さて、前々回の予告どおり、『こぶとり爺さん』に出てくる「隣の爺さん」について書くことにする。
実は、この物語が最初に私の目を引いたのは、「隣の爺さん」のくだり、つまり物語の結末部分が、何とも不可解であったためだった。
『こぶとり爺さん』は、学術的な分類によれば、「隣の爺譚(となりのじいたん)」という種類に属する。
代表的なものとしては、『こぶとり爺さん』の他に、『花咲か爺さん』や『舌切り雀』(この場合婆さんだが)などがあげられる。
いずれも、主人公は何かの行為に対して恵みを受けるのに対し、後から出てくる老人は、似て非なるひどいやり方をしてしまったために、悲惨な目にあうというものだ。
「隣の爺譚」は、朝鮮半島の民話にも多少存在するが、比率としては圧倒的に日本に多い種類の話であり、ヨーロッパにはほとんど存在しない。
悪玉が悲惨な目に合い、はじめは虐げられていた善玉がやがて報われるというモチーフは、世界の民話に共通するテーマなのだが、たいていは、はじめに悪玉がまず失敗し、最後に善玉が成功するというパターンが多く、これらは「隣の爺譚」として数えられないのである。
「隣の爺譚」の中でも『こぶとり爺さん』が他の話とまったく違う点は、一見、主人公は別に善いことを行なったわけではなく、また、隣の爺さんも悪いことをしたわけではないのに、結末は他の話と同様という点である。
私にとって不可解というのは、この点だった。
『こぶとり爺さん』−その1について、ある方が、
「隣の爺さんは、こぶのあることが恥ずかしくて人目ばかり気にし、あげくこぶのとれた主人公が羨ましくて、踊れもしないのに鬼の前で踊ってこぶが二つになってしまった。自分はむしろ、そういう隣の爺さんに自分を重ねてしまう。」
といった趣旨のコメントを下さった。
この方の気持ちは理解できる。
ある程度同じことを感じたからこそ、私はこの物語を分析の対象に選んだのだから。
ちなみに、この物語を最初に取り上げた頃の私はまだうつの最中だったのだが、失礼を承知で申し上げるならば、当時の私同様、このコメントを下さった方も、やはりうつ状態にある人特有の傾向の持ち主であることが分かる。
なぜならば、うつの人の場合、自分のことを低く見すぎるばかりでなく、他人のことを高く評価しすぎる傾向があるからである。
もちろん、それら二つの傾向は、同じ体験様式と体験の中身による、表裏一体の反応であると言える。
深く傷つき、悩み抜き、それでも必死の思いで鬼の前に飛び出して行ったという「隣の爺さん」の内面は、物語の中では一切語られていない。
なのに、当時の私やコメントを下さった方がそう考えたのは、「自分がその立場だったら絶対そうなる」という考えに基づく、深読みといわざるを得ないのである。
これが、子どもに語られるおとぎ話であることを思えば、「隣の爺さん」のそういった内面のプロセスについて何も語られていないのであれば、そういうプロセスは何もなかったことが前提となっている物語だととらえるべきなのだ。
うつになる人の、物事の筋をとらえる能力や感性の豊かさは、本来かなり高度である場合が多い。
しかもその能力を評価するには、評価する側にも同様な感性が必要であるために、滅多に評価されることはない。「実はすごいのに、目立ちにくい」性質なのだ。
それどころか、ここで書き続けているように、その能力は「理屈っぽさ」や「頑固さ」として、非難されてしまうことのほうが多いくらいなのである。
うつ性格の人にとっては、「こんなこと、少し考えれば誰にでも分かる当たり前のこと」と思えることが、ほとんどの人に通じない、という体験が無数にある。
その場合、通じなかった相手は、馴れ合いのお決まりルールや、責任回避的発想で判断し、深い考慮など何もしていなかっただけなのに、うつ性格の人の方は、通じないことがあまりにショックであるために、「私には、まだ考えの及ばないところがあるのではないか」などの疑念に半分取りつかれ、自分のほうが矛盾の責任を引き受けてしまうのである。
ひとつには、少数派の方が折れておくのが一番穏便な方法だから、という理由もある。
感情の豊かな人は、場に荒々しい感情が立ってしまうことを嫌う傾向がある。
だから、例えば誰かからたちの悪い皮肉を言われた場合にでも、はじめはできるだけ善意に解釈しようとするが、どうにも解釈しきれなくなって、次第に腹が立ったり泣けてきたりする。
つまり、かなり時間がたってから腹が立ったり、悲しくなってくることが多いのである。
それは、決しておっとりしているからでも、鈍感さのゆえでもない。
角の立つ雰囲気を、できるだけ避けたがっているからなのである。
このブログには、かなり厳しい表現が多いと思うが、私はもともと好戦的な人間ではない。
信じられないという人もいるかもしれないが、死を見つめつつ、うつを乗り越えていくプロセスで、不当なこと、歪んだことを、あくまでも排除する覚悟と姿勢を身につけた結果である。
うつから社会復帰した人の場合、常に再発の不安を抱えねばならないことが多いのだが、私の場合は、その心配はしていない。
降りかかる不当という火の粉は、命がけでも振り払う決意を翻すつもりはないからだ。
そして、もはや自分がいるべき場所ではないと判断すれば、何をどうしてでもそこを立ち去る決意があるからである。
これは逃げではない。むしろ大切なことから逃げないために、である。
話は違うが、光市母子殺人事件の被害者の夫である本村さんの態度には、感服させられた。
私が同じ立場であれば、まったく同じ態度を取るであろう。
相手が心神耗弱状態であろうが喪失状態であろうが、また精神病であろうが、それは関係ない。
百歩譲って、加害者が何らかの意味で不幸であったとしても、それはそちらの問題であって、被害者が不当な行為の犠牲にならねばならない理由にはならない。
加害者は、自らの不幸をも背負い、死を受け入れざるを得ないのだ。
私にとってこのことは、当たり前すぎて議論の対象にすらならない。
だいぶ横道にそれてしまったようだ。
話を戻そう。
長くなるので細かい説明は避けるが、主人公の爺さんが雨に降り込められ、木のうろの中で動けなくなったのは、うつの発症(顕在化といってもよい)になぞらえることができる。
だとすると、「隣の爺さん」は、うつ発症という大きな決心を迫られる機会も、「鬼に食われようとも、もう自分に嘘をつくのはやめだ」という覚悟も経なかったことになるのだ。
主人公と隣の爺さんの命運を分けたのは、言うなれば踊りの上手・下手ということになるわけだが、これは一般的な意味での上手・下手と解釈するべきではない。
鬼(妖怪)とは、異界、すなわち心理学的に言えば無意識の世界に棲む住人である。
そして、主人公が常識(表層意識における決まり事)よりも、自らの衝動(無意識からのメッセージ)に従う覚悟を決めたということは、もうすでに異界や鬼を朋輩としたも同様だったのである。
鬼どもが褒め称えたのは、普通の意味での踊りの上手さではなく、異形のものどもを朋輩として受け入れた、爺さんの心ばえ・勇気だったのだ。
またまた長くなってしまった。
まだほんの少し解釈は残っているのだが、やはり次回ということにしたい。
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テーマ:うつ病(鬱病)、メンタルヘルス - ジャンル:心と身体