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学校のいじめ - 2008.09.17 Wed

学校でのいじめについて、時々思い出したように、世間で話題になる時期が巡ってくる。
そして、なぜ学校ではいじめが起きやすいのかについて、さまざまな立場の人間が、ああだこうだと語るのだが、私には、学校のいじめはどう考えても起きて当たり前のことにしか思えない。

上位の立場からの支配と抑圧が日常的に強い場では、人は何とかしてその抑圧から逃れようとする。
ごく一部の者は反発しようとするが、たいていの者はそんな危険は冒さない。
ある者は、心を外界に閉ざし、死んだようにやり過ごす。
言うまでもなく、うつになるタイプの人々は、多くがこのやり方をする。

私の学校時代の場合、どちらかといえば人を笑わす立場でやり過ごしたが、あれとても体のいい目くらまし、やはり一種の関係の遮断だった。
当時は対人恐怖だったわけだから、何ともスリリングなやり方だったと思う。

しかし、また別の者は、逆に自分が何らかの形で他者を抑圧する立場に立ち、普段おとしめられている自らのプライドに、すり替えようとするのである。
それがすなわちいじめであると、私は考えている。

よく考えれば思い当たる方も多いと思うが、いじめをする者は常に、どこか多数派に媚び、多数派であることをバックにしているところが大きい。
自分は多数派という勝ち組に属しているということを確認したいがために、少数派=弱者を、ことさらに、強迫的に侮蔑し抑圧するようなところがあるのだ。

いじめに関しては、どのやり方がましと言うことはできないが、陰湿で卑怯と思えるのは、「無視」といういじめである。
「無視」というやり方は、言わばただ無視するだけなのだから、やる側が罪悪感を感じなくて済むという面があるように思う。
相手に深い絶望を与えながら、自分にとってはいじめたことにならない、卑劣極まりない「いじめ」である。

学校でのいじめの多さは、学校という場での上位者、すなわち教師や管理職の教員(校長・教頭)、さらにはその上の、各教育委員会からの抑圧がいかに強いかを示していることを知らねばならない。

たった1年でいたたまれなくなってやめてしまった(実際には強い腰痛がおき、後輩に替わってもらった)のだが、中高一貫校のスクールカウンセラーを経験したことがある。

その際、学年が変わるときのクラス分けが、どのような基準で行なわれるかを知った時は、あまりのことに愕然としてしまった。

どこまでが公然で、どこからが暗黙の了解なのかは分からないが、仲のいい友人同士は、とりあえず引き離す方向でクラス編成を行なうことが多いのである。
この方法は、別段その学校独特のやり方というわけではなかったようだ。

おそらく、連るんでいると問題の多い生徒は引き離したいが、彼らばかりを引き離したのでは不満が出るといけないから、一緒にいても無害な生徒同士まで引き離すのが通例になってしまったのではないかと思う。

私自身、せっかくやっと親しくなった友人と、なぜいつも別のクラスになってしまったのか、そのからくりを知らされてしまったわけだ。
その時の辛さを思い出して、はらわたが煮えくり返った。

また、論理性があって真面目で忍耐力が強そうな生徒などは、わざわざややこしいと思われるクラスに、まとめ役として放り込まれる。
当然ながら、矛盾が嫌いで生真面目なうつタイプの人が、この役回りをさせられることは多い。
またしても全体のしわ寄せを引き受け、ひたすら耐えることを強制される立場に、うつタイプの人は立たされるわけだ。

うつタイプの人は、もともと人より忍耐力が強いとは限らない。
ただ、耐えるしかないから耐えているだけなのである。
しかし、この生徒が不登校になったとしても、ほとんどすべての教員は、自分たちの会議で決まったクラス分けに原因があると、まず認識することはない。

うつタイプの人に対するこういった仕打ちにしろ、仲のいい者同士を引き離すにしろ、あえてしんどいことを呑み込ませ、「これは決められたことなんだから」と、文句を言わせない。
人の心を支配する上での、お決まりのやり方そのものである。

ただ、一方で、教師たちも上からの支配を受けている。
実態が明らかにされていないので、部外者である私に詳しくは分からないが、各都道府県の教育委員会は、各公立学校の管理職、つまり校長と教頭に、毎年点数をつけるとのことだ。

たとえば、学級崩壊がどの程度起きているかなどが、点数をつける基準となる。
そして、管理職である校長と教頭が、それ以外の一般の教員を採点する。

ただ、多くの不登校や問題行動の生徒や親と会ってきて分かったことだが、感情が鈍く高圧的で支配的、生徒から見て恐ろしいと感じる教員のクラスでは、決して学級崩壊は起きない。

学級崩壊の起きる教員すべてがそうだとは言えないが、たとえば、学校の決まりではこうだが、生徒の気持ちを考えるとどうしたものか……などと、板ばさみになってしまうタイプの人間的な教員のクラスで、学級崩壊が起きることは少なくなかったように思う。

人の弱みにつけ込むことにためらいのないタイプの生徒が、教師のおどおどした態度を瞬時に嗅ぎわけ、教師いじめをやるのである。
上部の構造上、こういった担任につけられる点数は、当然ながら最悪であろうと思う。



私は、この仕事をしていて、幼稚園の保育士や園長よりも、はるかにものごとの理解が的確で、矛盾を見抜く知性の鋭かった3才児を知っている。

問題行動があったとされるその子は、親と私が面談する横で遊んでいたが、会話を聞いて、私がその子をきちんと理解したことを察知したのか、初対面の私に、その場で作った折り紙の花束をくれた。
カウンセラーである私が、涙をこらえるために、しばし絶句せねばならなかったことを覚えている。

ただ自分が教師という立場、あるいは校長や教頭というだけで、人間的にも生徒を指導できる立場にあると思うのは、単なる手前勝手な思い込みに過ぎないのだ。

この、あまりにも当然のことが、理解される時代は本当にくるのだろうかと、正直暗い気持ちにさせられてしまう。



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● COMMENT ●

この度はブログの紹介をしていただきありがとうございます。
えっと…稚拙な文章なのでお恥ずかしい限りですが、今後ともよろしくお願いします。

クラス替えにそんな秘密があったとは知りませんでした。仲の良かった友人と別れるのは確かにツライ気がしてましたが、しかし、クラス替えもしなければ出会えなかった友人もまたいたワケで…クラス替えはたくさんの人と触れ合う手段として行っていたと思っていたのですが…
裏で大人達がそんな具合に子供達を分けていたとなると…なんだかガッカリですね。

はじめまして

学校という言葉に複雑な思いを持つ一人です。中学受験をして中高一貫校で6年を過ごしました。学校自体は今の教育制度のなかでは
生徒の自主性を大切にしてくれていたと思います。校則はほとんどなかった分自由の難しさも知りました。

高い授業料を払ってもらった親にも感謝はあります。ただ、その分学生生活を楽しんだという
感覚はないんです。これといっていじめが横行していたとかではなく私自身の問題だったのだと思います。話すことが苦手で教室にいるだけで必死でした。休憩時間、お昼休みになると
みんなわいわい、がやがやおしゃべりに華が咲きます。その中に入っていても私は話せず
内面では話さなきゃって焦って、でも頑張っても話せない状態でした。
休憩時間とか用事もないのにロッカーに探し物のふりをしたり・・・ 今から考えると
張り詰めた毎日だったような気がします。

こんなこと親にも言えず・・・。でも本当は
泣きながらでも話しておけばよかったかなぁ
って今になった思います。

学校のクラス替えにそんなからくりがあったとは知りませんでした。
今保育園で働いているのですが、クラス替え
のとき保育士は学年全体のバランスを考えてクラス編成をするそうです。性格、家庭の状況、いつも悩んで何度もやり直すんだそうです。

虐め・・・低学年の頃から様々な虐めに
あってきました。
低学年の頃は、スケープゴート的に、仲間外れ
にするような感じのものが多かったように思います。
なぜ自分がそれに選ばれたのか、、、未だに
分かりません。
その頃の私は今の私と違って、おっとりと言えば
聞こえはいいですが、ボーっとしてる、人の悪意に
対してあまりにも鈍感なところがあったかも
知れません。(それは今もかも…)
中学年のときは、特に男子生徒からばい菌
扱いされたりすることが多かったですね。
そして高学年になると、無視。これは男子女子
関わらず皆でした。虐めに対抗するために
気の強いキャラを身にまとっていた私への
最も辛い虐めでした。遠足も、修学旅行も
休み時間も、独りきり。体育の時間や集会
などで好きな子同士で集まるときには必ず
取り残されていました。
そんな虐めをかいくぐって大人になった私は
集団に恐怖を覚えるようになりました。
会社での同期の集まりや、同僚の集まり、
高校や大学の同窓生、皆怖いです。この恐怖
感は一生拭えないのかなぁと思います。

りょうすけさまへ

私の場合、今から考えるとまったく能天気な話なんですが、クラス分けは完全にくじ引き的なやり方で決まると思ってたんです。
それだとまだ、自分の運が悪いだけだと思えたんですが、カラクリを知ってしまうとね……。
下手すると一生に関わるような出会いの機会を、そんな風に決めちゃいかんですよ。

SNOOPYさまへ

はじめまして。
そうですか……ということは、学校でのクラス分けのときも、本来はバランスをとって、という意味合いがあったのでしょうね。
バランスという言葉、なかなか怖い言葉のような気がします。
考えさせられます。

kaoriさまへ

学校(教師)にとっては、自分らの仕事に対して、生徒には苦痛を受け入れつつ、しかも笑顔で感謝して欲しいと思うような無茶なところが多々あります。
あまりに日常的に辛い人は、当然ながら笑うことができません。
教師は、笑ってくれない生徒が苦手であり、他の生徒たちも、場の意図を察して、そういう生徒を見下すことで教師に媚を売ります。
だから、学校という場は、「笑えない者」にとって、苦痛以外の何物でもない場所となるように思います。
私が対人恐怖・視線恐怖であったのも、本当は笑っていない笑顔、引きつり笑いを見破られることを恐れていたからです。


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プロフィール

kohocounsel

Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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