「もう、自分にうそはつかない」と決心した態度との間には、はっきりとした次元の違いがある。
雨に降り込められ、小さな木のうろの中で身動きできなかった爺さんのごとく、八方ふさがりとなってしまったうつの人たちにとって、進むことのできる道はどこにあるのか。
どの道「うそがつけない」のならば、「もう、うそはつかない」と決心するより他ない場合が多いはずだと、私は思う。
ただ、こればかりは、第三者がとやかく言える次元の問題ではない。
カウンセラーにできるのは、「あなたは今、こういう分岐点に立っておられます」と伝えるところまでだ。
また、こぶとり爺さんの場合、大変な危機的状況に見舞われ、葛藤し、決心を迫られたからこそ、ある一つの選択肢を選ぶことができたと言える。
そのような局面が迫ってきてくれないことには、決心もしようがない。
そのような局面に出会わず、葛藤も覚悟もせずに、鬼の前に飛び出してしまったのが、隣の爺さんだ、とも言える。
前に、私がうつを乗り越えることができたのは、とどのつまり運がよかったのだと書いたが、それは、私がそのような局面に運よく出会えたのと、たまたまこういう性格だったという意味である。
あまりに複雑な分析になるため、続きを書こうかどうしようか迷ったのだが、ここまで書いたら、「隣の爺さん」のくだりに触れないわけにはいかない。
というわけで、次回は「隣の爺さん」についてです。
こういう話に興味のない方、申し訳ありません。
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