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うつとシャーマニズム - 2008.11.07 Fri

以前このブログで、私のうつ体験について書いたとき、インディアンのシャーマニズム(呪術的民間信仰)について詳しいある人が、「先生の体験って、シャーマンのイニシエーション(呪術師になるための通過儀礼)そのものですね」と話してくれた。

はっきり言って、かなり嬉しかった。

私自身、シャーマニズムには興味、というよりもぜひとも知っておきたいという思いがあり、何冊か本を読んだりもしていたのだが、はっきりと自分の体験に重ねてみたことはなかった。

しかし、そう言われてみれば、自分ばかりでなく、うつの人のカウンセリングをしていても、自然とシャーマニズムについて話すことが少なくない。
どうやら私の目には、うつの人々とシャーマンとが、重なって見えることが多々あるらしい。

一体なぜそうなるのか、話の流れなどを具体的に思い出し、考えてみた。

ごく簡単にシャーマンについて触れるが、頭の中の記憶と感覚だけで書いていくので、記述がちょっと正確でない部分もあるかもしれない。
興味のある方はご自分で調べていただくということで、お許しいただきたい。

シャーマンは、世界各地、特に古くから続く文化を踏襲している地域において、より多く存在し、日本語では「呪術師」あるいは「巫師(かんなぎ)」と訳される。
多くはトランス状態に入り、神の言葉を伝えるという職能の人々のことである。

日本で代表的なものとしては、巫女があげられるが、現在なお実質的な影響力を持つ人々として知られるのは、沖縄周辺の「ユタ」や青森県の「イタコ」が有名である。

青森県の「イタコ」の場合、視力障害を持つ人などが、その職能を身につけるために厳しい修行を行い、その立場を得る。
しかし、沖縄地方の「ユタ」の場合、一部の例外を除き、それまで一般人として生活していた人が、何らかのきっかけで一種の精神病様状態「カミダーリ(神障り)」に陥り、それを克服する中で、自らの「ユタ」としての能力と天命に目覚めていくという経緯をたどる。

日本のシャーマンが、どのような心理学的プロセスをたどるのかについては、正直詳しくはないのだが、イニシエーションにおいてシャーマンがたどるプロセスについて、井上亮(故人)という心理学者から聞いた話がある。

井上氏は大学に助教授として在任中、海外留学先を決める際、周囲の驚愕をよそに、さっさとアフリカはカメルーンの呪術師のもとに留学することを決め、1年を経て、実際に呪術師の資格を得て帰国した人で、さほど口数は多くないが非常に魅力的な人物であった。
シャーマニズムの心理学については、何冊か書物も著しておられる。

私がまだ大学院に在籍していた頃、伺った話なのだが、シャーマンになるためのプロセスの中では、いくつかの課題を克服せねばならないという。
中でも、特に私の記憶に強く残っているのは、「孤独」と「恐怖」の克服である。
氏自身も、「恐怖」の克服こそがもっとも大きな課題であるとして、通過儀礼の中心に位置づけておられたように思う。

シャーマンの通過儀礼においては、「恐怖」の対象は、単なる観念ではない。
戸のない小屋で、夜一人で睡眠をとることを命じられ、ベッドに横たわっていると、黒豹が小屋の中に入ってくるというのである。
この黒豹は、たしかに実体ではあるが、ある大きな存在の化身らしく、普通に自然の中で生活している生きた黒豹とは違うようだ。

通過儀礼を受ける者は、これから逃げてはならないし、起き上がってもならない。
氏が儀礼を受けていた際も、確かにこの黒豹が、小屋に侵入してきた気配があったということである。

これまで自分が生活していた日常の世界から、未知の異世界へと通路が開かれていくとき、夢や物語の中では、異世界を象徴する存在は、しばしば獰猛な動物的性格を帯びる。

以前、このブログで『こぶとり爺さん』の解釈を試みたことがあったが、爺さんが最初に見た異世界の姿もまた、異形の鬼(妖怪)どもの宴であった。
そして、やはりこの爺さんも、「鬼に食われてもよい、わしは踊るのだ」という形で、恐怖を克服したのである。

ごく普通の人の場合でも、外部からの圧力によって表現することを妨げられた感情は、「怒り」という様相を帯びる。
それは、檻に閉じ込められた、あるいは鎖につながれた獣が、怒りのためにより凶暴になるというイメージに似ている。

異世界も異世界への通路も、潜在的にはとっくに存在していたのだが、ただ人の側にそれを受け入れる準備ができていなかったために、意識の向こう側に閉じ込められていたに過ぎない。

かなり前の放送だが、NHKスペシャル『脳と心』の最終章「無意識と創造性」に、宮古島のユタである、根間ツル子さんという女性が出演しておられた。
今でも、ビデオがオークションで出品されることがあるので、興味のある方にはぜひお勧めしたい。

先に述べたユタの例に漏れず、彼女もまた離婚という節目をきっかけに精神病様状態となり、他のユタのもとを訪れて、「この人はユタになる人だ」と見抜かれたのだという。
都会であれば、「精神病」あるいは「人格障害」で片付けられてしまう状態だ。

根間さんに初めて神がかりが起きた頃、ある一つのことが強く訴えられた。
番組では、当時の神がかり中の根間さんの肉声が放送されていたが、まさに壮絶なまでの叫びであった。
「ああ私が悪かったぁー!…………何としてもこの井戸を、これだけは、これだけは頼みます……!」
と、すでに使われなくなり、埋もれてしまっていたある井戸を再び掘りなおすことに、強く執着したのである。

根間さんは実際にこれを実現し、そしてユタとなった。
万物の根底にある地下水脈、地下世界という異界と、この世とをつなぐ通路。
根間さんの魂、あるいは宮古島の人々や自然の魂にとっては、それがその井戸だったと言えるだろう。
不遜を恐れず言えば、私のアスファルトに対する嫌悪感も、同質のものではないかと感じる。

この場合、「井戸は、単に象徴に過ぎない」と言うことはできない。
心理的に大きな何かを乗り越えるというのは、単に「心の持ちようを変える」というのとは、まったく次元を異にする。
うつという病を乗り越えるにも、まず例外なく、ある現実との実際の闘いなくして、遂げられることはない。
だから根間さんも、実際に井戸を開通させねばならなかったのだ。

万物の根底にある地下世界のイメージによって表現される領域を、ユング心理学では「普遍的無意識」と呼ぶが、ユング自身もまた、当時ヨーロッパを席巻していたフロイト心理学と袂を分かった後、精神病様状態をともなう極度のうつを経験している。

そののち、ユングはこの考えを体系化するに至るのだが、彼もまた、フロイトとの決別という苦難に満ちた過程を経ることで、普遍的無意識に達する井戸を開通させたのだと言える。



うつの人々の特徴は、一言でいうならば、ものごとの本質・本筋・矛盾を見抜く目に、曇りがないことである。
だから、まわりの雰囲気や、慣習や、馴れ合いに流されず、いつも本当のことが見えてしまう。
要するに、非常にシャーマン的なのだ。

前回の記事でも述べたが、こういった人々の割合は、どれほど多く見積もっても1パーセントくらいではないかと、私は考えている。
はっきり言って、特殊と言わざるを得ない。
そして、そこにこそうつの人々の苦悩と劣等感がある。

一般の人々は、自力では大きな存在とは繋がれない。それを導き、繋げてやるのがシャーマンである。
本来の姿のままに自然と人間とが有機的に絡み合い、人間性が生き生きとした文化の中であるならば、シャーマンのような立場となるべき人が、うつになるタイプの人々の中には少なくないのではないかと思うのである。

本来ならば、常に真実を見、正しい言葉を語り、尊敬を集めてこそしかるべき人々が、踏みつけにされ、もがき苦しまねばならない社会。
一体われわれは(というよりも私は)、これをどうすればいいのだろうか。




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地獄へ行け というクラス

いつも 楽しみに読ませていただいています。
お邪魔でなければいいな と思いながら書き込みさせていただきます。
地下とつながるという言葉から 思い出したことがあります。

以前学校で「地獄へ行け」というタイトルのクラスを取ったことがあります。必須のクラスだったのですが クラスのタイトルがあまりにも暗かったので他を探しましたが そのクラスしか日程的に合わず仕方なくとりました。
授業で使った教材はダンテ神曲の「地獄編」、エジプトの壁画、モノクロサイレント映画「メトロポリス」他に「不思議の国のアリス」などでした。
どれもお話の主人公達が とにかく下界へわざわざ降りて行かなければいけない状況にされ そこからもう一度地上へ戻ってきて更に上の世界へたどりつけるというお話。
大変な世界が待っている下界なんて誰も行きたがらないだろうし、出来れば目指すなら上の世界を目指して進みたいと思うのが人間の心情で そうしなければいけない状況下での下界への進行、あるいは自分の意志での進行というのは かなりの精神力が必要とされると思います。
それらの主人公達は 下界へ行ってそこで実態を知ったり 地上では体験できないことを経験し そして地上に戻ってくるんですね。
下界へ行けたからこそ また地上に戻ってこられる強さがあって だからこそ その上にもたどり着ける。下界でやって来れたことがその人を強く豊かにしてくれます。この授業で先生は「花」をたとえにされました。花は 種が一度地下に埋められ、そこから芽が出 茎がどんどん延びて 花を咲かせるのだ、と。上に上がろうとするならば 必ず地下に一度潜らなくてはならないものなんだ というようなことを言っておられました。下界での体験は 花のたとえでいうならば 根っこをはるということなのかな。
 その時は なんだか希望の持てる話で美しい例えだなあと感動し つらい時期も土の中でじっと耐えて越冬する種の気持ちに共感したりしました。

先生のお話の地下とつながるということというのは 私の思っていたことよりもずっとずっと深いものだなあと感じました。私は単に ネガティブな感情だったり 過酷な状況だったりを下界に当てはめていました。目に見えないことやネガティブなことを知ることから 物事の表裏を把握して 実態把握に近づけると思っていたのですが 先生のお話の地下、井戸はそういう単なる真実を見極めるという事ではないような もっと深いもののように感じました。
井戸を掘るのも大変だろうなあ と思った時にこの授業のことを思い出し、簡単な気持ちで書き始めたのに こんなに長くなってしまいました。すみません。

大変なことから いつも逃げたいと思う私なので 先生の励ましやこういった前向きな話を聞くと 腹をくくって やってみるか、と思う次第です。

何度もすみません。
自分の文章を読み返してみて はっと気づき どうしても書きたくなりました。
私はずっと自分が地下にいるんだと 思っていました。がんばっているんだって思っていました。いつか上に上がってゆける日を夢見ながら。だけど 種が越冬する間 「じっと耐えて待つ」とか「腹をくくって やってみるか」という言葉を書いた自分を考えていると ああ、自分はまだ下界に行くかどうしようか と迷っている段階だったんだと。もしかしたら やっと下界へ行く洞穴を見つけて それでも最後のあがきで うじうじいってたんじゃないかと思いました。これからが本当の戦いなのかな、と思いました。 戦いというのは なんというか 自分を貫くという感じの戦い?でしょうか。先生のお話を聞いていても 大変な時にただじっと待っていたわけではなかったことを思い出しました。地下で眠っていれば お日様に当たれるんだと思っていた なんと楽観的な私でしょう。自分のこと 笑ってます。 

Hiroさまへ

ありのままの心情を、隠さず書いていただき、ありがとうございます。
これまで抑圧されていた世界は、はじめは獰猛な動物的性格を帯びる、と書きましたが、受け入れれば非常に心強い味方となります。
端的に申しますと、私は、主体的に地下へ降る道は、同時に天に通じる道でもあると思っています。

大地

地面や樹木や風
自然から受け取るものは本当に多いですね。

ある神社へ参った時、参道の砂利道が自分を受け止めてくれる感覚に感動しました。
ただ歩いているだけなのですが、かかとからつま先へ抜ける全てを大地が大切に大切に、まるで手のひらで包むかのように受け止めてくれるように思え、涙が出ました。

1歩1歩 味わうように歩きました。

色んな記憶が蘇り、また、色んな感覚が沸きました。

世間の全てがあんな空間ならいいのに。
皆が、大地が受け止めてくれている事に気付けばいいのに・・・

(う~ん。ブログに書いて下さっている事とは筋違いかもしれません。申し訳ありません)

nulikabeさまへ

ああ、この感覚、分かるような気がします。
私がアスファルトが苦手なのは、理屈よりもむしろ、体感によるところが大きいんですね。
あの、硬くて、跳ね返ってくる感じ。

もう10年近く前ですが、「どうしてもバリに行かなくては!」と思うことがあって、ウブドという町に数日行きました。
当然バリの道は、まだほとんど舗装されていなくて、やはり歩いていて泣きそうになりました。

今度、バリについても書いてみようと思います。

筑紫哲也さんの死

筑紫哲也さんが亡くなりましたね。
あの人の「多事争論」には、いろいろなことを
考えさせられたものでした。
そして、今日特番を見ていて、改めて、
真っ直ぐな姿勢を貫くために、激しくある必要は
ないんだ、と思いました。
厳しさと穏やかさは同居できるんだ、ということを
身をもって示してくださった方だと思いました。

関係ないコメントですいません。。。

kaori さまへ

激しく主張するというのは、実は背後に自信のなさがあって、それを打ち消すために大声を張り上げている場合が少なくないように思います。
もちろん、すべてがそうだとは言えませんが。
逆に、「……に過ぎない」という言葉を多用し、冷静さをアピールするけど、大して筋の通っていない場合もありますからね。

ただ、正直言うと報道番組が苦手で、筑紫さんのことはあまり存じません。
すみません。

カミンチュについて質問があります

色々調べていて、このページを見つけました。質問があるのですが、おそらく詳しい人でなければ回答できないのでは、と思いましたのでここに投稿させて頂きます。

沖縄のカミンチュ(ユタ・ノロ含む)などは、殆どが離婚経験者とのことです。これは世の無常を覚るため、そして人(霊)の痛みを知らないといけないため?でしょうか。一人の人を愛してしまうと、「万民を」愛せなくなるから、執着というものを捨てるためにこのような辛い経験をされるのでしょうか。

カミンチュは神のもののため、人のものになると神の怒りを買う(神を降ろすことができない)、ともありました。俗っぽい話で言いますと、(故)宜保愛子さんなどは、一時、世間の男性とお付き合いされていた頃などは、霊能が鈍くなったと聞きます。その後も、男性とお付き合いされたものの何故か(短期間にして)通常ではあり得ないことが起こり、破局されたとか。

カミンチュで再婚された方、幸せにご結婚されている方は、いらっしゃるのかが気になります。個人的には、かなり行を積んで霊格を上げたカミンチュは、幸せになるのでは?とも思っていますが、実際、どんな例があるのか知りたく思っています。

お手数ですが、コメント等ご回答頂けましたら幸いです。よろしくお願いします。

Re: カミンチュについて質問があります

カミンチュをはじめとする霊能者に、離婚経験者または未婚者が多い理由について、直接聞いたり調べたことはないのですが……。
たとえばカトリックの聖職者が結婚しないのは、すでに神と結婚しているからだと何かで読んだことがありますし、日本の山岳信仰で、霊場であるお山が女人禁制なのは、本来女性蔑視からではなく、女性である山の神に焼きもちを焼かせないためだそうです。
何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。
神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。
実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。
一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。
おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。
とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。

何かご参考になれば幸いです。

早速のご回答ありがとうございます。神との結婚、と考えるとつじつまが合いました。私も世のため、さらに行を積んで、いさぎよく神の願うところにこたえたいと思います。


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Author:kohocounsel
大阪市西区にて、夫婦で幸朋カウンセリングルームを運営しております、松波幸雄と申します。

このブログでは、「うつ」と診断される方々の本質的な真っ直ぐさと、ではなぜ彼らが発症しなくてはならなかったかについて、おもに家族病理・社会病理の観点からお伝えしていきます。

なお、皆様のお考えにつきましては、できるだけ読者全員の方々とも分かち合いたいと思いますので、基本的に、コメントは公開設定にてよろしくお願いいたします。

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